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2011年3月10日

自然を囲い込む

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 アメリカのSNS「フェイスブック」上に、私が英語の“ファン・ページ”を開設したとはすで に本欄に書いた。そのサイト上で最近、「Tokyo ambivalence」という写真シリーズを始め た。アンビバレンスとは、「相反(矛盾)する感情」とか「両面価値」などと訳されるが、私は東京で出会う様々な事象の中に、人間が自然に対して抱く相反する想いを感じ、それらを写真に定着したいと考えたのである。休日などに街を散歩していると、この主題に合うものが案外多いことに気づく。ほんの思いつきで始めたことだが、発表ずみの写真はすでに8枚になった。そのうち何枚かを、ここに紹介しよう。

 2009年にブラジルのサンパウロ市で行われた生長の家教修会で世 界の宗教がもつ自然観を学んだとき、仏教誕生の地である古代インドでは、「森」に代表される自然界は何か不気味で恐ろしいものとして捉えられ、これに対して「都市」には安全と平和があるとの考えが強かっ たとの発表があった。それによると、大乗仏教の『大般若経』には、未開の大自然の中に生活する菩薩は、昆虫による病気や、水不足、食料不足に苦しみ、その経験から人々に対する自他一体感を得ると説かれ、さらに、この菩薩の悟りによって出現する仏国土とは、「大都市近くの喜びの木のようであろう」と書かれてあるという。
 
Wheat  しかし、その反面、釈迦の前生物語の中には、彼が多くの動物にたいして慈悲を行じたことで、世界の人々を救う導師として生まれ変わることができたとの教えが書かれている。これは、「人間と動物の魂は互いに入れ替わる」という教えで、自然と人間との間に大きな垣根はない。また、中国へ渡った仏教は、中国人の自然観の影響を受けて、動物だけでなく、いわゆる“山川草木国土”のような非情(心をもたないもの)にも仏性が宿るという教義を獲得し、それが日本に伝わって、土着の山岳信仰や神道の自然観を吸収して、「自然そのものの中に救いがある」とする考え方に結びついたことを学んだのである。

Lacoste  つまり、最古の世界宗教である仏教の中に、自然に対するアンビバレンス(相反する感情)が内包されている。また、仏教だけでなく、ユダヤ教とキリスト教の聖典である『創世記』にも、自然界の事物に対する相互に矛盾する記述があることを、私は昨年7月の本欄(7月13日、同月16日)などで指摘してきた。だから、日本人だけでなく、人間一般の心の中には、自然界に対する忌避や恐れがあると同時に、憧憬や愛があると言えるだろう。それならば、都市空間に置かれた人間の製作物にも、このようなアンビバレンスを反映したものがあるに違いない、と私は考えたのである。
 
Inisdeout_3  そのような考えを脳裏に秘めて街を歩くと、目にする光景の中に、私の予想に合致するようなものが案外目につくのである。それは我々人間が、動物や植物などの自然界の事物を「好む」のであるが、全体を受け入れるのではなく、一部を「囲い込む」ことで自然を無害化して受け入れ、精神の安定を得る--そんなイメージを想起させる。言わば「盆栽」や「箱庭」のように自然を愛するのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

「世界の宗教」という本で、キリスト教の所に、死後の世界についてはエジプトの影響を、善と悪の戦いについては、ゾロアスター教(拝火教)の影響を受けていると書いてありました。また、キリスト教の人の中には本来のキリスト教ではなく、ギリシア文明の影響がみられるという意見もあります。最高神をゼウスと呼ぶなどは、ギリシャ神話の神の名前ですね。
今日東北地方で大きな地震がありました。各地で甚大な被害が出ているようです。地球という天体が生まれ、マントルの対流があり、その上に薄い地殻があり、プレートテクトニクス現象で地殻変動が起こるのは、この地球上に誕生して生きている以上逃れようのないことです。生かされているといったほうがいいでしょうか。被災地の早期の復旧を願います。

投稿: 田原健一 | 2011年3月11日 23:10

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