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2011年4月 2日

「歓喜への道」(3)

 本シリーズの前回で引用した谷口清超大聖師のお言葉には“続き”があり、それを読むと先生の意図がより明確になるので、さらに引用を続けよう--
 
「一体吾々は、果して水ぶくれや金ぶくれの人間をより多く生産する方向に行ってよいものかどうか。人間の本質の自覚がより深まったことを、その人の成功度や財産や、社会的名声で判断するというような、世俗事への迎合姿勢では駄目ではないか。“肉は益なし”“汝らの見ゆという罪はのこれり”なる天の声は、さらに一層高々と国の内外に鳴り響かなければならないのである。それも決して肉体を弱体化せよとか、現象的な美しい街を崩壊させよというようなことではない。
 第一義のものを第一にせよということである。そうすれば現象は自然に整うのである。」(p.18)
 
 私たちはよく「経済成長は善い」と考えがちだ。しかし、清超先生の上の文では、それを「水ぶくれや金ぶくれの人間をより多く生産する」ことだと表現されている。また、人間の本質の自覚がより深まったということを、人の成功度や財産や、社会的名声で判断するのは間違いであり、世俗事への迎合だと批判されている。しかし、今日の経済理論は、人間が水ぶくれや金ぶくれをすることを“善”として奨励しているのである。つまり、消費を拡大することで、より多くの人間が幸せになるというのが基本的考え方だ。だから、“食べ放題”や“使い捨て”や“過剰包装”や“モデルチェンジ”や“ブランド品”や“新規需要”がもてはやされて来たのである。そして、人々が幸せになってきたかというと、自殺者の数は一向に減らない昨今なのだ。
 
 読者はもうお分かりだろうが、これによって大量消費と大量廃棄が何十年も継続し、消費を増やすために交通網の整備、鉄道や航空便の増発、自動販売機の増殖、夜間照明、ライトアップ、貸金業の拡大、深夜営業、そして原発による夜間の電力の垂れ流しが行われてきたのである。これこそ“水ぶくれ”ならぬ“エネルギーぶくれ”の社会であり、“金ぶくれ”すなわちバブル経済の実態ではないか。その方向にもどることが、大震災後の“新しい日本”であってはならないのである。

 ところで、震災関連のテレビや記事ばかりに接している人が、被災地にいない人が普通の生活に喜びを見出すことに違和感を感じたり、「自粛すべきだ」と感じるのは、理解できる。そういう違和感が特殊でないことは、今、関東各地で「花見を自粛しよう」とか「宴会を自粛しよう」などの動きが出ていることからも分かる。この感情は、被災者に対するエンパシー(自己同一化)であると同時に、心理学でいう「認知の不協和」の感情だ。自分を被災者の立場に置き、「家も財産も失ったあの人たちは花見なんて気分になれないはずだから、私たちも同じ気持になるべきだ」と考えるのがエンパシーである。また、自分の目の前の世界で大きく矛盾する2つの事実を認知したとき、心地悪さを感じるのが「認知の不協和」である。“不幸な被災”と“幸せな花見”とが同居しているのはいけない、と感じるのだ。

 これらの感情を、私は決して“間違っている”とか“愚かだ”と言うのではない。ただ、過剰なのは困るし、人に対して自分と同じ感情をもつべきだと強制するのはよくない。それは一種の“見ゆという罪”だからだ。現象の悪に焦点を合わせて生きるのは本人の自由だが、その結果当然生じる感情を、他人がもっていないからと言ってその人を批判するのは、心の法則を知らない人のすることだし、実相の教えを忘却していると言わねばならないだろう。被災者の中には、家や仕事を失って初めて「当たり前の日常が素晴らしい」と知り、「毎日生きていることが有難い」と感じたとカメラの前で話している人もいたし、ボランティア活動で被災地入りしている青年が、「人生の目的を知った」と目を輝かせているとも報じられている。「歓喜への道」は、決して1本だけなのではなく、真っ直ぐなわけでもないのである。

 谷口 雅宣

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コメント

合掌ありがとうございます。
 雅宣先生ありがとうございます。
 楽しく拝見させていただきました。このような時に「楽しく」などと言うのは、不謹慎でしょうか。”いえいえ、そのようなことは無いですよね。”
 私は今回の一連の騒ぎ(大地震)で休業中です。その為、有り難い事に先生のブログをゆっくりと拝読させて頂いております。いつもは忙しさに託けて、題名だけを見て、内容を予想してしまうような有様です。普段私は職業柄あまりパソコンの前に座ることもなければ、文章を書くなどという事もありませんので、誤字脱字などがありましたら、お許しください。
 先生の最後のご文章にありますように、“「歓喜への道」は、決して1本だけなのではなく、真っ直ぐなわけでもないのである”と締めくくられているところに、とても共感します。人は時として、”何々はこうでなければならない”、と形ばかりに捉われ、力んでしまうようです。色々な道があり、色々な考え方があることを理解出来ない人が多いように感じます。

 神示集に『“心の法則”と“平和への道”の神示』という神示がありますが、その中には“吾が来たれるは古え誤れる道徳観念を修正し、新しき正しき生き方を人類に示さんがためである。『治にいて乱を忘れず』と言うのが古き人類の道徳であったが、『生長の家』の生き方は乱にいて治を忘れざる生活である。―――”後略
と示されています。言い換えれば、「動乱の中にあって歓喜を忘れざる生活である」と示されているのではないでしょうか。動乱の中にあっても、実相を観じ、神の無限の供給に感謝する生活こそが、真の生活であり、普段の生活が出来る人は普段の生活をすれば良いのであって、被災者に合わせて避難所のような生活をするのが正しいのでもなければ、神がそれを望むのでもないと私は心得ます。
 先生の御文章の中には、さらに“被災者の中には、家や仕事を失って初めて「当たり前の日常が素晴らしい」と知り、「毎日生きていることが有難い」と感じたとカメラの前で話している人もいたし、ボランティア活動で被災地入りしている青年が、「人生の目的を知った」と目を輝かせているとも報じられている。”とありますが、本当は、平常時から「当たり前が有難い」と感じ、「生かされていることに感謝」する生活こそが真の生活であり、本当の生活であると思います。
 しかし、多くの人は「当たり前」の有り難さになかなか気付かないのかも知れません。この大震災にあって初めて、その有り難さや生き甲斐を見出せた人は、むしろ幸せな人なのだと思います。なぜなら、この震災直後のニュースで、円が買われ、円高であるとの報道を聴いたときには、「このような時にあって、まだ人類は金儲けがしたいのか」と私は愕然としたものです。真の歓びが何処にあるかを知らず、金ぶくれや欲望ぶくれの人間が如何に多い事か。
 真の歓びが何処にあるのかを知り得た人の為に、私は(ひそかに祝杯を挙げて)祝福してあげたい気持ちです。再拝

投稿: 小林 教八 | 2011年4月 4日 10:27

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