大震災の意味を問う (2)
前日に引き続いて本テーマで書く。
「震災の被災者は高級霊なのか」という問いに対しては、そうである場合もあるし、そうでない場合もある、というのが私の答えだった。多くの読者は、こんな答えでは満足しないかもしれない。しかし、そもそも人間の霊が“高級”であるか“低級”であるかという問いは、「人間は神の子である」と説く生長の家の教えから考えると、何となく奇妙である。つまり、「人間・神の子」の教義からすると、すべての霊は高級でなければおかしい。にもかかわらず、ここで“高級”とか“低級”が問題にされるのは、本来完全なる人間の実相が霊界においてどれだけ表現され、開発されつつあるかという、現象身としての「神性開発の程度」の問題だと理解すべきである。
さて次に、2番目の問いについて考えよう。すなわち、現象界の出来事は皆、我々の心の表現であるという「唯心所現」の教えにもとづくと、今回の震災はいったいどんな心の表現であるか、という問題である。このような言葉に置き換えると、2番目の問いは、実は5番目の問いとほとんど同じ内容であることが分かる。5番目の問いは「人心の乱れが震災につながったのか?」だった。この問いは、より一般的な2番目の問いの特殊な形である。だから、2番目の問いにきちんと答えることができれば、5番目に対しても自ずから答えが出るはずだ。
2番目の問いは、また次のような形に言い換えることができる--「我々は今回の大震災を目撃して、それを“舞台”や“映画”に喩えるならば、どのようなストーリーを読み取るべきか?」。ここで念のため断っておくが、この“ストーリー”という言葉は、今回の震災の犠牲者が遭遇した悲劇を面白おかしく形容するために使うのでは決してない。ストーリー(story)という英語は、日本語では「物語」とか「歴史」とか「小説」とか「筋書き」など何種類もの意味を含む語で、中には「おとぎ話」とか「伝説」とか「うそ」という意味まである。が、私はここでは「筋」や「構想」という日本語に該当するものの意味で使いたい。つまり、この大震災をめぐり多くの人々に起こった出来事の細部の違いに注目するのではなく、この大事件の犠牲者や被災者、さらには私を含めた被災しなかった日本国民の大多数に共通する大きな“流れ”や“傾向”は何であるか、ということだ。
こう考えてみると、まず思いつくのは「想定外」という言葉である。この言葉は最近、あまりにも多く使われるので価値が下がってしまったようだが、今回の震災は、日本が国家として、また社会として、さらにそれを構成する大多数の国民にとって、まったく予期せず、準備をしていなかった出来事であると言われることだ。もちろん、国民全体の中には、必ず大地震が来ると信じて準備していたというような例外的な人もいるだろう。が、大多数の日本人は、日本が地震国であり、実際に大きな地震や津波が頻繁に起こってきたにもかかわらず、「それほどのものは来ないだろう」と高を括っていたのである。
このことは、妻がブログで紹介した寒川旭氏の著書『地震の日本史』(中公新書)に書いてあることだ。つまり、東北の三陸地方には、沖合を震源地とする大地震で何回も大津波に襲われてきた歴史があるのだ。比較的最近では、明治29年6月15日にM8・5の大地震があり、その後に襲った大津波で1万戸近くの家屋が失われ、2万人以上の死者が出ている。また、昭和3年3月3日にも三陸沖で地震があり、平均で20mの波高の津波が押し寄せ、死者不明者3千人が出ている。だから、地震の専門家の人たちは、今回のような大地震と大津波が三陸地方で起こる可能性を「知らなかった」はずがない。知っていて警告も発したかもしれないが、社会全体が「そんなものはもう来ない」と考えて相手にせず、「来ても防潮堤で防げる」とか、「原発もこの程度の備えで大丈夫」などと考え、自然の力を侮ってきたのである。
これは、言い換えれば、科学・技術の力を過信してきたと同時に、自然に対して「何があっても大したことはない」という傲慢な考えを持ち続けてきたということだ。それは結局、人間至上主義が背後にあるからである。この考えから「科学や技術の力で自然を押さえ込む」という方法が採用され、それが、ダム建設や護岸工事、防潮堤の建設、そして原発の原子炉の「圧力容器」の構造などにも反映している。
秋田県での講習会でこの問題に触れたとき、私は「何の理由もなく大勢の人命が失われた」という訴えに対して、「本当にそうだろうか?」と疑問を呈した。我々は「与えれば、与えられる」「奪えば、奪われる」という心の法則を学んでいる。個人のレベルでなく、国家や社会、さらには人類のレベルで自然との関係を振り返れば、我々はこれまで自然から奪い続けてきたのである。例えば昨年の今ごろ、南九州で口蹄疫が発生したとき、我々はブタや牛などの家畜に対して、どのような仕打ちをしただろうか? このことは昨年5月の本欄にも書いたが、我々は公衆衛生上の理由ではなく、経済的な理由によって十万頭以上の家畜を殺処分した。また、それ以外にも、経済発展という目的のために、数多くの生物種を絶滅に追いやってきた。そういう我々が、自然界から「奪われないですむ」ということはない、と私は思う。
谷口 雅宣
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コメント
谷口雅宣先生
高をくくってきたというのは本当にそう思います。近頃、夏では気温が毎年上がり、去年は37℃というのが毎日でたまに30℃位だと「今日は涼しいな」なんて言っているのにも拘わらず、「これは大変な事だ。地球温暖化に対して真剣に考えなくてはならない」なんて言う意見は殆ど出ませんでした。
自然に対して奪って来たその報いを受けているという観点は本当に思い知らされました。ここまで真剣に受け取る事が大事なのですね。
投稿: 堀 浩二 | 2011年4月18日 23:30
総裁先生
合掌ありがとうございます。昨日に引き続き、「大震災の意味を問う」何度も何度も拝読させていただきました。「何の理由もなく大震災が起こった」とは思いませんでしたが、「では何故?」と聞かれますと、答えに窮しておりました。今日、総裁先生のブログを拝読致し、生長の家で私達は横の真理であります、心の法則をずっと教えていただいており、「与えれば与えられ、奪う者は奪われる」これは、個人のレベルにとどまって考えがちですが、先生のご教示にありますように、国家や社会、人類のレベルで考えますと、私達人類は際限のない欲望の追及、経済至上主義のためにあまりにも自然を奪い、人間以外の生物の命を経済の発展のために犠牲にし続けてきた結果、自然界から奪われることになったのだと、ハッと気付かせていただきました。私を5歳から育ててくれました今は亡き養母は、熱心な生長の家の信徒でしたので、谷口雅春先生の「心と食物と人相と」を拝読し、私にも養父にも肉を一切食べさせませんでした。小学校の給食には、肉や鯨肉、チーズがよく出されましたが、家で食べないので当然学校でも食べませんから、担任が怒って「全部食べるまで授業は受けさせません」と、午後の授業が始まってからも私ひとり給食とにらめっこしていました。しかし養父母とも「学校の先生が何と言おうが正しいことは通しなさい」と言い、今も私も娘も肉を食べません。総裁先生は地球温暖化問題に早くから警鐘を鳴らされ、生きとしいけるものすべて神さまのいのち、仏様のいのちの現われであること、他から奪って自らが栄える生き方から、他に与える生き方、そういう宗教心を持ち、実践することが喫緊の課題であるとご教示くださっております。この大震災から私達ひとりひとりが、どう学び、どう生きていくのか、特に被災地以外に住むものは、これまでの生き方、考え方を変えなければ犠牲になられた方々に申し訳ないと改めて考えさせられました。 総裁先生、本当にありがとうございます。 岡田さおり拝
投稿: 岡田さおり | 2011年4月19日 21:50