天照大御神について (3)
「天照大御神」という女性太陽神を正面に掲げていることが日本の神話の特徴の1つだと言えることと、『古事記』の“作者”とは関連があるかもしれない。もし“作者”が女性であれば、作品の中に描かれた太陽神も女性的になるか、少なくとも女性蔑視の物語を作品の中には入れにくいと思われるからだ。ただし、この推論は、あくまでも現代人が文学作品を書く状況から考えたものだから、古代人が伝承されてきた神話を文字に表すときの状況には、必ずしも当てはまらない可能性はある。
『古事記』の成り立ちについて、一般の私たちは単純な理解をしてきたのではないだろうか。それはつまり、『古事記』は日本最古の書物で、『日本書紀』はそのあとの国史編纂事業によって生まれた“正史”である、というような理解である。その一例を示せば、早大文学部名誉教授の水野祐氏は『日本神話を見直す』の中で、こう書いている--「『記』は元明天皇の和銅5年(712)正月28日に勅命をうけた太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)が編纂し献上した現存する最古の史書である。」(p. 36)
この記述は、しかし、『古事記』の序文に書いてあることをそのまま事実としたものだ。平凡社の『世界大百科事典』(1988年)の「古事記」の項目を書いた倉塚曄子氏は、同書の編纂事情を語るものはこの序文だけだと書いたうえで、序文の内容を、次のように簡潔にまとめている--
「天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に資料となる<帝紀・旧辞>を誦習させたが、完成せず、三十数年後、元明天皇の詔をうけて太安万侶がこれらを筆録し、712年(和銅5)正月に献上したとある。」
この稗田阿礼という人物のことだが、倉塚氏は「男性であったとする説もあるが、神の誕生を意味するアレという名や≪古事記≫の内容からして、巫女とみた方がよい」としている。阿礼が巫女であった場合、彼女はどうやってあの大部の『古事記』を誦習したのだろうか。「誦習」とは、紙に書かれた古い記録を見て学習したり、書写するのではない。当時の日本にはまだ文字が十分普及しておらず、教育を受けた一部の高官(すべて男性と思われる)が中国語である漢字を学び、使っていたにすぎない。だから、女性である阿礼は漢字が読めない。すると、人から聴いた伝承を口で唱えて憶えたということだろう。それを三十数年後になってスラスラと暗唱した、というのである。
前回紹介した溝口睦子氏の描写によると、天武天皇の勅命(681年)以降の『古事記』編纂の過程は、次のようになる--
「しかし天武天皇は、この仕事が書物として完成しないうちに没し、その後三十年の歳月が経過する。和銅4年(711)9月18日、時の天皇元明は、太安万侶に“稗田阿礼がよんだ、天武天皇の勅語の旧辞を、撰録して献上するように”と勅命を下した。翌年(712)の正月28日、勅命を受けてから僅か4カ月余りで、安万侶が見事に文章化して献上したのが『古事記』3巻である」。(p.194)
そんなことは人間業として不可能だから、この『古事記』の序文の記述は史実でないとする見解は少なくない。溝口氏はこの点について、「記憶力抜群で、古い記録の多種多様な表記や訓(よ)みを一度見たらけっして忘れない、優秀な官人(舎人)である稗田阿礼を選んで“帝紀・旧辞”の勉強をさせた。そして阿礼を相手に、周囲に補助する人は多数いたであろうが、天武はみずから歴史書の骨格を組み立てたのではないか」(p.193)と推測している。
『古事記』はだから、女性と思われる稗田阿礼という人物だけを直接のソースとして書き下ろされた、と考えられる。とすると、『古事記』の中に女性の観点がいくばくか混入していたとしても不思議はない。さらに譲って、仮に阿礼がテープレコーダーのような記憶によって、自分の考えなど決して付け加えずに、大部の帝紀・旧辞をそのまま暗唱できたとしても、重要な国家事業である歴史書の編纂に女性を深く関わらせるという当時の支配層の考え方が、『古事記』所収の物語の中に反映している可能性は大いにあると言えるだろう。
谷口 雅宣
【参考文献】
○水野祐著『日本神話を見直す』(学生社、1996年)
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コメント
>>重要な国家事業である歴史書の編纂に女性を深く関わらせるという当時の支配層の考え方が、『古事記』所収の物語の中に反映している可能性は大いにあると言えるだろう。<<
古代日本民族の寛容性、平等性、先見性、現代に適用できる知恵が隠されていると感じました。ありがとうございます。
本田 恵
投稿: 本田 恵 | 2011年1月25日 08:00