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2011年4月19日

大震災の意味を問う (3)

 17日の本欄で紹介した講習会参加者からの質問の中で、答えが難しいのが「観世音菩薩」に関するものだ。それらを以下に再掲しよう--

③今回の震災の奥にある観世音菩薩の心とは?
④震災の犠牲者は観世音菩薩だというが、その意味は?

 この質問が出てきたのは、私が「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で「大地震は“神の怒り”にあらず、“観世音菩薩の教え”である」と書いたからだろう。質問者は、その祈りの言葉をすでに読んで下さっていて、質問をしたと思われる。私はこの祈りの中で、上の言葉にすぐ続けて「我々の本性である観世音菩薩は、“人間よもっと謙虚であれ”“自然の一部であることを自覚せよ”“自然と一体の自己を回復せよ”と教えているのである」と書いた。
 
 この中で注目してほしいのは「本性」(ほんしょう)という言葉である。生長の家では、我々人間の「本性」ないし「本質」は神の子であると説く。同じように仏教では、人間の本性を仏と見ている。本性とは国語的には「生まれつきの性質」とか「本心」などと説明されるが、これでは生物学的な性質(いわゆる五欲)も人間の本性に入れられてしまう。だから、宗教的には、そんな人間以外の動物にも備わった特徴を除いていき、最後に残った「人間の人間たるべき本質」のようなものを意味する。これは、もっと一般的には「良心」と呼ばれるものに近い。そういう優れた“本性”がどんな人間にもあって、それが言わば“内側から”個々の人間に何かを教える。そのことを仏教では「観世音菩薩」と呼ぶのである。

 こういう理解に立ってみると、「大震災は観世音菩薩の教え」とは--我々が大震災の惨状や、被害の甚大さや、多くの人々の土地や家や仕事が無に帰する現象を体験し、あるいは見聞したとき、我々の“本性”が内側から語りかける教えーーという意味になる。その内容を、私は上にあるように3つ並べた。もちろん観世音菩薩は各人の心の中にいるのだから、その教えの内容も各人必ずしも同じでないだろう。だから、この3つは私の解釈だといっていい。同意する人も、しない人もいるだろう。

 さて、ここまでの説明には、抜けているところがある。それは、「観」という字が示す人間の心境についてである。「観世音菩薩」という語は、古代インドの文語であるサンスクリットの「Avalokitesvara bohdisattva」の漢訳である。この原語を、インド人を父にもつ中国人翻訳家のクマラジーヴァ(鳩摩羅什、344~413年)は「観世音菩薩」と訳したが、『西遊記』で有名な玄奘(602~664年)は「観自在菩薩」と訳した。この原語の「avalokita」までが「観」に該当し、ある対象を心の中に思い浮かべ、それと自分とが同化することを念じ、実践することを指す。日本語に「観察」という言葉があり、これはよく英語の「observe」と同一視されるが、同じ「観」を使っていても、観世音と観察では「観」の意味がまったく違うから注意した方がいい。
 
 観察の場合、観察する者と観察される対象は明確に分離される。科学の態度がこれに該当する。科学者は、研究対象から得たデータを客観的に、冷静に判断しなければならないから、自分を対象と同一化してはいけない。例えば、自分が立てた仮説に合致するデータだけを集めて、そうでないデータを無視した研究などは、科学者としては失格である。これに対し、生長の家に「神想観」があるように、仏教の多くの瞑想法には「観」という語がつく。そして、仏教者が「観」をする場合は、瞑想中のイメージに自己を没入させることで自分の意識(自我意識)を消すことが求められる。仏教者の松原泰道氏は、観の意味を「心中に深く対象を思い浮かべて、その対象に自分が同化して一体となる実践」と定義している。

 このような意味で「観」をとらえるならば、我々が今回の大震災から「観世音菩薩の教え」を正しく聴くためには、被災者の無念や苦しみ、嘆き、悲嘆に心を寄せることはもちろんだが、さらにその“内側”から上がる本性の声を聞かなくてはならないのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

ありがとうございます。
今回、『観世音菩薩』についてのご教示を受け心がスーッとしました。

本文中にございます3つの観世音菩薩の教えは、雅宣総裁自身の解釈であるとのご謙遜のお言葉がございましたが、私にはそうは思えないのです。
「自然界の精霊たちが、万教帰一の生長の家の雅宣総裁を通し、人間にメッセージを送っている」のだと信じています。
偏った考え方かもしれませんが、そうとしか思えません。
これからも、自然界の声なき声を、私どもにご教示くださいませ。

投稿: 長谷川徹 | 2011年4月20日 06:05

総裁先生
合掌ありがとうございます。今朝早くに「大震災の意味を問う」(3)を拝読させていただきました。
年数ばかり長く生長の家をさせていただいておりますと、「観」「観世音菩薩」という言葉はたびたび使い、また、よく理解できている「つもり」でおりましたことに深く反省いたしました。先生の「自然と人間の大調和を観ずる祈り」は毎日声に出して読ませていただいておりますのに「我々の本性である観世音菩薩は・・・」の「本性」というお言葉をこれまで何気なしにしておりました。そして改めて総裁先生のお深いご教示に感謝いたします。被災地は無情にも雪が降り、どんなにか寒い思いをなさっているかと思いますと胸が痛みますが、そういった心を寄せながら、正しく「観」をとらえ、(内側)から上がる本性の声を聴くために、もっと三正行に励ませていただこうと思いました。総裁先生、本当にありがとうございます。   岡田さおり拝

投稿: 岡田さおり | 2011年4月20日 10:04

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