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2010年12月 2日

プラトンと画家 (3)

 11月29日の本欄で、プラトンが美術や芸術を低く評価した証拠として私が引用した文章は、しかしその解釈をめぐって多くの論争が行われてきた。つまり、プラトンの芸術への理解度については、まだ論争があるのだ。プラトンの『国家』の翻訳者である藤沢令夫氏は、プラトンの論理を正確にたどれば、「詩や芸術に対してけっしてそれほど不当なことを言っているとは思われない」と解説文の中で書き、さらに「プラトンはここで“芸術家は現実にそのままのかたちで見出されるものをしか描写しない”というようなことを少しも言っていない」と断言している。しかし、この引用箇所が、誤解を招きやすい点は認めている。
 
 そこで、部分引用から来る誤解をできるだけ避けるために、前に挙げた引用文に先立つ対話部分を次に紹介しよう。そこでは、ソクラテスはグラウコンにこう尋ねるのだーー
 
「(前略…)“ここにひとつの寝椅子がある。君がこれを斜めに横から見ようと、正面から見ようと、あるいは他のどのような方向から見ようと、この寝椅子自体が少しでも異なったものになることは、よもやないだろうね? むしろ、実際には寝椅子は少しも異ならないけれども、ただいろいろと違った姿に見えるということではないかね? そしてこれは、他のものについても同様だろうね?”
 “そうです”と彼(グラウコン)は言った、“違って見えるだけで、実際には少しも異なっていません”」

 この会話のあとで、先に引用した「いったい絵画とは……」という、絵画の目的についてのソクラテスの問いかけが続くのである。ここでプラトンがソクラテスの言葉によって指摘していることは、我々が見落としがちな重要な事実だ、と私は思う。

 絵画は二次元の表現芸術だから、厚みをもった対象を描く場合、すべての角度から見た対象を表現することはできない。だから通常は、1つの角度から見た対象を画面に描き、それに陰影をつけたり、絵具を盛り上げたり、あるいは色調によって立体感をつける。が、それによっても、例えば1脚の椅子の「全貌」など描くことはできない。また画家は、そのような「椅子の全貌」など描くことを目的としていない、と私は思う。なぜなら、対象の“一部”を描くことで“全体”を指し示すことはいくらでもできるからだ。
 
 例えば、前回掲げた『ヴェロニカ』の模写は、ある人物の頭部と肩を正面から描いているだけだが、それを見た鑑賞者は、その人物の“全体”を知ったような気持になる。この場合の“全体”とは、もちろん肉体的な“全貌”ではない。そうではなく、その人の「人となり」のようなものだ。「内面性」といってもいいが、それはその人の「外面」と離れた別物ではなく、不即不離の関係にある。あの大きな目、長い鼻、小さい口、狭い肩……などの外面を通じて初めて感じられる内面である。鑑賞者が見ているのは、あくまでも「目」であり「鼻」であり「口」であり「肩」であり、それらの比率であり、配置であり、彩色である--つまり、すべて目で見えるものである。が、それらの組み合わせから感じられるのは、目に見えない「内面」や「個性」や「人格」のようなものだ。
 
 目に見えるものから、目に見えないものを感じる--なぜ、このようなことが可能なのだろう? 私は、そこに絵画というものの秘密が隠されていると思う。
 
 谷口 雅宣

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コメント

ありがとうございます。函館教区青年会の奥田健介です。いつも先生の神ブログ楽しく拝見させていただいています。これからもいろんなことわかりやすくおしえてください。

投稿: 奥田 健介 | 2010年12月 3日 10:47

総裁先生、ありがとうございます。
「プラトンと画家」のシリーズを興味深く拝読させて頂きました。
私は大学で哲学を専攻し、卒業論文ではプラトンの著作を読んで、生きる意味について書かせて頂きました。
大学生の時、生きる意味を探していましたが見つからず、生長の家冨士河口湖練成道場の練成会に参加して、「人間神の子としての実相を現していく」という素晴らしい生きる意味を見つけることができました。
絵画には、実相世界の「真・善・美」を現す力があるのではないかと思います。
感謝 合掌
丸山貴志拝

投稿: 丸山貴志 | 2010年12月 3日 20:46

谷口雅宣先生

奈良教区の山中優です。画家をめぐるプラトンの見解について、大変興味深いご論考を誠にありがとうございます。

プラトンの『国家』は、私もかつて熱心に読んで勉強したつもりでしたが、プラトンの芸術論をめぐる訳者・藤沢令夫氏の解説(補注B、岩波文庫・下巻 416-429頁)は読み飛ばしていたことに気づいたので、これを機に読ませていただきました。

その藤沢氏による解説の要点を、ここでの文脈に合わせてまとめてみると、以下の3点になりましょうか。

①プラトンは決して、「画家の仕事は現実にある対象の外面的な写実だけに限られる」ということを言っていたわけではない。むしろ、現実には存在しないような「理想像」をも画家は描写しうるということを、プラトンは認めていた。

②しかし、そのような「理想像」といえども、それは純粋の知性や思惟によってしか捉えられないイデアではなく、やはり心中に思い描かれるところのイメージ(感覚像)である。すなわち、画家の仕事としてのミーメーシス(対象を真似て描写すること)の対象は、イデアそれ自体ではない。たとえ現実にある対象の外面的な写実にとどまらない「理想像」といえども、やはりそれは、心中に具体的に思い描かれる特定の感覚像であることに変わりはない。

③プラトンは決して、絵画芸術をたんなる外面的な写実としてのみ理解していたわけではなかったけれども、プラトン自身が人間活動の最上位に置いていたのは、芸術活動ではなく、やはり対象の本質それ自体(イデア)を直接とらえようとする哲学であった。

この関連で思い出したのは、谷口清超先生著『智慧と愛のメッセージ』に収められた「神の国の構図」というご文章です(206-208頁)。

そのご文章で清超先生は、プラトン・キリスト・釈迦といった先師達は、その時代の人々の意識の程度に応じて、「神の国」の構図を暗示したにとどまり、それを具体的に地上に展開する手段を示されなかったけれども、「生長の家」では、雅春大聖師によってその具体的方策が明示された--と書いておられます。

その具体的方策の一つが、まさに日時計主義の実践としての芸術活動ではないか--と思わせていただいた次第です。

山中優 拝

投稿: 山中優 | 2010年12月 3日 21:35

奥田さん、
 この文章が「わかりやすい」とおっしゃるなら、貴方はすばらしいです。 ありがとうございます。

丸山さん、
 コメント、ありがとう。今回、私もプラトンを改めて勉強しています。ムズカシイですねぇ~

山中さん、
 3点のまとめ、ありがとうございます。私もまだ、プラトンと格闘中ですから、まとめは大助かりです。藤沢氏の文章も難解なので、閉口します。(笑)
 ところで、「寝椅子のイデア」ってどこにあるのでしょうか?

投稿: 谷口 | 2010年12月 3日 23:23

谷口雅宣先生

はい、藤沢氏の解説文、ムズカシイです(笑)

さて、「寝椅子のイデア」はどこにあるか--どこにあるのでしょう?

手がかりにすべきは、いわゆる「線分の比喩」でしょうか(『国家』第6巻20章-21章:岩波文庫下巻86-92頁)。そこでの可視界(見られるもの)と可知界(思惟によって知られるもの)という二分法を踏まえれば、「寝椅子のイデア」が、他のイデアと同様に、可知界に存在するということは、まず間違いないことと存じます。

しかしプラトンは、その可知界をさらに二つに分けていました:悟性的思考=間接知の領域と、直接知=知性的思惟の領域、この二つです。それでは一体、「寝椅子のイデア」は、そのどちらに属するのか?

改めて読み直してみると、「寝椅子のイデア」は、どうやら前者の悟性的思考=間接知の領域に属するものと言えそうです。というのも、それについてプラトンは、「目に見える形象を補助的に使用したり、それらの形象についていろいろと論じる」と述べ、そうした対象を扱う悟性的思考は「始原にまでさかのぼることをしない」と説明しているからです。「寝椅子のイデア」というのもある形象を備えたものであり、また美そのものといった始原にまで遡るものでもないでしょうから、こちらに入るのではないでしょうか?

それに対して、直接知=知性的思惟の領域についてプラトンが述べているのは、理(ロゴス)がそれ自身で、問答(対話)の力によって把握するものであり、およそ感覚されるものを補助的に用いることは一切なく、ただ〈実相〉そのものだけを用いて、万有の始原に到達する、ということでした。これは要するに、真・善・美そのもののイデアのことでしょうか。

他方、たとえば「寝椅子のイデア」は、美のイデアの性質のうち、その一部を分有するものだ、ということになるのだと思います。あるいは「寝椅子」の場合は、それを使うと心地好いという意味では、むしろ善のイデアの一部を(も)分有するというべきでしょうか。

いずれにせよ、プラトンが『メノン』や『パイドン』で提示した認識論は「想起説」でした。すなわち「人間の魂は不死であり、われわれは人間としてこの世に生まれてくる前に、すでにあらゆるものを学んで知っている。学ぶとか探求するというのは、実はすでに獲得しながら忘れていた知識を想い起こすことである」というのが、プラトンの認識論でした(『プラトン全集9 ゴルギアス/メノン』岩波書店、解説376頁より)。

ですから、真・善・美のイデアであれ、寝椅子のイデアであれ、プラトンに言わせれば、(理性・気概・欲望という魂の三つの部分のうちの)理性を用いて、本来であれば認識可能なはずのものですが、大部分の人間はその理性を曇らせているので、それを現実に認識できるのは理性的人間たる哲学者のみとなっている、というのがプラトン哲学の主張だったように思われます。

ですが、「人間は実相においてみな神の子である」という生長の家の人間観からすれば、すべての人にそれが可能であると言うべきなのだと思います。

私はプラトン哲学の専門家ではないので、以上の説明に100%の自信があるわけではないのですが、今回、「線分の比喩」のところを読み返してみて思ったことを、申し述べさせていただきました。できるだけ簡潔になるように努力してみたのですが、それでも、これだけ長くなってしまいましたことをお詫び致します。

山中優 拝

投稿: 山中優 | 2010年12月 4日 16:48

山中さん、
 私の“思いつき”のような質問に、真面目に答えてくださって有り難うございます。

 もっと単純な答えではいけないのでしょうか?
 例えば、「寝椅子」というものを生まれてからこの方、一切目撃したことのない人にとっては、「寝椅子のイデア」に達する道はない……などと。
 神経科学者の見方によれば、「寝椅子のイデア」は「寝椅子」を見たことのある人の「脳内」にあるということになりそうですが。

投稿: 谷口 | 2010年12月 4日 17:51

谷口雅宣先生、

すみません、あまりにも肩に力を入れすぎてましたね(苦笑)。

「イデア」(Idea)という、いかにもギリシャ哲学的な言葉を、もっと軟らかくて一般的な「アイディア」(idea)という言葉に置き換えて考えてみるのも、いいかもしれないと思いました。

いずれにせよ、寝椅子がすでにこの世に存在するようになっている場合は、神経科学的に言えば、まさに、それを見たことのある人の脳内にあると思います。

また、寝椅子が絵画の対象として考えられるのは、もちろん、すでに寝椅子がこの世に存在している場合でしょう。

ですが、まだ寝椅子というものが、そもそもこの世に存在していなかった場合はどうでしょう?

その場合に、寝椅子のイデア、あるいは寝椅子(というものを作ってみよう)というアイディアは、一体どこにあるのでしょう? あるいはどこから来るのでしょうか…?

そのように考えをめぐらせてみると、とても不思議な感じがしました。面白いです!

山中優拝

投稿: 山中優 | 2010年12月 4日 23:24

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