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2011年4月17日

大震災の意味を問う

 今日は秋田市の秋田県民会館において生長の家講習会が開催され、902人の受講者が集まってくださった。秋田県は3月11日の東日本大震災や冬季の豪雪の影響もあって、受講者数は前回より185人(17%)と大幅に減ったが、それでも多くの方が熱心に講話を聴いてくださり、真剣な質問が出たことはありがたかった。午前中の私の講話に対する質問は、通常はいろいろな種類のものが出るが、今回は提出された質問用紙6枚のうち5枚までが震災関係のものであったのには驚ろかされた。震災後、最初に行われた講習会は滋賀県(3月13日)であったが、そこは被災地から離れていたし、被害の実情もまだ判明していない段階だったので、震災関連の質問は少なかった。しかし、大震災から1カ月を経過したあとの今回の講習会では、秋田の人々にとっては隣県での出来事であり、しかも被害が甚大であること、また親戚や知人が隣県で被災していたり、本人や知人が被災地救援のボランティア活動へ行ったりするケースも多いため、関心の大きさは比較にならなかった。
 
 5つの質問の骨子だけを掲げてみる--

①震災の犠牲者は高級霊なのか?
②この(現象)世界を“舞台”とか“映画”に喩えるが、今回の震災との関連は?
③今回の震災の奥にある観世音菩薩の心とは?
④震災の犠牲者は観世音菩薩だというが、その意味は?
⑤人心の乱れが震災につながったのか?

 このうち③と④はほとんど同じ内容だから、質問の種類は4つになる。このうち①と②は主として「個人」の問題と関係し、③~⑤は国家や社会という「人間の集団」の心の問題に関係しているといえる。今回のような歴史的にも稀な大事件や大きな事象については、このように個人と集団の問題を分けて考えた方がいい。なぜなら、人間の心には、個人が自覚している現在意識に属する部分と、個人は無自覚でも集団や社会の潜在意識のレベルで進行しているものがあるからである。この2つを混同すると、問題の理解が困難になる場合がある。
 
 例えば、今回のように大勢の死者が出た大事件を振り返ってみると、比較的最近では大東亜戦争が挙げられる。この戦争に行って死んだ兵士や、沖縄戦や空襲によって死んだ国民(非戦闘員)が、それぞれどんな心を持って生きてきたかということと、日本という国家(国の政策決定者)が大東亜戦争に至るまでの外交政策をどのような考えのもとに、どのような手段を使って進めてきたということとは、同じレベルで議論することはできない。当時の日本国民は、個人としては海外で何が起こっているかよく知らず、また国際関係についても無知に近かったし、日本国の置かれた客観的状況もよく知らない中で、国家の命令に従って戦争に参加し、もっぱら「家族や日本社会を守る」という善意と滅私の精神を鼓舞して戦った人々が圧倒的に多かったと言える。
 
 そういう人の中には、私的利益を考えず、「公のために自ら進んで(肉体の)命を捨てる」という行為を通して、急速に魂の進化をとげる人もいる。これは、戦場へ行った兵士についても言えることで、彼らの中にも他国の国民のために心血を注いだ人もいるし、特別攻撃隊の隊員の多くも、そのような“無私の行為”を通して魂の進化をとげたのである。したがって、そういう人生を自ら選んだ人々は“高級霊”と言える。しかし、同じ状況の中にいても、人によっては戦場において残虐な行為をしたり、他国民の虐待や虐殺を命令したり、自ら実行した人もいる。このような生き方を自ら選んだ人々は、明らかに悪業を積んだのであるから“高級霊”の名に値しない。この区別をせずに、「戦争で死んだ人々はみな高級霊である」というのは、乱暴な議論と言わねばならない。
 
 それと同じように、今回、大震災と大津波によって命を落とした人々の中には、家族や友人を助けるために自ら危険地帯にもどった人もいるし、その逆に、他人を犠牲にして自分だけが助かりたいと考え、そういう行動をとった人もいるかもしれない。その区別をせずに、「震災の犠牲者は皆、高級霊である」と言うのは乱暴であり、真実とは言えないのである。私たちは「大震災における不慮の死」というように、何万人もの犠牲者の死を十把一絡げに考えがちだが、個人の魂の成長や進化という側面に注目すれば、すべての犠牲者はそれぞれユニークな人生を送っていたのであり、その過程で今回の大震災に遭遇し、それぞれ独自の死に方をしたのである。そういう個々の死によって、肉体の死を経験した人の魂が成長したかしなかったかは、それぞれ異なるのである。が、あえて一般論的に言えば、そういう不慮の死が魂の成長に役立つことは大いにあり得る。
 
 このことについて、谷口清超先生は『新しいチャンスの時』(2002年刊)の中で次のように説かれている。これは、突然の交通事故による死に関するものだが、今回のような自然災害による死についても言えるだろう--
 
「このような即死は、高級霊にもありうることだ。それは急速な肉体からの離脱は、多くの業因を脱落するから、ちょうど大急ぎで家を出る時には、ほとんど何ものも持たず(執着を放して)去るのと似ている。だから魂の進歩に役立つのである」。(p. 21)

 このようにして、今回の被災によって多くの人々の魂が執着を脱落して、急速に進歩をとげたということは大いにあり得るし、その通りだったと私は考える。しかし、このことと、人間の集団としての国家や社会が今回の大災害の後に進歩するかどうかは、別次元の問題なのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 >それと同じように、今回、大震災と大津波によって命を落とした人々の中には、家族や友人を助けるために自ら危険地帯にもどった人もいるし、その逆に、他人を犠牲にして自分だけが助かりたいと考え、そういう行動をとった人もいるかもしれない。

 当教区の相愛会の方で弟さんを今回の震災の津波で亡くされた方がいます。この方はそのまま逃げてれば助かったものを海岸近くの実家にいるであろう母親を助けに行って、それで逃げ遅れて亡くなったそうです。母親は他の人によって既に助けられていたそうです。母親の方は「自分が代わって上げたかった」と言って泣かれるそうです。
 私は今回のこの先生のブログをその相愛会の方やそのお母さんに教えてあげて、弟さん、息子さんは観世音菩薩の働きをした高級霊であり、急速な魂の進化をして今は霊界で健やかに過ごしているという事を伝えたいです。

投稿: 堀 浩二 | 2011年4月18日 11:47

総裁先生
合掌ありがとうございます。先生のこのたびのブログを拝読させていただき、私の中にずっとありました疑問が
氷解いたしました。それは、今回のような未曾有の大震災でお亡くなりになった何万人もの方すべてが高級霊であるのだろうか・・・という疑問です。先生は大東亜戦争を例に出して、私を捨てた無私の行為で亡くなった方とそうでない方との違い・・今回の大震災でも、ご自分の命と引き換えに誰かを助けようとして尊い死を遂げられた方と、他人を犠牲にして自分だけが助かりたいためにそのような行動をとった方がいたとしましたら、すべてを十把一絡げに考えては、おかしなことになりますよね。そして急速な魂の進歩を遂げられたことと、大震災後に国家や社会が進歩するかどうかは別次元の問題であることも、総裁先生のご教示で大変よく理解できましたし勉強になりました。
大震災でいわき市から私の住んでいる団地に避難して来られた方々のうち、1人の女性とは同年代で、話も合い、お互い子を持つ母親としても共感し合えることも多く、先日お渡しした「いのちの環」が、きっかけとなり、「今月から誌友会と母親教室に参加させて貰うのが楽しみです。毎日、テレビで原発の報道観ては涙涙で。自分達ばかり助かって今こうして暮らしてることに罪悪感を感じることもあって・・・」と今日も話されてました。大震災は本当にお気の毒としか申し上げられませんが、大震災がなかったら、この方たちともお会いすることもなかったと思いますから、こうして出会えた機縁ある方に、御教えをお伝えさせていただけるのは本当に有り難いことだと思います。総裁先生のお祈りの言葉もコピーしてお渡しさせていただきました。涙ぐみながら読んでおられました。先生、ありがとうございます。
            岡田 さおり拝

投稿: 岡田さおり | 2011年4月18日 22:32

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