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2010年12月 7日

プラトンと画家 (5)

 私は今、12月3日の記事に引き続いて、同じ題で本欄を書くことに躊躇している。というのは、これから書こうとしていることは、古代ギリシャに生きたプラトンにとって全く未知の情報にもとづいているからである。脳神経科学の研究で明らかになった情報を使って、2000年以上前に哲学者が言ったことを批判するのはあまり穏当でない。ましてや、そういう情報を駆使して「彼は本当はこう言いたかったのだ」と断定すれば、不当を通り越して滑稽でさえある。しかし、プラトンの提出した論理の助けを借りて、現代の脳科学の情報を芸術に関して有意義な形にまとめることができれば、“恩人”である彼の名前を消し去ることの方が、かえって不当に思われる。というわけで、同じシリーズ名を踏襲することにした。

 前回本題で書いたときに、私は「ものを見る」という行為が「情報を受ける」だけでなく、受けた情報を取捨選択し、また過去に得た数々の情報を組み入れながら、脳内に一定のイメージを構築するという、きわめて能動的な活動であることを指摘した。そして、そのようにして得た(例えば、具体的な椅子の)イメージを画家が絵に描く目的は、「画家が目の前の椅子と椅子のイデアを利用して、鑑賞者の心に“新しい椅子”の構築を狙う」ためだと書いた。
 
 かなりまだるっこしい表現だが、これをあえて単純化しないのは理由がある。それは、絵画を介して対峙する2人の人間--画家と鑑賞者--の脳内の活動に読者の注意を引きたいからだ。この視点は、プラトンの論理には欠けている。いや、彼は画家の脳内の出来事について考えた形跡はあるものの、鑑賞者の脳内で何が起こるかについては、ほとんど関心がなかったと思われる。当時は、脳の機能についての知識がきわめて限定されていたからだ。しかし、芸術は「作者」と「鑑賞者」があって初めて成立するものだから、両者の脳内で何が起こるかを考察することは、脳科学が発達した現代では、哲学者であっても避けて通れないだろう。

 本シリーズの初回で、私はプラトンが絵画を「具体的個物に似せて作られたもの」としてとらえたことを紹介し、そうなると、プラトンにとっての価値の序列は、①本当の世界に存在する「イデア(理念)」、②その具体的、物質的反映である「個物」、③その個物をさらに真似た「絵画」という順序になる、と書いた。しかし、この序列の中には、人間の心が入る余地が少ない。例えば、椅子を作った職人の動機や気持は、その椅子のデザインや出来ばえに反映するだろう。自分の尊敬する人のために心を込めて作る椅子と、安い量販店向けに数多く作る椅子では、当然違いが出てくる。また、絵画の場合も、それを描く人の心が当然、作品の質に反映される。同じ1つの椅子を描く場合でも、絵を描くのが嫌いな人がぞんざいに殴り描きする場合と、その椅子に惚れ込んだ画家が何カ月もかけて描く絵とでは、価値が異なって当然だし、そうでなければならない。
 
 こう考えてくると、①イデア、②個物、③絵画、という価値の序列は、あらゆる場合に適用できるものではなく、むしろ特殊なケースであると思われる。特に、②と③の順序は、時と場合によって入れ替わることが十分あり得ると考えていいだろう。例えば、量販店で数千円で売られている椅子を材料として、ある画家が50号の油絵を描いたとする。その絵画が数十万円、数百万円で買われるということは、それほど珍しいことではないだろうし、何か特別に間違ったことだとは思えない。こうして価値の序列が入れ替わる最大の要因は、そこに関係してくる“人間の心”だと私は思うのである。だから、“人間の心”を除外して価値の序列を決定することには、無理があると言わねばならない。
 
 谷口 雅宣

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コメント

総裁先生、ありがとうございます。
①イデア、②個物、③絵画と順番をつけて考えるのはとても興味深く思いました。
人間は神の最高の自己実現という言葉を思い出しました。
どんなにイデアが素晴らしくても、それを表現する“人間の心”がなくては意味がないと思いました。

投稿: 丸山貴志 | 2010年12月 8日 23:47

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