天照大御神について (6)
本シリーズでは前回までに、日本の天皇家の祖神である天照大御神が、古代日本人の女性・母性への肯定的評価にもとづいて誕生し、今日まで崇められてきていることを述べ、この女神が“最高神”の地位にありながら、決して全能ではなく、反逆者に対しても武力を行使せず、平和主義者として描かれてきたことを指摘した。『記紀」などの古典にこのように描かれた“温和な女神”は、それでは日本独特の存在なのだろうか? 日本人だけが古来、このような女神を崇拝し、王家(天皇家)の祖神とするまでに重用してきたのだろうか? その問題について考えよう。
これについては、民族学者の石田英一郎氏の研究が示唆的である。石田氏は、「天の岩戸隠れ」の神話にある「隠れた太陽をおびき出す」という物語は、北太平洋に沿うアジア=アメリカ両大陸各地の伝説や神話の中に基本的モチーフとして存在することを、1948年に発表した論文で指摘した。この分類に入る伝説にはアイヌのものもあり、そこではアイヌラックルという英雄が「日の神を函の中に捕えて世界を暗黒にした大悪魔と戦い、これを殺して太陽を救い出した」という。また、この分類の「光を解放する」説話群の中には、エロティックなものを含む「踊り」や「笑い」を用いることで目的を達成するという、日本の神話に似たものもあるという。
一例を挙げれば、カリフォルニア州西岸に住む原住アメリカ人部族、シンキヨーネに伝わる“火の起源”についての伝説は、次のようなものらしい--
「昔は火がなかった。人が火を持つようになったのは、ある子供の生れたためである。この子は四六時中ないて泣いて、どんなに手をつくしても泣きやまない。よくきいていると“火がこわい”と叫ぶ。彼は、他の人びとの目に見えぬ火を見て泣くのだった。それはクモがからだの中にかくしている火で、クモはそのためにからだがあんなにふくれているのである。コヨーテが人びとにその火をうる途を告げ、大ぜいの鳥や獣をあつめてクモのところに行く。クモは夜になると、火を体内からとりだし、日中には再びしまいこむのであった。彼らはできるだけ滑稽なまねをしてクモを笑わせようとする。もし彼が笑えば、火は口からとびだすからだ。しかしいろいろ試みてみるが、クモを笑わすことができない。最後にスカンクが尻尾をたてて踊りながらやってくると一同どっと笑い、クモもまた笑ったので、火は口からとびだす」。(『桃太郎の母』、pp.58-59)
また、「天の岩戸隠れ」の神話では、「常世の長鳴鳥」が天照大御神を呼び出すのだが、これと似たところのある伝承が東南アジアのアボル族に伝わっているという--
「太陽がいってしまって地の下に隠れたとき、国中は暗闇となり、万人は大きな恐怖に襲われ、人びとは、太陽に再び現れるよう頼みにいった。けれども太陽は腹を立てて、地の下に隠れていた。そのとき一羽の長い尾をもった鳥が、ちょうど地平線の下すれすれに、すねて横たわっている太陽の上にとまっていて、人びとに話しかけていた。太陽はその話し声を聞くと、“誰がしゃべっているのだろうか”と叫んで、好奇心から身をおこして見た。彼は彼に請願に来て地上にすわっている人びとを見た。すると彼らは、彼にふたたび戻って世界にその光をそそいでくれるようにと懇願した。」(同書、pp.66-67)
石田氏は、世界各地の伝説や説話を調べ、それらの中に「天の岩戸隠れ」の神話との共通点を数多く見出した結果、次のように推論する--
「これらの神話を構成するいくつかの要素が、多くの異なった民族や地域にわたって、量質ともに、とうていたがいに独立に生じたとは考えられない程度の類似を示すときには、われわれはここに神話の伝播という事実を仮定せざるをえないのである」。(pp.70-71)
そして、この論文の結論部分には、こう書いてある--
「そして以上すべての分析から、われわれの知りうることは、日本の神話が、その記録された時代までの政治的な諸関係や利害による潤色は一応べつとして、日本民族の基層的な文化そのものとともに、幾重にもかさなりあったきわめて複雑な異系統の諸要素から構成されているという事実なのである」。(pp.71-72)
さて、これだけの材料で、今回の設問に答えることができるだろうか? 私はまだ時期尚早だと思う。しかし、次のことは言えるだろう--日本の神話は、世界各地の神話や伝説から隔離されたものではない。神話を構成する諸要素は、世界各地に古来伝わる説話と相当程度の重複が見られるが、それらの諸要素を日本人が納得する形で取捨選択し、あるいは一部をオリジナルな要素で補足して、日本独特の形に組み上げているのではないだろうか。この点はさらに検討する価値があると思う。
谷口 雅宣
【参考文献】
○石田英一郎著『新訂版 桃太郎の母』(講談社学術文庫、2007年)