「歓喜への道」
谷口清超大聖師のご著書に『歓喜への道--21世紀のために』というのがある。平成4年(1992)4月の出版だが、冒頭に掲げられた同名の一文は平成元(1989)年5月号の機関誌に掲載されたものだ。月刊誌はたいてい、5月号は4月に、6月号は5月に発行されるし、原稿を受け取ってから出版までは約2カ月を要する。ということは、このご文章は、時代が昭和から平成に変わってまもなくの頃、清超先生が書かれた一文と考えられる。それを読ませていただくと、「平成」という新時代に向けて信仰者として何を第一にして進むべきかという重要な指針が力強く説かれていて、感動するのである。私たちは今、未曾有の大地震と大津波、原発事故の被害を身の回りに感じ、まるで“世界の終末”の中にあるような印象をもっているかもしれない。しかし、これで戦後日本の“一時代”が終わるとしても、これから私たちが築き上げる新時代が必ず来ることを疑ってはいけないし、この新時代にこそ、神の御心がより顕著に輝き出た“新生日本”を建設しなければならないと思う。ついては、この清超先生の一文からいくつか学ぶことにしよう。
清超先生はまず最初に「正しい情報が大切」だと説かれている。このことは、今回の災害と原発事故に関しても、私たちはいやというほど感じたことではないだろうか。災害の規模がどれほどか。家族や親戚の安否はどうなっているか。津波の大きさを事前に予測できたのか。原発の危険度を知っていたのか。放射線の体への影響を知っているのか。原発事故の現状は、どれほどの地域に、人に、自然界に危険を及ぼすのか。復旧のコストは、期間は、必要な人員は……。これらの情報が正しく入手できないことに、私たちは困惑してきたのである。だから、「正しい情報が大切」であることは、十分に感じているだろう。現代は情報氾濫の時代だから、「情報を得る」ことは簡単にできる。しかし、ニセ情報も巷にあふれているから、「正しい情報」が何であるかの判断は、情報量が膨大なゆえに一層困難になっている。
そこで先生は、こう説かれている--
「そこで情報は金銭で取引きされるとは言っても、その“正確度”が問題であり、もしニセ情報であれば、そのために大きな被害を受けるし、そのマイナスの価値は、はかり知ることが出来ないくらい大きいのである。」(p.6)
「原子力は安全なエネルギーである」という情報を信じてきた多くの人々が、海外の人々も含め、今その“マイナスの価値”を肌身に感じ、震え上がっているに違いない。また情報は、「発信人」と「受け手」が直接授受するだけでなく、両者の間に多くの「中継者」が関与してくることが多い。そして、中継者が多ければ多いほど、情報の中身がゆがめられる可能性が大きくなる。いわゆる“伝言ゲーム”のように、発信人の情報とはまったく異なる内容のものが、“真実”とか“事実”とされる危険度が増してくるのである。このことを先生は、次のように書かれているーー
「しかし発信人の真理をそのまま伝えるということは中々難しく、人は往々にして善意の過ちをおかすものである。」(p.9)
先生がここで「善意の過ち」と書かれているのは、イエスが人間を“罪の子”と説かなかったのに、「神の子」の自覚に満ちたイエスを尊敬するあまり、弟子たちがへりくだって自分と一般人とを“罪の子”と見なしたことを指している。その気持の中には「教えを曲げよう」とするような悪い意図はないから、善意からの過ちだったと説かれているのである。だから、情報の正確な伝達を期す場合は、善意や同情や感情移入があれば、多少の間違いは許されると考えるのは問題である。ましてや、善意や同情や感情移入さえ表明すれば、宗教上の真理を伝えたことになると考えるのは誤りだ。
では、宗教上の真理とは何か? 先生曰く--「要するに現象の肉体は不完全であり、それは仮相であって、実相は全ての人々が完全無欠の神性・仏性である。この真理を自覚し、伝え、行ぜられるからこそ尊いのである」。(p.10)これを、今回の大災害と大事故に関連させて言い直せば、「これらの惨状や死や深刻な被害は仮相であって、実相は全ての人々が完全無欠の神性・仏性である」ということだ。確かに今、テレビやインターネット、新聞・雑誌では、連日のように人々の不幸や災難や、悲しみや、苦痛、嘘、偽装、経済停滞などが報じられている。しかし、それらを見つめて悲しみを深めていくことが、宗教上の真理を伝えることだと考えるのは誤りだ。先生は再び曰く--「これでは実在の真理そのものがどこかに追いやられ、現象の正確さのみがいたずらに一人歩きする結果になるであろう。しかし生長の家では、現象は実在にあらずと否定するのだ。ある人がどんな生涯を歩んだにしても、そこに完全無欠を求めるのは、現象そのものに実相を求めていることになる。」(p.11)
谷口 雅宣