宗教運動と“外部性”(3)
しかし、それに加えて社会環境の大きな変化を無視することはできない。
マイヤーとカービーの両氏は、この社会環境の変化について次の4項目を挙げているーー
①企業活動のグローバル化、巨大化に伴う外部性の規模拡大
②負の外部性だけでなく正の外部性の認知
③ITの普及による情報の精度向上と入手の容易化
④企業活動に対する世論の感度向上
上の第一項については、あまり説明の必要はないだろう。企業活動が一国の範囲を超え、その規模が巨大化すれば当然、扱う製品やサービスの規模も拡大する。すると企業の判断によって、その立地する地域はもちろん、その国の経済にも影響を与える可能性が出てくる。その際、この企業が製紙会社であれば、製紙工場から排出される大量の煙や臭気が周辺住民の生活や経済にマイナスの影響を与えることもあるだろう。それは“負の外部性”である。
しかし、外部性には“正”の方向に働くものもある。これは例えば、この製紙工場の稼動によって地域の雇用が拡大し、あるいは周辺の道路が整備され、商店街が拡充し、不動産価格が上がり、さらには立地する市や町の税収が増えることになるかもしれないからだ。このような経済波及効果を予め見越すことができる企業は、自社のイメージの向上のためにそれをマーケティング戦略に組み込むことができる。そういう認識が多くの企業の間に生まれつつある。地球環境問題が深刻化する中で、多くの企業が環境を重視した経営の国際基準であるISO14001の取得に力を入れるのは、この認識に立った「外部性の内部化」だと言えるのである。
さて、本シリーズではこれまで一般企業の活動に関して、それが生む外部性の扱い方を概観してきた。それをひと言でまとめると、「企業は巨大化、グローバル化するにつれて、自身の活動から生じる外部性に敏感になり、それを内部化して成長してきた」ということだ。では、宗教運動はどうだろうか? 宗教は利潤の追求を目的としていないが、自らの信じる価値観を社会に浸透させ、信者の数を増やすことを目的としている、と言える。この場合、もちろん「信者の獲得」を最終目的と考えずに“中間目的”と捉え、それを通して「人々の幸福にする」とか「社会をよくする」とか「地上天国を実現する」ことが宗教の“究極目的”である考えてもいい。が、こういう“究極目的”は、これまでいろいろな言葉で表現されてきており、その言葉の解釈が宗教や宗派によって分かれることもあるため、すべての宗教について一般化することは難しい。だから、ここではこの“中間目的”を一応の宗教の目的として論を進めることにする。
「信者を獲得する」ことを目的とする宗教は、企業に比べて外部性に“より敏感”でなくてはならない。なぜなら、企業が提供する製品やサービスは顧客の生活の一部に関わるのに対し、宗教が提供する教義や信仰は、一般に信者の生活の全体に関わるからである。また、企業が提供するものは、自由主義社会においては原則的に他の企業の提供する同等のものに比較的容易に代替できるのに対し、1つの宗教が提供する「信仰」や「教え」は、他の宗教のそれとは、商品やサービスのように簡単には代替できないからである。一例を挙げれば、ホンダが提供する乗用車に不満があれば、トヨタやニッサンの同等車種に買い換えればいいが、キリスト教が提供する信仰に不満を覚えているといっても、家族や友達も同じ宗教を信じていて、少年時代からキリスト教の習慣に親しんでいれば、そう簡単には仏教やイスラームには“転向”できないだろう。
それでは、宗教が社会にもたらす外部性とは何だろう? 日本においては、仏教が古来「お盆」という宗教行事を守ってきたことで、多くの経済効果がもたらされた。また、キリスト教の習慣である「クリスマス」や、神道の教えにもとづく「初詣」なども、日本経済に大きな影響を及ぼしてきた。これらは“正の外部性”と呼べるものだろう。これに対して、かつて日本を騒がせたオウム真理教の数々の行動は、明らかに“負の外部性”である。こういう宗教が日本社会に混乱と不安をもたらしたことで、生長の家などのまともな宗教も随分と悪影響を被ったことが、まだ記憶に新しい。世界に目を向ければ、イスラーム原理主義にもとづくテロリズムは“負の外部性”の最たるものと言える。
このような観点から宗教の対社会的影響を考えてみると、宗教運動が地球規模の環境問題や食糧問題、さらにはエネルギー問題に関心をもち、社会に貢献するための活動を行うことは、伝統的宗教の行動から決してかけ離れていないし、特異なことでもないのである。ただ、関心の方向が昔よりはグローバル化し、問題の性質も拡大している点が、違うと言えば言えるだけだ。
谷口 雅宣
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コメント
簡単に言えば、宗教運動が企業より「人間が求めるもの」により敏感でなくてはならないということでしょうか。
世間一般の通念とは逆に思われるのが興味深い所です。
企業にしても宗教にしても、そういう意味で大衆や権力に阿らないのは大事なことで、後々求めぬものを与えることになるのではないかと思います。
原発は即時停止を願いたいです。
ところで、facebookに掲載いただいた国際教修会の結語、質疑応答を拝読中です(格闘中といった方が正しいかもしれませんが)。海外の方向けに日本の運動が説明されることで、見え方に違いを感じます。質疑の
これもやはり求めているものを与えられているのだと思っております。
投稿: 加藤裕之 | 2011年5月23日 21:37
加藤さん、
facebook にも参加くださっているのですね。ありがとうございます。言語が違うだけで、運動の見え方も少し違ってくるのではないでしょうか? ご努力に感謝します。
投稿: 谷口 | 2011年5月23日 23:16
谷口雅宣先生
>ご努力に感謝します
とは、いつもいただいているお言葉を思えば、もったいないような気がいたします。
書く内容に気をとられて、文面が整っていず、失礼いたしました。
感謝合掌
投稿: 加藤裕之 | 2011年5月24日 11:20