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2011年5月31日

人間が生んだ世界

 前回紹介したアレンビー、サレウィッツ両教授の論文中に、「人間が生んだ地球」という言葉があるのを見て、私は一瞬驚いた。原語の英語は「the anthropogenic Earth」である。「the Earth」は我々がよく知っている「地球」に該当する。が、それを形容する「anthropogenic」という語は、あまり見かけない。人類学は英語で「anthropology」であるから、「anthropo-」という語は「人類」を指す。接尾語の「ーgenic」は「~を生み出す」とか「~が発生する」という意味の「-gen」の形容詞形である。すると、「anthropogenic」は、「人類が生み出した」というほどの意味になろう。しかし、我々人類はいつ「地球」や「世界」を生み出したのだろうか?
 
 恐らく普通の日本人の感覚では、「世界」や「地球」は人類発祥以前から存在しているから、「人間が生んだ世界」という表現は何か間違っているように聞こえる。しかし、上記の2人の大学教授はその可能性を知りながら、あえてこの表現を使っているに違いない。アレンビー教授は「土木工学と倫理」を専門としており、サレウィッツ教授は「科学と社会」の関係が研究分野だ。つまり、2人とも科学や工学などの人間の営みが、自然環境を含めた周囲のより大きな広がりにどう影響するかに関心をもっていると思われるからだ。21世紀初頭の世界や地球は、人類が発祥した当時はもちろん、いわゆる“近代化”が始まった18世紀末と比べても、著しく変化してしまった。それはとりもなおさず、人類が造り上げてきた文明のおかげである。だから現在の地球は、そして世界は、人類の創造物だ--そういう考えが背後にあると感じられる。
 
 科学技術から甚大な恩恵を得ている我々は、それが自分の周りで使われることにほとんど何の違和感もない。それどころか、「便利になった」「楽になった」「面白くなった」「刺激的だ」……などと、ほとんど無条件でそれを歓迎してきた。だが、今回の大震災と原発事故の影響でそのごく一部が利用できなくなってみると、自分たちの“当たり前”の生活が、どんなに「自然」や「世界」のもともとの状態とかけ離れてしまったかを痛感しないだろうか。

 私は最近、夜の東京の“暗さ”や、地下鉄や地下街へ行くエスカレーターの“節電のための停止”、高速道路の“見えにくさ”、照明を消されたショウウインドーに気がつくと、自分がこれまで生きてきた“自然”や“世界”が、人間に干渉される前のオリジナルな「自然」や「世界」とは似ても似つかないものだったことを、改めて考える。夜は暗いのが自然な世界だ。地下鉄や地下街など存在しないのが、自然な世界だ。夜道は暗くて見えにくいのが、本当の自然だ。我々は、自分たちの都合でこのような諸々の“不自然”を造り上げてくる過程で、「自然」や「世界」を深く、大きく改変してきたのだ。
 
 これらのことは、しかしアレンビー、サレウィッツ両教授の強い関心事ではないようだ。それよりも両教授は、さらに強力で、新しく、結果の予測が難しい科学技術を“5人の騎兵”に喩えて警鐘を鳴らしている。それらは、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、ロボット工学、情報通信技術、応用認知科学の5つである。“5人の騎兵”とは、聖書の最終の書『ヨハネの黙示録』に登場する「死」「飢饉」「疫病」「戦争」などの“破壊の使い”のことだ。だから両教授は、人類が生み出した最先端科学技術を肯定的に見てはいないのだろう。そして、次のように言う--
 
「原子力についてと同様に、(これらの科学技術をめぐる)現在の論争や政策論は、極端に走りがちだ。一方の陣営はこの“5人の騎兵”の中に人類の救済を見出すが、反対の陣営は、人間から尊厳と自由を吸い取る化け物のように見なす。このような論争は、正直言って単純すぎるだけでなく、もう機能不全に陥っている。我々はすでに、そういう技術社会を造り上げてしまったのだから、今本当に必要なことは、その影響をより深く知り、その中で理性的に、責任をもって、倫理的に生きるにはどうしたらいいかを知ることである」。

 技術社会を放棄せずに、人間の尊厳を保って生きていくにはどうすべきか? この問いかけは、“森の中のオフィス”の活動を通して生長の家が目指すものと共通点があると思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月30日

三段階で技術社会を考える

 イギリスの科学誌『New Scientist』の5月14日号(vol.210, No.2812)に、原子力発電所の事故に関する興味ある考察が掲載されていた。米アリゾナ州立大学工学部のブレーデン・アレンビー教授(Braden R. Allenby)とダニエル・サレウィッツ教授(Daniel Sarewitz)によるもので、「今、我々が住む世界は技術的、社会的にあまりにも複雑化しているので、それらを生み出した近代啓蒙主義的な考え方は、我々の行動指標とするには危険な場合が出てきている」というのである。両教授の論旨を述べよう--
 
 例えば、今回の大地震と福島第一原発の事故をめぐっては、人々は相容れない2つの考えに分かれがちだという。1つは、「これによって原子力発電が抱える異常なほどの危険性が明らかになったから、原子力発電はやめるべきだ」とするもの。もう1つは、「これによって原発の新しい安全設計が進むのだから、地球環境のために、また人類のエネルギー需要に応えるために原発の利用を推進しなければならない」というものだ。しかし、両教授に言わせれば、これらの考えには一貫性がなく、理解困難であり、今日の複雑な技術社会をめぐる決定の指針には全くならないというのである。こういう問題が起こる原因は、それぞれの論者が技術的複雑さのレベルの違いに気づかずに、人間の理性的行動の限界について混乱を来しているからだという。
 
 第一段階では、原発は、人間の造ったシステムとしては、一定の電力を極めて安定的に供給することができる優れもの言える。この場合、原子力発電の技術はシステムの機能として捉えられる。
 
 第二段階では、1つの技術を複雑なネットワークの一部として捉えなければならない。例えば、原子炉は、それを抱える一回り大きな社会というシステムがもつ送電網に連結されていて、人々の生活の安定はこれに依存している。さらに、この送電網自体も、別の複雑なネットワーク--例えば、自動車産業など製造業のネットワーク、運輸や交通のネットワーク、また情報ネットワークにつながっている。
 
 第三段階では、複雑さはさらに拡大し、人間によるものはもちろん、それ以外の自然界にある可変的で、適応的な関係も含むことになるから、我々が正確に理解し、予測できる範囲を超えてしまう。原子力利用の問題は、この段階に至ると、地殻プレートの動きや、人間の文化や社会的変化の力ーー気候変動への恐怖、生活レベル向上の要求など--と組み合わさっている。
 
 科学技術の問題をこのような三段階に分けて捉えてみると、我々の周囲で行われている議論の中心は第一段階の問題であり、副次的に第二段階の問題が議論されていることが分かる。人間は主としてこの2つのレベルにおいて、物や技術を造り、それらを理解し、利用した結果を経験する。我々はこれらの二段階のレベルで、技術の実行可能性や好ましさ、危険度などを評価する。その限りにおいて、問題の複雑さに呑み込まれてしまうことはない。
 
 しかし、第三段階の問題は、これら2つのレベルの問題と同等に「リアル」であることを忘れてはいけない。にもかかわらず、人間はこのレベルの問題に突き当たると、とかく「想定外」だと考えるのである。しかし、これはまさに“人間が生んだ地球”(anthropogenic Earth)の問題であり、技術革新を重ねながら人間社会が生み出した必然的結果として今、我々の目の前にある。だから、我々がこの“人間が生んだ世界”の中で倫理的に、理性的に、そして責任をもって生きるためには、次の基本的な“認知の不協和”を受け入れなければならない。すなわち我々は、自らが最も信頼するものを、最も強く疑わねばならないのだ。
 
 --なかなか強烈な論旨であると思う。が、これと同様のことは、現代の科学技術が抱える問題として、私がこれまで『神を演じる前に』(2001年)や『今こそ自然から学ぼう』(2002年)などの中で何度も訴えてきたことだ。そのことを、日本の原発事故を契機として、海外の科学者が科学誌の中で指摘するようになったことに、私は何か複雑な気持を覚えるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2011年5月28日

“森の中のオフィス”概観

 前回の本欄では、今年3月の大震災と原発事故を教訓として、生長の家の“森の中のオフィス”がエネルギー自給を目指していることを述べたが、今回はそのオフィスの設計につOif_bld2011d いて簡単に述べよう。以前に本欄でも触れたように、オフィスは木造2階建てで、その屋根のほぼ全面に太陽光発電装置と太陽熱集熱器を備える。外観のデザインは、本部の会議での数回の見直しの後、ここに掲げたスケッチに描かれたものにほぼ決まっている。太陽光で作った電力は蓄電池に貯めて利用し、天井部分から導入した太陽熱は壁面を通して床下へ送り、主として暖房に利用する。オフィスの外壁には地元産のカラマツ材を横張りする。壁面は通風をよくするため、木枠の窓を大きくとりトリプルガラスで断熱する。建物からはウッドデッキを張り出すことで、外気に直接触れて“森林浴”ができるような執務環境を提供する。
 
 ざっと描くとこうなるが、“炭素ゼロ”を可能にするエネルギー系統について補足しよう。オフィス建物の施工は清水建設が行うが、ここは環境技術の研究に熱心である点が評価された。例えば、27日付の『日本経済新聞』には、同社が今夏の節電対策として、東京・江東区の技術研究所の省エネオフィスを“本番稼働”することが報じられている。そこでは、「太陽光発電と蓄電池を組み合わせ効率的に電力を使うマイクログリッド(小規模分散型電源)と各種の設備機器を一体的に運用する制御システムを研究所の全フロアに導入。電力消費を昨夏比で37%削減する」としている。我々もこういうシステムを利用できれば、消費電力を最小限に止めることができるだろう。なお、オフィスが立地する標高1300メートルの高地では、冬場かなり冷え込むので、太陽エネルギーの不足分はバイオマス発電とそこからの熱利用を予定している。上掲のスケッチ画の右上端に見えるのが、そのためのエネルギー・プラントである。

Oif_bldplan03  オフィスの立地場所は八ヶ岳南麓のなだらかな斜面で、そこへ7~8棟の木造建築が南北に並ぶ。このうちの2棟を西側から見た立面図をここに掲げる。夏は真上からの強い日差しを防ぐ必要があるが、冬場は室内にできるだけ日差しを引き入れるために、棟と棟の間には空間がある。また、夏場は南風を通すために、建物の南側を吹き抜け構造にしている。これで、冷房の必要はほとんどないはずだ。オフィス全体のスケッチ画では、手前(東側)に川が描かれているが、この川は現在ほとんど水がない。しかし、建物の西側には水量のある川がもう1本流れているから、デッキに出て仕事をしていれば、その音が聞こえてくるはずだ。もちろんそのほかに、森を抜ける風の音や、鳥たちの鳴き声はふんだんに聞けるだろう。

 谷口 雅宣

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2011年5月27日

“森の中”で太陽と生きる

 前回の本欄で、菅首相の“新エネルギー政策”に賛意を表し、ソフトバンクによる「メガソーラー構想」や「自然エネルギー協議会」のことを紹介した上で、「このような動きをさらに前進させるために、生長の家も“地域貢献”を含めた努力を続けていく考えである」と書いた。25日に開かれた生長の家の会議で、実はその方針が決定した。これは、今回の東日本大震災と原発事故の経験を経たうえでの“方針の一部変更”とも言える。

 これまでの方針では、“森の中のオフィス”は太陽光発電と太陽熱利用の組み合わせで二酸化炭素の排出量をほぼ“ゼロ”にする予定だった。その場合の“炭素ゼロ”は、東京電力からの供給分を同社への売電によって相殺することを基本的に意味していた。しかし、福島第一原発の事故処理が長引くことが予想され、さらには他の原発も稼働停止や廃炉の可能性も生じていることから、オフィスでの電力自給を視野に入れることにしたのである。
 
 これを別の角度から言えば、生長の家は今回の原発事故の教訓として、次の3点を確認した--
 
 ①原子力発電所の危険性
 ②首都圏の電力が地方の大きな負担で賄われていること
 ③電力供給の地域独占に多くの弊害があること
 
 この3つの問題を最小限に抑えたエネルギー利用を考えたとき、「電力自給」を目標とすべきとの結論に達したのだ。つまり、原発は縮小していかねばならないのだから、そこから電力供給を受けるのは避けるべきだ。また、中央集中型のエネルギー利用形態を改めるためには、ローカルな発電設備が必要である。さらに、ローカルに作られた電力はローカルに消費されるべきである、ということだ。
 
 これに加え、今回の震災で明らかになったことの1つは、電力の独占が電力インフラの脆弱性を生んでいるということだ。簡単に言えば、電力会社1社が被災したら、その地域の電力はすべて使えなくなるか、使えたとしても“計画停電”によって仕事や生活が振り回されてしまうということである。資金力のある大企業は、この不都合を自家発電によって避けている。我々も、その観点をもつべきだと判断した。
 
 生長の家の“地域貢献”は、我々を受け入れてくださる地域の人々への感謝の気持の表れである。中央集中型の経済の問題を肌身で感じている地域への“恩返し”と言ってもいい。その場合、電力インフラの脆弱性の問題は地域経済に共通しているだろうから、我々の発電能力に余力があれば、周辺地域の人々に使ってもらうのがいい。これは、地球温暖化抑制のための“炭素ゼロ”運動を生長の家内部だけでなく、地域社会にも拡大していくことにつながるはずだ。
 
 もっと具体的に言えば、生長の家の移転先である北杜市は、「人と自然と文化が躍動する環境創造都市」というキャッチフレーズを掲げて「環境日本一の潤いの杜づくり」を目指している。この構想に資するため、生長の家は、オフィスや職員寮で発電した電力を冷暖房のほか交通手段にも利用することで、CO2の排出削減を進め、もし可能であるならば、市と協力して、太陽光発電などの再生可能エネルギーの利用促進と、充電インフラの整備を含めた電気自動車の普及に取り組みたいと考えている。我々はこうして“森の中”へ行き、地域の人々と共に太陽の恵みを最大限に利用して生きたいと思う。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月26日

菅首相の“新”エネルギー政策を歓迎する

 今朝(26日)の新聞各紙は、OECD(経済協力開発機構)の設立50周年記念行事での菅直人首相のエネルギー政策見直し演説について、大きく報じた。東日本大震災の経験から学び、日本の発電量全体に占める再生可能の自然エネルギーの割合を「2020年代のできるだけ早い時期に20%にする」という中期目標を発表するというのだ。これは国際会議の場での意見表明だから、数値目標をともなった事実上の国際公約と言える。日本の自然エネルギーの利用割合は2009年時点で約9%というから、これを10年間で倍増以上させる考えだ。また、この9%の大半は水力発電によっていて、大型ダム建設が困難な現状では、今後の増加分のほとんどは風力や太陽光などの再生可能エネルギーで賄わねばならない。
 
 昨年6月に策定した政府のエネルギー基本計画では、総電力に占める自然エネルギーの割合は「2030年までに20%」とされていた。同時に、原子力発電の割合は「50%以上」となっていたので、私にとっては大変遺憾だった。原発は、人間至上主義の“権化”のようなものであり、しかも世代間倫理を軽視しているからだ。それが、大震災と福島第一原発の事故を経験したことで、今回の大幅方針転換となった。今後の原発の増設はほとんど不可能だろうから、日本は自然エネルギーの目標割合「20%」を達成するために、経済も産業も政治も、様々な新規分野に本気になって取り組んでいかなければならない。日本経済は、いよいよ「自然と共に伸びる」形で進んでいかねばならないのだ。
 
 前回の本欄で触れた孫正義氏のメガソーラー構想についても、今日の各紙は“後追い”記事を書いている。それを読むと、菅首相と孫氏が何か仲良く連携しているように感じるのは、私だけだろうか。『日本経済新聞』によると、孫氏が率いるソフトバンクは19の地方自治体と組んで「自然エネルギー協議会」という政策協議会を今年7月上旬に結成するという。この協議会は、再生可能の自然エネルギーの利用普及に向けて政策提言をまとめる場で、ソフトバンクは1カ所あたり2万キロワット程度の太陽光発電所の建設に出資するらしい。『日経』の表現では、「電力不足への懸念が広がる中、同社が主導して電力会社に依存しない仕組み作りを目指す」という。
 
 具体的には、農地転用への規制緩和を提言し、全国の休耕田や耕作放棄地に太陽光発電所を建設することを考えているようだ。また、風力や地熱の利用も視野に入れているという。この協議会に参加を表明している自治体は、北海道、秋田、埼玉、神奈川、山梨、長野、静岡、愛知、福井、三重、岡山、広島、香川、高知、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎の19だが、『朝日新聞』によると、大阪や兵庫など7府県を抱える「関西広域連合」も参加を検討しているという。また『日経』は26日の夕刊で、鳥取県の平井伸治知事が、孫氏の計画に参加する意思を表明したことを伝えた。孫氏の計算では、全国の休耕田や耕作放棄地の合計は54万ヘクタールだが、この2割で太陽光発電を行えば5千万キロワットの電力供給が実現するから、「今夏のピーク時の東京電力の供給能力に匹敵する」のだそうだ。
 
 ところで、生長の家の国際本部が2年後に移転する予定の山梨県北杜市には、すでにメガソーラーの施設がある。北杜市はこの分野では先進的で、2006年度から長坂町夏秋および塚川地区(秋田工業団地とその周辺)のおよそ10ヘクタールの土地に、NTTファシリティーズなどと共同で、電機各社の太陽光発電パネルを大量に並べた2メガワット(2000kW)級の大規模太陽光発電システムを構築し、「大規模電力供給用太陽光発電系統安定化等実証研究北杜サイト」として、系統連系時に電力系統側へ悪影響を及ぼさないシステムの開発を目指した実証研究を行ってきた。この研究は今年3月で終了し、4月からは北杜市営の「北杜サイト太陽光発電所」として新たにスタートしている。
 
 このような動きをさらに前進させるために、生長の家も“地域貢献”を含めた努力を続けていく考えである。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月24日

孫氏のメガソーラー構想

 最近、ソフトバンクの孫正義社長が、スゴイことを言っているらしい。私が帯広市で読んだ5月22日付の『北海道新聞』には、同社長が埼玉県など全国10カ所に大規模太陽光発電所(メガソーラー)の建設を検討していて、計800億円規模の事業費を用意しているらしいと書いてあった。21日に埼玉県の上田知事が記者団の質問に応じて確認したところでは、同県の場合、ソフトバンク側が79億円、県側が1億円を出し、80億円の事業費でメガソーラーを建設する方向で調整を進めているという。
 
 この話は、『日本経済新聞』も2日後の記事で確認している。それによると、1カ所80億円で造るメガソーラーの容量は「20メガワット」。孫社長は、この構想を25日には東京で開かれる関東地方知事会議で、26日には大阪での関西広域連合委員会で知事らに説明する予定という。これに先立つ14日には、同社長はすでに東京都内で菅直人首相と会食して原発依存からの脱却を訴えていた。また23日には、参院行政監視委員会に参考人として出席して「自然エネルギーの活用で原発への依存度を下げるべきだ」と主張したという。
 
 これらの新聞情報を読む限りでは、孫社長のメガソーラーへの意欲は本物らしい。自然エネルギーへのシフトを主張する私としては、大変心強い味方を得た気持で、ありがたい限りだ。が、同社長の熱意はいったいどこから来るのだろうか?

 本欄では数回にわたり、「最近の企業は巨大化、グローバル化するにつれて、自身の活動から生じる外部性を内部化して成長してきた」ということを述べた。今回の大震災では、大津波の被害も重なって、被災地の携帯電話が数日間、ほとんど機能しなくなった。アイフォンなどの通信事業を行っているソフトバンクにとって、これは大変な“負の外部性”だったに違いない。しかし、今回の原発事故と携帯電話用回線の不通とは、さほど密接な関係があるとは思えない。関係があるとしたら、原発の機能停止によって電力不足が起こることで、携帯用回線が使えなくなる可能性が生じることぐらいだろうか。
 
 そういう“負の外部性”が予見できる原発だから、その役割を縮小して太陽光発電を推進すれば、日本全体の電力供給がより安定化する、と孫氏は考えたのだろうか? そして、そういう事業を地方自治体と共同で行っているのが「ソフトバンク」という会社だ、という点をマーケティング戦略に組み込めば、これは確かに「外部性を内部化」したことになるだろう。こういう点をねらって孫氏が動いている、と読むことはできるかもしれない。
 
 ついでに、もう一歩深読みしてみよう。今、原発事故との関連で、東京電力から送電部門を分離する話が、首相周辺から出ている。私は、この「発送電分離」は東電管内だけでなく、全国で実現してほしいと思っている。それによって、自然エネルギーを利用した中・小規模の発電事業がやりやすくなるからだ。ただし、自然エネルギーは--特に風力や太陽光は、発電量が天候に左右されて安定しない。これを補うために、「スマート・グリッド」という電力安定化の技術開発が進んでいる。孫氏は、この分野への新規参入を考えているのではないか? 全国に10カ所の発電所をもっていれば、それがやりやすくなる……そんな憶測が頭に上る。
 
 ともあれ、CO2の排出が減り、一企業の独占がなくなり、中央集中型支配が減り、地方分散型経済に近づくことは、日本の将来にとって良いことだから、私は孫氏の活動に期待せずにはいられないのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月22日

大地震は“神のはからい”?

 今日は北海道の音更町文化センターで十勝教区の生長の家講習会が開催され、910人の受講者が参集した。この日の十勝地方は低気圧の北上が予想されていたため、前日の天気情報では雨模様ということだったが、幸いにも朝には高曇りの状態となり、午後は晴天になった。この地での講習会は2年前は夏の開催だったが、今年は会場の都合でこの時期に早まったため、推進活動の大部分は寒さが厳しい冬季に行われた。そんな関係もあり、受講者数は前回よりも減少したが、その代わり新たな会場で行われたことで、初めて参加することができた人も多くいたに違いない。今後の組織のさらなる活性化と、“新人発掘”が期待される。
 
 午前の私の講話に対する質問は3件と少なかったが、その中に今回の震災に関するものがあった。私はそれに答えたのだが、その場の答えが十分意を尽くしていたかと訊かれると、答えに自信がない。そこで本欄を借りて、不足部分を補いたい。質問は、70歳の女性からの次のようなものだった--
 
「神が宇宙を作られたと話されました。それならば今回の東日本大震災は、神のおはからいなのでしょうか。政治家も“神のみぞ知る”と云われましたが、終息はどうなるのでしょう。原発の放射線など人体に悪影響をもたらしています。人類の滅亡とも思われます。もし神がいるならば、宗教的にどのように考えれば良いのでしょう」

 この質問は、前半は大地震のこと、後半は原発のこととして分けて答えるべき性質のものだ。前半の質問は、大地震などの天変地異は神がもたらすものかどうか、という内容として捉えられる。後半の原発の問題は、人間の営みの一部である科学技術の問題だから、前半とは少し性質が異なる。しかし、今回はこの2つがほぼ同時に起こったため、我々の一般的な印象では「2つには同一の原因がある」と感じるのだ。そのことを、この質問者は「もし神がいるならば、宗教的にどのように考えれば良いのでしょう」という形で表現していると思われる。つまり、大地震と原発事故の2つをもたらした共通原因があると考えているのである。
 
 3月11日以降、原発事故の原因についての調査が進んできているので、本欄の読者もこの2つには共通原因はないことがお分かりだろう。すなわち、大地震の原因は地球の地殻変動であり、原発事故の原因は、その地殻変動を予見していながら、可能な限りの事故防止策を講じてこなかった人間の側の怠慢が原因である。より具体的には、福島第一原発で使われていた原子炉の構造上の問題、非常用発電機の位置の問題、津波に対する備えが不十分だったことも指摘されている。さらに、人間の心の問題を指摘すれば、地震後の大津波による被害をこれだけ大きくした原因の1つには、過去の大津波の経験を重視せず、技術力を過信した点も否めない。このように見てくると、原発事故は“人災”の側面がかなり強いと言える。
 
 では、前掲の質問の前半部分は、どう考えるべきだろうか。つまり、「地震などの天変地異は神がもたらすものか?」という質問である。私は、講習会の場では、「大きな天変地異は昔から定期的に起こっている」という話をした。ただし、この「定期的」の意味は、「人間の尺度から見た」定期的ではなく、地質学的な意味での定期的だ。読者はすでにご存知のことだろうが、地震の原因は、地球表面の地殻と最上部マントルが合わさった「プレート」と呼ばれる部分が動くからである。日本列島の真下ではいくつものプレートがぶつかり合っていて、そこに周囲から常に巨大な圧力が加わっている。そこにある程度の力が貯まると、やがてバネが弾けるようにプレートが動いて圧力が発散される。これの大きなものが何百年に1回という“定期的に”起こっている。それは“神の計らい”か? と訊かれれば、普通の意味では「そうではない」と答えるべきだろう。この「普通の意味」とは、辞書にある意味だ。三省堂の『大辞林』によれば、「はからう」とは「考えて、適切な処置をする」ことであり、「都合の良い方法を講ずる」ことである。だから、この場合は「神がそれぞれの地震に、それぞれの目的や意図をもって、都合の良いように起こす」という意味になる。そのように、「神がこの世の艱難を意図的に起こす」という考え方を、生長の家は採らない。
 
 しかし、その一方で、生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、地震の起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。そうすると「地震などの天変地異は神がもたらすものか?」という質問には、「そう言うこともできる」と答えても完全な間違いではない。しかし、その場合、自然界の法則によるのは、「100年に1回起こる大地震」だけではなく、「99年間は大地震が起こらない」状態も当然含むのだから、「99年間の地殻の安定は神がもたらす」ということも同時に言わなくてはならない。なぜなら、“法則としての神”は、人間にとって悪いことだけをもたらすのではなく、良いこと、ありがたいことも、常にもたらしているからだ。例えば、飛行機事故が起こるのは、重力の法則なくして考えられない。しかし、その同じ重力の法則は、雨を降らし、川を流し、木々の根に水を含ませ、人間に飲料水を与え、果実や穀物を育て、動物を養っているのである。“法則としての神”は、悪い現象の中にのみ現れるのではなく、常に、あらゆるところに、幸福や繁栄ももたらしている。そのことを思い出せば、神を恐れる前に、まずはその偉大な恵みに感謝しなければならないだろう。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月21日

宗教運動と“外部性”(3)

 しかし、それに加えて社会環境の大きな変化を無視することはできない。
 マイヤーとカービーの両氏は、この社会環境の変化について次の4項目を挙げているーー
 
 ①企業活動のグローバル化、巨大化に伴う外部性の規模拡大
 ②負の外部性だけでなく正の外部性の認知
 ③ITの普及による情報の精度向上と入手の容易化
 ④企業活動に対する世論の感度向上

 上の第一項については、あまり説明の必要はないだろう。企業活動が一国の範囲を超え、その規模が巨大化すれば当然、扱う製品やサービスの規模も拡大する。すると企業の判断によって、その立地する地域はもちろん、その国の経済にも影響を与える可能性が出てくる。その際、この企業が製紙会社であれば、製紙工場から排出される大量の煙や臭気が周辺住民の生活や経済にマイナスの影響を与えることもあるだろう。それは“負の外部性”である。

 しかし、外部性には“正”の方向に働くものもある。これは例えば、この製紙工場の稼動によって地域の雇用が拡大し、あるいは周辺の道路が整備され、商店街が拡充し、不動産価格が上がり、さらには立地する市や町の税収が増えることになるかもしれないからだ。このような経済波及効果を予め見越すことができる企業は、自社のイメージの向上のためにそれをマーケティング戦略に組み込むことができる。そういう認識が多くの企業の間に生まれつつある。地球環境問題が深刻化する中で、多くの企業が環境を重視した経営の国際基準であるISO14001の取得に力を入れるのは、この認識に立った「外部性の内部化」だと言えるのである。

 さて、本シリーズではこれまで一般企業の活動に関して、それが生む外部性の扱い方を概観してきた。それをひと言でまとめると、「企業は巨大化、グローバル化するにつれて、自身の活動から生じる外部性に敏感になり、それを内部化して成長してきた」ということだ。では、宗教運動はどうだろうか? 宗教は利潤の追求を目的としていないが、自らの信じる価値観を社会に浸透させ、信者の数を増やすことを目的としている、と言える。この場合、もちろん「信者の獲得」を最終目的と考えずに“中間目的”と捉え、それを通して「人々の幸福にする」とか「社会をよくする」とか「地上天国を実現する」ことが宗教の“究極目的”である考えてもいい。が、こういう“究極目的”は、これまでいろいろな言葉で表現されてきており、その言葉の解釈が宗教や宗派によって分かれることもあるため、すべての宗教について一般化することは難しい。だから、ここではこの“中間目的”を一応の宗教の目的として論を進めることにする。
 
 「信者を獲得する」ことを目的とする宗教は、企業に比べて外部性に“より敏感”でなくてはならない。なぜなら、企業が提供する製品やサービスは顧客の生活の一部に関わるのに対し、宗教が提供する教義や信仰は、一般に信者の生活の全体に関わるからである。また、企業が提供するものは、自由主義社会においては原則的に他の企業の提供する同等のものに比較的容易に代替できるのに対し、1つの宗教が提供する「信仰」や「教え」は、他の宗教のそれとは、商品やサービスのように簡単には代替できないからである。一例を挙げれば、ホンダが提供する乗用車に不満があれば、トヨタやニッサンの同等車種に買い換えればいいが、キリスト教が提供する信仰に不満を覚えているといっても、家族や友達も同じ宗教を信じていて、少年時代からキリスト教の習慣に親しんでいれば、そう簡単には仏教やイスラームには“転向”できないだろう。
 
 それでは、宗教が社会にもたらす外部性とは何だろう? 日本においては、仏教が古来「お盆」という宗教行事を守ってきたことで、多くの経済効果がもたらされた。また、キリスト教の習慣である「クリスマス」や、神道の教えにもとづく「初詣」なども、日本経済に大きな影響を及ぼしてきた。これらは“正の外部性”と呼べるものだろう。これに対して、かつて日本を騒がせたオウム真理教の数々の行動は、明らかに“負の外部性”である。こういう宗教が日本社会に混乱と不安をもたらしたことで、生長の家などのまともな宗教も随分と悪影響を被ったことが、まだ記憶に新しい。世界に目を向ければ、イスラーム原理主義にもとづくテロリズムは“負の外部性”の最たるものと言える。

 このような観点から宗教の対社会的影響を考えてみると、宗教運動が地球規模の環境問題や食糧問題、さらにはエネルギー問題に関心をもち、社会に貢献するための活動を行うことは、伝統的宗教の行動から決してかけ離れていないし、特異なことでもないのである。ただ、関心の方向が昔よりはグローバル化し、問題の性質も拡大している点が、違うと言えば言えるだけだ。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月19日

宗教運動と“外部性” (2)

 20世紀初めの日本国内の経済に通用することでも、今日のグローバル経済にそのまま適用できないことは、人口の差、資源やエネルギー消費量の差、各国経済の相互依存性などを考えれば分かるはずだ。が、高橋の議論の中で私が最も欠けていると感じたのは、今日の経済学では常識となっている「外部性(externalities)」なのである。それは、この時のブログでも指摘したーー

 外部性の一例としては、いわゆる「公害」が挙げられる。消費が増えることで工場生産が増加し、有害物質が河川や田畑に流出すれば、農漁業に悪影響を与え、住民の健康被害にも及ぶ。その場合は、医療費が増加したり、国の財政負担が増えるなどの経済へのマイナス効果となる。(…中略…)特に今日では、ほとんどあらゆる経済活動に付随して「温室効果ガスの排出」という外部性不経済が関与していることを、企業は熟知しているはずである。(前掲書、294ページ)

 熟知しているだけでなく、今日の一流の企業は、外部性を社会や消費者から指摘されると、それをいち早く企業経営の内部に取り込んで、セールスポイントの一つにしてしまうことが珍しくない。

 例えばアメリカでは、20年前には喫煙の健康被害についてフィリップ・モリス社などは、自社お抱えの科学者を使って肺ガンとの関連性を精力的に否定する戦略を採っていた。しかし、今世紀に入ると、そういう戦略が企業イメージを著しく傷つけることに気づいた経営者は、対応を逆転させるようになっている。その具体例について、モニター・タレント創業者のクリストファー・マイヤー氏(Christopher Meyer)と『ハーバード・ビジネス・レビュー』編集者のジュリア・カービー氏(Julia Kirby)は、次のように述べている。

 時代は下って21世紀に入ると、加工食品産業や外食産業の対応はまったく違うものになる。トランス脂肪酸の危険性が明らかになると、主要企業の経営陣は健康への影響を重く受け止めて、事が大きくなる前に素早く対応した。調理法を変え、啓蒙キャンペーンに資金を投じ、低脂肪製品を前面に打ち出したのである。
 2005年には、すでに「クラフトフーヅがトランス脂肪酸の改質を完了」したことが業界紙で報じられ、競合他社ももれなく追随した。レストランでのトランス脂肪酸の使用を禁じるアメリカ初の州法が発効したのがこの年であるから、企業は法的に強制されるずいぶん前に、いやそれどころか人々の怒りを買う前に、自発的に方針を変更したことがわかる。(DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2011年4月号、11~12ページ)

 マイヤーとカービー両氏は、このような新しい動きを「外部性の内部化」と呼んで、これを積極的かつ継続的に行うことが、新世紀における「企業の責任を測る本当の物差し」だと主張している。この背景には、もちろん消費者運動の盛り上がりや企業側のPR戦略の転換がある。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月18日

宗教運動と“外部性”

 本年5月始め、生長の家の運動組織の全国的会合が行われた時、私は講話の中で「買い物では世界を救えない」ということを訴えた。これは、直接的には2010年5月24日の新聞紙上に載った全面広告の批判であるが、その目的は、この広告主を特定して貶めるためでは決してない。

 私が取り上げた広告は新聞掲載後に、第59回日経広告賞の優秀賞、第40回フジサンケイグループ広告大賞のメディア部門で新聞優秀賞を獲得するなど、広告業界から高い評価を得たものである。ということは、日本の産業界では、この広告の伝えようとしているメッセージが今の日本経済にとって有益であり、かつ正当であると概ね信じられていることを意味する。しかし私は、そのメッセージはむしろ時代に逆行しており、短期的にはともかく、中・長期的には日本経済にも、世界経済にも悪影響を及ぼす可能性があると考えたのである。

 その理由を説明する前に、まずはこの広告の内容を示さなければならない。問題の広告の掲載日に、私はブログに次のように書いたーー

 今日の新聞の1ページ全面を使って、貸金業者の「ジェーシービー(JCB)」が広告を掲載していた。画面の下段に大きく2行に書き分けて「買い物は、世界を救う」とあり、上段には、高橋是清の随想録からの引用として、「貯金よりもお金を使うことが国の経済に貢献する」という意味の古典的議論がズラズラと展開されている。(中略)JCBが引用している高橋の文章を要約すれば、ある人の可処分所得が5万円の場合、3万円を使って2万円を貯金することは、個人にとってはよくても、社会にとってはメリットが少ない。それよりも、もう2千円を消費に回せば、それが社会に還流して20倍、30倍の生産力になる、という論理だ。この2千円の用途としては、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりすることを暗に勧めているのだ。そうすれば、料理人の給料、食材の代金、その運搬費、商人の利益、農漁業者の収入増などにつながって、社会のためになるというわけだ。(『小閑雑感 Part 18』292~294ページ)

 私はこのように広告の内容を紹介したあと、それに反対する理由をこう書いた。

 これを安政元年(1854年)生まれの高橋が言うのはいいが、21世紀初頭の地球温暖化と人口爆発の時代に、しかも世界的な金融危機を経験した後に、“一流”と目される日本の企業が新聞の全面広告で訴えるのは、PR上も誠にお粗末だと私は思う。(前掲書、294ページ)

 高橋是清が活躍した1910年代から30年代の日本の状況と、グローバル経済下の現在の状況の間には大きな違いがあるのである。にもかかわらず、それに全く触れることなく「消費を盛んにすれば世界の状況は好転する」と主張することは、大企業として不誠実である、と私は感じた。だから、新聞読者にその不誠実さを晒すことは、広告戦略として失敗している、と指摘したのである。

 谷口 雅宣

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2011年5月16日

“テロとの戦争”が復活か?

 『朝日新聞』のアメリカ総局長、立野純二氏が16日付の紙面でオサマ・ビンラディンの死について書いていた。この件では、私はいろいろ言いたいことがあるが、その内容が多岐にわたり、複雑になると予測して、これまで本欄に書くことを躊躇していた。が、立野氏の記事を読んで、書くべき時が来たと感じた。その記事は、私の知らないアメリカ国民の立場や感情について示唆の多い内容だった。読後、私はこれまで不明だったジグソーパズルの一片の位置がわかった時のように、「なるほど」と了解したのである。

 9・11のアメリカ同時多発テロを初めとした数々の国際テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンは、5月2日の早朝、アメリカ海軍の特殊部隊によって殺害された。このことを多くのアメリカ人は喜んだ。立野氏の表現では、ホワイトハウス前の広場を「午前1時を過ぎても1千を超す若者が埋め尽くし、歌い、踊り、歓声を上げた」という。が、私は諸手をあげて賛成する気持になれなかった。

  理由はいくつもある。1つは、パキスタンの了解なく行われたこと、2つは、「悪は物理的に破壊すべし」という考え方に同意できないこと、3つは、政治的効果を狙った暗殺であり、しかも国内向けの効果が国際関係より優先されたと感じたからだ。

 立野氏の分析では、このような“暗殺歓迎”とも受け取れる喜びを示したのは、9・11事件を小中高校の思春期に経験し、その後の“テロとの戦争”と共に育った“9・11世代”と呼ばれる若者たちだという。この世代の特徴は、「政治と外国への関心が高く、ひときわ愛国心が強い」だけでなく、「軍事力に寄せる信頼も厚い」という。つまり、軍事力の限界を認めつつも、「人道や正義を掲げて外国に米軍を派遣することをためらわない」のだそうだ。そして、立野氏は、この世代が「オバマ大統領誕生の原動力の1つになった」と指摘するのである。

 彼らはフェイスブックなどのネット技術を自由に使いこなし、短期間のうちに莫大な資金を集めて、アメリカ史上初の黒人大統領誕生の有力要因となった。それがちょうど18~29歳の若者たちで、この年齢層の大統領支持率は、ここ10年間で40%台から59%に急増したという。こういう要素を考慮してみると、国内の支持率低迷で窮地に陥っているオバマ氏が、自分の有力な支持基盤である彼らが溜飲を下げるような施策を敢行したとしても、不思議ではないのである。

 しかし、このオバマ氏の決断によって失われるものも大きい。それは、私が本欄で何回も「問題あり」と指摘してきた“テロとの戦争”という考え方が、復活する可能性があることだ。というより、それは今回のビンラディン殺害によって「正式に復活した」と言っても過言でないだろう。なぜなら、オバマ氏は自国が「戦争中である」ことを理由にして、今回の軍事行動を正当化したからだ。もちろん、その戦争はパキスタンが相手ではなく、“テロリスト”が相手だ。つまり、テロリストとの戦争中だから、作戦行動の詳細は同盟国であっても了解を得る必要はないということだろう。しかし、今回の軍事行動の異常な点は、派兵先の国が当の“テロとの戦争”の同盟国だという点だ。一緒に協力して戦っているはずの味方の意思を無視して、その国の内部深くに侵入し、“敵”を殺害するーーこれはもう、その同盟関係が破綻していると言わねばならない。

 これに対して戦争中でない場合は、当然のことながら、他国の領土内に無断で軍隊を派遣して誰かを殺害したり、あるいは誰かを逮捕することは、派遣先の国の主権侵害になる。これは、派兵先が同盟国であるかないかを問わない。派兵先が同盟国でない場合は、主権侵害を理由に戦争が始まる恐れさえある。同盟国にそんなことをすれば、同盟が破綻しても決して不思議はない。例えば、アメリカが日本政府に無断で米軍を動かし、テロリストと目される人物を、潜伏中の名古屋市内で急襲して殺害したら、きっと日米同盟の危機が来るだろう。

 いずれにせよ、今のアメリカとパキスタンの関係は異常である。11日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』は、今回の軍事作戦を行う際、オバマ大統領は、パキスタンの警察や軍隊との交戦も想定していたことを伝えている。それによると、ビンラディン拘束のために派遣する軍の規模について、大統領は、2つの専門グループを用意させたという。1つは、“敵”を殺害し葬るまでの仕事を担当するグループ。もう1つは、“敵”を捕らえた場合の法律家や尋問者、通訳者などのグループだったという。そして、前者の軍事行動グループは、パキスタンの軍や警察と直面した場合は、できるかぎり対立を避けるよう努力すべきだが、脱出のために応戦しなければならない場合は、応戦を許可されていたという。そして、この特殊部隊は、当初はヘリコプター2機分の人員だったが、その後、大統領の命令でもう2機分が追加されたらしい。これらのヘリが、レーダーによる探知を避ける改造を施されていたことは、すでに伝えられている。つまりこの作戦は、パキスタンを“仮想敵国”と想定して行われたのだ。
 
 今、パキスタン国内では、このアメリカの行動を許したパキスタン政府への批判が強まっていると同時に、パキスタン政府内のアメリカへの不快感が増している。オバマ大統領は、そうなることを見越してこの作戦を実行したと思うが、他のイスラーム圏の国々への影響を、どれだけ考慮したか、私は疑う。それらの国では、アメリカが言う“テロとの戦争”を“イスラームとの戦争”と考える人々がかなり多いのだ。その中で、「アメリカと同盟を結んでも主権侵害が簡単に行われる」と感じた人々が、アラブ民主革命後の選択をどう行うかという問題は、決して小さいとは思えない。

 谷口 雅宣

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2011年5月13日

太陽光で生活する

 本欄で書き次いでいる「太陽光でパソコンを使う」というシリーズをアップグレードする時期に来たようだ。というのは、通常のパソコン使用だけならば、太陽光のみをエネルギー源とする試みは今のところ成功しているからだ。

 読者の参考のために、この「通常使用」の様子についてまとめてみるーー

 私は朝6時半ごろから、自宅の太陽光発電装置を“自立モード”に切り替えて、自分のノートパソコンに充電する。通常の使用では、私のパソコンのリチウムイオン電池の残量は半分ほど残っている。それに朝から“太陽充電”すると、曇りの日でも約2時間でフルチャージされる。この際、補助機として使っているアイポッドタッチや通信端末(EMobile D25HW)の電池の残量が少ない場合、それらも同時に充電する。こうしてパソコン関連の機器をすべて“満タン”にして仕事場へ行く。

 仕事場では、パソコンをACアダプターにつながずに電池だけで使用し、使っていない時には、小まめに休眠モードにするか、シャットダウンする。私のパソコンでの仕事の大半は文章書きだが、雑誌やブログ用の書き下ろしの原稿は、下書きをパソコンでやらずに原稿用紙に書く。また、紙に書いている原稿が、文の挿入や削除、訂正等で読みにくくなってきたときは、それを機会にアイポッドやポメラでの入力(電子化)を始める。もちろん締め切りが迫っている時は、パソコンに入力することになるだろう。その方が、早く仕上がるからだ。また、講話やスピーチの録音から起こした書き下ろしでない文章は、たいてい編集部からメールで届くから、これもパソコン上で仕上げることになる。

 補助機の電源が乾電池の場合は、予め交換用に必要な数をそろえておき、前に本欄で紹介したソーラー充電器で昼間充電しておく。また、仕上げた原稿の印刷はできるだけ避け、職場の電力使用量も減らしたい。

 こんなパソコンの使い方で、私はここ数週間、自分のパソコンを太陽光エネルギーだけで動かしてきた。しかし、これではまだ“炭素ゼロ”で文章を書いているとは言えない。なぜなら、パソコンは太陽光で動いていても、そのパソコンを置いたデスクや、参考書を拡げたテーブルなどは、電燈によって照らされているからだ。これらの電力も太陽から得ようと考えると結局、自分の生活全般で電力を太陽光から得なければ、という話になる。

Led_lightstand  これは流石に簡単でない。しかし、全部の“炭素ゼロ化”ではなく、一部を太陽光に置き換えるのならば、そんなに難しくない。ということで、LEDの電気スタンドというのを買った。また、わが家の白熱電球はほとんど省エネタイプの電球(電球形蛍光管)に変わっているが、さらに電力消費量の少ないLED電球に替えようと思い、とりあえず1個を買った。前者は「Twinbird」というブランドのLED Desk Light(LE-H615)という製品であり、後者はパナソニックの「エバーレッズ」シリーズのLED電球(LDA7D-G)である。電気スタンドは、渋谷駅東口のビックカメラで“売り上げ第1位”となっていたもの。LED電球は、5月12日付の『日本経済新聞』で東芝の「ライテック」シリーズと共に“人気商品”として評価されていたものだ。値段は、前者が約1万円、後者は約3,500円だ。
 
Led_lightbulve  LED電球は高価に見えるが、電力消費量は普通の白熱電球の6分の1で、寿命は約40倍と言われているから、計算すると白熱電球より安価である。また、LEDの電気スタンドは通常の電球で「40W」ぐらいの明るさで消費電力が少ない。ということは、“太陽充電”したバッテリーを使って夜間使用すれば、結構長く使えるのではないか。これらの方法で、どれだけ“炭素ゼロ”に近づけるか楽しみである。

谷口 雅宣

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2011年5月11日

原発を減らし、自然エネルギーへ

 菅直人首相の“本心”が分からない。発言の内容はメディアを通して逐次伝えられてくるから、何を言っているのかは分かる。しかし、それが一国の総理大臣として決意と覚悟の上で言っていることなのか、それともいわゆる「フィーラー」(様子探りの発言)なのかが不明だ。これまでの例を見る限りでは、後者の発言が圧倒的に多いと感じられるから、今回の発言も「彼は本気だ」と信じると、またすぐ撤回され、裏切られるのかもしれない。それでは本当に困るのである。
 
 私が菅氏の何の発言を問題にしているか、読者は分かるだろうか? 新聞によってニュース性の扱いがまるで違うのも気になるのだが、今朝の『朝日新聞』によると、次の通りである--
 
「菅直人首相は10日、首相官邸で記者会見を開き、総電力に占める原子力の割合を将来的に50%に高めるという政府のエネルギー計画について、“いったん白紙に戻し議論する必要があるだろうと考えている”と述べた」。

 『朝日』はこれをリード文として、「エネルギー計画白紙に」という4段抜きの見出しを立てて第4面で大きく伝えた。これに対して『日本経済新聞』は、同じ日の朝刊の第1面下段で、一回り小さい3段記事に「首相“国にも責任”」という見出しを付け、副見出しを「原子力利用は継続の姿勢」とした。これでは、首相には原子力の利用を減らす考えはまるでないように聞こえる。そして、地の記事では次のように伝えているのである--
 
「2030年までに総電力量に占める原発の依存度を50%以上と定めた現行のエネルギー基本計画については“いったん白紙に戻して議論をする必要がある”と表明。一方で“より安全な原子力のあり方をしっかりと求めて実行していきたい”と、原発を継続する考えも強調した」。

 2紙の報道の違いは、恐らくそれぞれの新聞の希望や意見を反映しているのだろう。だから、首相の意図は“玉虫色”ということか? しかし、浜岡原発の停止要請を行ったすぐ後の発言である。従来の方針について「白紙に戻して議論を」という意味は、「現状よりも原発への依存度を減らしたい」のだと解釈するのが普通だと考えられる。が、『日経』はそう解釈していないようなのである。単なるフィーラーだと考えたのか……。
 
 一方『朝日』は、会見の「要旨」として次のように書いていて、これを読む限りでは、首相はエネルギー政策の方針転換を表明したように見えるのである--
 
「今後は、太陽光や風力、バイオマスといった再生可能エネルギーを基幹エネルギーの1つに加えることと、省エネ社会をつくっていくことがエネルギー政策の柱になりうる。原子力は安全性を、化石燃料は二酸化炭素削減をしっかり進めていく」。

 もしこれを菅氏が本気で言ったのであれば、私はそれを大震災と原発事故を踏まえた新政策として大いに評価し、大歓迎する。日本はこの方向に進むことが、大震災と原発事故による大勢の人々の死と苦しみを無駄にしない、最も論理的、かつ正しい政策決定であると私は思う。今度こそブレないで、信念をとおしてほしいのである。
 
 ところで、同じ首相の記者会見の場には外国の報道陣も参加していただろう。今の日本の原子力行政をめぐる問題は、多くの原発を抱える海外の先進諸国でも大きな関心事になっている。だから、菅氏の今回の発言も大きく報じられた。例えば、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』の“世界版”である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙は、第1面で「災害は日本の核計画を転覆する」(Disaster overturns Japan's nuclear program)という見出しを付けて報じている(電子版の記事)。これは、菅氏の発言を『朝日』よりも明確に「政策転換」として捉えたセンセーショナルな表現だ。記事の書き方を見てみよう--
 
「菅首相は火曜日、日本は原発を新設する計画を廃止すると述べ、新しいエネルギー政策をつくるに当たっては“白紙から始める”必要があると述べた。
 この火曜日の決定は、3月の大地震と大津波によって引き起こされた福島第一原発の事故に続くもので、昨年、管政権が発表した計画を破棄するものである。この計画によれば、日本は電力供給に占める原子力の割合を50%に引き上げるため、2030年までに14基の原発を増設することになっていた。日本にはいま54基の原発があり、大震災前の時点ではそれによって電力量の30%をまかなっていた」。

 同じ情報にもとづいていても、新聞各社の“思惑”や“読み”が異なることで、見出しや記事の内容はこれほど違ってくるのだ、と改めて思った。

 谷口 雅宣

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2011年5月10日

「めんどくさい」が世界を救う (6)

 私はしかし、ここで人類の将来について絶望的な見解を述べようとしているのではない。私は先に、「ネット社会の発達と音声・映像技術の進歩」に触れた時、これが環境からの直接的フィードバックの不足を「十分補える」という考えに否定的に反応した。ただし、それは全面否定ではない。人間が環境に対して全人格的な触れ合いをもてないことを、インターネットやハイビジョン放送は「十分補える」ものではない。が、不足分を「部分的に補う」ことはできると考える。そして、現にそのような事実が近年目撃され、あるいは多くの人々によって体験されている。

 今年の初めのエジプトでの反政府デモを皮切りに続いている、アラブ諸国でのいわゆる“ジャスミン革命”の動きは、インターネットや携帯電話の技術の進歩とその普及なくしては考えられない。数千キロ、数万キロも離れた土地の無名の人々が、同じアラブ系であるという理由だけで、他国の政治に重大な影響を与えるなどということは、国際政治の歴史ではかつてあり得なかったのではないか。それが大々的、連鎖的に起こり、今にいたっても継続している。その重要な原因の一つに、映像や音声情報の高品質化による生々しさ、テキストメッセージの即時性とリアリティー、フェイスブックなどのソーシャルメディアによる双方向、多方向の自在なコミュニケーションの普及があったことは、疑う余地がない。しかし、それによってこれらの民主化の動きが適切に組織され、政治的に効果的に--つまり、犠牲者を最小限に止めて--行われたかどうかは、まだ判断できないと思う。

 また、2010年1月に起こったハイチの大地震や、その後のチリ大地震でも、情報伝達や被災者救援の活動にインターネット技術が大いに役立ったことは確かである。同じことは、今年の東日本大震災についても言えることだ。が、災害当初の“初動的”な対応や救援の段階を過ぎて、中・長期的な視点に立った被災地復興をするためには、人が実際に現地に入って「環境からの直接的フィードバック」を受けながら対応し、対策を講じなければ判断を誤ることは必至だろう。

 このように考えてくれば、人間と自然とが調和し共存する世界を実現するためには、効率を優先した技術の開発や、音声・映像・通信手段の発達だけでは全く足りないのである。それらは目的達成に役立てることもできるし、その逆に目的の阻害要因にもなる。最も重要なことは、できるだけ多くの人間が、自然界と全人格的に触れ合う機会を増やすことである。効率面から見れば、その触れ合いは本質的に「めんどくさい」ことであり、「手間がかかる」ことであるかもしれない。が、それによって人間は言わば“完体”となる。人間が本来備えている多面的な能力が開発されるのである。そして、自然の一部として存在しながら、しかも自然を理性的に理解し、また感情的に共感しながら、自然を育て、自然に育てられ、自然と共に伸びる道が開けてくると私は考える。

 谷口 雅宣

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2011年5月 9日

「めんどくさい」が世界を救う (5)

 私は自分の息子がまだ1歳にならない頃、旅先の宿舎の一室で、夜中に初めて立ち上がって伝い歩きをした時のことを今でも覚えている。それまでは這うことしかできなかった小さな人間が、やっと立ち上がり、おぼつかない両脚を力いっぱい踏みしめ、両手を机に突いて体を支えながらバタバタと歩いた。その時の満面の笑みと喜びの叫び声は、環境からの直接的リアクションが、人間にとってどんなに幸福かを如実に語っていた。

 ところが、歩くことに慣れてしまった人間は、次に効率のことを考え出す。長い距離を歩くのは非効率だとか、面倒くさいなどと考えて、自転車や自動車、さらには航空機まで発明した。しかし、これによって先進諸国の人々の間には運動不足よる肥満や、成人病、神経症など、別の問題が深刻化しているのだ。

 環境から直接的なフィードバックが得られなくなることは、人間の判断を誤らせる大きな要因になる。このことは、自動車運転中の携帯電話の使用や歩行中のイヤフォンやヘッドフォンの着用などで、すでに証明済みだろう。それでも、ネット社会の発達と音声・映像技術の進歩によって、そういう情報不足は十分補えるという考え方が時々表明される。が、私はそんなことは不可能だと思う。理由はすでに縷々述べてきたが、以下、簡単にまとめよう。

 庭の芝生を刈る際に最も効率的な方法は「他人に依頼する」ことだった。これによって、依頼人への芝生からのフィードバックはほとんどゼロになる。フィードバックの減少は、「芝生から」だけではない。「芝生を刈る」という行為にともなう大部分の情報--芝生を刈る音、切り揃えられた芝生の感触、土の匂い、芝生から跳びだす昆虫やミミズ、カッコウやホトトギスの鳴き声、林を通り抜ける風の爽やかさ、飛来するチョウの可憐さ、そして、これら自然界との触れ合いによって“刈り手”の心に生まれる様々な想い--が、依頼人の脳や心には伝わらず、また生まれず、実際に芝刈りをした人間のところでストップする。筋肉と感覚と心を動員して行われる全人格的な「芝刈り」という仕事は、こうして依頼人にとっては抽象的で、価値の低い“単純労働”として認識されるようになるだろう。また「芝刈り」の場である自然界も、同じように抽象的で、どこか絵画や写真のような“装飾品”あるいは“デザイン”として感じられるのではないだろうか。

 私は、人間がそのような認識や価値判断にもとづいて下してきた決定によって、これまでどれだけ広大な生物の生息地と、どれだけ多くの生物種が失われてきたか、と心を巡らせるのである。そして,そういう人類の価値判断が正しくなかったことが今、地球規模の気候変動、“人口爆発”と食糧問題、資源の枯渇と奪い合い、生物多様性の後退などとして示されていると考える。

 谷口 雅宣

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2011年5月 8日

「めんどくさい」が世界を救う (4)

「伸びすぎた庭の芝生をすっきりと刈り揃えたい」という希望から、私はこの時、芝刈りを始めたのだった。その目的を最も効率よく達成する方法は、たぶん機械を使うことだ。今、近所で入手できる芝刈り機には手動式、電動式、また燃料を使ってエンジンを回す方式のものもある。この中から効率優先で方式を選べば、恐らくエンジン式が最も優れている。しかし、コストも最大だろう。この場合のコストとは、もちろん商店で売っている値段も含むが、それに加えて機械を持ち運ぶ際の重量、メンテナンスの手間や費用、それに(これが重要だと思うが)エンジンを動かすことで発生する騒音や臭気のような「環境へのコスト」もある。しかし、これらのコストを度外視して「効率」のみを考えれば、エンジン式芝刈り機を近くのDIY店で買ってきて使うという方法がいちばん“優れている”ことになる。いや、そういう手続きも省略したい場合、人に頼んでそれらを全部やってもらう方法もある。そうすれば自分はその間、別のことをする余裕が生まれ、時間をもっと“有効に”使える--こう考える人もいるだろう。

 私は今、あえて「有効に」という言葉を使ったが、この言葉をここで使うべきかどうかは、本当は十分吟味する必要があるのである。一般に「有効」という場合、それは何かの目的に対して一定程度の効力や効果があることを指す。では、この場合の目的とは何だろう? それは、前述したように「伸びすぎた庭の芝生を刈りそろえる」ことである。となると、芝生の刈り込みを最も“有効に”行う方法は、人に頼んでやってもらうことだとの結論になる。何かの奇妙な結論ではないだろうか? が、実際にアメリカなどでは、芝生は自分で刈らずに、もっぱら使用人や庭師にさせている人は数多くいるから、この結論は一般的にはそれほど間違っていないと思われる。

 しかし、私は「効率優先」で何かを行った際の問題点が、ここに鮮明に現れていると考える。それは、先に私が指摘した「対象からのフィードバック」が、ほとんど全面的に欠落していることだ。 面倒な仕事を他人に頼んでやってもらうということは、その仕事にまつわる種々の事柄とできるだけ没交渉でいて、しかもその仕事をやり遂げるというのだから、頼んだ人間はその仕事に時間と労力を割かずに目的を達成する。これは究極的に“有効な”方法ではないだろうか。効率化を推し進めていけば、最終的には「時間ゼロ・労力ゼロ」の状態に近づく。技術が進歩した現代では、「人に頼む」過程も効率化しようとして、予め組まれたコンピューター・プログラムに従って一定の仕事を自動化したり、さらにそのプログラム自体をICチップに焼き付けて、実質的になくしてしまうこともできる。すると、ボタンを一つ押すだけで、複雑な仕事が短時間で楽々と達成されてしまう。言い直せば、「対象からのフィードバック」は限りなくゼロに近づいていくのである。

 私はここに、高度技術社会の基本的な問題があると考える。生物は、環境へのアクション(働きかけ)と環境からのリアクション(フィードバック)を、生きるための基本原理として生体内に臓している。動物の感覚器官や筋肉は、その基本原理の表れだと言える。例えば、動物が地上を「歩く」という行動は、重力に抵抗して体を支えながら、自分の望む方向に移動することだ。この時、足は重力という環境からの力と、地面の凸凹や傾き、硬軟の程度などの環境の情報を感覚器官から取り込み、それにもとづいて骨格や筋肉を操って体のバランスを取りつつ、目的の方向に進む--つまり、環境からのリアクションをできるだけ多く取り込んで、次なるアクションを起こすのである。この繰り返しが正しく行われることで、初めて私たちは「歩く」ことが可能となる。動物としてもっとも基本的なこの動きは、私たちにとって必要不可欠のものだ。だから、戦争や事故で足を失った人は、義足や車椅子を使ってでも「動く」ことを求める。これは「効率」の問題が生じる以前の、最も基本的な人間の欲求の一つだと言える。

 谷口 雅宣 

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2011年5月 7日

「めんどくさい」が世界を救う (3)

 ここに書いた「効率とは別の価値」とは何であり、それと効率とはとはどちらを優先すべきかを考えてみよう。引用文の中で描かれた「効率とは別の価値」とは、クリの木をより深く知るということだ。木の表面を観察し木肌に注意したり、木の香をじっくり味わうことだ。手引きのノコギリを使うという“面倒な方法”を用いることで、小一時間のあいだクリの木との一種のコミュニケーションが生まれる。もっと一般化して言えば、向かう対象から豊富な「フィードバックを受ける」のである。これに比べ、チェーンソーを使えば、薪作りは簡単に、短時間ですんでしまうから、対象からのフィードバックは皆無ではなくても、決して豊富なものではない。では、このような「豊富なフィードバック」は、効率性と比べて“より大きな価値”と言えるだろうか。この問いへの答えは、簡単ではない。そこで、もう一つの私の経験について述べ、この重要な問いへの答えを確かなものにしよう。

 再び私の山荘での経験を書く。私の生活のほとんどは大都会の東京で行われるから、東京での経験の中で、環境から「豊富なフィードバック」を得た例を挙げるべきかもしれないが、東京での生活は効率優先で行われがちだから、良い例があまり多く思い浮かばないのである。
 次に掲げる文章は、2010年6月4日のブログに書いたもので、原稿書きの仕事の合間に、伸び放題になった庭の芝生刈りをした時のことだ--

「 それでも3日の午前中に、庭の草刈りをする時間ができた。標高1200メートルの山荘の環境では、東京より季節回りが1カ月ほど遅く、5月初めの気候である。それでも、西洋芝が20~30センチの高さに不揃いで伸びた様子が、見苦しかったのだ。草刈り鋏で1時間ほどかけて刈っているあいだ、近くの山でカッコウがずっと鳴き続けていた。鳴き声に大小の変化がなかったから、恐らく一羽が一カ所にとどまったまま鳴いていたのだ。その合間に、ホトトギスの声も聞こえた。私は、どちらの鳥の声も耳に心地よく響くことに気づき、楽しみながら聞いていた。が、30分も過ぎてから、ハタと思い当たることがあった。それは、彼らが何のために鳴いているかということだった。普通、鳥が鳴くのは雌鳥を呼ぶためということになっている。一種の“求愛”行動だ。しかし、同じ場所で30分も相手を呼び続けていて、退屈することはないのか、と思った。人間だったら、デートの待ち合わせ場所に相手が30分も来ない場合、怒って帰る人もいるだろう。しかし、カッコウには“待ち合わせ場所”などないだろうに、一カ所で30分以上鳴いていて効果がなければ、別の場所へ行くという選択をしないのか……私はそれが不思議だった。

 私はカッコウにエンパシーを感じていたのだ。つまり、芝刈り中の私は、同じ場所でで同じことをひたすら繰り返すという意味で、カッコウと同じことをしていたから、彼の“心”(そんなものがあるとしたら……)を慮ったのだ。草刈りや芝刈りは単純労働だから、退屈と言えば退屈である。しかし、伸びた芝が鋏で刈られる時の“音”と両腕に伝わる“歯ごたえ”が心地よい。また、見苦しかった芝生の表面がスッキリしていくのを見るのは、一種の快感である。芝刈りのような単純反復運動を人間が継続することができるのは、恐らく、こういう感覚上の“ご褒美”があるからに違いない。それならば、相手がいつまでたっても現れない中で、カッコウが雌鳥目当てに延々と鳴き続ける理由は何だろうか? 私はその時、鳥は“鳴くこと自体”に楽しさや快感を覚えているのだ、と思った。歌手は歌うことに快感を覚え、演奏家は演奏すること自体が喜びである。鳥が鳴くことにも、これと似た動機があっても不思議でない。そう考えたとき、どこか寂しげに聞こえていたカッコウの鳴き声が、急に喜びの歌のように聞こえてくるのだった。」

 谷口 雅宣

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2011年5月 6日

「めんどくさい」が世界を救う (2)

 私はかつて大泉に山荘ができて間もなくの頃、自分のブログで「薪づくり」について書いた(2001年11月7日)。それは、倒れた1本のクリの木を、金属部分が30センチほどの普通のノコギリで切って薪にしたという話だが、その際、同じことをチェーンソーを使ってやるのとどう違うかを考えたのである。引用する--

「チェーンソーがあれば、わけのない作業だろう。しかし、それがない今は、持っている普通のノコギリでカットするほかはない。低くなった太陽の光を背に受けながら、午後5時ごろからノコギリを引きはじめ、小一時間かけて25本の薪をつくった。チェーンソーがあれば10分ぐらいでできるだろう。そんなことが頭をよぎった。が、思い直して、さわやかなクリの木の香りを嗅ぎつつ、全身を使っているノコギリを引く作業に熱中した。そして、その原始的な手ごたえを味わいながら、こんなことを考えた。

--自分は今、このクリという植物が何年もかけて大気中から収集した炭素の固まりを切っている。燃やして暖をとるためだ。これと同じことを大規模でやれば、森林破壊となり、温暖化が深刻化する。しかし暖をとらねば、人間が0℃の夜を無事に過ごすことは困難だ。だから、せめて森の“余剰分”と思われる倒木だけを利用させてもらう。量的には、それで十分だ。それに、手引きのノコギリを使えば、1回にちょうどそれぐらいの量しか薪は作れない。チェーンソーがあったら、どうだったろうか? 作業効率はグンと上がるから、必要以上に薪をつくってしまうか、あるいは作業を短時間ですませて家にもどれる。楽な作業をかもしれないが、そんな時、このクリの木の一生のことを考えるだろうか? 節を避けて木を切るために、木の表面をよく観察するだろうか? クリの木肌に注意したり、香りをじっくり味わうだろうか?ーーそんなことを考えてみると、不便さや苦労の中には、効率とは別の価値がしっかり詰まっているのだと思った。」 (『小閑雑感 Part 2』179~180頁)

 谷口 雅宣

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2011年5月 5日

「めんどくさい」が世界を救う

 C・W・ニコル氏が1989年に出した『TREE』という本を読み始めた。
 1~2年前に買ってあったものだが、東京で読むよりは“山”で読むべきものだと思い、大泉町の山荘に置いてあったのだ。それを4月初めのある日、山荘に来たときに見つけた。そして、
「ああ、ここにあったんだ」
 と、探し物を見つけた時のようなうれしい気持になった。というのは、ちょうどニコル氏のことをもっと知りたいと思っていたからだ。

 3月22日にオークヴィレッジ代表の稲本正氏の案内で、同氏がニコル氏と料理研究家の成澤由浩氏と共に立ち上げた“連携の集い”の記者発表会に行った時、私は初めてニコル氏と会った。ご本人と言葉を交わしていないから、正確には「会った」のではなく、「見た」と言った方がいいかもしれない。「あの東日本大震災が起きてまだ間もない時だった。3人がそれぞれの「日本の自然」への思いの丈を語ったのだが、その中でいちばんエモーショナルだったのがニコル氏で、イギリス人はクールだと勝手に思っていた私は、意外に感じたのである。氏は、大きな体に顔を紅潮させて、自分がいかに日本の自然を愛しているかを語った。その時以来、私はニコル氏がなぜ遠いイギリスのウエールズから日本に来て、あまつさえ日本国籍を取る気になったのか知りたいと思っていた。

 『TREE』という本の口絵に、ニコル氏が窓辺でタイプライターに向かっている写真がある。その機械の形を見て、私は自分が昔使っていたスミス・コロナ社製の手動式のものでは、と思った。違うかもしれないが、同じものだと思うことにした。そして、この文章をパソコンではなく、原稿用紙に手書きすることを決めた。

 これは、「わざわざ面倒な方法で文章を書くことを決めた」と言い直してもいいかもしれない。ニコル氏もパソコンではなく、電動タイプライターでもなく、手動式タイプライターを使っているのだから、自分も手書きで……というわけだ。だから“人マネ”と言われるかもしれない。確かに半分はそうである。しかし、残りの半分は違う。手書き原稿は面倒であるけれども、効率優先のパソコン書き原稿とは異なった文章を生み出す、と私は考えるからである。そして、私がこれから書こうとしていることは、まさにこの「面倒なこと」の価値についてであるからだ。

 金田一京助監修の『新明解国語辞典』第4版(1989年に、三省堂刊)によると、「めんどう」という語は、「使うことが惜しい」という意味の雅語「だうな」の前に「目」の語を付けた「めだうな」が原語で「見るも大儀な(見るだけでも大変な)」が原義であるそうだ。そこから転じて「解決するのに手数がかかる様子」のことをいうという。この「手数がかかる」とか「手間がかかる」こと自体に価値がある、と私は思うのである。

 谷口 雅宣

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2011年5月 4日

早春に舞いもどる

 休暇をとって山梨県・大泉町の山荘に来た。東京を朝の6時過ぎに出て、9時半ごろ着いた。高地のため、まだサクラも咲いていない。が、やっと緑が広がり始めた土の上にタンポポが点々と黄色い花を散らし、フキノトウが花をつけて空を見上げているし、ツクシがつBranches んつんと天を突く。早春を再び体験できるというのも、いいものである。山荘に着き一服したあと、裏山のカラマツ林の様子を見に行った。近ごろは山荘へ行く機会も少なく、手入れをしていないので、林地が荒れていることは分かっていた。が、カラマツの枯れ枝が大量に落ちていて見苦しかったので、少し整備することにした。小一時間、独特に湾曲したカラマツの枝を拾い集め、2つの“山”を作ったところでくたびれた。“森の中”へ移転した後には、こういう作業をきちんとやる必要があるから、一種の“予行演習”としてやってみたが、なかなか手強いと思った。
 
 午後に、手作り家具の工房を見学した。前もって計画していたわけではなく、道路脇で出ていた看板を見て、ふと興味をもったのである。大泉町近辺には家具や工芸品を作る人が結構住んでいて、過去にも2~3カ所を覗いたことがあるが、今回の工房(と言うよりは、工房の経営者)には少し驚かされた。大きな一枚板のテーブルや椅子を作るだけでなく、本格的な漆塗りもする。それだけでなく、農業もし、趣味として植木や山野草を育て、ミツFukinotou バチも飼っている。ご主人も奥さんも気さくな人で、こちらから聞かなくてもいろいろ説明してくれる。それでわかったのだが、ハチミツには大抵、「アカシア」とか「レンゲ」など花の名前がついていて、普通はそういう花の蜜だけを集めて作ったと考えるが、それほど厳密なものではないそうだ。周囲にアカシアの花が咲いているときにハチが集めたものが「アカシアの蜜」とされるのだという。別の花の蜜が混じっている可能性はあるということだ。また、セイヨウミツバチはスズメバチにやられるが、ニホンミツバチはやられないらしい。
 
 年を重ねるほどに、自分の知らないことがどんなに多いかが分かる。“森の生活”の入門者には、学ぶことはいくらでもあるのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年5月 3日

幹部研鑽会と全国大会終わる

 生長の家の運動組織の恒例のビッグイベントが終わった。5月1日の第3回白鳩会全国幹部研鑽会、翌2日の第3回相愛会栄える会合同全国幹部研鑽会、そして今日の第63回青年会全国大会である。その準備のために28日以降、本欄は休載していた。

 今回の研鑽会・大会の特徴は、何といっても会場数の多さだろう。生長の家では“炭素ゼロ”を目指す立場から、行事形態を“中央集中型”から“地方分散型”に移行しつつあるが、今回はそれに加え、東日本大震災の影響を緩和し、東北地方の信徒を応援するため、岩手と宮城の両県に急遽会場を設けた。これによって白鳩会の研鑽会は、メインを埼玉県の大宮ソニックシティとして、札幌教化部、岩手県教化部、宮城県教化部、愛知県教化部、宇治別格本山、大阪教化部、愛媛教化部、福岡県教化部の9会場で同時開催した。また、相愛会・栄える会の合同研鑽会はメインを東京・代々木の山野ホールとして、札幌、岩手、宮城、宇治、愛媛、福岡の7会場で開催し、青年大会は同じ山野ホールをメインとして、札幌、岩手、宮城、宇治、福岡の計6会場で開催した。

 参加者数は、1日の行事が9会場の合計で6、595人、2日の行事は7会場合計で1、520人、今日の行事は6会場で計1、077人だった。3つの行事の合計で9、192人の方々が参加してくださった。これに、主催者側の実行委員や参加者のお世話をしてくだった人々を加えると、約1万人の生長の家信徒が連休返上でこのイベントに関わってくださった。行事推進にご尽力、ご協力くださった大勢の人々に、この場を借りて心から感謝申し上げます。

 さて、私のことだが、「怒濤のように」という形容がピッタリ来る。これは決して津波に引っかけて言うのではない。私は講習会で講話には慣れているはずだが、1時間の講話を3日連続してやるのは、「3つの高波を次々に越える」という感じである。私の講話の内容は、追って本欄や機関誌などで紹介していくつもりである。3日間の感想をひと言ずつ述べさせていただけば、それぞれの会がそれぞれの組織の特徴を出していて、いずれも良かった。白鳩会では、和やかな雰囲気の中にも信仰者の明るさに満ち、相・栄の研鑽会は、社会的に責任ある立場の人が多いためか、日本や人類の将来を考える真剣な雰囲気がみなぎっていた。一方、今日の青年大会では、純粋で真っ直ぐな心情に軽いユーモアも合わさった、独特な雰囲気が楽しく、また頼もしかった。
 
 全国の参加者の皆さん、また参加者を送り出してくださった方々、どうもありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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