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2010年12月30日

2010年を振り返って

 さて、今年もいよいよ押し詰まってきた。本欄では例年にならって過ぎゆく年の“まとめ”を書こうと思う。『聖使命』新聞は12月1日号で、運動全体のメインニュースとして①“森の中のオフィス”の用地取得、②新普及誌3誌の発刊、③ブラジル伝道本部のISO14001取得、④運動組織の全国幹部研鑽会と全国大会の開催、⑤生長の家教修会の開催、⑥ポスティングジョイの“国際版”発足などを取り上げた。私もこの選択に賛成である。読者には、これらの出来事に共通する“流れ”が見えるだろうか? それは、生長の家の新しい“息吹”とも言える。国際本部移転先の用地取得は、“自然と共に伸びる運動”におけるハード面の大きな礎石である。新普及誌は、発行形態と内容の両面で、この運動にマッチした重要なツール(道具)となる。その普及誌と内容的に連動したポスティングジョイの国際化は、インターネット時代の世界伝道に向けた重要な足がかりになるだろう。ブラジル伝道本部のISO認証取得は、11月末に実現したアメリカ合衆国伝道本部の同様の快挙と併せて、宗教運動の“新潮流”を生み出す可能性を秘めている。全国幹部研鑽会や教修会などは、この“新潮流”--つまり、自然と人間との共生を信仰によって実現する流れ--を、ソフト(教義)面から学ぶ努力で、今後も続けていかなければならない。

 こうして私たちの運動では、“自然と共に伸びる”という方向への前進は続いているが、世間一般は自然との共存に向かって進んでいるとは思えないのが残念である。12月28日の『朝日新聞』は、2009年度の日本の温室効果ガス排出量(速報値)が、京都議定書の基準年である1990年を4.1%下回ったとし、これは90年以降初めだと報じている。しかし、その主な原因が昨今の不況で製造業の生産量が減少したことだというから、“自然と共に伸びる”方向性からはかけ離れている。経済の低迷によって打撃を受けた日本の経済界は、環境対策にコストをかけることを嫌がってきたが、民主党政権になると、そういう企業の労組を支持基盤とする議員らも加わって、「環境より経済」という動きが強まりつつある。27日付の『朝日新聞』は、温室効果ガス削減目標として民主党政権が掲げた「2020年までに25%削減」と、排出量取引制度の2つが今、危機に瀕していると報じている。世界経済の低迷を反映して、12月11日までメキシコのカンクン市で行われた第16回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP16)でも、目立った進展はなかった。
 
 しかし、この方向への前進が全くないわけではない。その1つを挙げれば、10月に名古屋で開かれた生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)がある。東京大学の鷲谷いづみ教授(生態学)は、27日付の『日本経済新聞』でこの会議の成果について、次のようにまとめている--
 
「COP10は、この(生物多様性)条約の目標実現のために節目ともいえる重大な会議であった。日本政府が議長国として意見調整と妥協案の提示に尽力したことが功を奏し、発展途上国と先進国の間の意見対立を乗り越え、遺伝資源の利用で得られる利益の配分に関する『名古屋議定書』の採択にこぎつけた。同時に、20年までに達成すべき20の目標を定めた『新戦略計画(愛知目標)』ほか、多くの文書が採択された」。

 特に注目されるのは、日本の里地・里山をモデルにした「SATOYAMAイニシアチブ」が広い支持を得たことで、日本人の自然観にもとづいた伝統的な生き方が、地球規模の生態系保全に役立つと認められた意義は大きいと思う。

 距離的または時間的に“遠く”にあるよりも“近く”にあるものに注目し、それに反応することは、生物一般に言えると思う。しかし人間は、そういう生物一般の本能的反応を超える知性や予見能力をもっているために、ここまで発展してきたはずである。が、最近の国際政治を見ていると、そういう知性や予見能力を麻痺させて、自国の利益や近隣国との短期的関係を重視する行動や政策ばかりが目立つのは悲しいことだ。地球規模での気候変動や生物多様性問題、核兵器などの大量破壊兵器不拡散の問題は、伝統的な「国益」の範囲を超えた「生物益」や「地球益」のためのものなのだ。ここでは“小”を優先すれば“大”の利益が自ずから満たされるという構図は必ずしも成り立たない。そうではなく、“大”を優先することで、その一部である“小”の利益が護られることが多いのだ。

 今年の世界の気候変動の激しさを振り返れば、そのことを感じずにはいられない。東京では4月半ばに雪が降った。梅雨の期間に西日本から東北で豪雨が続いた。夏の猛暑は記憶にまだ新しい。世界的にも異変が続いた。モスクワで7月に38℃の高温となり、大規模な森林火災が発生した。中国やパキスタンでは洪水が続き、冬期になると、ヨーロッパと北米で寒波襲来による豪雪の被害が起きている。これらの異常気象に地球温暖化が関係していると考える専門家は多いが、科学者は皆、注意深くて断定しない。「海水温の上昇」と「北極振動」が起こっていることは認めるが、その原因についてはあまり語らない。しかし、これら“大”の領域の変化によって、我々の生活に現実にマイナスの影響が出ている。農産物の収穫は減り、漁場は移動し、作物は洪水に流され、航空機は欠航し、貨物の運搬は停滞し、貿易や観光産業は縮小する。これら個々の被害を“小”の領域だと見れば、“大”の安定なくして“小”の繁栄がありえないことは明らかである。

 にもかかわらず、我々は“大”なるもの--距離的または時間的に“遠く”にあるものに注目せずに、“小”なる利益を追い求める傾向がある。日本の国政は言うに及ばず、北朝鮮問題、尖閣諸島問題、北方領土問題にも、この要素が見られる。今年は、これら諸々の現象を通して、「“大”を大切にせよ」「“大”を優先せよ」との教えを学んだ年だったと言えよう。
 
 谷口 雅宣

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2010年12月28日

訪問者 (7)

導師--ジョン、わかった。君が言いたくないなら言わなくていい。しかし、陰謀説が頭をもたげてきた時は、注意したほうがいい。君の考える陰謀の元締めが誰かは知らないが、その“悪の根源”を倒すことを新たな戦争目的にしてはいけない。
情報将校--なぜだ?
導師--だって、そんなものは存在しないからだ。妄想だからだ。妄想に対してミサイルや砲弾を撃ち込むことは、コラテラル・ダメージを最大化してしまうし、新たな“敵”を作り出すだけだ。
情報将校--しかし、見えなくても、あるものはある。
導師--じゃあ、この地域で最近囁かれている陰謀説を知っているか?
情報将校--何の陰謀だ?
導師--イラク戦争は誰が起こしたかという話だ。
情報将校--それはアメリカ大統領の決定による。こんな明白なことはない。
導師--陰謀説では、イランが起こしたことなっている。
情報将校--ばかな……。
導師--陰謀説の作り方には一定のパターンがある。まず、現状を見て、誰が“勝者”であるかを考え、その“勝者”を首謀者に見立てるのだ。
情報将校--イランが“勝者”なのか?
導師--イラクでは、戦争のおかげでスンニ派の政権が倒れ、シーア派が実権を握った。イランはシーア派だから、これでイラクに大きな影響力を行使できる。
情報将校--それで……?
導師--一方、アメリカは、イラク戦争とその後の占領統治、アフガンでの戦争で疲弊してしまった。ところがイランは、宿敵イラクの脅威から自由になり、結果的に最大の勝者になっている。だから、イランの陰謀で戦争が起こったに違いない……こう考えるのだ。
情報将校--ばかげている。
導師--ところが、彼らは真剣だ。こう考えることで、イランという“悪の根源”を生み出し、それ攻撃することで、自分たちの無力さをゴマ化すのだ。
情報将校--そんなことで、どうゴマ化せるんだ?
導師--とんでもない“大悪魔”を想定すれば、そいつが存在する限り、自分たちに不幸があるのは「仕方がない」と諦めることができるからだ。
情報将校--劣等感と無力感の“裏返し”ということだな?
導師--そのとおり。
情報将校--その話は、“9・11陰謀説”によく似ている。イスラームへの攻撃の口実をつくるために、アメリカが自ら演出したという、とんでもない説だ。
導師--よく気がついたね。この説の背後には、アラブ民衆の無力感と劣等感がある。アメリカの武力の前に、アフガンとイラクがいとも簡単に崩壊した……。
情報将校--思い出した。日本の真珠湾攻撃にも、いまだに陰謀説がつきまとっている……。
導師--人々は陰謀を語ることで、相手をおとしめ、自分は正しいと錯覚するのだ。この説は、無力感と劣等感の産物なのだ。それをジョン、君が唱えるとは……。
情報将校--自分にも、アメリカ国民にも、無力感があることは事実だ……。
導師--“悪の根源”という考え方は、その逃避場所なのだ。
情報将校--どうすればいい?
導師--間違いがあれば訂正し、武力や策謀の限界を認めることだ。
情報将校--ベトナムの“二の舞”を踊れというのか?
導師--一国の進路は、その国の国民が決める--この基本にもどるべきだと思う。
情報将校--そうか……。それを敗北だと考えてはいけないのだな?
導師--短期的には敗北に見えても、長期的には相互利益につながる。米日関係がそうであるし、ベトナムとアメリカも友好関係を結んだ。戦争が終わってみれば、“黄禍”は存在しないし、“鬼畜米英”も存在しない。
情報将校--そうか……よく考えてみる。アブダル。君のおかげで心の整理がついた。恩に着るよ。
導師--こんな話で役に立てれば、うれしいよ。

 谷口 雅宣

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2010年12月27日

訪問者 (6)

情報将校--(両手を肩の高さに挙げ、首を左右に振りながら………)わかった、わかった。この地の人々が数多く戦火の犠牲になり、財産や生活の場を失ったことは十分知っている。しかし、その責任はアメリカだけにあるんじゃない。我々にとって、これはテロに対する防衛戦争なんだ。テロがなければ、この戦争はなかった。我々は先に攻撃されたのだ。
導師--“悪の根源”がないというのは、わかるだろうか?
情報将校--悪があるのは確かな事実だ。だから、その原因もある。
導師--原因はあっても、それは“悪の塊”のようなものではない。
情報将校--善から悪が生まれるというのか?
導師--そうではなく、誤解や思い込みが“悪の幻影”をつくることもある。
情報将校--これは幻影なんかじゃない。人が爆弾で足を飛ばされ、肉を切り裂かれるんだ。恋人を失い、家族を失い、約束されていた将来を奪われるんだ。それが幻影だったら、今すぐ失ったものを元へもどしてくれ!
導師--ジョン、そんなに興奮しないでくれ。私が言っているのは、そういう悲惨な出来事の背後には、それらを計画し、共謀した一団の“悪者”が必ずしもいるわけじゃない、ということだ。
情報将校--陰謀はないというのか?
導師--そのとおり。
情報将校--陰謀は、外から見えないから「陰謀」なんだぞ。君には、何でも見えるというのか?
導師--「ない」ということを証明するのは難しい。だから、不安や恐怖をもつ人間は、自分の気持を説明するために「そこに何かがある」と考えがちだ。
情報将校--はははは……アブダル。情報将校の私に向かって心理学の講義などしないでくれ。
導師--心理学は重要だ。もちろん、それだけで国際問題を解決することなどできない。しかし、人間の心が戦争やテロを起こすのだから、それがどこから来るかを知ることは、平和維持にとって必要なことだ。
情報将校--アブダル。私はそういう初歩的なことを言ってるんじゃない。情報将校は心理学のプロでもある。その私に、「妄想を抱くな」と言ってほしくない。
導師--わかった。しかし、サダムが大量破壊兵器をもっていなかったという事実は、ブッシュ政権が妄想を抱いていた証拠じゃないか。それがイラク攻撃の理由の一つだっただろう?
情報将校--当時の彼が、ほかの目的をもっていたとも考えられる。
導師--それは何だ?
情報将校--私には、大統領個人の心を読む仕事はない。しかし、サダムをイラクから追放すことがアメリカの国益だと考えていた可能性はある。
導師--政権転覆のための戦争だというのか?
情報将校--さっきも言ったが、私は想像しているだけだ。情報将校は大統領の政治的判断に関与しないし、してはいけないんだ。

 谷口 雅宣

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2010年12月26日

訪問者 (5)

情報将校--アブダル。「マキャヴェリスト」と「悪者」とは同じ意味じゃない。ほとんどの政治家はマキャヴェリストだと言っていい。政治家がマキャヴェリストであることは普通のことで、必ずしも「特に悪い」わけじゃない。ましてや“悪の根源”なんかじゃない。例えば、サウジアラビアの国王は、国内の原理主義勢力とアメリカとのバランスをうまくとって、これまで上手に政治を進めてきた。彼は、アメリカに軍事基地を提供しながら、国内の原理主義勢力を満足させるために、宗教警察によってリベラルな考えを厳しく弾圧してきた。しかし、アメリカの国益とは、サウジの石油がコンスタントに入手できることと、イスラエルを防衛するための軍事基地が中東に得られることだ。この二つを、サウジの国王は保障してくれている。だから、彼は“よいマキャヴェリスト”だと言ってもいい。
導師--その論法だと、“よいテロリスト”があってもいいのだな?
情報将校--そういうことになる。
導師--君がそれに満足しているなら、悩むことは何もないんじゃないか?
情報将校--アブダル。私の悩みは……今言ったアメリカの中東での国益が、テロリストたちの行動によって、しだいに失われていると同時に、わが国やヨーロッパの同盟国内では、テロリストたちに同情的な勢力が拡大していることだ。武力的にはビンラーデンの相手ではないアメリカが、9・11のようなメチャクチャな攻撃を仕掛けられていて、効果的な報復と処罰ができていない。“テロとの戦争”は負けているように見える……。
導師--ビンラーデンがつかまらないからか?
情報将校--ヤツは年をとってきたが、別の人間が現れてテロを扇動している。
導師--アフリカへ逃げたアメリカ人の指導者のことだな?
情報将校--そうだ。アメリカ人がなぜ、アメリカを破壊しようとするのだ! ヤツラの背後には、何かとんでもない“悪の根源”がいる。だから、ヤツラの手に核兵器が渡れば世界は破滅する。それが分かっているのに、我々はどこを叩いていいのかわからない……。
導師--ジョン、“悪の根源”なんてものはないと私は思うよ。それは、君の心の産物じゃないか?。それから、「9・11の仕返しが効果的でない」という言い方には簡単には賛成できない。アメリカのアフガン攻撃とイラク戦争によって、この地域の人々がどれだけ損害を被ったか……情報将校の君は知ってるだろう! コラテラル・ダメージが大きすぎる。そういう意味では報復は効果的でない。かえって反米感情を燃え上がらせたからだ。しかし、二つの国を破壊され、十年近くも戦火に怯えている人々は、十分に制裁を受けているんだ。

 谷口 雅宣

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2010年12月25日

訪問者 (4)

導師--君もエジプトに長くいるから分かっていると思うが、中東の多くの人間は、西洋社会からの圧力を快く思っていない。自由な西洋社会に魅力を感じると同時に、自由が生む放埒の邪悪さを否定したいのだ。その矛盾した感情は、サダムやビンラーデンがいてもいなくても変わらない。西洋と中東社会の歴史的関係から来たものだ。
情報将校--それがある限り、テロは消えないというのか?
導師--そうは言っていない。テロを決意させるものは、サダムやビンラーデンではない可能性はあるということだ。
情報将校--アブダル……中東の一般市民は、自らテロリストなどにならない。彼らに歴史的な西洋コンプレックスがあったとしても、その心情をうまく操作して良心を沈黙させ、大量殺戮に導くためには、洗脳し、狂信を植えつける誰かがいなくてはならない。そいつが“悪の根源”だ。
導師--ジョン。私は政治的な、あるいは宗教的な指導者が、その国の市民の行動に大きな影響力をもつことを否定しない。いや、エジプトを含めた中東の多くの国では、政治家や宗教指導者は、アメリカやヨーロッパよりもはるかに大きな影響力を市民に対してもっているだろう。しかし、国民の中の少数がテロをやるという事実をもって、その国の指導者が“悪の根源”だとするのは短絡的すぎないか?
情報将校--私は、そんなことを言っていない。アブダル、こんな言い方をすると君は怒るかもしれないが、彼ら指導者は本質的にマキャヴェリストで、国民は教育を受けていないから、指導者の思い通りに動いてしまうのだ。
導師--それは、どういう意味だ?
情報将校--例外はもちろんあるが、多くの中東の政治家は、国民の中にある「反西洋」の感情を利用して、国の統一を図るという政策をとってきた。「外敵を作ることで内政を固める」という伝統的な政治手法だ。しかし、その一方で、国民の権利を、特に女性の権利を拒否してきた。その方が、統治しやすいからだ。彼らは古い社会秩序を護るために女性を虐げ、イスラエルと西洋という二大仮想敵国を利用してきた。その結果、国民の中には「反西洋であること」が正しく、望ましいと考える悪い伝統が育ってしまった。
導師--ちょっと待ってくれ、ジョン。君の言っていることは矛盾している。さっきまでサダムとビンラーデンだけが“悪の根源”だと言っていたのに、今度はイラク以外の国の指導者もマキャヴェリストで悪者だと言っているじゃないか?

 谷口 雅宣

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2010年12月24日

訪問者 (3)

情報将校--とにかく、アメリカの安全と国益を脅かすこの二人は、“悪”として抹殺する必要があった。ただし、一般市民への損害は最小限に食い止めなければならない。
導師--そのとおりだ。
情報将校--ところが、ヤツらは二人とも我々の目的に気がついて、市民を“人間の盾”として使う戦法に出た。
導師--サダム・フセインがそれをやったとは聞いているが、ビンラーデンが“人間の盾”を使ったとは聞いていない。
情報将校--自爆テロリストというのは、まさに“人間の盾”じゃないか。サッダームの場合は、自分の近くに市民を配置する防衛的戦法だ。ところがビンラーデンは、敵陣近くに、あるいは敵陣の真ん中へ自爆テロリストを送り込むんだ。「攻撃は最大の防御」っていうわけだ。自爆を決意した一人一人は、ヤツの本性など知らないナイーブな信仰者だ。彼らが“盾”になってるんだ。しかも、確実に破壊される盾だ。そのおかげで、わが国では空港にも港にも商店街にも、大勢の防衛要員が必要になってしまった。
導師--ふーむ、そういう見方をするのか……。
情報将校--ビンラーデンは、この自爆テロリストを使って前線を世界中の大都市に拡大してしまっただけでなく、合衆国や同盟国の市民を人質に取ろうとしているのだ。
導師--それはどういう意味だ?
情報将校--「スリーパー・セル」というのを作った。“眠っている細胞”だ。一定期間、普通の市民生活を送っている人間が、ある日いきなりテロリストとして行動する。そういう時計仕掛けの爆弾ロボットみたいな人間を、シカゴにも、ロンドンにも、ストックホルムにも配置した。そうだ、わが米軍の国内基地にまで潜入させたのだ。
導師--テキサス州の陸軍基地で、銃を乱射した軍医のことを言っているのか?
情報将校--そのとおりだ。
導師--そういうテロを、ビンラーデンがいちいち指示してやらせたというのか?
情報将校--そうじゃない。そうじゃないところが問題なんだ。
導師--何が問題かな?
情報将校--指示しなくても、彼らは自発的にテロをやる……そこが問題なんだ。
導師--なぜ?
情報将校--信仰者の殉教の意志は、警察や軍隊では破壊できない。
導師--では、武力以外の方法を使えないのか?
情報将校--報償と説得か……?

 谷口 雅宣

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2010年12月23日

訪問者 (2)

導師--ジョン。私はアメリカの外交政策を論評するつもりはない。それは、ジャーナリストや政治家がする仕事で、すでにいろいろの立場からたくさんの論評が出ている。でも、アメリカの外交政策を執行する立場にあるあなたのような高官が、善悪の見境がつかなくなるというのは、大変な問題だ。エジプト人を含めた大勢の中東の人間が、君の国の巨大な影響力にさらされているからだ。自分の仕事に疑念があるなら、職を辞すという選択肢はあるのだろう?
情報将校--それは……ある。が、辞めてしまえば、自分が善行だと信じてやった多くの行為の取り返しがつかない。
導師--でも、ジョン、君は上司の命令に従っただけではないのか?
情報将校--ずっと、そう考えてきた。私は情報を上に伝え、彼らが判断を下す。その際、私は将校の立場から意見を付すことをしてきた。その意見が間違っていた場合、責任の一端は私にもある。
導師--それはそうだが、そういう情報の誤りがあっても、政策決定者は最終的な責任を負うはずだ。なぜなら、彼らは、情報が間違う可能性も予期して判断するのが、仕事だからだ。
情報将校--法的には、確かにその通りだ。が、私が悩んでいるのは、人間としての倫理の問題なんだ……。
導師--というと……?
情報将校--「コラテラル・ダメージ」という言葉があるだろう?
導師--ああ、ある。懐かしい言葉……戦略論の授業で習った。軍事攻撃によって一般市民が受ける被害のことだね。
情報将校--そう。それを最小限に収めながら目的を達するのが、我々の目標だ。ところが、市民への被害がどんどん広がっている。
導師--何のことを言っているんだ?
情報将校--我々にとっては、ビンラーデンとサッダームが攻撃目標だった。それ以外は、本当に悪いヤツはいないと考えた。
導師--ジョン、君はイラク戦争の作戦に関わったのか?
情報将校--それを聞かないでくれ。言っただろう、答えられない質問なんだ。
導師--わかった……。
情報将校--ビンラーデンは、信念と財力とカリスマをもった指導者だが、意図が我々とまったく相容れない。アメリカ社会を破壊することが目的だ。サッダームは、中東に覇権を確立して石油を支配し、我々の同盟国・イスラエルの殲滅をねらっていた。
導師--それとは違う評価もあるが……。まあ、先を続けたまえ。

 谷口 雅宣

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2010年12月22日

訪問者 (1)

 エジプトのカイロ市郊外にある小さなコプト寺院に、白いボロ布を頭から被った男がやってくる。実は、この男は米大使館付きの情報将校で、昔友人だったこの寺院の導師に、面会を求めていた。
 
情報将校--ああ、アブダルさん。私をまだ憶えてらっしゃいますか?
導師--はい、もちろん。少佐からメールをいただき、昔の記録を少し調べましたが、すぐに思い出しました。二十年なんて、すぐにたってしまうのですね。ニューヨークにはしばらく行ってませんが、グラウンド・ゼロ付近はだいぶ復興が進んでいるのでしょうか?
情報将校--ここ一年ほど、あそこへは足を運んでいません。でも、ネット情報によると、跡地では塔の建設が進んでいて、破壊のあとはもう残っていません。
導師--人々の心の破壊も消えてくれているといいのですが……。
情報将校--ああ、ほんとにそう思います。
導師--ニューヨークの大学へは、たまには行かれるのですか?
情報将校--前回行ったのは、もう二年前でしょうか……。あなたと一緒に中東史を学んだ教室はまだ残っていて、懐かしかったです。でも、あの古い図書館は壊され、新しい建物がいくつも建ち、キャンパスはすっかり窮屈になりましたよ。
導師--さて、立ち話も何でしょうから、どうぞ私の部屋へ来て下さい。
情報将校--はい、ありがとうございます。

(二人は、寺院内にある導師の狭い執務室でテーブルをはさんで向かい合う。)

導師--メールでのお話では、何か悩みと相談があるということでしたが……。
情報将校--はい。でも、今の私の立場では、お話できることとできないことがあるということを、ご理解いただきたい。
導師--それは、もう当然のことです。私も今は、神に仕える身ですから、二十年前とは変わっているかもしれません。
情報将校--はい。お会いしてから、ずっとそう感じていました。でも、昔のように「アブダル」とファーストネームで呼んでもいいでしょう? その方が、正直な気持になれる気がします。
導師--もちろん結構です。では、私の方も「ジョン」と呼んでいいですね?
情報将校--ああ、それはありがたい。古い友人関係がこの地で復活するのは、大歓迎です。
導師--ではジョン……私にできることは、神との仲介だけだが、何か質問を……?
情報将校--ありがとう、アブダル。大学を出たころ、私は善悪の判断には自信があった。でも最近……特に、9・11のあとに中東へ来てから、それが揺らいでいる。
導師--そうですか。ジョン、情報機関に入っていろんな経験をしたんだね。
情報将校--イラク戦争は、9・11という明確な「悪」に対する宣戦布告だった。それは正しい戦い--つまり、正戦であることは、疑いの余地がなかった。なのに九年たった今、我々がここに--つまり、中東地域にいることが「悪」を拡大させる原因になっている……。時々そういう疑念に襲われるんだ。

 谷口 雅宣

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2010年12月21日

クリスマスを別の角度から見る

 クリスマスが近づいてくるたびに、私はこの日本という国の不思議さを強く感じる。クリスマスは、キリスト教徒の祝日であることは言をまたない。しかし、日本はキリスト教国でないばかりか、キリスト教信者の数は国の公式統計では2%ほどしかいない。「いや、クリスマスは宗教の祝日ではなく、商業主義の勝利の日だ」という類の言説はよく聞く。しかし、そうであったとしても、なぜその商業主義は、お釈迦様の誕生日や伊勢神宮の大祭の日と結びつかなかったのか、という疑問が残る。なぜなら、仏教や神道の伝統の方が日本人の心にはずっと近しいはずだからだ。そういう疑問を呈すると、日本人はハイカラ趣味だとか、西洋かぶれだとか、植民地支配が続いているとか……奇妙な説明がされることが多い。本当にそうだろうか?
 
 私は、5年ほど前に本欄で「クリスマスは冬至祭?」という文章を書いた。そこでは、クリスマスはキリスト教に起源があるのではなく、古代ローマの太陽神信仰がもとだというキリスト教研究者の説を紹介した。今、この考え方はだいぶ“市民権”を得てきたから、読者の中にもご存知の人は多いと思う。例えば、宗教学者の島田裕巳氏は、クリスマスの起源について次のように語る--
 
「キリスト教会が、イエスの生誕の日を12月25日と定めたのは、その生誕から300年以上が経った西暦354年のことであった。キリスト教は、最初、中東のシナイ半島にはじまるが、やがてヨーロッパに広がっていく。ヨーロッパでは、それ以前に、民間の土着の信仰として、春の訪れによって太陽が蘇ることを期待する新年の祭りが、冬至の日近辺に祝われていた。
 キリスト教徒たちは、この冬至のころの新年の祭りと、イエス・キリストの生誕とを重ね合わせた。新年の祭りが、古い年が去って、新たな年が訪れることを祝うものであるように、イエスの生誕は、古い時代が去って、新たな時代が訪れたしるしであると考えられたのである」。(島田裕巳著『宗教常識の嘘』、p.115)

 この説明では、クリスマスの起源は古代ヨーロッパの土着の信仰だということになる。とすると、やはり日本人は“外来文化礼讃”かとの疑いが晴れない。しかし、「冬至」という言葉に注目してみると、別の観点が生まれてくるのである。なぜなら、冬至は、日本にもユダヤにもヨーロッパにもアフリカにも……どこにでもある現象だからだ。12月20日付の『インタナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に、リチャード・コーエン氏(Richard Cohen)が書いた論説を読んで、私はそれこそ世界中に冬至を祝う儀式や祭礼があったことを知って驚いた。古代のギリシャやローマだけでなく、イギリスのウェールズ地方にも、スカンジナビアにも、朝鮮半島にも冬至祭はあり、メキシコ中部の先住民アステカ族にも、南米のインカ人にも、“太陽の新生”を祝う行事は重要なものだった。
 
 が、考えてみれば当たり前のことかもしれない。昔の人々は、世界中どこでも大自然に密着した生活をしていたから、季節の変化--とりわけ日の長さについて敏感であったことは、容易に理解できる。コーエン氏によると、16世紀まで貧困の地だったヨーロッパでは、1月から4月までは“飢饉の月”とされ、この期間には牛に餌をやることができないため、冬至祭を機会に家畜を屠り肉を食した。その習慣が、現在のクリスマスに続いているというのだ。また、平凡社の『世界大百科事典』によると、中国を起源とし、昔から日本で使われていたいわゆる“陰暦”(太陰太陽暦)では、冬至は、二十四節気のうちで最も重要な暦法の原点だった。この暦法においては、冬至の日の夜に、大子(おおいこ)という神の子が人々に幸いや生命力を与えて、再生を促すために各地を巡遊するという信仰があったという。これなど、サンタクロースの物語を彷彿させる。
 
 さらに、わが国では昔から「大師講」と呼ばれる民俗行事が冬至のころに行われている。これは、歴史的人物である弘法大師と関係がありそうだが、実際に行われている行事はそうでないという。上記の百科事典によると、「東北・関東地方では擂粉木(すりこぎ)のような一本足の神だというところが多く、また歴史上の大師とまったく関係のない伝承ばかりが伝えられている。<ダイシ>は本来<タイシ(太子)>としてのマレビト、すなわち来訪神であり、冬至の季節に行う、新たなる神の子を迎えての祭りが民俗的大師講である」という。
 
 このように見てくると、日本人がクリスマスを祝う習慣を熱烈に受け入れたのは、地球上の他の地方と同じように、それが冬至祭としての意味を(無意識にも)もつからだと分かる。我々は“新生の日”である新年元旦を迎える前の準備として、新生した恵みの神を家々に迎え入れ、収穫物を捧げて大勢で祝った。つまり、蘇りの新年来訪の“前夜祭”として、日本の文化・習慣に合致していたから受け入れた--そういう見方ができるのである。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○島田裕巳著『宗教常識の嘘』(2005年、朝日新聞社刊)

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2010年12月19日

なぜ“森の中”なのか? (3)

 今日は、熊本市のグランメッセ熊本と天草市の市民センターを会場として、熊本教区の生長の家講習会が開催され、5,578人の受講者が参加してくださった。前回よりも175人(3.7%)の減少だったが、今回初めて天草市に会場を設けたことで、これまで講習会に参加できなかった多くの人が受講されたことは有り難い。同教区の浜山正幸・教化部長によると、天草地方からの参加者は前回248人だったが、同地方の幹部・信徒の方々の熱意ある推進の結果、今回は667人と3倍弱に増えている。同教区の皆さまに心から感謝申し上げます。
 
 私の午前の講話に対する質問も、20通と多かった。その中で、生長の家が国際本部を大都会・東京から山梨県の八ヶ岳山麓に移転することに対し、次のような質問があった:
 
「八ヶ岳は見たこともありません。2万坪とかの広大な土地は森林か原野かも知りませんが、大きな本部事務所とか職員の宿舎など、多くの建物が建つと思いますので、大自然の破壊になるような気がします。でも、出来上がってからはすばらしい生活ができると思います」

 このコメントは、生長の家の本部移転に関して一般に抱く感想を代表しているのではないかと思った。私はこれについて答えたが、なにせ時間の制約があったため言葉を尽くせたとは思えない。本当は、質問者には私と妻の共著である『“森の中”へ行く』(2010年、生長の家刊)--特に第5章の中にある「自然との共生を求めて」の項を読んでいただくのが一番いい。ここでは、上の質問とほとんど同じ疑問に対して、私が10ページを費やして答えているからだ。同書での回答は、今年4月14日15日の本欄に掲載されたものだから、まだ読んでいない人は、その文章を参照してほしい。さらに、本欄の読者にも同様な懸念があるといけないので、この場を借りて以下、簡潔に“まとめの答え”を提示させてもらいたい。
 
 生長の家の本部移転の目的は、大別するとこの2点に集約されるだろう:①“新しい生き方”の提案、②炭素ゼロの実現と新産業の育成。①は、言葉を換えていえば「自然と一体化した生活」を実践すること--より具体的には「森林の活用と育成」である。②は、①を実現する過程で行う環境上のまた経済上の効果である。別の表現を使えば、①は主として精神上、生活上の目標であり、②は現実的な効果である。宗教は主として精神上の営みであるから、現実的効果を生む必要はないとの考え方もあるだろうが、生長の家は昔から「地上天国建設」とか「実相顕現」と称して、単なる精神的覚醒や悟りのみを目標とするのではなく、その精神上の変化の発露として現実世界に変化が起こる(唯心所現)ことに価値を見出してきた。「人類光明化」とか「国際平和を信仰によって実現する」という考え方も、この伝統に則ったものである。
 
 このような観点から今後の運動を考えたとき、大都会を本拠地として運動することの問題点が明らかになるはずだ。本部職員が東京で生活し、東京で仕事をし続けることで、「新しい生き方」を提案し、「自然と一体化した生活」や「森林の活用と育成」を行うことは、まず不可能である。それでもなお強引にそれを行えば、“机上の空論”に陥らざるを得ない。また、②を大都会にいて実現することも、相当な困難が伴う。グリーン電力や排出権取引などの現行の諸制度を活用して、いわゆる数字上で“炭素ゼロ”を実現することは可能かもしれない。しかし、これらの制度は、本質的に「自然への破壊を金銭的対価を払って弁償する」ということだ。少なくとも、現在の制度下では、その程度のことしかできない。しかし、私たちは「自然を破壊しない」だけでなく、森林育成などを通して「自然をより豊かにする」ことを目標にしているから、これらの方法では不十分なのである。また、現行制度の活用だけでは、再生可能の自然エネルギーを基礎とした「新産業の育成」などできないと考える。
 
 また、従来の省エネ・省資源運動の延長として、太陽光発電や太陽熱利用、建物の高断熱化、屋上の緑化、エコカーや電気自動車の利用などに取り組めば、本部を“森の中”へ移さなくても温暖化抑制に貢献できると考える人もいるかもしれない。もちろん、このような方法でも環境への貢献は“ある程度”はできる。しかし、この“ある程度”とは「社会の標準的レベル程度」ということであり、私はこれが十分だとは思わないのである。いやむしろ、現在の人類の環境への貢献は、総合的には“マイナス貢献”が続いている。つまり、一方で環境への貢献が行われていても、他方で環境破壊が行われていて、トータルでは後者が前者を大きく上回っている。だから、温暖化対策を社会の標準レベルに合わせているのでは、“マイナス貢献”を継続していくことと大差がない。残念なことだが、これが人類の生活意識の現状であり、とりわけ日本社会の現状だと思う。

 上記の本にはもっと詳しく書いたが、このほかにも本部移転の理由はいくつもある。が、上に掲げた“骨”となる理由は、読者にはぜひ理解していただきたいのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年12月17日

信仰者の“過激化” (2)

 今日(17日)付の『朝日新聞』は、16日にオバマ政権が発表したアフガニスタン戦略の評価について、次のように報じている--
 
「駐留米軍3万人の増派などで、反政府武装勢力タリバーンや国際テロ組織アルカイダの勢いを弱めたと成果を強調。来年7月から米軍が“責任ある撤退”を始める条件整備が進んだとし、2014年末をめどにアフガン側に治安権限を完全移譲する方針も再確認した」。

 これだけを読むと、アメリカのアフガニスタン戦略は成功しているように思える。しかし、事実はそれほど単純ではない。『日本経済新聞』の記事の方が、この点を明確に記している--

「タリバン掃討作戦の効果については“タリバンの影響力が及ぶ地域が減少”と高く評価した。いくつかの主要地域ではタリバン支配が終了したとの認識を示した。タリバンの牙城の南部カンダハル、ヘルマンド両州の掃討作戦は“明白な進展”があったと指摘した。(中略)ただ、増派による治安の好転は“元に戻りうる”とも指摘し、タリバン掃討の成果は“脆弱”と認めた」。

 この引用の後半部分が、アメリカのアフガン戦略の難しさをよく表している。タリバーンとの戦闘は、「一時的に進展しても逆戻りする可能性がある」というのが本当のところだろう。そう言える理由は、この評価発表前に出された『国家情報評価』(National Intelligence Estimates、NIE)という機密文書が、まさにアフガン戦略の困難さを強調しているからだ。NIEという文書は、アメリカ軍を除くCIAなど16の情報機関の共通した状況認識を示しているもので、軍の評価と異なるのは珍しくないという。16日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙は、NIEの内容を次のように要約している--
 
「この戦争においてアメリカとNATO側に有利な進展はあったものの、パキスタン北西部の無法地帯にある武装勢力の隠れ家を、同国政府が攻撃したがらないことが深刻な障害になっている。米軍の司令官によると、武装勢力はこの地域からアフガニスタンへ自由に移動し、爆弾を仕掛けたり、米軍と戦闘したりした後、パキスタン領内に戻って、そこで休み、補給を受ける」。
 
 ここにある「無法地帯」とは、「パキスタン政府の権限が及ばない地域」という意味である。ここは、パキスタンという国家の力が完全には及ばない、いわゆる“部族支配”の地域で、その部族はアフガニスタン国内にも多く住んでいるのである。そんな地域をパキスタン軍が攻撃すれば、反米感情の強い国民からは「アメリカの片棒をかついだ国民弾圧」と見なされるだけでなく、国内の部族対立を先鋭化することにもなる。ということで、パキスタンが“テロリスト”掃討に消極的なため、CIAなどは無人攻撃機を飛ばして直接、パキスタン国内の“テロリスト”に攻撃を加えてきたのである。パキスタンは、国としてはアメリカと同盟を結んでいる。にもかかわらず、その国民をアメリカが攻撃するのだから、パキスタン国民から見れば、それは「イスラームへの攻撃」以外の何ものでもない。こうして、イスラーム信仰者の“過激化”の種は尽きることがないのである。

 私は、アフガニスタンはアメリカにとって“第2のベトナム”になりつつあると思う。だから、オバマ大統領は多少の困難はあっても、期限を切って米軍の撤退を強行しようとしていると見る。その背景には、アメリカ国民の6割もがアフガニスタンでの戦闘に反対していること、さらには同政権の人気が低迷したまま、次期の大統領選挙が近づいていることも、今回のアフガン戦略評価の、半ば強引な内容に反映されている気がする。

 谷口 雅宣

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2010年12月16日

信仰者の“過激化”

 関東地方はこのところ晴天続きで、心が晴れ晴れする。しかし、国際テロをめぐる最近の一連の出来事とアメリカの外交政策との関係を眺めていると、私の心には暗い影が差す。日時計主義を推進する立場の私としては、このコントラストに戸惑わずにいられない。が、テロの問題は宗教とも関係する重要なテーマの1つとして本欄で扱ってきており、日本の外交政策とも密接に関係しているので、「現象としてはこういう事態にある」という観点から少々述べさせていただきたい。
 
 12月12日だったと思うが、スウェーデンのストックホルム中心街でテロ未遂事件が起こったのを読者は記憶しているだろうか? 「未遂」とは言っても、実行犯は2回にわたって爆弾を破裂させ、2回目に自爆した。被害者は自爆犯1人だったから、普通は「めでたし、めでたし……」ですまされそうだが、関係各国のテロ対策部門はそれほど楽観的でないようだ。自爆テロの実行犯は、タイムール・アブドルワッハーブ・アル=アブダリー(Taimour Abdulwahab al-Abdaly)という28歳のイラク系スウェーデン人で、イギリスのロンドンの北に位置するベッドフォードシャー大学を出たインテリである。専攻はスポーツ療法(sports therapy)らしい。
 
 15日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)』紙によると、アブダリー氏は2004年に結婚し、イギリスには妻と3人の子供がいて、『ナショナル・ジオグラフィック』誌に興味を持ち、アップル社の iPad がお気に入りだったという。その一方で、自分自身を「真面目な信仰者」(deeply religious)と呼び、大学卒業後は、短期間だがベッドフォードシャーにある小さなモスクに通っていたという。--こういう情報の中には、当局によって未確認のものもあるが、フェースブックの自分のページにはそう書いてあったという(現在、アブダリ-氏のページは閲覧不能)。これらが事実だとすれば、アブダリー氏は“普通のスウェーデン人”であるだけでなく、スウェーデン以外のヨーロッパ諸国にも、こういうアラブ系の国民は数多くいるはずだ。

 そんなヨーロッパ人が、ある日突然、自爆テロを実行するという状況が、治安当局を震撼とさせるのである。14日付の同紙によると、実行犯と思われる人物から送りつけられたメッセージは、犯行の動機を2つ挙げていた--2007年にムハンマドの風刺画を描いた漫画家を名指しで非難し、さらにヨーロッパ諸国のアフガニスタンからの撤兵を要求していた。このメッセージは電子メールに添付された音声ファイルで、「スウェーデン」という国に向けて語られたものだった。この同じ録音に、家族宛のメッセージが続いていた--「お前たちみんなを愛している。もし嘘をついたとしたら、許してくれ。この4年間というもの、自分が“神の戦士”であることを秘密にして生きるのはつらかった」。そして、最後のメッセージで、仲間の“蜂起”を呼びかけていた--「ヨーロッパ、とりわけスウェーデンに住む、すべての隠れた戦士たちよ。たとえ1本のナイフしかなくても、今こそ攻撃の時だ。が、君たちがナイフ以上のものを持っていることを、私は知っている」。

 先進国内にいる自爆テロ犯の問題について、私は本欄で何回も取り上げてきた。(例えば、今年5月10日「テロリストは特殊か?」, 1月14日「自爆テロは何のためか?」、1月9日「“テロとの戦争”の組織的失敗」)これらを通じて言えることは、彼らは貧しいのでも、教育がないのでもなく、ごく普通の中産階級の青年で大学教育を受けたインテリである場合がほとんどだ。その“特徴”をあえて挙げるならば、「先進国内に生きるイスラーム信仰者で2つ以上の文化を共有する若者」と言えるかもしれない。が、そういう人は今、先進国に数え切れないほどいるのである。そんな多くの若者の中から、何らかの理由でイスラームの一部過激思想に惹かれ、自らの人生を賭ける決断をする者が出る。この動きを、武力や警察権力だけで止めるのには限界がある。というよりは、「自由」と「民主主義」を掲げる先進国においては、権力による思想統制などできないのである。
 
 では、どうすればイスラーム信仰者の“過激化”を防ぐことができるだろうか? 私は、それは「イスラームが“西側”の攻撃を受けている」と解釈できるような状況を無くすことだと思う。
 
 谷口 雅宣

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2010年12月14日

正直者は得をする

 日本の治安がいいことは世界的にも有名で、タクシーに財布を置き忘れても返ってくるのが珍しくない、などとよく言われる。これに対してアメリカでは、自動車の車内に高価なカメラなどを置いて駐車していると、ガラスを割って盗っていく者がいても、カメラの持ち主が不注意なのが悪いと言われる。これは実際、私が20代の時にお世話になったアメリカ人家族が、サンフランシスコで体験したことだ。最近のアメリカの都市の治安状態は、もっと良くなっているかもしれない。また、都市と田舎では状況は違うし、同じ都市でも、地域が違えば治安状態も変わってくるだろう。では、アリゾナ州のテンペという町は、特に治安がよく、人々は清く正しく生きているのだろうか?
 
 私が特にこの町を取り上げるのは、日本でも珍しいほどの“善い人”がここにいたからである。この人物は49歳のホームレスのデーヴ・タリー氏(Dave Tally)で、現金3千3百ドル(約27万4千円)が入ったリュックを道ばたで見つけたのに、それを私物化せずに持ち主に返したというので、13日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙が大きく報じている。この話には、さらに善い話が続く。このタリー氏の善行に感動したテンペ市の人々は、彼のために続々と寄付を申し出た結果、リュックに入っていた金額より多くが集まり、タリー氏には仕事のオファーがいくつもあったのだ。さらに、同市のヒュー・ハルマン市長(Hugh Hallman)は、12月9日を「デーヴ・タリーの日」とすることを宣言したという。
 
 上記の記事によると、タリー氏の人生は1999年から一気に下降したという。その年、彼は酒酔い運転で逮捕されたことで運転免許証を失った。これによって、働いていた景観管理会社の監督者の地位を失うことになった。その後に、持ち家を手放さねばならなくなった。これによってホームレスの状態に陥ったが、タリー氏はそこで諦めることなく、自分のアルコール中毒から立ち直るためにテンペ地域行動局(Tempe Community Action Agency)で社会奉仕活動をしていた。そのときに、このリュックを拾ったらしい。タリー氏によると、この“幸運”による最大の収穫は、やむを得ず「ホームレス」となっている人々のマイナス・イメージを改善できたことだという。

「善は善をよぶ」とはこのことだろう。またこれは、「笑う門には福来たる」という諺に表れる“親和の法則”を見事に証明している。人間は他人の“美点”を見ることで、自分の“美点”を表し、さらに社会の“美点”が引き出される。「正直」の美徳は、それほど人々の心を動かすものだと改めて感じた。

 谷口 雅宣
 

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2010年12月13日

“晴れの国”での快挙2題

 昨日は澄み切った青空の下、岡山教区での生長の家講習会があり、前回を314人(3.06%)上回る1万591人という大勢の受講者が集まってくださった。午前中の私の講話に対する質問も、17通ほど出た。講習会後の幹部懇談会では、2回連続して受講者増となった喜びに満ちた明るい発表が続いた。山下良忠・教化部長によると、今回の成功の要因は、聖経読誦や写経と併行して、誌友会の開催に重点を置いて第一線の活動を地道に行ってきたことが挙げられるという。この点では、相愛会が今年4月以降10月までの7カ月間、誌友会の開催率100%を達成したことは注目に値する。白鳩会も長期にわたって誌友会の開催に力を入れてきており、20年度の開催率が74.8%だったのが、21年度は76.5%、今年度は9月までの半年間で「80.2%」に達したという。これによって、新人への真理普及が着実に進んできたことが、講習会の成果にも表れているのだろう。
 
 地球温暖化抑制に向けた活動でも、同教区は成果を上げている。岡山県は、晴天の多さでは全国でトップクラスのため、“晴れの国”と呼ばれることもある。このメリットを生かし、幹部・会員による太陽光発電装置の設置が進んでいて、今年10月の時点で、相愛会は全国で第1位の「122.35kw」を達成し、白鳩会も第3位で「73.01kw」になったという。
 
Sniusa_iso  ところで、アメリカで“晴れの国”と言えば「sunshine state」という異名をもつフロリダ州だが、「golden state」と呼ばれるカリフォルニア州も“晴れの日”が多い。そこにあるアメリカ合衆国伝道本部から最近、“よいニュース”が飛び込んできた。それは、同伝道本部が環境経営の国際規格である「ISO14001」を取得したという話だ。この件については、すでに11月5日の本欄のコメントとして、勅使川原淑子・教化総長が報告してくださっているが、その際は、この規格の「取得を推薦する」ことが決まったという報告だった。今回は、実際の認証取得を示す証明書(Certificate of Registration)が12月8日に届いたというのだ。同教化総長の話では、アメリカの宗教団体でこの国際規格を取得したのは生長の家が最初ではないかという。

 なお、届けられた証明書は、紙製ではなく「Locked PDF」という電子ファイルの形式である点も、当地の担当社の環境意識の高さを表している。ここに掲示して、読者とともにアメリカでの“快挙”を祝福したいと思う。
 
 谷口 雅宣
 
 

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2010年12月11日

電子書籍サービス始まる

 今朝の新聞各紙は、ソニーとシャープによる電子書籍端末の売り出しと、両社の電子書籍配信サービスの開始について大きく報じている。電子書籍については、本欄ではすでに何回か書いているが(例えば11月26日)、今回の記事を読むと、両者のサービスの違いが明確になってきたのが興味深い。

 シャープのサービスは、アメリカで先行する Amazon.com の方式をほとんどそのまま踏襲しているようだ。「ガラパゴス」という名前の多機能端末側に通信機能をつけ、パソコンの助けを借りないで電子書籍をその場でダウンロードできるのが特徴だ。また、端末機の販売も Amazon.com に倣い、注文方式である。具体的には、コンビニ各社と提携して注文を受け付ける。これによって、氏名や住所などのユーザー情報を確実に入手して“囲い込み”が行える。 Amazon.com の場合は、コンビニを使うのではなく、端末の注文をネット経由に限定してきた。私が Amazon.com の「キンドル」を注文した際には、自分の手元に端末が届くころには、ネット上に私の名前等がすでに登録されていた。顧客をつかむ確実な方法だと思う。

 端末機の種類は、画面サイズ5.5インチのものが3万9800円で、10.8インチのものが5万4800円。これは、キンドルより高額である。ただし、キンドルはモノクロ画面だが、こちらはカラー液晶であるし、電子書籍閲覧以外の機能もあるから、単純な比較はできない。電子書籍の配信は、ツタヤと組んで「TSUTAYA GALAPAGOS」というサービスを始めるそうだが、ネットを検索しても、今のところそれに該当するサイトに出会えなかった。

 これに対してソニーの「リーダー」は、より開放的で、自由度が大きい。シャープ機との大きな違いは通信機能を省いている点。電子書籍はPCによってソニーのサイトからダウンロードし、そこから端末側に自分で転送する。機種はシャープと同じように2種をそろえているが、それぞれ文庫本サイズの「ポケット」(約2万円)と、それより大きい「タッチ」(約2万5千円)と、シャープ機の半額である。端末機の販売方式は、通常の家電量販店などの店頭販売だから、買いやすいことは確かだ。ただし、取扱店舗数は今のところ約300点だから、約2万4千店のコンビニで注文ができるシャープ機とどちらが有利か、判断はむずかしい。

 問題は、両社の端末で使える電子書籍の互換性だが、これについてはまだよく分からない。ユーザーとしては、かつてのビデオ・カセットテープの二の舞にならないように祈りたい。

 ところで、10日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に、アメリカの電子書籍のジャンルでは恋愛小説が予想外に売れているという記事が載っていた。それを買うのは、31歳から49歳で恋愛中の女性が多いというのである。この記事は、電子版の恋愛小説がなぜ売れるかを分析していて、その理由が面白い。紙の本であれば、恋愛小説はカバーもタイトルも派手で、どこへでも持って行って読むには抵抗がある。デートには持って行けない。しかし、電子書籍であれば、その人がどんな本を読んでいるのかは他人には分からない。つまり、電子書籍は“本のカバー”の役割をしてくれるし、しかも何冊も持ち歩ける。そんな点が受けているようだ。

 こういう話を聞くと、宗教書も電子版で売れる可能性が十分あるのではないかと思う。大っぴらに持ち歩きにくいうえ、聖書も仏典も大部だ。『生命の實相』も40巻ある。読者はどうお考えか?

 谷口 雅宣

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2010年12月 9日

八ヶ岳は雪景色

Snowy_ohizumi2  妻がブログに書いているように、私たちは休日を利用して山梨県の大泉町に来た。2年半後には、こちらで生活することになるのに、冬場をしっかり経験していない。そんな一種の“負い目”を感じていたので、今回、短期間ではあるが“冬体験”のつもりで来た。そんな私たちの意図を待ち構えていたように、見事に初日から雪が降った。現地の人に聞いてみると「まとまった雪は今年初めて」とか。山荘まで行くには、高低差の大きい未舗装の山道を上がったり下がったりしなければならないので、そこに雪が積もっていたら、私たちの車(四駆でない旧式オデッセー)では立ち往生する可能性があった。が、幸いにも、快晴の八ヶ岳南麓は積雪を早く溶かしてくれていた。
 
Snowy_ohizumi1  寒さは格別だ。しかし、山荘は高断熱になっているうえ、薪ストーブが威力を発揮する。車には、東京の家から薪を積んで来た。これらは、公邸の庭で枯れたサワラと倒れたサクラの木を、前もって薪にして乾燥させておいたものだ。これを燃やすと、山荘全体が暖まる。そして、一度暖まるとなかなか冷めないのがありがたい。外は氷点下になっても、山荘の中は23~25℃で安定している。だから、外へ出ないかぎり、山荘内は東京の自宅よりよほど心地がいいのである。が、山へ来て、雪の戸外を歩かないのでは意味がない。ということで、昼前に妻と2人で山荘周辺の山歩きをした。

Snowy_ohizumi3  積雪の山道を歩いて面白いのは、「足跡」を見つけることだ。近くには私たちだけしかいないはずの山道で、新しいトレッキング・シューズの足跡と、大型犬の足跡が並んでついていた。朝、誰かが犬の散歩に来ていたのだ。その足跡の方向を見ると、どこから来たのかが大体わかる。しばらく行って人の足跡のないところに、シカの足跡を見つける。1頭だけのようだ。しばらく行くと、もっと小さい足跡……これはノウサギのものだろう。そんなことを考えながら、雪道を行く動物たちの姿を想像する。人間の痕跡が残る場所へやってくる彼らの目的を想像する……。都会では考えないことを考え、感じないことを感じている自分を、肌を切るような寒さと、白銀の森の中で見出す。
 
 木曜日は、この地域のソバ屋の多くは休んでいる。が、開いている店を知っていたので、昼はそこへ行って、新ソバの手打ちをおいしくいただいた。この店にも大型の薪ストーブがあり、中は暖かだった。
 
 谷口 雅宣

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2010年12月 8日

プラトンと画家 (6)

 前回までに本欄でたどりついた結論は、プラトンが『国家』第10巻において語る“芸術論”は、すべての芸術や文学について述べたものではなく、例外的な特殊ケースについて述べたものということだった。それがどのような種類の“特殊ケース”であるかは、プラトンのテキストに帰って確認することで明らかになるはずである。次の引用は、本シリーズの初回ですでに紹介したが、大切な箇所なので再掲する。
 
 ソクラテスは、グラウコンにこう語りかける--
 
「いったい絵画とは、ひとつひとつの対象についてどちらを目ざすものなのだろうか? 実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか? つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか?」

「見かけを真似る描写です」と彼(グラウコン)は答えた。(p.311)

 上の引用では、ソクラテスの口を借りたプラトンは、対話相手のグラウコンに対して2つの選択肢しか与えていない。つまり、絵画の目的について、①イデアを模写するため、②個物の見かけを真似るため、という2つの中から選べと迫っているのである。これは一種の暴論ではないか、と私は思う。人間が「絵を描く」という行為をする目的は、もっと多くのものがある。その1つには、情報伝達がある。これは、古くは古代エジプト文字や漢字、本や雑誌の挿絵、新しくは道路標識やパソコン画面のアイコン、ケータイの絵文字などを思い出せばわかる。これらの絵は、①でも②でもない場合がほとんどだろう。プラトンの時代にこれらすべてが存在しなかったとしても、“世界最古の絵画”と言われるフランスのラスコーの洞窟に描かれた動物の絵は存在していた。私はこの絵の目的も、①でも②でもないと考える。

 ということは、プラトンはここで、「個物の見かけを忠実に真似る」という特殊な目的のもとに描かれた絵画だけを、議論の対象にしようとしているのではないだろうか? つまり、いわゆる“リアリズムの絵画”を批判することがプラトンのここでの目的であったと考えられる。そうではなく、プラトンがそれ以外の絵画を含めたすべての芸術を評価しなかったと考えるのは、無理である。これについては、『国家』の翻訳者である藤沢令夫氏の次の文章が有力に物語っている:
 
「プラトンが若いときに多くの詩作品を創作し、ソクラテスとの出会いによってそのすべてを火中に投じたという話が、後の人が作った伝説にすぎないとしても、プラトン自身が詩人としてのすぐれた素質と才能をもっていたことは、彼が書いた対話篇そのものが証明するであろうし、彼自身が詩の魅力に対して誰よりも敏感な人であったことは、疑いえないであろう。“子供のときからぼくをとらえているホメロスへの愛と畏れとが話すのをさまたげる”、“われわれ自身詩の魅力に惹かれることを自覚している”と、彼はこの箇所の議論の始めと終りにソクラテスに語らせている」。(『国家(下)』p.428)

 だから我々は、プラトンが『国家』において述べる“芸術論”を、彼の芸術観のすべてだと考えてはならないのである。恐らくプラトンは、現実世界の物事の単なる複製(コピー)を芸術だと考える人々に対して、「そんなものは価値が低い」と言っているのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○プラトン著/藤沢令夫訳『国家(下)』(岩波文庫、1979年)

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2010年12月 7日

プラトンと画家 (5)

 私は今、12月3日の記事に引き続いて、同じ題で本欄を書くことに躊躇している。というのは、これから書こうとしていることは、古代ギリシャに生きたプラトンにとって全く未知の情報にもとづいているからである。脳神経科学の研究で明らかになった情報を使って、2000年以上前に哲学者が言ったことを批判するのはあまり穏当でない。ましてや、そういう情報を駆使して「彼は本当はこう言いたかったのだ」と断定すれば、不当を通り越して滑稽でさえある。しかし、プラトンの提出した論理の助けを借りて、現代の脳科学の情報を芸術に関して有意義な形にまとめることができれば、“恩人”である彼の名前を消し去ることの方が、かえって不当に思われる。というわけで、同じシリーズ名を踏襲することにした。

 前回本題で書いたときに、私は「ものを見る」という行為が「情報を受ける」だけでなく、受けた情報を取捨選択し、また過去に得た数々の情報を組み入れながら、脳内に一定のイメージを構築するという、きわめて能動的な活動であることを指摘した。そして、そのようにして得た(例えば、具体的な椅子の)イメージを画家が絵に描く目的は、「画家が目の前の椅子と椅子のイデアを利用して、鑑賞者の心に“新しい椅子”の構築を狙う」ためだと書いた。
 
 かなりまだるっこしい表現だが、これをあえて単純化しないのは理由がある。それは、絵画を介して対峙する2人の人間--画家と鑑賞者--の脳内の活動に読者の注意を引きたいからだ。この視点は、プラトンの論理には欠けている。いや、彼は画家の脳内の出来事について考えた形跡はあるものの、鑑賞者の脳内で何が起こるかについては、ほとんど関心がなかったと思われる。当時は、脳の機能についての知識がきわめて限定されていたからだ。しかし、芸術は「作者」と「鑑賞者」があって初めて成立するものだから、両者の脳内で何が起こるかを考察することは、脳科学が発達した現代では、哲学者であっても避けて通れないだろう。

 本シリーズの初回で、私はプラトンが絵画を「具体的個物に似せて作られたもの」としてとらえたことを紹介し、そうなると、プラトンにとっての価値の序列は、①本当の世界に存在する「イデア(理念)」、②その具体的、物質的反映である「個物」、③その個物をさらに真似た「絵画」という順序になる、と書いた。しかし、この序列の中には、人間の心が入る余地が少ない。例えば、椅子を作った職人の動機や気持は、その椅子のデザインや出来ばえに反映するだろう。自分の尊敬する人のために心を込めて作る椅子と、安い量販店向けに数多く作る椅子では、当然違いが出てくる。また、絵画の場合も、それを描く人の心が当然、作品の質に反映される。同じ1つの椅子を描く場合でも、絵を描くのが嫌いな人がぞんざいに殴り描きする場合と、その椅子に惚れ込んだ画家が何カ月もかけて描く絵とでは、価値が異なって当然だし、そうでなければならない。
 
 こう考えてくると、①イデア、②個物、③絵画、という価値の序列は、あらゆる場合に適用できるものではなく、むしろ特殊なケースであると思われる。特に、②と③の順序は、時と場合によって入れ替わることが十分あり得ると考えていいだろう。例えば、量販店で数千円で売られている椅子を材料として、ある画家が50号の油絵を描いたとする。その絵画が数十万円、数百万円で買われるということは、それほど珍しいことではないだろうし、何か特別に間違ったことだとは思えない。こうして価値の序列が入れ替わる最大の要因は、そこに関係してくる“人間の心”だと私は思うのである。だから、“人間の心”を除外して価値の序列を決定することには、無理があると言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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2010年12月 5日

イノシシ、海を渡る

 今日は雲ひとつない晴天のもと、徳島市の「アスティとくしま」で生長の家の講習会が開催された。会場には、県下はもちろん四国の隣県や大阪などからも5千人を超える大勢の受講者(5,316人)が集まって、講話や体験談などに熱心に耳を傾けてくださった。私の午前中の講話にたいしては14通の質問が出た。すべてには答えられなかったが、「実相と現象の違い」「潜在意識と文化」「生長の家が“森の中”へ行く意義」など、主題が多岐にわたったのが印象的だった。受講者数は前回(5,523人)には及ばなかったが、過疎化、高齢化、人口減少の中で同教区幹部・信徒の皆さんが熱心に伝道活動を推進してくださったことは、明らかである。そのご努力に心から感謝申し上げます。
 
Kenchopia  徳島での宿舎は新町川沿いのホテルだった。かつてはプリンスホテルの経営だったものが、今は別の企業に移っている。徳島県庁や県議会などの公共機関や施設と並んで建っているから、“市の中心地”と言えるだろう。川縁にはヨットなどのプレジャーボートが数多く係留された桟橋があって、「県庁」と掛けて「ケンチョピア」と呼ばれている。私が絵封筒を描き始めた当初、ここに係留されたヨットを題材にして万年筆で描いたのを覚えている。今回は好天に恵まれたため、それらの白い船影と澄みきった青空とのコントラストが、特に美しかった。徳島県は人口減少がずっと続いているということだが、この桟橋に係留されたプレジャーボートの数は、なぜか以前より増えているように思う。
 
 今日の『朝日新聞』の社会面に、瀬戸内海の島々を“侵食”するイノシシの話が書いてあった。講習会で島根県へ行ったときに、イノシシが宍道湖を渡るという話を聞いて驚いたものだが、この記事には「イノシシが海を泳いで渡り、海賊のように荒らし回っている」と書いてある。愛媛県今治市の大島、大三島、香川県小豆島、広島県因島や江田島などでも、イノシシがミカンやオリーブなどの枝を折ったり、木の根元を掘り返して枯らしたりする被害が出ていて、捕獲数は増えているものの、人口減と高齢化が進む中では対策が間に合わないというのだ。記事には、広島大学の谷田創教授(人間動物関係学)の談話が付けられていて、「以前は島の農家も若く人口も多くて、容易に侵入できなかったのではないか。今は高齢化で立場が逆転し、人がイノシシに追いつめられつつある。将来は無人島になる島も出てくるかもしれない」というのである。
 
 今日の講習会では、生長の家が本部事務所を東京から八ヶ岳南麓の“森の中”へ移すことに触れて、「自然と人間との共存をはかるため」だと説明したが、こういう話を聞くと、それが決して簡単なことではないことが分かる。八ヶ岳南麓あたりでは、シカの被害が多い。生長の家総本山でもイノシシの被害がある。これらの原因の1つは、人間が彼らの生息地に侵入し、開発行為によって自然界のバランスを崩していることにある。シカの場合は、天敵であるオオカミを絶滅させたことが要因の一つだから、人間がオオカミの役割をするということで、最近は“ジビエ料理”などが注目されている。イノシシの繁殖についても同じ対策が考えられるが、宗教の立場から考えると、なかなか複雑な気持にならざるを得ないのである。

 谷口 雅宣

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2010年12月 3日

プラトンと画家 (4)

 神経科学者のセミール・ゼキ氏(Semir Zeki)は、『脳は美をいかに感じるか』という本の中で、「見る」ことは創造的、能動的活動であることを雄弁に語っている。ひと昔前の伝統的な理解では、「ものを見る」ことは、光が当たった対象の映像を左右の目が網膜上に映し、その情報を脳に伝えることでほぼ自動的に行われる、と考えられてきた。目を通して与えられた情報を脳がまず受けて、それを処理することで「ものが見える」と考えるのである。ところが心理学や神経科学が発達してくると、人間の脳は、目から入ってくる情報をただそのまま受けるのではなく、積極的に取捨選択し、加工してから「理解」に達することが分かってきた。

 私は、『心でつくる世界』の第2章で、脳による視覚情報の積極的な処理について書いた。人間の視覚の中には一定のプログラムが組み込まれていることを、いろいろな実例をもって示した。ゼキ氏は、このことを「私たちに見えるものは、外界の物理的現実だけではなく、脳の機構と脳の法則によっても左右される」(p.25)と表現している。さらにまた、「視覚とは、絶えざる変化を差し引き、物体を分類するために必要なもののみを抽出する能動的な過程である」(p.29)と言っている。つまり、脳は情報を集めるだけでなく、集めた情報の中から共通点を見出して、他の情報は捨て去り、物事を分類することもしているのだ。しかも、この複雑な分類作業は無意識の中で、きわめて短い時間に行われる。
 
 例えば、前回の本欄でプラトンが「寝椅子」について語っている件を読めば、我々がデパートの家具売場の隅に置いてある寝椅子を斜めの方向から見ても、「あれは寝椅子だ」と理解できることの不思議さに思い当たるだろう。寝椅子にはいろいろな形や大きさがあり、デザインも同一のものは少ない。にもかかわらず、特定の寝椅子を初めてデパートで遠くから見たとき、それが「寝椅子だ」とわかるためには、それ以前に、寝椅子について数多くの情報を脳が蓄積していなければならないはずだ。プラトンの言葉を借りれば、我々は寝椅子の「イデア」を事前にもっていなければ、寝椅子を見てもそれが寝椅子だとは分からない。この寝椅子を「わかる」ための過程を、ゼキ氏は次のように描いている--
 
「まず、脳に届く絶えず変化する膨大な量の情報の中から、物体や表面の恒常的かつ本質的特性を同定するために必要な情報を選択し、知識を獲得する上で重要ではない情報は、すべて差し引いて犠牲にする。次に、選択された情報を脳内に蓄積されている過去の視覚情報に関する記憶と比較する。そして、その結果、物体もしくは場面を同定し、分類することができるのである。これはなまやさしい仕事ではない」。(p.29-30)

 こういう複雑で、能動的な仕事が、私たちの無意識の中で高速に行われているという理解をもって「画家」の仕事を思い出してみよう。すると、目の前にある一脚の椅子を描いている画家は、過去に見たすべての椅子から得た情報を使って、カンバス上に“新たな椅子”の一部を描いているという事実に気がつくだろう。目の前にある椅子と、カンバス上に描かれる椅子が“まったく同一”である必要はない。いやそうではなく、目の前ある椅子と“まったく同一”の椅子をカンバス上に描くことなどできないと、私はすでに述べた。一方は立体であり、他方は平面だからだ。とすると、いったいこの画家は、何のために目の前にある椅子を描くのか? 私はそれは、画家が目の前の椅子と椅子のイデアを利用して、鑑賞者の心に“新しい椅子”の構築を狙っているからだと思うのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○セミール・ゼキ著/河内十郎監訳『脳は美をいかに感じるか--ピカソやモネが見た世界』(日本経済新聞社、2002年)

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2010年12月 2日

プラトンと画家 (3)

 11月29日の本欄で、プラトンが美術や芸術を低く評価した証拠として私が引用した文章は、しかしその解釈をめぐって多くの論争が行われてきた。つまり、プラトンの芸術への理解度については、まだ論争があるのだ。プラトンの『国家』の翻訳者である藤沢令夫氏は、プラトンの論理を正確にたどれば、「詩や芸術に対してけっしてそれほど不当なことを言っているとは思われない」と解説文の中で書き、さらに「プラトンはここで“芸術家は現実にそのままのかたちで見出されるものをしか描写しない”というようなことを少しも言っていない」と断言している。しかし、この引用箇所が、誤解を招きやすい点は認めている。
 
 そこで、部分引用から来る誤解をできるだけ避けるために、前に挙げた引用文に先立つ対話部分を次に紹介しよう。そこでは、ソクラテスはグラウコンにこう尋ねるのだーー
 
「(前略…)“ここにひとつの寝椅子がある。君がこれを斜めに横から見ようと、正面から見ようと、あるいは他のどのような方向から見ようと、この寝椅子自体が少しでも異なったものになることは、よもやないだろうね? むしろ、実際には寝椅子は少しも異ならないけれども、ただいろいろと違った姿に見えるということではないかね? そしてこれは、他のものについても同様だろうね?”
 “そうです”と彼(グラウコン)は言った、“違って見えるだけで、実際には少しも異なっていません”」

 この会話のあとで、先に引用した「いったい絵画とは……」という、絵画の目的についてのソクラテスの問いかけが続くのである。ここでプラトンがソクラテスの言葉によって指摘していることは、我々が見落としがちな重要な事実だ、と私は思う。

 絵画は二次元の表現芸術だから、厚みをもった対象を描く場合、すべての角度から見た対象を表現することはできない。だから通常は、1つの角度から見た対象を画面に描き、それに陰影をつけたり、絵具を盛り上げたり、あるいは色調によって立体感をつける。が、それによっても、例えば1脚の椅子の「全貌」など描くことはできない。また画家は、そのような「椅子の全貌」など描くことを目的としていない、と私は思う。なぜなら、対象の“一部”を描くことで“全体”を指し示すことはいくらでもできるからだ。
 
 例えば、前回掲げた『ヴェロニカ』の模写は、ある人物の頭部と肩を正面から描いているだけだが、それを見た鑑賞者は、その人物の“全体”を知ったような気持になる。この場合の“全体”とは、もちろん肉体的な“全貌”ではない。そうではなく、その人の「人となり」のようなものだ。「内面性」といってもいいが、それはその人の「外面」と離れた別物ではなく、不即不離の関係にある。あの大きな目、長い鼻、小さい口、狭い肩……などの外面を通じて初めて感じられる内面である。鑑賞者が見ているのは、あくまでも「目」であり「鼻」であり「口」であり「肩」であり、それらの比率であり、配置であり、彩色である--つまり、すべて目で見えるものである。が、それらの組み合わせから感じられるのは、目に見えない「内面」や「個性」や「人格」のようなものだ。
 
 目に見えるものから、目に見えないものを感じる--なぜ、このようなことが可能なのだろう? 私は、そこに絵画というものの秘密が隠されていると思う。
 
 谷口 雅宣

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