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2011年4月24日

物を大切にする心

 今日は午前10時から、長崎県西海市の生長の家総本山で「谷口輝子聖姉二十三年祭」が行われた。私は前日から妻とともに長崎入りして、御祭にそなえていた。前日は好天だったが、今日は朝から雨模様で奥津城前での年祭の執行が危ぶまれたが、幸いにも9時ごろから雨は上がり、やがて薄日が差すようになった。参列者は、同時期に行われていた長寿ホーム練成会の参加者と、地元・長崎県の信徒の人々など200人強だった。御祭の後、私は概略次のような挨拶をさせていただいた。

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 皆さん、本日は谷口輝子先生の二十三年祭に大勢お集まりくださいまして、ありがとうございます。本年は3月11日に東日本大震災が起こり、その影響で原子力発電所が事故を起こし、余震もまだ続いている中で、放射線被害が一向に収まらないなど、大変な状況が続いているのですが、ここ生長の家総本山には例年のように穏やかな春が訪れていることは、誠にありがたいことであります。昨夕も、本山で採れたタケノコや山菜をおいしくいただきました。

 このように、自然というものは、通常は人間にとって喜びや楽しみを与えてくれるものですが、人間の側が自然を無視し、あるいは自然を犠牲にして人間だけが繁栄しようとして無理なことを試みると--厳しい姿を示して我々を戒める--そのように感じられる現象が出てくるのであります。私は今回の震災後に、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」というのを発表しましたが、そこにもあるように、自然と人間とは本来一体であり、人間は自然の一部であることを忘れてはいけない。その自覚を失った生活をしていると、その心の表れとして「人間と自然がぶつかり合う」ような悲惨な災害が生じることがあるのです。これは「天罰が下る」のではありません。生長の家では天罰を下すような神を信仰しません。そうではなく、人間は自然の一部であるから、自然に対してもっと謙虚であれということです。人間は素晴らしい力をもっているが、自然は人間よりはるかに大きな力をもっていて、人間の想像を超えた現象をあらわすということです。

 しかし、今回の震災は、本当は人間の想像を超えてはいないのです。このことは、ブログにも書きましたが、東北の三陸地方には、沖合を震源地とする大地震で何回も大津波に襲われてきた歴史があるのです。比較的最近では、明治29年6月にM8.5の大地震。これは、その後に襲った大津波で1万戸近くの家屋が失われ、2万人以上の死者が出ている。また、昭和3年3月にも三陸沖で地震があり、平均で20mの波高の津波が押し寄せ、死者不明者3千人が出ている。それから、これは『ニューヨークタイムズ』も紹介していましたが、東北の太平洋岸の高台には、今でもいくつもの石塔や石碑が立っていて、昔の人が津波の危険を記した文字などが刻まれているそうです。ところが現代人は、そういうご先祖の警告を無視して、低い土地にどんどん家を建て、工場を建て、港を建設してきた。
 
 だから、地震の専門家の人たちは、今回のような大地震と大津波が起こる可能性を知っていたが、社会全体が「そんなものはもう来ない」と考えて相手にせず結局、自然の力を侮ってきたのです。

 しかし、今回の震災では、暗いことばかりが現れているのではなく、明るいこと、素晴らしい出来事も生まれています。皆さんは、大震災の惨状とその後の大勢の人々の復興支援の努力や情熱をテレビなどでご覧になったと思います。こういう非常時には、社会や国の性格というのがよく出てくるものですが、日本という国は、世界の人々も驚くほど、略奪や暴動がない。社会秩序の維持や他者への心配りや団結を大切にする。それが今回如実に現れ、世界の人々から讃嘆されたことは、不幸中の幸いであると言えます。

 また、テレビなどで被災者の方々の心境などを聞きますと、今回の災害に遭って、「何もない、当たり前の日常がどんなに有難いかがよく分かった」という感想を漏らす人が多かったですね。これは生長の家で昔から説いていることで、谷口清超先生などは「当たり前は奇跡以上に素晴らしい」ということをよく講習会などで話されました。例えば、冬の後には春が来るのは、当たり前です。春になれば、花が咲き、虫が飛ぶのも当たり前です。品物ならば、毎日使っている文房具だとか、車だとか、道路だとか、仕事の道具なども「当たり前」の部類に入ります。そういう一見、些細なもの、“つまらない”と感じられるものに対して感謝の気持をもち、大切に心をこめて付き合うということを、生長の家では教えています。が、それはなかなか難しいことでもある。

 なぜなら現代は、効率化優先で、何でも手取早いもの、新規のもの、さらには奇異なものが求められている。おかげで、昔からある当たり前のものの価値が低く見られがちなのですが、そういう時に、当たり前の日常生活が実はいちばん素晴らしいのだということを思い知らせてくれる出来事が起こったのです。これを私たちは、やはり「観世音菩薩の教え」として学ばなければいけないと思うのです。また、私たちは今、物が溢れた豊かな生活をしていますが、その反動として、個々の物を大切にせず、簡単に使い捨ててしまう。「もったいない」の精神が忘れ去られるという、好ましくない傾向が生まれています。そうすると、1杯の水でも、1個の電池でも、1本のロウソクでも、そこに物があることが本当は大変ありがたいことなのだということを教えてくれるような事態が起こっている。

 私は決して、東北地方の人々が物を粗末に扱ってきたと言っているのではありません。そうではなく、私たちの社会全体が、消費を美徳として、いわゆる“使い捨て文化”を生み出し、それを享受してきたことを反省すべきだと思うのです。だから今、そういう社会全体のあり方を見直さねばならないような事態に立ち至っているのです。

 そこで、今日の二十三年祭に当たって、谷口輝子先生のご文章から「物を大切にする」心を学びたいと思います。先生が昭和44年に出された『めざめゆく魂』というご本には「針供養」という随筆があります。ここには、日本には古くからこの習慣がなぜあるかということについて、ご自分の体験に基づいて先生の考えが書かれています。

 針供養とは昔、針仕事が女性の主な仕事の1つだった頃、1年に1回それを休んで、古針や折れた針を供養し、裁縫の上達を祈る行事でした。用がすんだ針を豆腐やコンニャク、餅などに刺し、川へ流したり、近くの社寺へ持ち寄って供養してもらうのが一般的でした。全国各地で2月もしくは12月の8日に行われていました。
 
 (『めざめゆく魂』、pp. 17-18 を朗読)

 このように、物を単なる物質として見るのではなく、神仏の働き、あるいは人間の愛の表現として見るという考え方が今、もっと広まり、人々に受け入れられる必要がある。これは、生長の家が説く心の法則の1つである「心が物に表れる」という真理にもとづいており、資源のムダを防ぎ、地球環境を守る根源の心でもあります。「天地一切のものに感謝せよ」という大調和の神示に説かれた真理が、今ほど必要な時はありません。輝子先生の二十三年祭に当たり、私たちの運動をさらに拡大し、「自然と人間の大調和」を実現していこうと、改めて決意するしだいであります。ありがとうございます。

 谷口 雅宣

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コメント

「当たり前は奇跡以上に素晴らしい」。このお言葉を拝読し、あらためて総裁先生に深く感謝申し上げます。生長の家総裁が法燈を継承され、しっかと中心に存在してくださっていて、この「天地一切のものは一つ生命の展開である」という万教帰一の真理をお説きくださっている、そのことを「当り前」と思って、しみじみとありがたく感謝し切れてていなかったのではないかと、自分の至らなさを反省いたしました。本当にありがとうございます。「今回の震災では、暗いことばかりが現れているのではなく、明るいこと、素晴らしい出来事も生まれています」--現象世界は光と影が交錯して現れてくるけれども、光一元の神の世界が独在で、それが今ますます明らかに顕現しつつあるのだと、ただ感謝あるのみでございます。ありがとうございます。

投稿: 岡 正章 | 2011年4月25日 10:27

総裁先生
合掌ありがとうございます。素晴らしいご教示をありがとうございます。本当に現代は消費が美徳であるかのように、よそのお宅にお邪魔しても、地デジのテレビが各部屋に置いてあり、モノに囲まれ、溢れた生活をしておられるのを目にすると、なんだか私の暮らしが惨めに思えることもありますが、そうではない、いまあるもの、テレビでも車でも家電製品でも・・大切に感謝して使わせていただくことがどれだけ大切であるか・・改めて反省させられました。先月、教区の練成会に、うつ病で苦しむ知人をお連れしました。46歳で働き盛りの方ですが職場で課せられるノルマが重圧になり発症したようです。この方、先月は半分は仕方なしに参加されましたが、今月は自発的に参加され、見違えるように元気になり、「とにかく食事が美味しいのに感激した」と言われるのです。「たくさんの人たちと皆で食べるから美味しいのかと思っていたけれど美味しいものを美味しいと思える自分の心の変化に気付かせていただけた」という「当たり前」のことに気付かされ、先月まで生長の家を全く知らなかった方が、今は地元の相愛会に入って、講師や先輩と一緒にがんばっていこうとされています。また、昨日はポ語誌友会も開催させていただきました。その中に2名の初参加の日系ブラジル人がいました。お2人ともおじい様、おばあ様が生長の家を信仰しておられたそうですが、自分達はしていなかったとのことで、Nさんからは「生長の家って、家の中で成長していくの?」と微笑ましい質問が出たりしました。会の終わりには「人間は罪の子だと思ってたのに、神の子って聞いてもっと生長の家を学んで行きたい、友達も誘いたいって思った」と感想を述べてくださり、最後に総裁先生の「人間と自然の大調和を観ずる祈り」をポ語と日本語で祈らせていただきました。彼らの純粋で真剣な姿勢を見て、総裁先生や谷口清超先生のお書きくださった書籍を「日本語」で拝読させていただくことのできる「当たり前」のことがどんなにかありがたいことであるか感謝しなければ・・・と改めて気付かせていただいたポ語誌友会でした。   再拝  岡田さおり

投稿: 岡田さおり | 2011年4月25日 11:05

                                                   総裁谷口雅宣先生
合掌 有難うございます。 日々 素晴らしいブログを拝読することで 大なる力が信念となっておりますことに感謝申し上げます。 今回の東大震災には日本全国はもとより、世界の方々たちにも さまざまな 勇気や励ましをいただき、私事のように有難く感謝に充ちた生活をいたしております。 不幸な事態に身を置れている時、世界からみた日本人は暴動もなく、辛抱強く礼儀正
しいと称賛の声も聞くことができまことは、不幸の中にも 善いこと知る機会を与えられたのであると感じております。 映像を通してですが声援を送り教区としても、あらゆる場で、また個人として総裁先生から発信の「自然と人間の大調和を観ずる祈り」「新生日本の実現に邁進する祈り」と共に聖経読誦の実践できますことで 被災地の方たちに手を差し伸べられないもどかしさに、心穏やかにできる最善の道をお示し頂きまたことに感謝いたしております。  ありがとうございます。
             合掌 足立冨代   

投稿: 足立冨代 | 2011年4月25日 16:09

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