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2011年2月 6日

天照大御神について (9)

 天照大御神とは何者であるかを考えるには、日本神話で初めて天照大御神が登場する場面に注目するのが一つの方法である。そこには、この重要な神の「出自」が描かれているはずだからだ。この場面は有名なので、多くの読者はすでにご存じだろう。それは、イザナギがイザナミと別離の言葉を述べ合って別れ、黄泉の国の穢れを祓うためにみそぎを行い、その過程で次々といろいろの神を生んでいく話の後に来る。このみそぎの最後の方で、イザナギが自分の左目を洗ったときに生まれたのが天照大御神だった。そしてこの後、右目を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗うと須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれている。そして、イザナギはこの三神を見て「三柱の貴き子を得た」といって喜ぶのである。

 この“三貴神”が成立する構造のことを、河合隼雄氏は「トライアッド」(triad、三つ組)と呼んでいる。そして、この構造は世界の神話の様々な場面に登場すると指摘している。日本神話でこれが最初に登場するのは、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、タカミムスヒノカミ、カミムスヒノカミの三神であったし、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれたのもホデリ、ホスセリ、ホヲリの三神だった。海外の物語でも、バビロニアの神話では、アヌ(Anu)、ベル(Bel)、エア(Ea)の三神や、シン(Sin)、シャマシュ(Shamash)、アダド(Adad)の三つ組が出てくる。さらに、キリスト教では「父(神)、子(キリスト)、聖霊」が「三位一体」として信仰の対象とされている。そして河合氏によると、日本神話においてはこの“三神構造”が出ているときには、一神は「ほとんど何もしない」という役割をもっているというのだ。つまり、第1のトライアッドでは、アメノミナカヌシは神話の最初に1行出てくるだけで何もせず、第2のそれではツクヨミ、第3のそれではホスセリが“無為”の役割を担っているという。
 
 そして興味あることに、河合氏はこのことが「日本神話の最も重要な特性」だというのである:
 
「(前略)『古事記』神話の全体を通して、この三組のトライアッドが出現の時とその現われ方、そしてトライアッドのなかの神々の対応関係などにおいて、実に見事な構成をなしており、それぞれが特徴をもちつつも、中心の神が名前のみで、その行為についてまったく語られないという点で共通していることがわかる。この全体としての構造を、私は“中空構造”と呼び、日本神話の最も重要な特性と考えた」。(p.278)

 本シリーズでは天照大御神に焦点を当てているので、三組のトライアッドのうち二番目のもの--アマテラス、スサノオ、ツクヨミの三神の関係を考えよう。すると、『記紀』の物語の中ではツクヨミの存在の影が薄いことがよくわかる。『古事記』では上に示したイザナギの右目からの誕生のことしか書いておらず、『日本書紀』には「一書に曰く」という異説として、第五段にエピソードが1つ書いてあるだけで、他の二神と比べるとほとんど“非存在”に近い。そして、この1つのエピソードが不思議な展開を示すのである。河合氏はその部分を次のように短くまとめている--
 
「イザナキはアマテラスに高天原を治めよと言い、ツクヨミには“日に配(なら)べて天の事を知すべし”、スサノヲには“滄海之海(あおうなはら)”を治めよと言う。そこで、アマテラスは天にあって、ツクヨミに“葦原中国に保食神(うけもちのかみ)がいるので、そこを訪れるように”と命じる。ツクヨミが行ってみると、ウケモチは、国の方に顔を向けると口から飯が出てきて、海に向かうと魚が口から出る。山に向かうと獣が出てくるので、それらを取りそろえてツクヨミをもてなそうとした。ツクヨミは口から吐き出したものを自分に食べさそうとするのは汚いと怒り、剣を抜いて切り殺してしまう。このことをアマテラスに報告すると、アマテラスは怒って、“お前は悪い神だから、相見ることはない”と“月夜見尊と、一日一夜、隔て離れて住みたまふ”ことになる。ウケモチは死んでしまうが、その体から牛馬や粟、稗、稲など食糧となるものが、つぎつぎと生まれていた」。(p.119)

 これは、太陽と月とが天空を離れて回るようになった由来記の形になっている。しかし、このエピソード自体は、『古事記』にあってはツクヨミのものではなく、スサノヲを主人公にして語られているのである。河合氏は『古事記』の記述が本来のもので、『日本書紀』の異説は混同だろうとしているが、その混同がなぜ起こったかを分析して次のように書いている--
 
「これは、あまりにも徹底した無為というのは考えにくいので、何か目に見える形で考えようとすると、中心のツクヨミの両側に存在するアマテラスやスサノヲのイメージを少し借りてくるようなことになるのかもしれない。と言うよりは、中心としてのツクヨミはまったく無為ではあるが、そのなかに、アマテラス、スサノヲ的なものを内在させている、と見る方が適切かもしれない」。(pp.124-25)

 なかなか面白い解釈だと思う。古代日本人が、男性(父性)と女性(母性)のいずれを重視したかについては、本シリーズで何回か触れた。それは、後者を少なくとも前者並みに扱ってきたということだった。このバランス感覚が、アマテラス、スサノオ、ツクヨミのトライアッドの中でも生かされているのではないか。アマテラス(女神)が支配者として強く描かれる場合は、ニュートラルのツクヨミがスサノヲ(男神)の役割を演じることもあるのである。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○河合隼雄著『神話と日本人の心』(岩波書店、2003年)

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コメント

合掌ありがとうございます。

だんだん 聞きなれた神様の名前が登場してうれしいです。

現代 少子化の日本にイザナミの神様が数分間現れて下さっ

たらいいのにとおもいました。  

    ありがとうございます。
          

投稿: 山本 順子 | 2011年2月 8日 08:28

「真理」第2巻p106に
「今しばらく、、、神社神道は教義を特に説かず、礼拝を主とするゆえに、これを省く」という記述があり、
「生長の家」は皇室崇拝をしているのに「神社神道を省く」とはどういうことかよくわからなかったのですが、
今回のシリーズを通して、
伝統的神道におけるアマテラス信仰を「太陽信仰」という観点から普遍化できるような気がします。

思うに、我々が日々恩恵を受けている、いわゆる「太陽」は言うまでもなく、恒星の一つであり、恒星と言われるものは、ここの銀河だけでも2000億個くらいあるそうで、そのような銀河系も現在観測可能な範囲だけでも1000億はあるそうなので、各恒星の周りに少なく見積もって平均10個の惑星があるとすると、1000億の2乗×20個ほどの惑星が、この現象界大宇宙に存在すると推論することも可能なのではないでしょうか。

それらの惑星の上に、もし、なんらかの「生物」がいるとするならば、それらの生物すべてがその惑星にとっての「太陽」の恵みをなんらかの形でうけて、生命の営みを展開しているのだと思います。

「太陽への感謝」を恒星と惑星との関係で考えてみると、これは地球だけにとどまらず、現象界大宇宙全体に対して普遍性を持つ共通意識になりうるのではないでしょうか。

冒頭に引用した「今しばらく」が終り、
現代的教義を備えた「太陽信仰」の新生が、この星の「万教」をつないでゆくきっかけとなるような気がしてなりません。

投稿: 辻井映貴 | 2011年2月 8日 15:00

山本さん、

>>現代 少子化の日本にイザナミの神様が数分間現れて下さったら……

 ええと、イザナミではなくて「イザナギ」の神さまの方ですよね?

辻井さん、
 貴方の話はちょっとスケールが大きいので、私には不向きですよ。それに、私は「宇宙」ではなく「人間の心」の話をしているのですが……


投稿: 谷口 | 2011年2月 8日 17:43

総裁先生、表現が大げさになってすみません。

何光年離れていても、どこかの惑星に「人間」が住んでいたら、そこの「太陽」を拝む心をもっているのではないか、ということを言いたかっただけです。

そして、今、イスラム圏といわれる地域に住んでいる「人間の心」の中にも、「太陽を拝む心」があった時代もあったかもしれないし、ユング的集合的無意識の元型のひとつとしての「太陽神」が共有されていると仮定すると、地域的宗教を超えたつながりの糸口になるのではないか、と思った次第です。

「この星の『万教』をつないでゆく」とはそのような気持ちで書きました。

投稿: 辻井映貴 | 2011年2月 8日 21:18

総裁先生 ありがとうございます。

イザナギの神様です。

これからも お願いいたします。

すばらしい1日を 感謝します。

      合掌

投稿: 山本 順子 | 2011年2月 9日 09:04

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