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2011年2月26日

ある日、デンマークを超えて (2)

 私は本欄で、これまで何回も「神話」について書いてきた。最近では、日本の「天照大御神」の神話について書いたが、それだけでなく、『創世記』の神話や神武天皇の建国神話、レヴィ=ストロースや中沢新一氏の神話学の一部も紹介した。神話とは、ほとんどすべての民族の内部で、太古の昔から語り継がれてきた神に関する物語である。多くの場合、それらの神々の行動は、天地の始まりや、国・民族・物事の起源の説明、あるいは人間の行動原理を表現している。そして、これらの神話は、宗教や信仰と深く関わっているため、現代人の生活とも大いに関係している。

 つまり、簡単に言うと、人間はいつの時代にも「神」の観念から逃れられない。人格的な「神」を否定する唯物論者でさえ、「法則」や「原理」のような不可視の偉大な力を認め、その発見や賞賛のためには努力を惜しまない。そのような「神」や「法則」や「原理」が支配する領域では、安定や調和、平和が実現すると考えてきた。そして、それを絵画や音楽、詩歌、建築物などを通して表現し、表現物は人々の賞賛を受けてきたのだ。そういう「人を超えた不可視の存在」がなぜ人間に理解され、表現され得るのか? この疑問に、その時の妻の言動が雄弁に答えているような気がしたのだ。
 
「すでに知り、体験されたものだけが表現され得る」--それが答えだと思った。デンマークを体験した者だけが、デンマークの良さを表現し得る。それと同じように、すでに神や法則を知り体験している者だけが、神を讃え、法則を発見し、あるいは人(自分)を超えようと努力するのである。

 そもそも我々人間が「自分を超えよう」と努力することは一見、不合理でありながら、最も真実なことではないか? 私はかつてオリンピック選手についてこの努力を取り上げ、次のように本欄に書いた。が、同じことは、芸術家や実業家、学者、技術者、農業者……にも言えるのだ--
 
「なぜ人間は、あのように“上へ、上へ”と自分を駆り立てるのか? 他人より1秒速く走れたとて、1メートル遠くへ飛べたとて、半回転よけいに体が回ったとて、その人の生存が他人より有利になるわけではない。少なくとも、そうしなければ生きられないわけではない。にもかかわらず、そういう“完全”に近づくために、人々は大きな犠牲を払い、莫大なエネルギーを費やす。それを世界中の人々が見て、興奮し、共感し、感動する。これは、人間が内部の完全性を表現しようとしている姿ではないか」。

 内部ですでに“体験”していることを、人間は努力しつつ表現する。それが本当ならば、宗教や信仰の存在そのものが、人間の本質が神性・仏性であることを証明しているのだ。
 
 --こんな想いが脳裏からこぼれ落ちてしまわないように、私はこの晩、注意深く妻のエスコートを続けていた。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口雅宣著『小閑雑感 Part 3』(世界聖典普及協会、2003年)

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コメント

谷口雅宣先生

 >それと同じように、すでに神や法則を知り体験している者だけが、神を讃え、法則を発見し、あるいは人(自分)を超えようと努力するのである。

 素晴らしいご指導誠に有り難うございます。

投稿: 堀 浩二 | 2011年3月 3日 08:58

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