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2011年3月 6日

“無言の戒律”

 今日は東京第一教区での生長の家講習会が行われ、有楽町駅前の東京国際フォーラムをメイン会場として、明治神宮会館、大田区産業プラザの3会場に合計8,318人の受講者が集まってくださった。前回より受講者数は808人(8.8%)減ったが、午前中の出足は前回並みだったという。同教区では、運動の主力である白鳩会で、推進途中で役員交代があるなどのイレギュラーがあったものの、“熟年層”を含めた多くの幹部・信徒の皆さんが一丸となり、熱心な活動を展開してくださったことに、心から感謝申し上げます。
 
 今回の講習会で印象的だったのは、質問が用紙の数で「30枚」と多く出たことだ。そのうち半数以上の16枚を、10~40代の人が占めた。若者も含め、多くの受講者が講話の内容に興味を示してくださったことはありがたい。質問の内容は実に変化に富んでいて、きわめて初歩的なものから哲学的に高度な内容のものまであり、どれに答えるべきか困惑するほどだった。が、この質問数では、予定していた時間内に3分の1も答えられず、何か申しわけない気持が残った。

 さて、これらの中で、本欄の読者にも興味があると思われる内容のものがあったので、その1つをここに紹介しよう。それは、東京都世田谷区の36歳の主婦の方からの、次のようなものである--
 
「私は大学生の時、父から生長の家を知りました。今ではとてもありがたくて、心の支えのようなものとなっています。ですが、私は教えを知るまでずっと何の問題もなく(多少はありましたが、それも含めて)、とても幸せに暮らしていました。神想観や聖経を読むことの行を行わなければならないことを知ってしまって、それを行わなければ、すごく心苦しく思うことがあります。教えを知ってしまったばかりに、神想観や聖経をあげずに一日を終えると、やり残したような気持になってしまいます」。

 この主婦の人は、そういう自分の気持をどのように処理したらいいのか? という質問だと私は理解した。
 
 私は、この人の気持がある程度理解できる。というのは、私も生長の家の“二世”とか“三世”と言われる部類に属するからだ。そういう人は、多くの場合、祖父母や親の代からの“徳積み”のおかげで順調な人生を送ることが多く、練成会などで生長の家の仲間と知り合うと、そういう人と比べて「悩みがない」とか「体験がない」という本来感謝すべきことを、逆に“負い目”として感じる場合があるからである。深刻な悩みを通して生長の家の教えを知り、それを克服した際には、「救われた」と感じることが多いが、そういう体験をもたない人は、「すでに救われている」という自覚を得るのは比較的高度なことだから、「悩みがないことを悩む」という不思議な心境になることがある。そして、この悩みを解決しようと、自分をわざわざ困難な状況に追いやる場合もある。私は、そういう心境を必ずしも「間違い」とは思わない。しかし、その背後には、一種の「逃避」の機構が働いていることは自覚すべきである。
 
 宗教生活は、決して「安楽である」とは言えない。まれにそういう心境に達する人もいるが、高度の修行をへた少数の人である。普通の大多数の信仰者は、やはり自分の中から起こる“懈怠の心”や物質的欲求を抑えたり制御する必要があり、そのために多くの宗教では「戒律」を設けている。生長の家は、そういう戒律がきわめて少ない宗教の1つである。しかし、人間はどんな人でも、肉体維持や子孫繁栄のために動物と共通した“本能”を兼ね備えているから、信仰心よりもそちらを優先したいという気持が起こる可能性が常にある。ということは、逆に考えると、戒律の少ない宗教では「自己を律する」という“無言の戒律”が要求されているのである。そう考えていくと、生長の家でいう「三正行」(この中に神想観実修が含まれる)は、現代生活を犠牲にせずに実行可能で、自分で工夫する自由度の高い実践だから、実に現代人にふさわしい戒律である、と私は思うのだ。
 
 ところで、講習会では、私は上の質問に対して、「三正行は毎日必ず行わ“ねばならない”ことはない」と答えた。この意味は、忙しい現代生活では、そう義務づけることが実際は不合理な場合が起こり得るからである。例えば、海外旅行時に航空機の中で神想観を実修するのは、どんなものだろうか。2時間の通勤電車の中で聖経を読むことを要求するのは、どんなものか。受験勉強中の学生に「毎日愛行せよ」と言うのはいかがなものか。病気療養中の人はどうすべきか……など、いろいろ困難なケースがあるからである。だから、「毎日しなければならない」ということでなく、「できない日があってもいいが、その分、別の日に大いに努力しよう」という意味の答えをしたのだった。「“ねばならぬ”をなくすのが生長の家である」と言われることもある。しかし、それを口実にして「三正行はしてもしなくてもいい」と考えるのは、もちろん間違いである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生ありがとうございます。
初めて投稿しますが宜しくお願いします。
本日先生の”無言の戒律”のお話の中でご婦人の質問に答えられ、ご説明なされました御文章を読みまして感動致しました。
また私の心が大変楽になりました。
若い人とか、幼い子供をみますと何も重荷を背負っていないように感じられ素晴らしいなと観じておりましたが、私自身は自分自身の哲学、戒律などを創りあげ、それに心が振り舞わされる事が多く、なにか沢山重荷を背負って人生を進んでいる様で心が重く、どうにかこの重荷を下ろしたいと思っておりました。
今日雅宣先生の御文章を読みその意味が深く理解できました。
    谷口雅宣先生ありがとうございました。

投稿: 藤 勝禧 | 2011年3月 7日 23:08

総裁先生、ありがとうございます。

私も生長の家信徒の二世です。

そして、私もかつては、大した悩みもなく、わりと順風満帆に人生を歩み、困難を克服した体験を通じて信仰を深化させた方々を羨ましく思っていた時期もありました。
けれども、順風満帆に感じられている毎日の中に、神の子の實相を顕現できてない自分にきづくことなく時が過ぎ、気がついたら大変な困難の渦中にいました。
詳細は東京第二での体験談で話したので省略しますが、例え二世や三世の信徒であっても、それだけで何の本人の努力もなく順風満帆な幸せな人生が送れるほど甘くはないことを学ばせていただきました。
それらに加えて、神の子・人間として生まれ、その上で尊い使命を与えられ、それを全うするために素晴らしい個性と無限力が与えられていることに気づいた瞬間は、言葉で簡単に表せないような喜びを感じました。
さらに、先生が仰るように、各人のそれぞれにおいて単に自立ができたとしても、自律ができるまでに至るには、それ相応のさらなる努力や経験や時間的経過が必要不可欠だということに共感いたします。

感謝礼拝

投稿: 阿部 裕一 | 2011年3月 7日 23:42

藤 勝禧 さん、
 コメント、ありがとうございます。
 私も物事を難しく考えすぎるきらいがあります。が、そのことによって、普通の思考法から脱する道も開ける場合があるので、そういう傾向を否定的にばかりはとらえていません。でも、何事にも程度がありますからね……。

阿部さん、
 二世、三世には、それぞれの悩みがあるようですね。これもまた神性開顕の訓練の1つなのでしょう。

投稿: 谷口 | 2011年3月 8日 23:32

合掌、ありがとうございます。

私は28歳で大学生のときに生長の家に触れ、一世にあたります。

とはいいましても、深刻な悩みを通して生長の家の教えを知ったわけではありません。それでも「救われた」と強く感じています。
それは当時開催されていた大学生練成会に参加し、青年会中央部の先生方から様々なご指導を頂き、自ら三正行を行じるようになったことが今の熱心な生長の家の信仰者へと導いてくれました。

聖典などから学んだ御教えを練成会や日々の生活で実践することで、「すでに知り、体験されたものだけが表現され得る」という意味深い体験を重ねることが重要であると感じております。

そのためには一定の時間的経過の中で繰り返しの努力が必要と感じますが、誰かに言われてそれをそのまま行うだけではなく、自ら考え、行動することで徐々に視野が広がってきました。

努力する対象が“自分”ではなく、四無量心の心をもち“他”のためであることが重要で、そうでないと悩んだり、方向を誤ったりするように感じます。

要は求道と伝道のバランスでしょうか。

今後も三正行を日々実践し、信仰生活を送って参ります。


長文、度々のコメント失礼致しました。

再拝

投稿: 平野明日香 | 2011年3月10日 07:11

合掌 ありがとうございます。
行事に参加できなかったりする私は ここで 直接 総裁先生の ご教示をいただけることを とてもうれしくありがたいこと と感謝申し上げます。 拝読させていただき おもい を 修正して 明るく行じて参ります。 ありがとうございます。 再拝。

投稿: 金坂 千位子 | 2011年3月11日 10:03

この記事へのコメントは終了しました。

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