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2011年1月31日

天照大御神について (6)

 本シリーズでは前回までに、日本の天皇家の祖神である天照大御神が、古代日本人の女性・母性への肯定的評価にもとづいて誕生し、今日まで崇められてきていることを述べ、この女神が“最高神”の地位にありながら、決して全能ではなく、反逆者に対しても武力を行使せず、平和主義者として描かれてきたことを指摘した。『記紀」などの古典にこのように描かれた“温和な女神”は、それでは日本独特の存在なのだろうか? 日本人だけが古来、このような女神を崇拝し、王家(天皇家)の祖神とするまでに重用してきたのだろうか? その問題について考えよう。
 
 これについては、民族学者の石田英一郎氏の研究が示唆的である。石田氏は、「天の岩戸隠れ」の神話にある「隠れた太陽をおびき出す」という物語は、北太平洋に沿うアジア=アメリカ両大陸各地の伝説や神話の中に基本的モチーフとして存在することを、1948年に発表した論文で指摘した。この分類に入る伝説にはアイヌのものもあり、そこではアイヌラックルという英雄が「日の神を函の中に捕えて世界を暗黒にした大悪魔と戦い、これを殺して太陽を救い出した」という。また、この分類の「光を解放する」説話群の中には、エロティックなものを含む「踊り」や「笑い」を用いることで目的を達成するという、日本の神話に似たものもあるという。
 
 一例を挙げれば、カリフォルニア州西岸に住む原住アメリカ人部族、シンキヨーネに伝わる“火の起源”についての伝説は、次のようなものらしい--
 
「昔は火がなかった。人が火を持つようになったのは、ある子供の生れたためである。この子は四六時中ないて泣いて、どんなに手をつくしても泣きやまない。よくきいていると“火がこわい”と叫ぶ。彼は、他の人びとの目に見えぬ火を見て泣くのだった。それはクモがからだの中にかくしている火で、クモはそのためにからだがあんなにふくれているのである。コヨーテが人びとにその火をうる途を告げ、大ぜいの鳥や獣をあつめてクモのところに行く。クモは夜になると、火を体内からとりだし、日中には再びしまいこむのであった。彼らはできるだけ滑稽なまねをしてクモを笑わせようとする。もし彼が笑えば、火は口からとびだすからだ。しかしいろいろ試みてみるが、クモを笑わすことができない。最後にスカンクが尻尾をたてて踊りながらやってくると一同どっと笑い、クモもまた笑ったので、火は口からとびだす」。(『桃太郎の母』、pp.58-59)

 また、「天の岩戸隠れ」の神話では、「常世の長鳴鳥」が天照大御神を呼び出すのだが、これと似たところのある伝承が東南アジアのアボル族に伝わっているという--

「太陽がいってしまって地の下に隠れたとき、国中は暗闇となり、万人は大きな恐怖に襲われ、人びとは、太陽に再び現れるよう頼みにいった。けれども太陽は腹を立てて、地の下に隠れていた。そのとき一羽の長い尾をもった鳥が、ちょうど地平線の下すれすれに、すねて横たわっている太陽の上にとまっていて、人びとに話しかけていた。太陽はその話し声を聞くと、“誰がしゃべっているのだろうか”と叫んで、好奇心から身をおこして見た。彼は彼に請願に来て地上にすわっている人びとを見た。すると彼らは、彼にふたたび戻って世界にその光をそそいでくれるようにと懇願した。」(同書、pp.66-67)

 石田氏は、世界各地の伝説や説話を調べ、それらの中に「天の岩戸隠れ」の神話との共通点を数多く見出した結果、次のように推論する--
 
「これらの神話を構成するいくつかの要素が、多くの異なった民族や地域にわたって、量質ともに、とうていたがいに独立に生じたとは考えられない程度の類似を示すときには、われわれはここに神話の伝播という事実を仮定せざるをえないのである」。(pp.70-71)

 そして、この論文の結論部分には、こう書いてある--
 
「そして以上すべての分析から、われわれの知りうることは、日本の神話が、その記録された時代までの政治的な諸関係や利害による潤色は一応べつとして、日本民族の基層的な文化そのものとともに、幾重にもかさなりあったきわめて複雑な異系統の諸要素から構成されているという事実なのである」。(pp.71-72)

 さて、これだけの材料で、今回の設問に答えることができるだろうか? 私はまだ時期尚早だと思う。しかし、次のことは言えるだろう--日本の神話は、世界各地の神話や伝説から隔離されたものではない。神話を構成する諸要素は、世界各地に古来伝わる説話と相当程度の重複が見られるが、それらの諸要素を日本人が納得する形で取捨選択し、あるいは一部をオリジナルな要素で補足して、日本独特の形に組み上げているのではないだろうか。この点はさらに検討する価値があると思う。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○石田英一郎著『新訂版 桃太郎の母』(講談社学術文庫、2007年)

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2011年1月30日

静岡教区の躍進に感謝

 今日は気持のいい晴天の下、静岡県のJR浜松駅前にあるアクトシティ浜松のイベントホールをメイン会場として、清水マリンビル、島田市民会館、沼津市民文化センターを結んで、静岡教区の生長の家講習会が行われた。同教区では、初めての多数会場開催となり、教化部のある浜松地区での講習会開催も約30年ぶりということで、教区全体が推進活動に燃え、前回を1,134人(22.5%)も上回る6,167人が受講してくださる好結果となった。白・相・青の3組織別でも、いずれも前回の受講者を上回った。講習会後の幹部懇談会では、推進活動が順調に進展したことなど喜びの発表が続き、明るい雰囲気に包まれた。今年初めての講習会でよい結果が生まれたことで、本年の運動は幸先のいいスタートを切ったと言える。阿部博之・教化部長を初めとした静岡教区の幹部・信徒の皆さんに心から御礼申し上げます。
 
 この懇談会で聞いた話から、今回の成功の要因の1つに、3組織の仲のよい連携があったと感じた。それは、昨年8月、練成会を生長の家富士河口湖練成道場で行う際、「小学生練成会」「中高校生練成会」「お父さん、お母さんのための練成会」を同時に行ったところ、約190人の多くの参加者が集まったことだ。この練成会には家族ぐるみで来ている人も多かったため、中途で帰る人も少なく、各練成会のプログラムの所々に共通行事を設けたことで、世代を超えた交流が行われた。これが、参加者の好印象となったようだ。同教区では、この後にも白鳩会が練成会参加者を対象にした誌友会を29ある地区総連単位で2回開催して、今回の講習会への案内等を行った。このため、新人の受講者が大勢集まったと分析している。このほか、相愛会、青年会を含めて、複数会場開催になったことで地元の会員・幹部の意識が“お客さま”から“推進者”へと転換し、教区の運動全体を活性化したようだ。

 講習会後に浜松市楽器博物館に寄った。この地には、ヤマハ、カワイ、ローランドなどの楽器メーカの本社があるなど音楽と関係が深い。そこで世界の楽器について知識を得たいと思ったのだ。帰りの列車が来るまでの短い時間だったが、東洋、西洋の楽器だけでなく、南北アメリカやアフリカ、東南アジアの楽器など1200点が展示され、その代表的なものは映像付きで、あるいは映像なしの音声だけで、実際の楽器演奏が聴けたのがよかった。また、日本の雅楽が、朝鮮と中国の音楽を併せたうえで、日本独自の形に発展したものであることを知った。そして、人間はいつの時代でも音楽が好きで、様々な楽器を工夫して作り、感心するほど多様な音を生み出してきたのだと、感嘆する気持で博物館を後にした。

 真理宣布の運動も、このような多様性をもつことが発展のためには必要だろう。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月28日

アラブ諸国が揺れている

 北アフリカのチュニジアで起こった民主革命を契機にして、北アフリカ、中東周辺の国際情勢が流動的になってきた。私はかねてから、現代では「環境」「資源」「平和」の問題が“三つ巴”の密接な関係にあることを指摘してきたが、このうち「平和」に関する国内・国際紛争が、こんな形で起こってくることは予測できなかった。私が予想していたパターンは、①地球温暖化による気候変動で農産物が不作となり、同時に②新興国の経済発展で資源獲得競争が激化、③バイオ燃料の需要増大とともに途上国の食糧事情が悪化、④食糧や希少資源をめぐる国際紛争が多発する--というものだった。ところが、今回のチュニジア革命は、②と④の間に「若者世代の拡大」と「民主政治への欲求増大」という2つの要素が隠されていることを教えてくれた。今後は、アラブ系の途上国で起こる民主革命が、より広い地域を含んだ国際紛争につながらないように各国、国際機関による努力が必要となる。

 チュニジアの政変は今月半ば、高い失業率と食糧価格の高騰などに抗議した反政府デモに参加していた青年が、焼身自殺したことをきっかけにして一挙に拡大し、23年間も政権を握ってきたベンアリ大統領が国外に逃亡したことで起こった。この国は、外交では親欧米路線を採り、外国資本を導入して経済発展を進めた一方、国内政策では国民の民主化への要求を力で抑え、支配層の温存と利権維持を図ってきた。このため、経済成長が進む一方で失業が拡大していた。18日付の『日本経済新聞』によると、チュニジアの1人当たりのGDP(国内総生産)は、1990年に1600ドルだったものが2010年には4100ドルに達したというIMF(国際通貨基金)の推計がある。また、同国に進出している外国資本には、サンローラン、ラコステ、ベネトン、カルバン・クライン、YKK、NECなどがあるという。
 
 そして、チュニジア情勢が重要なのは、周辺のアラブ諸国が、多かれ少なかれ似たような状況にあるからだ。つまり、長期に強権的政治が続く中で貧富の差が拡大し、若者の失業が顕著である点で共通している。こういう中で、“暴動”や“革命”が起こる1つの重要な契機は、食糧価格の高騰だ。人間は衣・食・住のような生きる上での基本的条件が脅かされれば、やはり自衛の手段として暴力に訴える人も増えてくるのだ。25日付の『日経』は、国連食糧農業機関(FAO)のジャック・ディウフ氏の寄稿文を取り上げ、本欄でも述べたように(1月7日同15日)、世界の食糧価格が過去最高値になったことを“危機”としてとらえ、先進国が食糧増産のための投資拡大を行わなければ、「食糧価格高騰が数年にわたり続き、各国で政情不安を招くことになる」などと同氏が指摘したことを伝えている。
 
 25日以降の新聞各紙は、チュニジアの政変が周辺国等の途上国にも影響しだしたと伝えている。遠く離れた南米ボリビアでは、ジャジャグアという人口4万5千人の町で24日、食料品やガソリンの値上げに怒った人々が商店を襲撃して略奪を行ったという。同国では昨年末、燃料価格が83%上がったため、各地で反対デモが起こっていたという。アラブ諸国ではアルジェリア、イエメン、ヨルダン、エジプトで反政府の抗議デモが続き、チュニジアの例に倣って焼身自殺を図る人々の数は、24日までに未遂を含めて10人を超えたという。

 これらの国の中で日本を含めた西側諸国が注目しているのが、エジプトの政治情勢だ。ここはアラブの大国であり、1979年にイスラエルを承認するなど、伝統的に親米路線をとって中東情勢安定のために重要な役割を果たしてきた。しかし、国内的には強権政治によりムバラク大統領の治世が29年も続いてきた。27日の『日経』によると、同国の経済発展は続いており、2010年の成長率は5.3%に達する見込みだが、貧富の格差は大きい。国民の4割が1日2ドル以下で生活する貧困層に属しており、18~29歳の失業率は22%に上るとの推計もあるらしい。アメリカにとってここは中東政策の“要”だから、クリントン国務長官は25日、「エジプト政府は国民の正当な要望に対応する方法を探っていると理解している」と“ムバラク支持”の態度表明を行った。しかし、翌26日には、エジプト政府がデモ禁止を打ち出したことに反対し、「平和的な抗議活動や、ソーシャルメディアを含む通信を妨害しないよう求める」と述べたという。これは、エジプトのデモが、SNSの「フェイスブック」を使って組織されたことに危機感を抱いた同国政府への牽制である。
 
「フェイスブック」はチュニジアの政変でも重要な役割を果たしたことが分かっている。28日付の『朝日新聞』は、エジプトでの反政府抗議デモがこの新媒体を使って「ムバラク政権下で最大規模の動員力を示した」ことに注目し、次のように報じている--

「25日に始まった抗議デモをフェイスブックで呼びかけた主なグループは“4月6日運動”と“ハレド・サイード連帯”。チュニジア政変の直後にそれぞれがファンページを作り、エジプトでの大規模デモを呼びかけた。
 いずれも約8万~41万人が登録し、それぞれ2万~3万人以上が事前にデモへの参加をネット上で表明していた。これらのグループは、イスラム教の休日(金曜日)に当たる28日にも新たな抗議デモを呼びかけており、すでに6万人以上が参加表明している。多くは若者で、双方に掛け持ちで加わっている人も多い」。
 
 インターネットが政治に影響力を発揮することはアメリカの大統領選挙で証明ずみだが、強権政治を続けている途上国においても、政変を引き起こす道具になりえるということは、驚くべきことではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月27日

天照大御神について (5)

 前回までの本欄で、私は、古代日本人の女性や母性への肯定的評価が、天皇家の祖神としての天照大御神の登場の契機になったと述べた。もっとも太陽神としては、7世紀末より前の時代には、天照大御神ではなく、男神であるタカミムスヒが皇祖神として認められていたらしいことは、本シリーズの2回目で述べたとおりである。しかし、それ以降は、国の中心として延々と続いていく家系の源が女神であることに、日本人は長い歴史を通じてほとんど違和感を感じなかったのだ。このことは、現在の“女性天皇”の是非をめぐる論争を考えるときに、重要な示唆を与えてくれると私は思う。

 ついでに言えば、7世紀から8世紀にかけての日本で“最高神”の地位が男神から女神に移行したことは、この頃に女性の天皇が輩出したことと関係があると思われる。7世紀代には50年以上が、推古(在位592-628)、皇極(同642-645)、斉明(同655-661)、持統(同697-702)など女性天皇の御代であったし、8世紀代も約3分の1に当たる歳月が、元明(同707-715)、元正(同715-724)、孝謙(同749-758)、称徳(同764-770)という女帝であった。この理由について、溝口氏は、前出の著書の中で次のように述べている--
 
「5世紀から7世紀まで、国家神はタカミムスヒという男性神だったし、支配層の氏を代表していたのも男性である。しかしタカミムスヒは急遽外からもってきた神であるし、氏もまだ実態としては、父系出自集団が形成されていない状態で、社会の内部には、女性の首長や女性の天皇をそれほど不思議としない風習が根強く残っていた。アマテラスの国家神化は、このような時代が終末に近づこうとしているころに起きている、したがって巨視的にみれば、これも弥生以来の女性首長の伝統の残存といえなくはない。当時はまだ、トップの神に女神を置くことへの、後世の人々が感じるような違和感や抵抗はなかったに違いない」。(pp.216-217)

 さて、私は先に天皇家の祖神のことを“最高神”と表現した。しかし、日本神話の中での天照大御神の言動を思い出してもらえば、この女神がギリシャ神話のゼウスや、旧約聖書のヤハウェのような「全能の唯一絶対神」とは相当異なることに気がつくだろう。例えば、前回書いた誓約(うけひ)は、弟神のスサノオに邪心がないかを調べるために行われるのだが、ゼウスやヤハウェならば、全能なのだから、そんなことをしなくても相手の心が分かるだろう。また、スサノオの内心がどうあろうとも、全能の神ならば高天原に誰が来ようとも、びくびくする必要はないのである。さらに言えば、有名な「天の岩戸隠れ」が起こるのは、姉神がスサノオの乱暴狼藉に怒って姿を隠してしまうからである。こんなに臆病で消極的な“最高神”では、全宇宙を治めることなどとてもできないだろう。
 
 しかし、我々日本人は、このような女神を長らく愛し、国家の“最高神”としての地位を与え続けてきたのである。角川書店の『世界神話事典』は、そんな女神が天皇家の祖神であり続けた理由を、次のように推測している--
 
「この女神の特徴の一つは、その徹底的な平和主義である。高天原に上ってくるスサノオに向かうときに武装はしても、実際に戦いはしないし、スサノオの横暴な振る舞いに対しては、自らが岩屋戸に閉じこもるだけである。こうした平和主義的な女神のあり方が天皇という元来は祭祀的・宗教的な支配者の形態と類似していたから、アマテラスは皇祖神とされたのであろう」。(p.174)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○大林太良、伊藤清司他編『世界神話事典』(角川学芸出版、2005年)

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2011年1月25日

天照大御神について (4)

 前回の本欄では、「天照大御神」の名が初めて登場する『古事記』という書物の成立について簡単に触れた。その目的は、この神のイメージ形成には女性が関与している可能性があるということを述べたかったからだ。民俗学者の柳田國男氏も、そのことを『古事記』の記述の全体のトーンから推測できると指摘していた:
 
「『古事記』はその体裁や資料の選択から、むしろ伝誦者の聡慧なる一女性であったことを推測せしむるものがあるのである。たとえば美しい歌物語が多く、歌や諺の興味ある由来談を中心にして、しばしば公私の些事が記憶せられ、政治の推移を促したような大事件が、かえって折々は閑却せられていること、従って事蹟が幾分か切れ切れになっており、またわずかな思いの違いの交っていることなどは、すなわち与えて保持せしめられたものでない証拠であった。言わば史実としてよりも、心を動かすべき物語として、久しく昔を愛する者の間に相続せられていた事情を考えさせられる」。

 作家の長谷部日出雄氏は、『古事記の真実』の中で柳田のこの文章を引用して、稗田阿礼女性説に賛意を表している。この説に説得力があるのは、柳田氏が指摘するような『古事記』の全体的特徴だけでなく、そこに描かれた「天照大御神像」そのものに、女性に対する好意的価値判断が織り込まれているからである。次に、この好意的判断の例を眺めてみたいが、その前に、私がこれから書くことは、生長の家の信仰の対象としての“神のイメージ”ではないことを強調しておきたい。それは、聖経『甘露の法雨』や『生命の實相』の中ですでに繰り返し説かれている。私が本欄で描きたいのは、あくまでも古典に描かれた「天照大御神」のイメージである。
 
 すでにご存じの読者もいると思うが、『古事記』と『日本書紀』の間では、この神のイメージに関連して正反対の記述がある。それは、伊弉諾尊(イザナギノミコト)から高天原の支配をゆだねられた天照大御神のところへ、弟神である須佐之男命(スサノオノミコト)がやってきた時、弟が姉に対して自分の心に悪意がないことを証明する誓約(うけひ)を行う場面だ。これは一種の占いで、姉弟の二神は、それぞれ自分が身につけていた剣や玉を相手に渡し、口に含んで噛み砕いたものを霧のように吹き出すことで子供の神を生む。そして、生まれた子神の性別によって心中の悪意の有無を証明するという行事である。

『古事記』本文の記述では、姉神が男子5人を生み、弟神が女子3人を得る。すると、弟神は自分は力の弱い女子を得たのだから、自分の清明心が証明されたとして喜ぶのである。これに対し『日本書紀』の本文では、弟神は男子5人を得て「勝った」と言って喜ぶのである。その理由は、「女を生めば汚れた心があると考え、男を生めば清い心がある考える」からだという。『日本書紀』は、これ以外にも異伝をいくつも併記しているが、その中の「一書に曰く」では、弟神は自分の持ち物を噛み砕いて男子6人を得るところが本文の記述と違っている。しかし、これによって弟神は自分の清い心が証明されたと言うところは同じである。姉神はその理由について、自ら「あなたが邪な心をもっていなければ、あなたは必ず男の子生む」というのだ。

 複雑な比較なのでわかりにくいかもしれないが、ポイントは「男女どちらの子を生めば清い心をもつとされるか」という判断にあると思う。『古事記』はそれを「女」だとし、『日本書紀』は「男」だと解釈している。このことから、『古事記』の作者には女子を得ることにマイナスのイメージをもつ心がなかったと推測できるのである。また、この心的態度は、『古事記』の作者だけでなく、その編纂に深く関わった太安万侶や天智天皇も共有していたと考えられるのである。
 
 このことに関連して、心理学者の河合隼雄氏は、『日本書紀』にいくつもの異伝が併記されているのは、当時、父性と母性のどちらを重視するかに混乱があったか、どちらかを決定的に優位とすることへの迷いがあったと解釈している。そして、『記紀』全般の比較を、次のように述べているのが興味深い:
 
「ただ、どちらかと言えば、『古事記』は母性原理優位で大体一貫しており、おそらくこれが古代日本の姿で、『日本書紀』は中国のことなどを考慮して、父性を正面に立てようとするが、やはりそれによって全体に整合的な物語とするのは難しかったのであろう」。(『神話と日本人の心』p.139)

 このように見てくると、日本の古典の中に天照大御神が登場し、それに天皇家の祖神としての地位が与えられた背後には、男性や父性との比較のうえでも、女性や母性への肯定的評価を古代の日本人が共有していたからだと言えよう。

【参考文献】
○長谷部日出雄著『「古事記」の真実』(文春新書、2008年)
○河合隼雄著『神話と日本人の心』(岩波書店、2003年)

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2011年1月24日

天照大御神について (3)

「天照大御神」という女性太陽神を正面に掲げていることが日本の神話の特徴の1つだと言えることと、『古事記』の“作者”とは関連があるかもしれない。もし“作者”が女性であれば、作品の中に描かれた太陽神も女性的になるか、少なくとも女性蔑視の物語を作品の中には入れにくいと思われるからだ。ただし、この推論は、あくまでも現代人が文学作品を書く状況から考えたものだから、古代人が伝承されてきた神話を文字に表すときの状況には、必ずしも当てはまらない可能性はある。

『古事記』の成り立ちについて、一般の私たちは単純な理解をしてきたのではないだろうか。それはつまり、『古事記』は日本最古の書物で、『日本書紀』はそのあとの国史編纂事業によって生まれた“正史”である、というような理解である。その一例を示せば、早大文学部名誉教授の水野祐氏は『日本神話を見直す』の中で、こう書いている--「『記』は元明天皇の和銅5年(712)正月28日に勅命をうけた太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)が編纂し献上した現存する最古の史書である。」(p. 36)

 この記述は、しかし、『古事記』の序文に書いてあることをそのまま事実としたものだ。平凡社の『世界大百科事典』(1988年)の「古事記」の項目を書いた倉塚曄子氏は、同書の編纂事情を語るものはこの序文だけだと書いたうえで、序文の内容を、次のように簡潔にまとめている--
 
「天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に資料となる<帝紀・旧辞>を誦習させたが、完成せず、三十数年後、元明天皇の詔をうけて太安万侶がこれらを筆録し、712年(和銅5)正月に献上したとある。」

 この稗田阿礼という人物のことだが、倉塚氏は「男性であったとする説もあるが、神の誕生を意味するアレという名や≪古事記≫の内容からして、巫女とみた方がよい」としている。阿礼が巫女であった場合、彼女はどうやってあの大部の『古事記』を誦習したのだろうか。「誦習」とは、紙に書かれた古い記録を見て学習したり、書写するのではない。当時の日本にはまだ文字が十分普及しておらず、教育を受けた一部の高官(すべて男性と思われる)が中国語である漢字を学び、使っていたにすぎない。だから、女性である阿礼は漢字が読めない。すると、人から聴いた伝承を口で唱えて憶えたということだろう。それを三十数年後になってスラスラと暗唱した、というのである。
 
 前回紹介した溝口睦子氏の描写によると、天武天皇の勅命(681年)以降の『古事記』編纂の過程は、次のようになる--
 
「しかし天武天皇は、この仕事が書物として完成しないうちに没し、その後三十年の歳月が経過する。和銅4年(711)9月18日、時の天皇元明は、太安万侶に“稗田阿礼がよんだ、天武天皇の勅語の旧辞を、撰録して献上するように”と勅命を下した。翌年(712)の正月28日、勅命を受けてから僅か4カ月余りで、安万侶が見事に文章化して献上したのが『古事記』3巻である」。(p.194)
 
 そんなことは人間業として不可能だから、この『古事記』の序文の記述は史実でないとする見解は少なくない。溝口氏はこの点について、「記憶力抜群で、古い記録の多種多様な表記や訓(よ)みを一度見たらけっして忘れない、優秀な官人(舎人)である稗田阿礼を選んで“帝紀・旧辞”の勉強をさせた。そして阿礼を相手に、周囲に補助する人は多数いたであろうが、天武はみずから歴史書の骨格を組み立てたのではないか」(p.193)と推測している。
 
『古事記』はだから、女性と思われる稗田阿礼という人物だけを直接のソースとして書き下ろされた、と考えられる。とすると、『古事記』の中に女性の観点がいくばくか混入していたとしても不思議はない。さらに譲って、仮に阿礼がテープレコーダーのような記憶によって、自分の考えなど決して付け加えずに、大部の帝紀・旧辞をそのまま暗唱できたとしても、重要な国家事業である歴史書の編纂に女性を深く関わらせるという当時の支配層の考え方が、『古事記』所収の物語の中に反映している可能性は大いにあると言えるだろう。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○水野祐著『日本神話を見直す』(学生社、1996年)

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2011年1月23日

天照大御神について (2)

「天照大御神」という神名が記されている最古の文書は、もちろん『古事記』と『日本書紀』である。私が前回、この神名について「固有名詞ではない」と書いたのは、これらの文書(以後、『記紀』と書く)の作者が生長の家で考えているような普遍的な神をイメージして「天照大御神」の名を使ったという意味ではない。これは当たり前のことで、古代日本に生きていた作者の心中には、「キリスト教」やギリシャ語の「アガペー」や「観世音菩薩」などの概念は存在しなかったからである。その時代の日本には、「外国」といっても新羅や高句麗ぐらいまで知っていた人はいても、現在のインドやパレスチナ、ギリシャに該当する地域の存在も知られていなかった。ほとんどの日本人にとっては、現在の日本列島の一部が「国」であり、かつ「世界」であった。だから、「普遍的な神」という概念も存在しなかったかもしれない。私が言いたいのは、生長の家では「天照大御神」を普遍神として解釈するということだ。

 それでは、『記紀』の作者は何をイメージしてこの神名を使ったのだろう。これは、やはり「太陽」であろう。そのことは、この神の「大日孁尊(おおひるめのみこと)」という別名や、「天の岩戸隠れ」や「神武東征」の神話に描かれた出来事を想起すれば、ほとんど自明である。だから、この神が「太陽神」であることについては、学者も異議を唱えまい。では、この太陽神が「女神」であることについては何か問題があるだろうか? ある。この考え方が普遍的かというと、必ずしもそうではないからだ。というのは、ギリシャ神話では太陽神・アポロンは男性だし、古代バビロニアの太陽神・シャマシュ、エジプトの太陽神ラーも男性として描かれている。また、インドのヴィシュヌ神も太陽神の側面をもつ。では、日本の太陽神には普遍性がかけているのか? 答えは「否」である。
 
 実は、『記紀』の神話には天照大御神のほかにも太陽神がいるのである。しかも、この太陽神は男性だと考えられる。さらに意外に思われるのは、この男性の太陽神の方が古くて、天皇家の祖神はもともとこの神だったし、現在もそうであると推測できる。この神とは「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)」のことである。この呼び名は『日本書紀』にあるもので、『古事記』では「高御産巣日」という漢字を当てている。読み方は、濁らずに「タカミムスヒ」と読むのが正しいという。意味は、「高」も「皇」も「御」も尊敬語であり美称である。「タカミ」では、それが2つ重ねられているから、最高度の神であることを表す。「ムスヒ」の意味だが、「ムス」は「生成」「生産」の意味があることまでは学者の見解は一致する。問題は、「ヒ」をどう解釈するかである。これには2説があって、1つが「日=太陽」としてとらえるもので、もう1つは「霊」ととらえる。古代史学者の溝口睦子氏は、『アマテラスの誕生』(2009年)の中で多方面からこの問題を検討した結果、前者を支持していて、私もその方が合理的だと考える。
 
 天皇家のもともとの祖神が天照大御神ではなく、高皇産霊の神であったということは、私は溝口氏の本を読むまで知らなかったが、専門家の間ではすでに合意されていることらしい。これを示す事実として、同氏は天皇の伊勢神宮参拝は古代には一度も行われておらず、持統天皇、聖武天皇の伊勢行幸はあったが神宮参拝はせず、明治2年の明治天皇による参拝が史上初めてだったことを挙げている。それだけでなく、溝口氏によると、自ら皇祖神を祭祀される天皇家において「宮中八神」として祭られていた神の筆頭が「タカミムスヒ」であり、八神の中に「アマテラス」は含まれていないという。そして、天皇が親祭される重要な月次祭では、その祝詞に、まずこの八神の名前を唱えた後に、「辞別きて(ことわきて)」という接続詞をつけて、「伊勢に坐す天照らす大御神の大前に白さく」と続くという。つまり、天皇家において代々使われてきた月次祭祝詞は、「もともとタカミムスヒが皇祖神であった時代に作られ、あとでアマテラスが皇祖神に昇格するに及んで、アマテラスにたいする段を(…中略…)加えたということである」と結論している。(p.76)
 
 そうなると、日本の神話には太陽神が男女2柱あるということになるから、男性太陽神を掲げる世界の他の文化圏に比べ、日本は特に“異質”だとは言えず、「女性太陽神ももっていて、歴史的にはそれを強調してきた」という点が“特徴的”だということになるだろう。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○溝口睦子著『アマテラスの誕生--古代王権の源流を探る』(岩波新書、2009年)

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2011年1月21日

天照大御神について

 こんな題をつけて本欄を書き始めることに、私は躊躇している。なぜなら、この題からは、何か大論文を書くかのような印象が生まれるかもしれないからである。学者のように「アマテラスオオミカミ」と片仮名で表記してもよかったが、そうすると読みにくいだけでなく、何か突き放すような、その反面小馬鹿にしているようなニュアンスがある。とすると、それは心外だ。私は毎年、正月に伊勢神宮に参拝して神宮の「角祓い」を買い、自宅の神棚の小社に納める。その霊代には「天照皇大神宮」と墨書してあるから、「アマテラス」より「天照」の方が、これから書こうとしている主題をよく表していると感じる。さらに、『古事記』や『日本書紀』なども同様の表記であるし、私が毎日の神想観で「光明思念の歌」を唱えるときには、「アマテラス」ではなく「天照す」を心にイメージしているから、やはり漢字表記のほうが適切だと感じるのである。

 その神について書く理由は、日本の天皇家の“皇祖神”として考えられているだけでなく、神話の中では明確に「太陽神」として位置づけられているため、21世紀の人類最大の課題である地球温暖化・気候変動の問題にも深く関わっているからである。つまり、この神は、古代の神であるだけでなく、現代において新たな意味を付与されて息を吹き返しつつある重要な神さまだと感じるのである。そのことは、拙著『“森の中”へ行く』の第5章(p.146)でも触れたし、2009年5月27日の本欄にも書いた。また、世界中で祝うクリスマスに関連して、これを12月25日に定めた由来がローマ時代の太陽神信仰と密接に関係していることも、本欄で何回か(2005年11月17日昨年12月21日 )取り上げてきた。つまり、太陽からくる数多の恵みを認識し、それに感謝し、その思いを宗教的に表現することは、時代や民族を超えて人類に共通するものなのだ。それをひと言で表現しようとすると、日本人の私には「天照大御神」という言葉しか思い浮かばないのである。
 
 私はかつて「天照大御神の御徳を讃嘆する祈り」というのを書いたが、この祈りは、上記のような私の知的理解を情的に表現したものである。その祈りの言葉を読んでいただけば、それが一宗教の神を讃嘆しているのではないことが分かるはずだ。例えば、そこには「天照大御神は“愛なる神”の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない“アガペー”の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である」と書いてある。また、その祈りの最後近くには、次のようにある--
 
「太陽は、地球から何の報いを得なくとも、無限に与え続けるのである。この偉大な力によって、地上に多様な生命と生態系が出現し、おびただしい数の生命が支えられていることを思うとき、人類も“与える愛”を駆使することで、地上の平和と秩序と、多様なる生命の共存共栄を実現できることを知る。われは今、天照大御神の日子・日女として、その高邁なる目標を掲げて生きるのである」。(p.66-67)

 だから、私がここで使う「天照大御神」という神名を、東洋の片隅にある国の宗教が説く、数多くの神々の名前の1つ--つまり、固有名詞だと考えないでほしいのである。そのことは、谷口雅春先生も『詳説 神想観』(新版)の中で強調されている。すなわち先生は、「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照し宇宙(くに)静かなり」という光明思念の歌を、次のように解説されている--
 
「光明思念の歌は決してただの呪文でもなければ、伊達に荘厳味を添えるために歌うのでもないのである。“天照す御親の神”というのは天照大神という固有名詞ではなくて“あま”は宇宙で、宇宙を照らし給う御親の神、本源の神様のいのちが宇宙一杯に光明輝いて照らし渡って神の慈光の下に平和に、大調和に一つの世界を実現している--その実相を諦視し、言葉の種子を天降して、世界平和が実現するように祈るところの荘厳な行事なのである」。(同書、p.111)

 このような理解のもとに、本シリーズを読まれたい。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月19日

“森の中のオフィス”予定地で地鎮祭

 今日は午前11時前から、山梨県北杜市大泉町の“森の中のオフィス”建設予定地で行われた地鎮祭に参列した。妻と私は、12月はともかく、厳寒の1~2月に標高1300mのこの地を訪れたことがなかったので、最大限の防寒対策をして行ったのだが、風もない晴天下の八ヶ岳南麓は予想外に暖かだった。

 朝の8時に新宿駅を出るスーパーあずさ5号に乗り、10時には小淵沢駅に着いていた。往路の列車内は空いていて、ゆっくりと読書ができる。そういう時間を生かして仕事の打ち合わせなどをするビジネスマンが、案外多く乗っているのに気がついた。八王子までは街中の風景だが、そこから先は冬枯れの山中を行く雰囲気になる。笹子トンネルを抜けると一気に眺望が開け、冠雪をいただいた山々が遠望できる。まず左手に北岳、甲斐駒ヶ岳が威容を現わし、やがて右手前方に八ヶ岳が雄姿を見せる。乗客の大半は甲府駅で降りる。そして、我々一行が小淵沢で下車すると、列車はほとんど空になる。

Yatsu011911  小淵沢からは車に乗り換え、約30分で建設予定地に着く。途中で八ヶ岳広域農道を通るが、その道が広大な農地を横切るところで、私が好きな“絶景”が見られる。左手には雪をいただいた八ヶ岳、右手にはゴツゴツと聳える甲斐駒ヶ岳、やや遠方には日本第二の高峰・北岳の白い先端、その左に均整がとれた末広がりの青い富士……。この贅沢な風景の中を通り抜けると再び森林に入り、やがてオフィスの予定地に着いた。周囲は一面の雪景色かと思っていたが、雪は木陰に残っている程度で、ふんだんに降り注ぐ陽差しのおかげで「小春」の暖かさだった。
 
 祭祀開始の予定時刻より半時間も早く到着したので、地鎮祭は10分ほど時間を繰り上げて始められた。地元の大産土神社である逸見(へみ)神社の森越義建・宮司により行われ、私は「鍬入れの儀」と「玉串奉奠」をさせていただいた。鍬入れは初めて経験だった。事前に作法などを説明していただいたが、直径1.5mほどの円錐形に盛り上げた“砂の山”に、「エイ」「エイ」「エイ」と3回に分けて木製の鍬を入れた。これがどうも「山を崩す」というイメージを連想させるので、私は円錐の頂上には鍬を入れることができなかった。しかし、このあと「鋤入れ」を行った建設会社の代表の方は、同じように掛け声をかけながら堂々と砂山を崩してくださった。
 
 これは、立場の違いをよく表していると感じた。用地である雑木林の中にオフィスを建てることは、まずは“自然破壊”だということに疑いはない。が、その後に、人間の手によって自然を再生し、さらに豊かならしめるのが我々の目的である。建設会社は、そのことをよく知りながら第一段階の“破壊”の部分を引き受けてくれたのだから、その決意を込めて砂山に鋤を入れてくださって全く問題がない。もちろん、この雑木林を完全に破壊するのではない。できるだけ自然状態の原型を保存しながら、地元の木材を使って木造低層の建物を造り、この地域の特長である「長い日照時間」を利用した太陽光発電、太陽熱利用を併用し、不足部分は木材チップによるバイオマス発電などの自然エネルギーで補うことで、オフィスでの仕事開始時点で、建物から排出する二酸化炭素ををゼロにする予定である。

Ohmashiko  地鎮祭の後、オフィスの“お向かいさん”になる園芸施設、八ヶ岳倶楽部で関係者による昼食会があった。これについては、妻がブログで詳しく書いているので詳細は省くが、ここの開設者は俳優で日本野鳥の会会長の柳生博氏である。ご本人はおられなかったが、ご子息で同施設代表の園芸家、またタレントである柳生真吾氏が出迎えてくださった。この場所にはたくさんの野鳥が来るらしく、「オオマシコ」という鳥のことを店長さんから教えていただいた。冬にシベリアから飛来する珍しい鳥だが、ここでは今の時期、ほぼ毎日見られるという。食事の途中にも餌台に飛んできたのを、私も妻とともにデジカメに納めた。オオマシコは漢字で「大猿子」と書き、顔が赤いところからサルに譬えた名前らしい。体長は17.5cm、スズメ目アトリ科の野鳥で、オスとメスの色が違う。オスは、桃紅色の体に黒い翼、短めの尾羽をもつが、メスは全体に淡褐色で、腰の部分が紅色、頭部や胸にも紅が差しているらしい。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月17日

言葉は神さま (2)

 言葉を神さまに喩える言い方には、もっと違う真理も含まれている、と聡子は思った。
 この場合の「神さま」とは、聖書に出てくる神さまのように、万物を創造したり、すべての原因となるような強大で万能の神さまではなく、志賀直哉の『小僧の神様』に出てくるような、人間の姿形をした、あるいは人間の中に潜んでいる神さまだった。聡子の考えでは、一人の人間の中にはそんな神さまが何人も棲んでいる。そして、人間の口を利用して、自分の言いたいことを世界に発表することで満足している--こんな自分流の解釈を、今の彼氏に話してみたことがある。そしたら、
「それって解離性障害に近いんじゃない」
 と言われてしまった。
 昔は「二重人格」とか呼ばれた心の病のことだ。だから、それ以来、この話を彼とするのはやめた。でも、自分とは別の力が、自分の口から発言することがあるという実感を、聡子は否定することができなかった。「神さま」という言葉を使うと誰かに怒られるならば、口から出る言葉の“元”となる心の想いは、決して一種類ではないということだ。人の口から出る具体的な言葉は、その複雑な心の想いの一側面の表現にすぎないことが多い、と聡子は思う。チョコレートを見て「大好き」と言う人は、その言葉どおり、100パーセント「大好き」なのではなく、つい食べ過ぎた結果、胸を圧迫する感覚を思い出して、「それは嫌い」と心の中では思っていることもある。
 でも、「大好き」と言葉で言ってしまうと、自分も、それを聞いた人も、本当に大好きなのだと信じてしまう。そして、その「大好き」という方向にむかって人生を歩む--つまり、自他ともに“チョコレート大好き人間”として振る舞うようになる。大げさに言えば、言葉が人生を創造する。だから、「言葉は神さま」なのだった。
(ああ、いけない)
 と聡子は我に返った。
 また、考えの迷路で遊ぶ悪い癖が出ていた、と自分を反省した。窓際の白い空席を見て、ケンカ別れした架空のカップルのことを想像したところから、“迷路”に入ってしまった。この“架空のカップル”は自分と優との亡霊だ、と聡子は思った。そんな過去にしがみついていては、今の彼との関係をしっかり生きることはできない、と聡子は自分を励ました。
 彼女は、改めてその空席のテーブルの方に目をやった。すると、テーブル上に飲み口を下に伏せて置かれた1組のワイングラスの横に、もう1組の空のワイングラスが、飲み口を上に向けて立っているのに気がついた。
(ええ、なぜ?)
 と聡子は思った。
Illusioryglasses_2  よく見ると、上向きのグラスの輪郭はぼやけている。だから、それは実物のグラスではなく、窓に映って見える映像だった。でも、そのテーブルの上に載せられたグラスは、下向きのものが1組あるだけだ。では、上向きのグラスの映像はどこから来るのか? それを確かめようと、聡子は体を巡らせて自分の周囲を見た。正立している空のグラスがいくつか目に入った。いったいそのどれが映っているのか?……彼女はそれを確かめたくなったが、ふと思い直して再び窓際のテーブルを見た。そして、ずっと見続けていた。
 目の前の光景が、何ごとかを見事に象徴している、と聡子は思った。2つの空のワイングラスが、右側には伏せられ、左側には上を向いて並んでいる。伏せられたグラスは、カップルが食事の前であることを示している。上向きの空のグラスは、カップルが食事をすませたことを象徴している。つまり、物語の始めと終わりが、時間の経過なく、同時に1つの空間に存在する。
(これは、私と優のことだわ)
 と聡子は気がついた。そして、美しいと思った。
 二人はある日、ここで出会い、何回も食事をともにし、ワイングラスを傾けながら会話をはずませた。それで互いを理解し、たまには誤解し、短期間だが人生を共有した。でも、食事はいずれ終らなければならない。いや、終るほうがいいこともある。料理の味がすみずみまで満足できなくても、ワインが冷えすぎていても、会話が時に途絶えることがあっても、二人は食事前よりは互いを理解し、食事前よりは経験を豊かにし、食事前よりは満足をして、テーブルから立つことになる。そんな時に言う言葉は、「ごちそうさま」「おいしかった」「ありがとう」以外にはないはずなのだ。それが、どこにも汚れがない、上向きの空のワイングラスの意味に違いなかった。
「ありがとう、優。わたし結婚します」
 聡子の口から、穏やかで確信に満ちた言葉が漏れた。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月16日

言葉は神さま

Illusioryglasses  東京のホテルで一人食事をしながら、聡子は窓際のテーブル席がポツンと空いているのが気になっていた。
 寒風が吹く日曜日の夜で、泊まり客は少なかったから、レストランのテーブルがすべて埋まっていないのは、不思議ではない。事実、窓際の席だけでなく、内側の席も、中央に1つ、奥に2つというように、白いクロスだけが見えるテーブルが点々とある。もう夜も8時を回っていたから、これから食べに来る客はいないだろう。
 それなのに、その窓際の席だけに二組のフォークやナイフ、グラスなどがきちんと向かい合って並んでいる。そこには、まるで列車の特等席のように、天井からスポットライトが当てられているため、窓外の闇を背景にして、ナフキンやテーブルクロスが雪のように輝いて見えるのだった。
(予約をしたカップルが、何かの都合で来られなかった……)
 そんな想像が、聡子の脳裏をよぎった。とたんに、次の想像が心の余白を埋めようとする。
(二人とも来れなかったのは、仲違いしたからかしら……)
 すると、仲違いの理由についての、物語が浮かんできた。
(男性側が席の予約をしたとして、予約の取り消しをしなかったのは、彼の方が怒ったからね)
 聡子は、自分がレストランの予約をした場合のことを考えていた。都合が悪くなって食事に行けなくなれば、自分だったら店に取り消しの電話を入れる。でも、男性の場合は、そこまで気を遣わない人が多い。特に、怒りっぽい人は……。
 彼女も、優と電話で言い争いになったことがある。その時、特に彼と会う約束はしていなかったが、電話してきたのは優の方だから、もしかしたら彼がどこかの店を予約していた可能性はある……そんな考えが聡子の頭に浮かんだ。
(そうすると、どこかのレストランの一番いい席に、こんなふうに空きができるんだ……)
 そんな因果関係に初めて気づいて、聡子は何か目が覚めたように感じた。
 それは昔の話だった。今の彼とは、もっと注意深くつき合うようになっていた。優との失敗の原因は、自分だけの責任ではない。しかし、電話口のちょっとした言葉遣いが引き金になって、貴重な人間関係が壊れてしまうような愚かさはもう繰り返すまい、と決めていたのだ。
「言葉は神なり」という格言に出会ったのも、優と別れてからだった。
 最初は「なんて大げさな」と思った。「言葉の遊び」とか「言葉だけ」とか「口先で」「言葉尻」「巧言令色」など、言葉にはあまり価値がないという意味の言い方が多い中で、言葉を神さまに喩えるなんて非常識だと思った。でも、自分の経験を思い返し、またオフィスでの人間関係を観察していると、ちょっとした言い草で、ひと言多いために、またその逆に、そのひと言が言えないために……つまり、ある言葉を言うか言わないかで、人生の進路が変わっていく例を、いくどとなく目の当たりにするのだった。
 その逆のこともある。どんなに言葉を尽くしても、相手に自分の意思が伝わらないこと。同じ言葉を話していても、2人で意味が違うこと……。だから、この言葉さえマスターできれば、きっと神さまのように物事はうまく進む。そういう意味では、「言葉は神なり」という格言は確かに真理だと思った。

 谷口 雅宣 

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2011年1月15日

食糧危機への処方箋

 環境運動家のレスター・ブラウン氏が主宰する地球政策研究所が14日付で「The Great Food Crisis of 2011」(2011年に来る大食糧危機)という文章を配信した。これはアメリカの外交専門誌『Foreign Policy』の最新号に掲載されたもので、同研究所のウェブサイトにも転載された。私はすでに7日の本欄で、世界の食糧価格が高騰しているという国連食糧機関(FAO)の警告を紹介したが、ブラウン氏の文章はその高騰の背後に何があるかを分かりやすく説明している。

 ものの値段を決めるものは需要と供給であるということは、経済学の“初めの一歩”だから読者も十分心得ているだろう。すると、値段が上がるためには、供給が減るか、需要が増えるか、あるいはその双方が重なるか、ということになる。過去にあった食糧価格の高騰は、天候不順による作物の不足(供給の減少)が主な理由だった。その場合、不足分は在庫で補い、翌年に豊作となれば問題は解消する。が、今回の食糧価格の高騰は、従来のような供給減だけでなく、需要増も加わっているから、長期化するに違いないとブラウン氏は言うのである。
 
 まず「供給減」の理由を見ると、天候不順の要素が大きい。この点は前回(7日付)も書いたが、記憶にまだ新しいのは、昨夏、日本を含む世界各地を襲った熱波だ。今年に入っても、オーストラリア北東部で大洪水が起こっているし、ブラジルでも大雨によってリオデジャネイロ州で洪水が発生、350人以上の死亡者が出ている。このほか土地の浸食、地下水の枯渇、農地の減少、都市への水の転換、先進諸国での作物収穫量の頭打ち、氷河や極地の氷の融解など、すべてが収穫減につながっている。
 
 「需要増」の原因は、①人口増加、②経済発展、③バイオ燃料の拡大だ。私が大学に入った年(1970年)から比べると、世界人口は約2倍に増えた。今、その増勢はやや衰えたものの、人類の数は1年に8千万人増える。これは毎日、21万9千人が増えている計算になる。食糧を食べる口の数が増えるだけでなく、経済発展によって、人々は食物連鎖の階段を上る--つまり、肉食を増やし、卵や乳製品を多く摂取するようになる。さらには、バイオ燃料の使用が増えている。アメリカでは2009年に4億1600万トンの穀物が穫れたが、そのうち1億1900万トン--3億5千万人の1年分の食糧--はエタノール生産に回された。ヨーロッパでは車にはバイオディーゼルがよく使われるが、その主原料はアブラナとヤシ油だ。アブラナの生産増は、人間が食べる作物の作付面積を圧迫するし、ヤシの栽培により、インドネシアやマレーシアの熱帯雨林が伐採されている。
 
 これらがすべて加わることにより、人類の穀物消費量は、1990年から2005年までは年平均2千100万トンだったのに対し、2005年から2010年までは4千100万トンへ倍増したというのである。
 
 食糧価格の高騰は当然、インフレ圧力となる。また、食物やガソリンの価格安定のために補助金を出してきた多くの途上国の財政を圧迫する。この価格政策を緩和ないし撤廃すれば、途上国では暴動が起きる場合も出てくるのである。この14日、北アフリカの小国チュニジアで、大規模デモの中、大統領が国外逃亡して政権が崩壊した。このデモは12月中旬、高い失業率や物価高騰に抗議するために始まったが、政府の強圧的なデモへの鎮圧行動が国民の猛反発を招いたものだ。23年間続いた強圧政権があっけなく崩壊したのは、食品高騰だけが原因ではないが、国民の不満の主要因であったことは確かだ。途上国の中には政治的基盤が不安定な国は多くあるから、食品の高騰が引き金となってクーデターや紛争が起こる可能性はあるのだ。日本の隣国・北朝鮮の政治的安定にも関係するだろう。
 
 さて、こういう問題をどうすべきかを考えねばならない。ブラウン氏の処方箋は、明確である--今後の世界紛争は、大量で大規模な兵器をもった超大国間で起こるのではなく、食品不足や食糧価格の高騰によって起こる中小国の政治的混乱が原因になる。だから、各国政府は今や安全保障の定義を見直し、軍事費を削減して、気候変動の抑制や水資源の効率的活用、土地の回復、人口の安定などに国費をつぎ込むべきである。傾聴に値する話ではないか。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月14日

日経新聞が日時計ニュース?

Japancrime2010gc 『日本経済新聞』が今日の社会面トップに、「刑法犯、23年ぶり低水準」という5段抜きの見出しを掲げ、大きく報道した。サブの見出しは「昨年6.9%減、158万件に」だ。つまり、昨年1年間の日本の犯罪件数は、前年より6.9%減り、23年ぶりの低水準になったということだ。私はこの見出しを見て、「エッ、日本の新聞が日時計主義になったの!」と少々驚いた。なぜなら、日本の犯罪件数は昨年だけ減少したのではなく、「8年連続」で減少し続けているのに、これまではそのことが記事として大きく取り上げられなかったからだ。『日経』だけでなく、ほとんどすべての全国紙が無視するか、載せても小さくしか報道しなかった。その理由は多分、従来通りの“ニュース価値”についての判断基準のせいだ。

 それを、私がよく使う表現で言えば--「イヌが人を噛んでもニュースにならないが、人がイヌを噛んだらニュースになる」ということだ。つまり、よく起こることはニュースの価値がなく、めったに起こらない、異常なことがビッグニュースだと考えるのだ。この「異常な」という言葉には、「悪い」という意味が含まれている。だから、英語の表現でも「No news is good news.」(ニュースがないことがいいニュースだ)と言われる。

 私はこのことを生長の家講習会でも、本欄でも、また単行本の中でもよく取り上げ、「もっと明るいニュースを取り上げるべし」と訴え続けてきた。『日経』のこの記事を読んで、私はその訴えがようやく届いたのか……などとも考えたが、『日経』以外の新聞はこの“よいニュース”を取り上げていないので、『日経』には別の理由があったのかもしれない。が、とにかく、日時計主義主唱者の私としては、ひとまず「よくぞやってくださった」とお礼を述べておこう。
 
 ところで、『日経』を購読していない読者もいると思うので、この記事のリード文を引用して、何が事実であるかを確認しよう--
 
「2010年に全国の警察が認知した刑法犯は前年比6.9%減の158万5951件で、8年連続で減少したことが13日、警察庁のまとめ(暫定値)で分かった。1987年(昭和62年)以来、23年ぶりに160万件を下回り、昭和末期の水準まで回復した。ただ、おおむね110万~130万件台だった80年以前とは依然開きがあり、警察庁は“治安回復は道半ば”としている」。

 しかし、この事実は新しくはない。警察庁は昨年の12月16日にも、1~11月末までの統計にもとづいて、これと基本的には同じ意味の発表をしていて、『朝日新聞』は翌日の朝刊で2段組の見出しで「刑法犯 8年連続減少へ」と報じている。だから、『日経』はこの時の警察発表を材料にしたうえ、13日の発表の数字を加え、今日の朝刊の記事を仕上げたのだろう。つまり、この記事は『日経』の特ダネでも何でもなく、各社の担当記者は皆知っている事実だが、従来のニュース価値の基準にもとづき大きく取り上げなかっただけなのだ。
 
 ちなみに『朝日新聞』は、同じ日の紙面で、同じ警察発表のデータを使用していながら、「“ひったくりワースト1”は千葉」という見出しをつけて記事を書いている。記事の冒頭には、犯罪の全体の認知件数が8年連続減であることを書いてはいるが、見出しには「ワースト」が使われているため、読者へのメッセージは混乱する。『産経新聞』は同じデーターをもとにして第3面と社会面(24面)に2本の記事を書いているが、前者の見出しは「殺人容疑者 60代後半 前年比5割増」であり、後者の見出しは「犯罪最多 やっぱり大阪」である。いずれも、膨大な犯罪統計の中から“悪いところ”だけに焦点を当てて記事を作っていることが分かる。だから、全体の“よい傾向”は読者に伝わらない。
 
 では、昨年の158万6千件という日本の犯罪件数は、諸外国に比べてどうなのだろう? この件については、殺人事件に関して、私はすでに『足元から平和を』(2005年刊)に書いている。進化生物学者の長谷川真理子氏の言葉を紹介しているのだが--

「世界保健機関の最新のデータ(99年)によれば、日本の殺人被害者は人口10万人あたり0.6人で、主要国の中では最も少ない。フランス、英国、ドイツよりも少ないし、オランダやスウェーデンの半分にすぎない。米国と比べれば約10分の1だ。一方、殺人者の出現率も1.1人(02年、人口10万人当たり、未遂を含む)で、最低レベルになっている」。(pp.257-258)

『日経』が伝える昨年1年間の統計によると、「殺人事件(未遂を含む)は前年比2.5%減の1067件で2年連続の戦後最小」である。この数字をもとにして、昨年の殺人者の出現率を計算すると、人口10万人当たり「1.06人」ぐらいの数字になるから、2002年のレベルよりも確かに低い。だから、「日本社会はどんどん悪くなっている」などと言う人は、メディアの偏った情報を無批判に信じているか、あるいは政治的意図から発言していると考えた方がいい場合もあるのである。もちろん私は、「日本社会は現状でいい」とは言わない。しかし、よい点はよいと言う勇気と冷静さを失ってはならないと思う。

 谷口 雅宣

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2011年1月12日

ローマ法王新年のメッセージ (2)

 ベネディクト16世の新年のメッセージ「平和への道としての信教の自由」は、昨年10月末にバグダッドの教会であったテロ事件を最初に取り上げ、カトリック教徒に対して「暴力と不寛容の犠牲となっている信仰における兄弟のために祈り、彼らを支えてください」と呼びかけている。そして、その後に続けて、信教の自由が平和への道になることについて「若干の考察を行う」と書いている。その考察を行う理由は、2つあり--①世界の一部の地域で、生命と個人の自由を犠牲にしなければ自らの信仰告白ができない、②他の地域では、宗教者と宗教的象徴に対する偏見と敵意が、陰湿かつ巧妙な形で見られる、としている。そして、それに続き、次のような教皇の認識が書かれている--「現在、信仰を理由とした迫害をもっとも強く受けている宗教的グループはキリスト教徒です」。

 私は、この認識を読んで少なからず驚いた。なぜなら今、キリスト教は、少なくとも信者数においては、イスラームと世界を二分する勢力を維持していると考えていたからだ。その世界宗教を迫害するものがあるとしたら、それは何か? これについて、教皇のメッセージは具体的なことを何も表現していない。書かれているのは、上にも引用したように、「暴力と不寛容」や「偏見と敵意」が問題であるという言い方である。しかし、実際にカトリック教徒を攻撃しているのは、アルカイダ系のイスラーム過激派であることは明白だ。また、上の②にある「偏見と敵意」の主は恐らく、宗教無用論を唱える無神論者のことだろう。それをそう直接的に表現しないところが、カトリック教会のやり方なのだと思った。しかし、イスラーム過激派にしても、リチャード・ドーキンス氏のようなラディカルな無神論者にしても、キリスト教徒に比べれば数的にはごく少数である。それ対し、教皇がこれだけの危機感をもっていることは何か不思議な気がするのだ。
 
 さて、この“導入部”に続く考察の本文が、なかなか難解なのである。恐らく教皇は、信教の自由を保障し、宗教者や宗教的象徴を重んじる世界になれば平和が実現する、と言おうとしているのだろう。が、なかなかそういう“簡単な理論”は見当たらないのである。その代わりに、次のような文章が続く:
 
「信教の自由は、人間の人格の独自性を示します。なぜなら、わたしたちは信教の自由によって、個人生活と社会生活を神に向けることができるからです。人格の本質、意味、目的は、神の光に照らされることによって完全に理解されます。信教の自由を否定したり、恣意的に制限するなら、人間の人格をおとしめる見方を伸張させます。宗教の公共的役割を低下させるなら、不正な社会を作り出します。このような社会は人間の人格の真の本性を考慮しないからです。こうして人類家族全体の真の恒久的平和の発展が妨げられます」。
 
 この文中に使われている言葉には、恐らく深い神学的意味が込められているのだろうが、キリスト教神学に詳しくない私には、残念ながらそれが理解できない。教皇のメッセージの全体の量は、この文に続いて8ページほどあり、それを詳しく紹介していくことは、読者にとってはさらに難解になる恐れがある。そこで、もっと普通で平易な論理によって、まず「信教の自由」と「平和」との関連を述べ、それについて教皇のメッセージがどのような立場にあるかを調べることで、この問題の奥深さを知る努力をしようと思う。
 
 まず、「信教の自由」の一般的とらえ方を述べよう。これには、事典を引用するのが簡単だ。平凡社の『世界大百科事典』によると、信教の自由とは「信仰およびそれに伴ういっさいの表現の自由、したがってまた何ぴとも自己の信じない宗教儀式に参加しなくてよい自由が法律によって保障されること。基本的人権の一部をなし、人権獲得の先駆的役割を演じるとともにその精神的基盤となった」ものである。
 
 だから、信教の自由が存在する社会では、ある特定の宗教が説く“真理”に対して、それを信じることも信じないことも許されなければならない。また、ある人の信じる宗教の教義が爆弾テロや悪魔の存在を説いていても、それを行動に移すか移さないかは別として、その教義を信じること自体は自由に許されなければならない。となると、信教の自由とは、ヨーロッパ中世のような価値が単一化した社会ではなく、複数の価値があり、価値が相対化した社会が成立して初めて許されることになる。しかし、ここから直ちに「平和」が論理的に導き出されるとは思えない。なぜなら、現在の日本を含めた“先進諸国”の価値観は複数あり、それぞれが相対化されているものの、そこではテロや殺人、紛争や戦争は現実に起こっているからである。

 我々の経験を思い起こせば、オウム真理教の事件がそのよい例である。彼らは、教祖の説く悪との“最終戦争”を信じ、日本国家の統治機構を“敵”と見て、それに対して宣戦布告をした。これは“宗教テロリズム”と呼ばれて社会を騒然とさせたのだが、日本は信教の自由を憲法で定めているため、警察は彼らの信仰の内容を問題にして取り締まることはできなかった。このことを考えても、信教の自由が守られるということ自体が、平和を生み出すという直接的な因果関係は成立しないと言える。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月11日

ローマ法王新年のメッセージ

 東京にあるローマ法王庁大使館から教皇ベネディクト16世の元旦のメッセージ「平和への道としての信教の自由」(Religious Freedom,The Path to Peace)を郵送していただいた。信教の自由の価値を強調し、それを妨げる勢力に反対し、それを奪われている信徒に対して信仰を守るよう激励する内容だ。この種の正式メッセージが私宛に届くのは初めてだったので、注意して読ませていただいた。英文のメッセージに、カトリック中央協議会事務局による日本語訳がついている。が、かなり難解な文章だった。カトリックで使われる用語に私自身が不慣れであるためかもしれないが、扱われている主題が生長の家が目指すものとも大いに関係しているので、本欄で紹介すべきと思う内容について少し書いてみよう。
 
 ローマ法王庁は1月1日を「世界平和の日」として、この日に向けて毎年メッセージを出しているようだが、今回のメッセージの日付は昨年の12月8日だ。このタイミングで「信教の自由」に関して教皇が危機感を抱いていたと思われることは、2つある--①イラクを含む中東でのキリスト教徒の迫害、②中国政府によるカトリック教徒の支配。実際、昨年のクリスマスに際してベネディクト16世が発したメッセージには、この2つが含まれていた。12月27日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』によると、教皇は2003年のイラク戦争開始時点から、中東地域にいるキリスト教徒の窮状について特に心配していたらしい。この地域では、イラク戦争を“キリスト教国のイスラームに対する攻撃”と捉える見方が支配的だったからだ。そして、この問題は、昨年10月に行われた世界代表司教会議(シノドス)でも話し合われたという。
 
 12月24~26日の上掲紙によると、イラクでは、テロへの恐怖から昨年のクリスマスには公的な祝祭が一切行われなかったらしい。祝祭だけでなく、サンタクロースの恰好をすることもやめるように通達が出された。なぜなら、10月31日には首都バグダッドのキリスト教会で68人が殺され、その後も同教会近郊のキリスト教徒居住地は爆弾攻撃にさらされたし、アルカイダ系の過激派からの脅迫もあったからという。その結果、イラクにいた約千組のキリスト教徒の家族が国外へ脱出したらしい。
 
 これに加えて、中国とバチカンとの関係は悪化している。1月8日の『朝日新聞』には、昨年11月に、中国政府の息がかかったカトリック団体が教皇の意向を無視して司教を任命したこと、また12月の上旬には、北京市内の老舗ホテルで中国カトリック教会(天主教)の人事などを決める最高議決機関が、政府によって秘密裏に開かれたことなどが書いてある。ベネディクト16世はこれらに抗議して、クリスマスのメッセージでは、中国国内の信徒を特定して、「彼らの信教の自由と良心の上に科せられた制限や重圧に負けない」よう激励している。中国国家宗教局の統計では、同国内のカトリック教徒数は約400万人らしいが、非公認の教会を含めるとその数は1200万人になるという推計もある。
 
 さらに、今年に入ってからは、エジプトでキリスト教徒への攻撃があった。これはまだ、読者の記憶に新しいかもしれない。攻撃に遭ったキリスト教徒は「コプト教徒」と呼ばれ、1月1日の未明に、エジプト北部の地中海を臨む都市、アレクサンドリアで、新年のミサが行われていた教会前で爆発が起こり、23人が死亡し、100人近くが負傷した。この攻撃に先立って、イラクのアルカイダ系組織の警告があった。12月23日の『トリビューン』紙によると、アルカイダのイラク前線組織である「イラク・イスラム国」(The Islamic State of Iraq)は、ウェブサイトを通じて、エジプトのコプト教会に捕らえられた女性2人を解放しないかぎり、イラクでのキリスト教徒の攻撃を続けると宣言した。この脅迫は、エジプトにいるイスラーム過激派が、それ以前にコプト教会に対して同じ非難をしたことを受けたものだ。が、コプト教会ではその事実はないと否定している。
 
 コプト教会は、紀元1世紀ごろからエジプトで独自の教義を発展させたキリスト教の一派だから、カトリック教会には所属しない。しかし、エジプトの人口(約8300万人)の1割を占めると言われるから、教皇ベネディクト16世の新年のメッセージにある「信教の自由」への心配には、これらのキリスト教徒の窮状が含まれていることが十分考えられるのである。このような背景を知って今回のメッセージを読むと、教皇の危機感が理解できるのである。
 
 谷口 雅宣 

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2011年1月 8日

「SNS」という国

「SNS」という言葉が脚光を浴びている。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(social networking service)という英語の頭文字を取ったもので、日本語では「交流サイト」とか「人脈サイト」などと訳されることが多い。生長の家では3年前、前生長の家総裁、谷口清超先生が逝去された際、アメリカの大手SNS「フェースブック」(Facebook)上に清超先生への感謝の言葉を登録するために、「谷口清超先生、ありがとうございます!」(2008年10月30日本欄 )というサイトを作ったのが、初期の利用だった。その後、2009年1月には、同じフェースブック上に英語でネット誌友会をする「生長の家ブッククラブ」というグループを作って活動した。(2009年1月25日本欄参照 )また2009年には、日本語、ポルトガル語、英語の3カ国語による非公開の作業グループを同サイト上に作って、日本、ブラジル、アメリカの3カ国の幹部によって、その年の「世界平和のための生長の家教修会」の準備をした。
 
 これらの活動によってSNSの効用が明らかになったので、2009年の11月には、生長の家独自の交流サイト「ポスティングジョイ」(postingjoy)を発足させ、ネットを通じて“喜び”を広める活動を開始し、約1年後の昨年10月には、この活動をさらに世界に広げようと、ポスティングジョイの「ポルトガル語版」と「英語版」のサイトを立ち上げたのだった。(10月7日本欄)今日現在、同サイトの日本語メンバーは2008人だが、ポ語メンバーは356人、英語メンバーは41人である。
 
 これに対して、世界の人々のSNS利用は爆発的に伸びている。『日本経済新聞』は年初からSNSの急成長を特集記事で伝えているが、その中で、アメリカの著名投資家、ジョン・ドーア氏(John Doerr)の言葉を引用して、SNSは80年代のパソコン、90年代半ばのインターネットに次ぐ「第3の波」だと形容している。なぜなら、ミニブログのツイッターの利用者は2億人になり、フェースブックの会員にいたっては5億人にも膨れあがっているからだ。「5億人」という規模は、中国の人口(約13億5千万人)、インドの人口(約12億人)に次ぐ人数だから、世界第3位の“人の集団”がネット内の1サービス上で常時活動していることになる。さらに、フェースブック外のネット利用者も含めた“ネット人口”は、今や「20億人」に上ると推定されている。これらの人々は基本的に教育があり、パソコンを使える“中産階級のインテリ集団”だから、それを無視した活動は、政治的にも、経済的にも、また宗教運動としても、今後は世界から取り残されていくことになるだろう。

 この中で日本のSNSを見てみると、その違いに気がつく。1月7日付の『日経』の記事では、2009年時点での日本のネット利用者数は、総務省の統計で9408万人にもなるが、SNSの利用者は携帯電話経由が多く、携帯向けSNSサイト利用者数が約4500万人。パソコン向け大手の「ミクシイ」利用者は2千万人以上という。つまり、携帯偏重の傾向がある。しかも、自分の実名を使うことが少ない。というよりは、日本のSNSの“仕様”として仮名を使うことになっている。これに対して、フェースブックやリンクトイン(LinkedIn)などアメリカ発祥の大手SNSは実名が原則だ。この違いは重要だと思う。
 
 本欄の読者はご存じと思うが、私は本欄へのコメントの書き込みを実名でお願いしている。何らかの事情で実名でのコメントが難しい場合は、個人的にメールで実名を教えていただいた場合は、コメントを公開する場合がある。なぜなら、ネット上での仮名を使った発言は基本的に無責任だからだ。これは、匿名での手紙の内容に信憑性がないのと同じである。また、顔を隠して人と話をすることで、信用など得られないのと同じである。それが社会の常識であるはずなのに、日本のSNSでは、常識がまだ通用しない。それは恐らく、わが国ではネットが一種の“社会からの逃避場”とされている要素がまだ強いからだろう。

 これに対して実名で書き込む情報は、信用を得やすい。信用される情報は、正しく使えば社会を動かす力をもっている。例えば、昨年来、大規模リコールでブランド・イメージが傷ついたトヨタ自動車は、フェースブックを使って利用者の好意的な声を拾ったところ、1万人以上の参加を得て、その一部をテレビCMに流してイメージ挽回を図った。また、コーヒーチェーン最大手のスターバックスは、同じフェースブック上に設けたファンページを通じて、約千九百万人にメッセージを伝えているし、スポーツ用品大手のナイキも、ファンページに350万人の“ファン”を抱えて、消費者との直接交流を図っている。

 日本人の中にも実名で自分を語る利用者は増えつつあり、7日の『日経』の記事は、フェースブックの日本からの登録者数が200万人を超えたと推測している。このような流れもあるため、私も最近、フェースブック上に「生長の家総裁」(Seicho-No-Ie President)のファンページを立ち上げた。英語のページでまだ参加者は少ないが、ネット社会における“パイロット・オフィス”のつもりである。興味のある読者は、覗きにきてほしい。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月 7日

食糧価格が上がっている

 昨年来、世界の食糧価格が高騰している。2007~2008年には、これが原因でカメルーン、エジプト、ハイチ、ソマリアなど各地で暴動が起こったが、昨年12月には食糧価格がそのレベルに近づいたとして国連の食糧業機関(FAO)は6日、警告を発した。7日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』が、これを大きく扱っている。同紙の記事によると、食糧価格高騰の要因には昨年来の天候不順がある。猛暑に襲われたロシアが穀物禁輸をしたことは本欄(8月20日)にも書いたが、大洪水に見舞われたパキスタンに日本も自衛隊のヘリコプター部隊を派遣したことは、まだ記憶に新しい。これらが影響して、昨年1年間で小麦の値段は47%上昇し、アメリカのトウモロコシ価格は50%、ダイズは34%、それぞれ上昇しているという。
 
Foodprices  昨年8月23日の本欄では、世界の食糧事情の悪化についてまとめて書いたが、その後、9月15日には飢餓人口が減少したことを報告し、一見、矛盾した形になった。その際、食糧事情の将来について“楽観論”と“悲観論”を紹介し、私としてはレスター・ブラウン氏などが唱える“悲観論”を支持したのだが、どうやら悪い方の予測が当たってしまったようだ。ただし、前回の食糧危機に比べて、まだよい点もある。その1つは、ここに掲げたグラフにあるように、穀物の値段が2008年のレベルに比べてまだ大分低いことだ。また、アフリカ南部の国々の作物の生育が比較的に良好なこともある。ただし、オーストラリア北東部の洪水の影響はマイナス要因である。また、同紙の記事では、FAOの経済学者、アブドルレザ・アバッシアン氏(Abdolreza Abbassian)が、旱魃になっているアルゼンチンでのトウモロコシとダイズの収穫量を心配している。
 
 天候不順だけでなく、食糧価格の高騰の要因で見逃せないのは、経済発展が進む中国、インド、インドネシアなどでの消費拡大である。日本もこの道を歩いてきたからわかるだろうが、経済状態が向上してくると、人間は肉食を増やすようになる。肉食の弊害はすでに何度も書いたが、食糧価格高騰との関係で改めて言えば、肉食が増えると、家畜の飼料に回される穀物の量が増大することになり、穀物消費全体が増える。そして、この動きは長期にわたって続くもので、簡単には止められない。しかも今、経済成長を続けている国はどこも人口が膨大であり、若年人口も多い。そして、これらの国々での経済成長は、深刻な環境破壊を伴っている--こう考えていくと、従来型の「経済成長」は、問題の解決よりは、問題の増幅に寄与する要素が大きいということがわかるだろう。

 2008年の“食糧危機”で被害が大きかった国のいくつかは、すでにインフレ対策に着手している。中国では、何カ所もの市で食糧価格の統制を始めた。コメ輸出国であるベトナムでは、昨年11月に国内価格安定のために輸出量を制限することを宣言した。インドネシア政府は、1月6日の会議で食糧価格の安定について審議し、貿易相がインフレ抑制のため、国民に自家消費のトウガラシを植えるよう求めた。昨年1年間で食糧価格が18%上昇したインドでは、政府が今月、銀行の貸出金利を上げると見られている。
 
 パキスタンでは政変が起こりそうになった。とは言っても、これは食糧価格の高騰によるのではなく、ガソリンなどの燃料価格との関係である。しかし、バイオ燃料が大量に使われるようになった今日では、燃料価格は食糧価格と連動している。ちなみに世界の原油価格は、1バレル3桁台に上がった2008年のレベルに近づいている。しかし、先進諸国の不況のおかげで在庫量が増え、精製施設の整備や新規油田の発見などもあって、すぐには3桁にはならないというのが、大方の専門家の見方だ。が、パキスタンを含めた途上国の多くは、国内の灯油やガソリン価格を低く抑える統制をしている。この政策のおかげで財政の負担が増しているため、パキスタンのギラニ首相は、昨年暮れにガソリンなどの燃料の小売価格を引き上げる決定をした。ところがこれに反対して、連立を組んでいた民族運動(MQM)が政権から離脱してしまったのだ。そこで同首相は、6日になって値上げ撤回を表明し、MQMとの連立が復活したということだ。

 パキスタンの政権安定は、アメリカのアフガニスタン作戦にとって大変重要であり、それとの関係で日本の外交政策にも影響がある。パキスタンでは最近、イスラーム過激派に批判的なプンジャブ州知事が暗殺されるという事件があり、これを機に国内の対立が増大している。このようなつながりを考えていくと、「気候変動 → 作物の収穫減 → 食糧価格高騰 → インフレ → 政治の不安定化」という関係が見えてくると思う。だから、平和の維持や国の安全保障のためには、軍事力の増強だけでなく、CO2の排出削減や農業の振興も重要な政策なのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月 4日

“ながら族”は肥満しやすい

 新年に入って“よいニュース”を2つ入手した。いずれも我々の食事に関することで、肥満防止のコツを教えてくれている--①食事はしっかり味わって食べよう、②異常な食欲は散歩で解消せよ。この2つは決して耳新しいアドバイスとは言えないが、私を含めて正月の食べ過ぎを気にする人、特に携帯電話やパソコン等から目が離せない人にとっては、この機会に思い出しておくことは有意義かもしれない。

 4日付の『ニューヨーク・タイムズ』電子版によると、食事をしながらメールを打ったり、テレビを見たりする人は、そうでない人よりも1日に食べる量が多くなるという。この研究では、22人からなる2組のボランティア・グループに頼んで、一方のグループには一定時間の食事中にパソコンゲームの「ソリティア」をしてもらい、他方は同じ時間に食事だけをしてもらった後、①食後の満腹感、②30分後の“味のテスト”の際の食事量、③食べたものの記憶の正確さ、の3点を比べた。ただし、実験に参加したボランティアには、この実験の目的は、食べ物の記憶への影響調査だと説明したという。その結果、“ながら族”のグループの人は、自分が何を食べたかをよく憶えていなかっただけでなく、食べた後も満腹感が相当少ないことがわかった。この結果は、身長や体重が同等の人同士で比較しても同じだったという。また、食後30分に行ったクッキーを食べる“味のテスト”では、“ながら族”のグループの人は、そうでないグループの人の倍の量を食べたという。
 
 この研究に関わったジェフリー・ブランストローム博士(Jeffrey M. Brunstrom)は、イギリスのブリストル大学で行動栄養学(behavioral nutrition)を研究している。同博士によると、「パソコンの画面を見るなど、食べ物への注意を反らすような食事をやめれば、その後でスナックが食べたくなるのを防ぐことができるかもしれない」という。また、「問題は、自分が何を食べたか思い出せない点にある。記憶は、食事量の制御に重要な役割を果たしているのに、食事中に別の何かに注意を反らしていると、その記憶が形成されない」という。

 同紙のもう1つの記事は、特に“ながら族”だけを対象にしているのではなく、食欲全般を、またタバコやチョコレートなど特定の嗜好物への欲求を制御するためには、「軽快な散歩」をするのが効果的であることを、過去のいくつかの研究結果から引用している。例えば、2008年に行われた研究では、“チョコレート愛好者”(1日に板チョコを2枚以上食べる人)を集め、3日間チョコレートを食べさせないでおいた後、神経を使うテストをさせた。そして、そののちに銀紙をむいた板チョコを示して欲求の程度を調べたという。すると、トレッドミル上で適度の速さで15分間歩いた人は、そうでない人よりもはるかに少ない欲求を感じ、板チョコを触らせても血圧が上がらないことが分かったという。また、タバコへの欲求についても、2005年に行われた研究で、やはり15分間の散歩を行えば、欲求が急速に減退することが分かっている。さらに、2007年の研究では、短時間の散歩は、喫煙の欲求を減らすだけでなく、中毒症状を和らげ、喫煙の間隔を広げる効果をもつことがわかっているという。

 私は最近、東京の街頭を堂々と歩きながら食事をする若い女性とすれ違って驚いたことがあるが、こういう人はたぶん、耳にはイヤフォーンを差し、軽快な音楽を流しながら、さしずめ「自分はマルチタスクをこなし、時間をムダに使わない優れた生き方をしている」と思っているのだろう。彼女の表情には、何ら羞恥心のようなものは表れていなかった。しかし、どこかの本にも書いたが、このような注意散漫な生き方は、耳からの情報も、舌からの情報も、視覚や触覚からの情報も、きちんと処理されず、記憶に残らず、したがって「生きている」という実感が得られないということが、ここに掲げた研究結果からも言えると思う。そんなところから、「もっとほしい」という食欲の肥大化が起こるのではないだろうか。今の情報氾濫時代には、その処理を自ら正しく選択的に行う努力が必要なのである。
 
 谷口 雅宣

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2011年1月 2日

ウサギに因んで思うこと

 昨日の元旦は、午前10時から東京・原宿の生長の家本部会館で新年祝賀式が行われた。穏やかなよい日で、東京近県からも多くの信徒の方々が参加され、私は概略次のような「年頭の言葉」を述べた:
 
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 皆さん、明けましておめでとうございます。
 今年も元旦がよい天気に恵まれ、皆さまと共にすがすがしい気持で新年を迎えることができたことを心から感謝申し上げます。ありがとうございます。関東地方は幸い、このようなよい天気ですが、西日本や北陸では年末から雪が降り積もっているようで、生長の家総本山がある長崎県では過去最大の積雪量を記録したということです。また、鳥取県の倉吉あたりでは、豪雪のため道路が不通となり、千台もの車が立ち往生しているというニュースもあります。このように最近の異常気象や気候変動には、なかなか厳しいものがあります。
 
 今年はウサギ年ということで、巷にはウサギを象った置物や縫いぐるみなどがたくさん飾られています。実は、私は今年「年男」なのであります。十二支が5回まわってくると、ちょうど還暦になる計算です。現象世界の時間の経過はとても速く感じられます。昔の数え年で言えば私はもう「60歳」です。本人にとっては嘘のようですが、私はまもなく“老境”を迎えることになるわけです。そのことで思い出すのは、1年ほど前に、愛知県の講習会があったときに名古屋のホテルに泊まったのですが、そこのエレベーターの中で、5歳ぐらいの男の子のいる家族と居合わせました。すると、その男の子が私の顔を見て、いきりなり「あっ、おじいちゃん……」と言ったのですね。どういう意味か正確には分かりませんが、たぶん私の顔が彼のおじいちゃんに似ていたのではないでしょうか。私はこの時、ハッと現実に引き戻された気持になりました。若いつもりが、寄る年波には勝てないということです。その時が、私が「おじいちゃん」と呼ばれた最初でした。しかしまあ、本人はまだ中年のつもりなので、皆さまには本年のみならず、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 
 さて今日は、組織運動の観点から、ウサギにちなんだ2つの諺をご紹介したいと思います。1つは、「ウサギ死すればキツネこれを悲しむ」というもので、もう1つは「ウサギの上り坂」です。最初の諺は、同類の不幸を見て同情し、明日は我が身と悲しむことのたとえのようです。ウサギとキツネは外見は違っていますが、ここでは同類として扱われています。「ウサギ死してキツネ悲しむ」とも言うようです。しかし、日時計主義の立場からいえば、この表現は暗くていただけないので、「ウサギ喜べばキツネこれを喜ぶ」と言い換えたいのであります。これはまた、仏の四無量心の「喜徳」を表すことにもなります。
 
 私たちの運動では、相・白・青の3つの組織が独立して進める形態が永年にわたって続いてきました。しかし近年になって、この“縦割り”組織の運動形態が日本社会の現状に合わなくなって、弊害が目立ってきました。これは、人々の生活形態やライフスタイルの変化によるものです。日本社会は明治以来の「男女席を同じうせず」式の生き方がずいぶん変化してきているのです。今では「どぼじょ」という言葉まであるそうです。これは「土木系女子」の略称で、土木業界で現場に出る女性社員のことを言うそうです。(『朝日』12/15/10夕刊)また、晩婚化が進んでいるので、昔ながらの「青年」と「中年」の区別がつきにくくなってきました。40歳で初婚などというケースも珍しくなくなってきた。だから、これまでの性別や年齢別の組織の考え方は、社会の実態とかけ離れてきたと言わねばなりません。そこで、私たちも“縦割り”を強調する運動から、“横のつながり”を重視する運動へと移行していく必要があるわけです。
 
 こう考えていくと、「ウサギ死すればキツネこれを悲しむ」--また、これを言い換えた「ウサギ喜べばキツネこれを喜ぶ」という標語は、私たちの運動にとって意味のあるものとなります。白鳩会と相愛会のどちらが「ウサギ」でどちらが「キツネ」かはあえて申しませんが、両組織に属する人たちが、お互いを“同類”として--つまり、光明化運動の仲間として、同志として認め合い、それぞれの長所を生かして助け合っていく運動を、ウサギ年の本年を機にこれからどんどん進めていこうではありませんか。ただし、これだけでは、組織の特徴や独自性が失われる危険性があるので、もう1つの諺の出番となるのであります。
 
 それは、「ウサギの上り坂」でした。この諺は、得意の分野で実力を発揮することのたとえでした。また、物事がよい条件に恵まれて早く進むことのたとえでもあります。ウサギという動物は、前足が短くて後ろ足が長いのです。だから、上り坂を上手に速くのぼることができる。そこから「ウサギの上り坂」という言葉が出ています。だから、白鳩会、相愛会、青年会の皆さんは、それぞれの得意分野においては自信と責任をもって「ウサギの上り坂」を上ってほしい。例えば、白鳩会の会員なら、生活に密着した分野で伝道や組織づくりを進め、相愛会は職場や男同士の関係の中で教えを伝え、青年会員は新鮮な発想と行動力、あるいは最近顕著に発達してきた情報活用の技術を生かした運動を展開するなど、特徴や長所を生かしていただきたい。しかし、組織相互の関係では「ウサギ喜べばキツネこれを喜ぶ」ように、3組織ともにエンパシー(感情移入)の能力を発揮して協力関係を深めてほしいのであります。
 
 それではこれをもちまして、平成23年--2011年の新年を迎えての所感といたします。どうか本年もよろしく真理宣布と実践の運動にご協力ください。ありがとうございました。

 谷口 雅宣

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2011年1月 1日

新年のごあいさつ

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