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2011年4月 1日

「歓喜への道」(2)

 だから、今回の大震災や大津波によってどんな死に方をされた人でも、その実相は完全無欠の神性・仏性であるから、皆尊いというのが真理である。何の前触れもなく、つい数分前まで元気で働いていた人が、いきなり地震で潰され、あるいは津波に巻き込まれて海中に消えていっても、その人の実相が神の子であり、仏であり、円満完全であるということに変わりはない。ただ、最愛の夫や子、家族の肉体が目の前から突然消え、もう会えなくなったために悲しみに打ちひしがれている人がいるのだから、その人に善意から同情し、あるいは感情移入して一緒に涙を流すことは間違っていないし、そうすべきである。が、それだけでは、「人間は皆、神の子であり生き通しである」という信仰をもっているとは言えないのである。
 
「しかし、こんなに悲惨な状態の現実を無視して“神の子はすばらしい”だけではオカシイ!」と感じる人も多いだろう。妻のブログへのコメントでも、そういう不満の表明があった。私のブログの記述についても、「被災地で困難に遭っている人々、救出活動をしている人々が大勢いるのに、ジョギングするなどオカシイ」という人がいた。さらにこの読者は、「たとえジョギングしても、それをブログに書くべきではない」という。そして、宗教指導者は「冷静に成り行きを見守って、祈っているときではないでしょうか」とおっしゃるのである。私はその通りのことをしているが、ブログにはいちいち「今日も神想観をした」などと書かないだけだ。なぜ書かないのか、理由もある。次の聖書の言葉を、この読者は知らないのだろう--

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。」(『マタイによる福音書』第6章5節)

 ブログは、現代の路地や四つ辻のようなものである。誰でもそこに来て、読み、眺め、そしてコメントすることができる。また、「この悲惨な現実」「この人々の苦しみ」などと現象の不完全さを強調する人は、「今あなたがたが“見える”と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(『ヨハネによる福音書』第9章41節)という言葉も知らないのだろう。しかし、初心の人はそれでいい。このブログは、誰でも読めるからだ。

 さて、上に書いたヨハネ伝の言葉は、実は清超先生の一文にも引用されている。先生の場合、文語体の聖書からの引用だから、もっと威厳がある--「然(さ)れど見ゆと言う汝らの罪は遺れり」である。「あそこに遺体がある」「ここに家屋の破壊がある」「被災者があふれている」「職場が破壊されている」……これらは、本当に正しい情報だろうか。それとも、実相を覆い隠している外見にすぎないのか。悪を探し求めるマスメディアの“伝言ゲーム”に惑わされているのではないのか。
 
 清超大聖師は、さらにこう説かれる--
 
「一体人間は何のためにこの地に生をうけたのか。仕事をして、金を儲け、事業を発展させ、家庭を安穏に送るためと思うかもしれないが、それならば仏教はこの点について当を得ない教えをして来たことになる。キリスト教も“いかにして事業を発展させるか”を説いているのではなく、明確にイエスは、“まず神の国と神の義を求めよ、然(さ)らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。この故に明日のことを思い煩うな明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり”(マタイ伝6ノ33~34)と教えておられるのである。
“これらの物”とは、何を食い、何を飲むか、如何に着るか、住むか……ということであり、子供の学校をどこにしようかというようなことも、現代社会では含まれると考えて間違いない。全て、現象的なオカゲや地位や事業よりも、神の国と神の義を求め行うことが第一だという主旨である」。(p.14)

 これはなかなか厳しい教えであるが、宗教運動とはそもそも物質的繁栄を目指すものではなく、神意の実現や仏国土の現成が目的なのだ。このことを、先生は「生長の家の光明化運動の根本精神は、出家の精神である」(p.15)と表現されている。それなのに、「水ぶくれの人間や、物ぶくれ、欲望ぶくれの人間がふえてきて、大道を求め行ずるために“乞食(こつじき)”をなす行脚僧が、めっきり減った次第である」(p.17)と嘆かれている。当時の状況と現在の日本との間に、それほど違いはない。だから、次の先生の結論は、今日の状況を見事に示しているのである--
 
「今や日本は金儲けや繁栄を追い求めるか、それとも神の国と神の義を第一に置くところの“真理国家”に“出家する”かの岐路に立っていると言える」。
 
 谷口 雅宣

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コメント

合掌、ありがとうございます。

非実在である現象が普段の生活で最もリアルに見えて五感で感じられるので、長く信仰していても惑わされてしまうことが未だに沢山あります。

今回の震災でも、私は東京にいながら心がかなり凹んでしまい、何とか生長の家の信仰によって持ちこたえている状況です。被災者の方々の辛さは想像を絶するものだと思われます。

そういった中で、今日の先生のご文章はとても励みになりました!


いかなる現象が目の前に現れてきても、その奥にある実相を見失わないようにする修行が人生であると思います。

まだまだ修行が足りませんが、”完全円満な実相”を見失わないよう、これからも三正行に前向きに励み、より一層精進していきたいと思います!

投稿: 澤田敏宏 | 2011年4月 2日 00:05

総裁先生 ありがとうございます。この度の震災以来、総裁先生がいろいろな角度から、ご指導いただくブログに対して、様々な意見が投稿され、批判的な意見も掲載されています。先生が、ある批判的な意見に対して「誤解されています」とおっしゃっていた記事があったと思います。「誤解の真実」が知りたいなと思っていました。「100%のことを知り得ての判断ということは難しい」と常に思っていますので、非常なる関心をもっていました。この総裁先生の2回にわたるシリーズによって、私なりに「誤解」の深層がわかり、信仰的に一層理解を深めさせていただきました。ありがとうございます。本当に、本当に深~い真理のご指導に感謝させていただきます。震災の中にあってご自身の生活の一端をご紹介になられたことによって、読者の意見が表面化し、それによって、深いご指導がいただけたことを心から感謝させていただきます。また、素晴らしい聖典をたくさんお著しいただいた谷口雅春大聖師、谷口清超大聖師、谷口輝子聖姉への感謝の念を一段と深めさせていただきました。ありがとうございます。
 島根教区は、今年の2月に団体参拝練成会がありましたが、私は参拝させていただくことにしておりましたが、急用で参拝できませんでした。ところが、今年度は6月にまた団参です。本当にありがたいです。谷口雅春大聖師の26年祭のときに…。両大聖師に、そして谷口輝子聖姉に心からなる感謝をさせていただきに参拝させていただきます。
 かつて、参拝したときに、車椅子で参拝されていた熟年の男性の方がありました。ただ、ただ、感謝させていただきにお参りされているのだなと、「私の参加は感謝が足りない」と反省させていただくと共に、感動の涙を流したことを思い出しました。できるだけ沢山の方をお誘いして参拝し、「報恩感謝」の真心をささげ、「生長の家の運動の原動力」を強くさせていただきたいと思っております。
 ご指導本当にありがとうございます。再合掌

投稿: 石田 盛喜代 | 2011年4月 2日 05:12

合掌ありがとうございます

 総裁先生おはようございます。
 全くその通りだと思います!
先生のお書きになられていることが正しいことの私は証人になります。
(しかしジョギングをしなかった私は失敗してしまいました)

 聖書に書かれている神と、生長の家の神は全く一つのものとひしひしと感じます。そう書かれてあるからそうだと知るのではなく、感覚的にそう感じます。

 今、人間は肉体であり、科学の力によって救済されるという考えに征服されるべき時ではないと私もそう思います。
 今こそ、人間神の子・霊的存在という考えを確立し、霊によって立つべき時と感じます。

 私は綺麗事を書いているのではなく、死線をさまよって、キリストの言葉が、ただの道徳的理想論でなく、真実中の真実であり、日常に即実践すべき、歩むべき道であることを身をもって知った者です。
 あれらの言葉を離れて生活はなく、物質万能の生活をいくら豊かにしても、それは空回りをしているだけでした。

 真実はニュースの中にあるのではなく、聖経など真理の言葉の中にあり、それは、いかなる迷いをもうちやぶることが出来る、真に力を持った言葉です。

 私も原発の問題とは数年真剣に取り組んで、その隠蔽性に舌を巻き、今回大々的にニュースにとりあげられているのを奇跡を眺める如く見ていますが、
いかにそれが真相に近づいたとはいえ、現象的事物は『見ゆという罪は残れり』に過ぎないことを感じます。

 今こそ、真理の言葉を私たちが広めないで、誰が広めてくれるのでしょう。

 自身を肉身と思っている人には、たとえ震災がなくても、永遠に苦悩が絶えないと思われます。
人間は肉体であるというそれは真実の情報ではないので、誤った情報の上に構築したものは、瓦解を続けるしかないようです。(かく言う私も、今だ時折肉身だという思いが再燃して苦しむ事あるので修行中の身です)

 本当に本当に先生の仰るとおり、私達は、昔を再現するのではなく、真の新文明を創造してゆかなくてはならないと思います。

 ポスティングジョイも必要です、私は絵を描くので、直感を大切と思います。
 今の時代、直感を大事にすることの大切さは、それを経験した人は皆知っています。
 総裁先生はすごいと思います。総裁先生が、「今これをしときなさいよ」と仰られた時に、すぐ実行されている人は得だと思います。

             再拝

投稿: 松尾 | 2011年4月 2日 09:07

谷口雅宣先生

 先生にジョギングなどせず被災者の為に祈れなんて言った人がいたのですか?絶句します。私も含め、ネットの世界は誰でも総裁先生に直接ものが言えるフラットな世界なのでこうした不遜で愚かなコメントも出て来る訳ですね。

 私はテニスが趣味なのですが私の所属するテニスクラブでも何か自粛ムードと言うか地震後二週間くらいはテニスをするのも罪の意識を感じ、家を出て来る時、ラケットを持って出て来るのを人に見られない様にして出て来るなんて人もいました。実は私は全くそんな感覚は持っていませんが。

 本当に何時までも自粛ムード、悲惨さに泣き濡れていなければ宗教的でないなんて考える傾向は愚かですね。私は自粛したり泣いたりする事よりも今回の観世音菩薩の教えを謙虚に学んで完全円満の実相世界が今ここにあるという実相独在の信仰を把持しながら未来に向かって前進するのが先生の仰る通り、大事な事だと思います。

投稿: 堀 浩二 | 2011年4月 2日 09:40

雅宣先生
ご指導ありがとうございました。
私、胸がスーとしました。
実相は完全であり、しかも現象をおざなりにしない教えが良くわかりました。
大聖師谷口清超先生の『歓喜への道』をもう一度じっくり拝読いたします。

投稿: 橋本久美子 | 2011年4月 2日 11:17

先生
私達関西にいるものは、自粛ムードとはある程度距離があります。それは、計画停電がないとか被災地と距離的・心理的に離れているという表象的な理由ではありません。阪神大震災を経験しているからです。

16年前も同じような自粛ムードがありました。いち早く、あるいは必然的にサリン事件に世間(東京のマスコミ)の目が移ってほっとしていたようなものです。また、自粛ムードを「やめて!」って思い、言ったのは被災者自身です。それは、マスコミの論調とは同調出来ないからという理由は大いにありました。数週間もすると取材を受ける人がいなくなり、ほんの数えるほどになってしまい、同じ映像を繰り返し見せられるより、お笑いや普段のドラマをやっていただいた方がこちらの気がまぎれるというものです。

大震災とは、イコールマスコミの報道ではないことは、今被災者の方々が感じておられると思います。

よって、かどうか分かりませんが、一歩外へ出ると自粛ムードはあまりありませんし、花見も普通にやってます。だからと言って私達はよその出来事と思っているわけではありません。今回の震災は、阪神大震災の比ではありませんし、原発事故など現在進行形ですから・・・とはいえ、私達が助けていただいたこと、今起こっていること、これから発生するであろうことは、ある程度想像がつくし、そんな話は普通にしています。

生長の家の教えがあって本当によかったと思います。実相の完全さを今ほど言い聞かせたくなる時はありませんね。ありがとうございます。

投稿: 谷口 美恵 | 2011年4月 3日 20:41

>キリスト教も“いかにして事業を発展させるか”を説いているいのではなく、明確にイエスは、“まず神の国と神の義を求めよ、然(さ)らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし。

“いるいのではなく”と7日の記事のタイトル“ブラクッソン師の息子”は書き間違いと思われますが修正はされないでしょうか?

投稿: 加藤裕之 | 2011年4月 9日 14:44

加藤さん、
 誤字の指摘、ありがとうございました。
 修正しました。

投稿: 谷口 | 2011年4月 9日 16:08

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