« ローマ法王新年のメッセージ | トップページ | 日経新聞が日時計ニュース? »

2011年1月12日

ローマ法王新年のメッセージ (2)

 ベネディクト16世の新年のメッセージ「平和への道としての信教の自由」は、昨年10月末にバグダッドの教会であったテロ事件を最初に取り上げ、カトリック教徒に対して「暴力と不寛容の犠牲となっている信仰における兄弟のために祈り、彼らを支えてください」と呼びかけている。そして、その後に続けて、信教の自由が平和への道になることについて「若干の考察を行う」と書いている。その考察を行う理由は、2つあり--①世界の一部の地域で、生命と個人の自由を犠牲にしなければ自らの信仰告白ができない、②他の地域では、宗教者と宗教的象徴に対する偏見と敵意が、陰湿かつ巧妙な形で見られる、としている。そして、それに続き、次のような教皇の認識が書かれている--「現在、信仰を理由とした迫害をもっとも強く受けている宗教的グループはキリスト教徒です」。

 私は、この認識を読んで少なからず驚いた。なぜなら今、キリスト教は、少なくとも信者数においては、イスラームと世界を二分する勢力を維持していると考えていたからだ。その世界宗教を迫害するものがあるとしたら、それは何か? これについて、教皇のメッセージは具体的なことを何も表現していない。書かれているのは、上にも引用したように、「暴力と不寛容」や「偏見と敵意」が問題であるという言い方である。しかし、実際にカトリック教徒を攻撃しているのは、アルカイダ系のイスラーム過激派であることは明白だ。また、上の②にある「偏見と敵意」の主は恐らく、宗教無用論を唱える無神論者のことだろう。それをそう直接的に表現しないところが、カトリック教会のやり方なのだと思った。しかし、イスラーム過激派にしても、リチャード・ドーキンス氏のようなラディカルな無神論者にしても、キリスト教徒に比べれば数的にはごく少数である。それ対し、教皇がこれだけの危機感をもっていることは何か不思議な気がするのだ。
 
 さて、この“導入部”に続く考察の本文が、なかなか難解なのである。恐らく教皇は、信教の自由を保障し、宗教者や宗教的象徴を重んじる世界になれば平和が実現する、と言おうとしているのだろう。が、なかなかそういう“簡単な理論”は見当たらないのである。その代わりに、次のような文章が続く:
 
「信教の自由は、人間の人格の独自性を示します。なぜなら、わたしたちは信教の自由によって、個人生活と社会生活を神に向けることができるからです。人格の本質、意味、目的は、神の光に照らされることによって完全に理解されます。信教の自由を否定したり、恣意的に制限するなら、人間の人格をおとしめる見方を伸張させます。宗教の公共的役割を低下させるなら、不正な社会を作り出します。このような社会は人間の人格の真の本性を考慮しないからです。こうして人類家族全体の真の恒久的平和の発展が妨げられます」。
 
 この文中に使われている言葉には、恐らく深い神学的意味が込められているのだろうが、キリスト教神学に詳しくない私には、残念ながらそれが理解できない。教皇のメッセージの全体の量は、この文に続いて8ページほどあり、それを詳しく紹介していくことは、読者にとってはさらに難解になる恐れがある。そこで、もっと普通で平易な論理によって、まず「信教の自由」と「平和」との関連を述べ、それについて教皇のメッセージがどのような立場にあるかを調べることで、この問題の奥深さを知る努力をしようと思う。
 
 まず、「信教の自由」の一般的とらえ方を述べよう。これには、事典を引用するのが簡単だ。平凡社の『世界大百科事典』によると、信教の自由とは「信仰およびそれに伴ういっさいの表現の自由、したがってまた何ぴとも自己の信じない宗教儀式に参加しなくてよい自由が法律によって保障されること。基本的人権の一部をなし、人権獲得の先駆的役割を演じるとともにその精神的基盤となった」ものである。
 
 だから、信教の自由が存在する社会では、ある特定の宗教が説く“真理”に対して、それを信じることも信じないことも許されなければならない。また、ある人の信じる宗教の教義が爆弾テロや悪魔の存在を説いていても、それを行動に移すか移さないかは別として、その教義を信じること自体は自由に許されなければならない。となると、信教の自由とは、ヨーロッパ中世のような価値が単一化した社会ではなく、複数の価値があり、価値が相対化した社会が成立して初めて許されることになる。しかし、ここから直ちに「平和」が論理的に導き出されるとは思えない。なぜなら、現在の日本を含めた“先進諸国”の価値観は複数あり、それぞれが相対化されているものの、そこではテロや殺人、紛争や戦争は現実に起こっているからである。

 我々の経験を思い起こせば、オウム真理教の事件がそのよい例である。彼らは、教祖の説く悪との“最終戦争”を信じ、日本国家の統治機構を“敵”と見て、それに対して宣戦布告をした。これは“宗教テロリズム”と呼ばれて社会を騒然とさせたのだが、日本は信教の自由を憲法で定めているため、警察は彼らの信仰の内容を問題にして取り締まることはできなかった。このことを考えても、信教の自由が守られるということ自体が、平和を生み出すという直接的な因果関係は成立しないと言える。
 
 谷口 雅宣

|

« ローマ法王新年のメッセージ | トップページ | 日経新聞が日時計ニュース? »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。