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2010年12月 3日

プラトンと画家 (4)

 神経科学者のセミール・ゼキ氏(Semir Zeki)は、『脳は美をいかに感じるか』という本の中で、「見る」ことは創造的、能動的活動であることを雄弁に語っている。ひと昔前の伝統的な理解では、「ものを見る」ことは、光が当たった対象の映像を左右の目が網膜上に映し、その情報を脳に伝えることでほぼ自動的に行われる、と考えられてきた。目を通して与えられた情報を脳がまず受けて、それを処理することで「ものが見える」と考えるのである。ところが心理学や神経科学が発達してくると、人間の脳は、目から入ってくる情報をただそのまま受けるのではなく、積極的に取捨選択し、加工してから「理解」に達することが分かってきた。

 私は、『心でつくる世界』の第2章で、脳による視覚情報の積極的な処理について書いた。人間の視覚の中には一定のプログラムが組み込まれていることを、いろいろな実例をもって示した。ゼキ氏は、このことを「私たちに見えるものは、外界の物理的現実だけではなく、脳の機構と脳の法則によっても左右される」(p.25)と表現している。さらにまた、「視覚とは、絶えざる変化を差し引き、物体を分類するために必要なもののみを抽出する能動的な過程である」(p.29)と言っている。つまり、脳は情報を集めるだけでなく、集めた情報の中から共通点を見出して、他の情報は捨て去り、物事を分類することもしているのだ。しかも、この複雑な分類作業は無意識の中で、きわめて短い時間に行われる。
 
 例えば、前回の本欄でプラトンが「寝椅子」について語っている件を読めば、我々がデパートの家具売場の隅に置いてある寝椅子を斜めの方向から見ても、「あれは寝椅子だ」と理解できることの不思議さに思い当たるだろう。寝椅子にはいろいろな形や大きさがあり、デザインも同一のものは少ない。にもかかわらず、特定の寝椅子を初めてデパートで遠くから見たとき、それが「寝椅子だ」とわかるためには、それ以前に、寝椅子について数多くの情報を脳が蓄積していなければならないはずだ。プラトンの言葉を借りれば、我々は寝椅子の「イデア」を事前にもっていなければ、寝椅子を見てもそれが寝椅子だとは分からない。この寝椅子を「わかる」ための過程を、ゼキ氏は次のように描いている--
 
「まず、脳に届く絶えず変化する膨大な量の情報の中から、物体や表面の恒常的かつ本質的特性を同定するために必要な情報を選択し、知識を獲得する上で重要ではない情報は、すべて差し引いて犠牲にする。次に、選択された情報を脳内に蓄積されている過去の視覚情報に関する記憶と比較する。そして、その結果、物体もしくは場面を同定し、分類することができるのである。これはなまやさしい仕事ではない」。(p.29-30)

 こういう複雑で、能動的な仕事が、私たちの無意識の中で高速に行われているという理解をもって「画家」の仕事を思い出してみよう。すると、目の前にある一脚の椅子を描いている画家は、過去に見たすべての椅子から得た情報を使って、カンバス上に“新たな椅子”の一部を描いているという事実に気がつくだろう。目の前にある椅子と、カンバス上に描かれる椅子が“まったく同一”である必要はない。いやそうではなく、目の前ある椅子と“まったく同一”の椅子をカンバス上に描くことなどできないと、私はすでに述べた。一方は立体であり、他方は平面だからだ。とすると、いったいこの画家は、何のために目の前にある椅子を描くのか? 私はそれは、画家が目の前の椅子と椅子のイデアを利用して、鑑賞者の心に“新しい椅子”の構築を狙っているからだと思うのである。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○セミール・ゼキ著/河内十郎監訳『脳は美をいかに感じるか--ピカソやモネが見た世界』(日本経済新聞社、2002年)

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