今日は霙(みぞれ)も降る寒い日だったが、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「建国記念の日祝賀式」が行われた。私は式典の最後の方で、概略、以下のような言葉を述べさせていただいた:
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本日は日本の建国記念の日、おめでとうございます。あいにく雪交じりの天候になりましたが、足元の悪いところを大勢お集まりくださって有り難うございました。
今日のこの記念日は、『古事記』や『日本書紀』に記録された建国の神話にもとづくものです。これは“神話”であり史実ではありませんが、その代わり日本人の心情やものの考え方がよく盛り込まれているので、そこから学ぶことは数多くあります。私はこれまで数年のあいだ、この建国記念日の挨拶で日本建国の理想がどこにあるかを、『記紀』の記述に照らしてお話ししてきました。それは具体的には、国の中心者の資格と国の統治の方法の問題でした。そして、国の中心者は、①神の御心を実行する者、②人びとに支持される人格者であること、③自然と一体の生活をする者であること、の3つを挙げ、この条件が満たされれば、「刃に血塗らずして」国がまとまって政治が平和裏に行われる--これが『記紀』に描かれた日本の国の中心者の理想像、そして日本建国の理想だと申し上げてきました。
今、エジプトでは30年ほども続いたムバラク大統領の統治に対する大規模な反対運動が起こっています。その前は、同じ北アフリカのチュニジアで、29年間続いた独裁的政権が、大規模な国民の反対運動によって倒れました。これら2つの国のあり方を見ると、先ほど掲げた“中心者の理想”“建国の理想”とは大分異なることがわかります。強権によって国民を弾圧し、自由を束縛することが「神の御心」であるわけがなく、そういう警察や軍隊の力によって維持されてきた長期政権が、人びとに支持されてこなかったことは明白です。こういう現代の問題を考えても、日本の神話に現れた“建国の理想”“国の中心者の理想像”は少しも古くなっていないと思います。ですから、私たちは21世紀の現代においても、この“建国の理想”に誇りをもち、それを高く掲げて進んでいくべきでしょう。
さて、私のブログの読者はすでにご存じと思いますが、私は最近、「天照大御神」のことについて連載記事を書いています。具体的には、日本の天皇家の祖神が女性であること、この女神が他の神々とどういう関係になっていて、『記紀』の中でどのような行動をするかということ、その行動を我々はどう解釈すべきかということなどです。今日はその中から、私たちの運動とも関係があると思われる大切な要素について1つだけお話しします。それは、日本神話における「女性」の位置についてです。
日本の神話には様々な女性の神さまが登場しますが、「天照大御神」はとても重要な神であります。この神はもちろん、天皇家の祖神です。また、生長の家の神想観では最後に「大調和の歌」を歌いますが、そこでお名前を呼ぶ神さまでもあります。この神さまは「太陽神」でありながら女性なのです。なぜ女性なのでしょうか? こういう質問をすると、多くの日本人は驚くかもしれません。なぜなら、我々は太陽が女性であることにあまり疑問を感じないからです。谷口雅春先生の著作の中にも『女は愛の太陽だ』というのがありますから、そのタイトルから、先生が女性に太陽のイメージを重ねておられたことが分かります。また、谷口清超先生は、『日の輝くように』という聖歌を作詞・作曲されました。ここでは、太陽の“光”と“熱”を愛情として描いています。例えば、この歌の3番の歌詞には、こうあります:
「夜にはいつも 日が沈む
太陽はまた 別の地で
全てのものに おしみなく
光りを恒に ふりそそぐ
だから私も 光りを送る
すべての人の 心の中に」
ここでは、太陽の光が地球の裏側で輝くことと、人間の心の中に光りを送ることが同一視されていますから、精神的に明るいもの、暖かいもの--つまり、愛情の送り手として太陽は描かれています。さらに、私も数年前、日時計主義を大いに推進するために『太陽はいつも輝いている』という本を書きました。こういう捉え方は、太陽をどちらかというと“男性”ではなく、“女性”として感じていることを示していると思います。
しかし、世界には数多くの民族があって、それぞれが神話をもっていますが、その中では太陽神を男性として描いているものの方が相当多いのです。ユング心理学の日本における第一人者で、文化庁長官も勤めた河合隼雄さんは、『神話と日本人の心』という本の中で、次のように言っています:
「八百万(やおよろず)とも言われる数多くの日本の神々のなかで、際立った地位を占めるアマテラスは、日の女神であった。古代日本の天空に輝く日輪に、日本人は女性をイメージしたのだ。これは世界の数々の神話のなかでも、相当に特異なことと言っていいだろう。イヌイットなどのアメリカ先住民の神話を除いて、ほとんどの民族において、太陽は男性神である」。(p.1)
河合さんが言っている世界の神話の例を挙げれば、ギリシャ神話の太陽神・アポロン、古代バビロニアの太陽神・シャマシ、エジプトの太陽神・ラー、インドのヴィシュヌ神など、メジャーな神話では太陽はみな、男性のイメージで捉えられてきたのです。ところが、日本神話では国の中心となる天皇家の祖神が女神であるとされてきました。そして、日本は「千五百秋の瑞穂の国」ですから、稲の栽培には太陽が欠かせないように古来、日本人は太陽がいかに大切であるかは十分承知しています。また、天空において太陽と並び賞される「月」は、日本神話ではツクヨミノミコトとして男性扱いです。が、日本以外の多くの神話では、月の方を女性として扱う場合が多いようです。
ということは、太陽の月に対する圧倒的な明るさと熱に注目すれば、それを「女性」と見てきた日本神話は、“女性優位”の文化を表していると考えられます。これに対し、太陽を男性として扱ってきた他の多くの文化圏は、“男性優位”の考え方が支配的だったといえます。有名な例を挙げれば、ユダヤ=キリスト教の聖典である聖書の『創世記』では、人類最初女性・イブは、男性アダムの肋骨を取って作られたと書いてあります。これは、女性は男性の一部から作られたということですから、“男性優位”の思想と解釈できます。
しかし、その一方で、日本神話は“女性優位”だけで成り立っているのではなく、男性も大いに活躍している。例を挙げれば、イザナギノミコト、スサノオノミコト、オオクニヌシノミコト、ヤマトタケルノミコト、そして初代の天皇といわれる神武天皇・カムヤマトイワレヒコノミコトなど、神話中の有名な物語の主人公はほとんど男性である。だから、日本文化を単純に“女性優位”と表現することは間違いだが、逆に“男性優位”と考えるのも間違いなのです。考古学者や文化人類学者は、これらのことから古代日本は“母系社会”とか“女権社会”だったと言うことがあります。ところが、『記紀』を詳しく読みますと、そのアマテラスはイザナギの左目から出てきたとありますから、男性から生まれている。これがイザナミから生まれたのならば完全な女系社会ですが、そうではなく、男性のイザナギから生まれていることから、日本の神話では男女のどちらも決定的に優位にしないように、微妙なバランスがとられていると言えるのです。
このように考えてくると、日本という国は古来、女性を重視してきた国柄があるということが分かります。確かに昔は「男尊女卑」という言葉があり、武家社会や近代の一時期において、そういう生き方が求められた時代はあったかもしれませんが、古代は違った。『古事記』の編纂に深く関わったという稗田阿礼も女性だったいう説は有力ですし、古代の天皇には女性が多かった。紫式部や清少納言を筆頭に、女性の文学者も輩出している。そして、私たちは、太陽を「女性」と感じてきたことなどを考えると、日本人の潜在意識には「男尊女卑」などという価値観はなく、むしろ「男尊女尊」とも呼ぶべき価値観があると思うのです。
このことは、私たちの運動とも無関係ではありません。ご存じの通り、生長の家は女性の組織「白鳩会」と男性の組織「相愛会」、そして「青年会」の3者を中心にして活動してきました。このうち「白鳩会」と「相愛会」の間には優劣の関係はないし、あってはならない。この関係は「誌友相愛会」の時代にはありませんでしたが、現在は当たり前になっています。でも、この考え方が日本文化と無関係ではないということが、神話を研究するとわかってくるのです。
今日は建国記念の日ですから、日本の“建国の理想”についてお話しすべきですが、それはもう何回もお話ししてきたので、最初に3~4項目を復習のつもりで申し上げました。つまり、国の中心者は、①神の御心を実行する者、②人びとに支持される人格者であること、③自然と一体の生活をする者であること、この3つの条件が満たされれば、「刃に血塗らずして」国内がまとまり、政治が平和裏に正しく行われるということでした。今日はそれに加えて、日本は古来女性を重んじる文化をもってきたということを強調したいのです。だから、今申し上げた3項目の“建国の理想”は、何も“男の仕事”だと考える必要はないのです。女性も男性も、そして青年も、大いにこの理想を掲げ、人類光明化と国際平和実現に向かって、太陽の光を背に受けながら邁進していただきたいと思います。
日本の建国記念の日に当たって、所感を述べさせていただきました。ご清聴ありがとうございました。
谷口 雅宣