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2010年12月16日

信仰者の“過激化”

 関東地方はこのところ晴天続きで、心が晴れ晴れする。しかし、国際テロをめぐる最近の一連の出来事とアメリカの外交政策との関係を眺めていると、私の心には暗い影が差す。日時計主義を推進する立場の私としては、このコントラストに戸惑わずにいられない。が、テロの問題は宗教とも関係する重要なテーマの1つとして本欄で扱ってきており、日本の外交政策とも密接に関係しているので、「現象としてはこういう事態にある」という観点から少々述べさせていただきたい。
 
 12月12日だったと思うが、スウェーデンのストックホルム中心街でテロ未遂事件が起こったのを読者は記憶しているだろうか? 「未遂」とは言っても、実行犯は2回にわたって爆弾を破裂させ、2回目に自爆した。被害者は自爆犯1人だったから、普通は「めでたし、めでたし……」ですまされそうだが、関係各国のテロ対策部門はそれほど楽観的でないようだ。自爆テロの実行犯は、タイムール・アブドルワッハーブ・アル=アブダリー(Taimour Abdulwahab al-Abdaly)という28歳のイラク系スウェーデン人で、イギリスのロンドンの北に位置するベッドフォードシャー大学を出たインテリである。専攻はスポーツ療法(sports therapy)らしい。
 
 15日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)』紙によると、アブダリー氏は2004年に結婚し、イギリスには妻と3人の子供がいて、『ナショナル・ジオグラフィック』誌に興味を持ち、アップル社の iPad がお気に入りだったという。その一方で、自分自身を「真面目な信仰者」(deeply religious)と呼び、大学卒業後は、短期間だがベッドフォードシャーにある小さなモスクに通っていたという。--こういう情報の中には、当局によって未確認のものもあるが、フェースブックの自分のページにはそう書いてあったという(現在、アブダリ-氏のページは閲覧不能)。これらが事実だとすれば、アブダリー氏は“普通のスウェーデン人”であるだけでなく、スウェーデン以外のヨーロッパ諸国にも、こういうアラブ系の国民は数多くいるはずだ。

 そんなヨーロッパ人が、ある日突然、自爆テロを実行するという状況が、治安当局を震撼とさせるのである。14日付の同紙によると、実行犯と思われる人物から送りつけられたメッセージは、犯行の動機を2つ挙げていた--2007年にムハンマドの風刺画を描いた漫画家を名指しで非難し、さらにヨーロッパ諸国のアフガニスタンからの撤兵を要求していた。このメッセージは電子メールに添付された音声ファイルで、「スウェーデン」という国に向けて語られたものだった。この同じ録音に、家族宛のメッセージが続いていた--「お前たちみんなを愛している。もし嘘をついたとしたら、許してくれ。この4年間というもの、自分が“神の戦士”であることを秘密にして生きるのはつらかった」。そして、最後のメッセージで、仲間の“蜂起”を呼びかけていた--「ヨーロッパ、とりわけスウェーデンに住む、すべての隠れた戦士たちよ。たとえ1本のナイフしかなくても、今こそ攻撃の時だ。が、君たちがナイフ以上のものを持っていることを、私は知っている」。

 先進国内にいる自爆テロ犯の問題について、私は本欄で何回も取り上げてきた。(例えば、今年5月10日「テロリストは特殊か?」, 1月14日「自爆テロは何のためか?」、1月9日「“テロとの戦争”の組織的失敗」)これらを通じて言えることは、彼らは貧しいのでも、教育がないのでもなく、ごく普通の中産階級の青年で大学教育を受けたインテリである場合がほとんどだ。その“特徴”をあえて挙げるならば、「先進国内に生きるイスラーム信仰者で2つ以上の文化を共有する若者」と言えるかもしれない。が、そういう人は今、先進国に数え切れないほどいるのである。そんな多くの若者の中から、何らかの理由でイスラームの一部過激思想に惹かれ、自らの人生を賭ける決断をする者が出る。この動きを、武力や警察権力だけで止めるのには限界がある。というよりは、「自由」と「民主主義」を掲げる先進国においては、権力による思想統制などできないのである。
 
 では、どうすればイスラーム信仰者の“過激化”を防ぐことができるだろうか? 私は、それは「イスラームが“西側”の攻撃を受けている」と解釈できるような状況を無くすことだと思う。
 
 谷口 雅宣

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