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2010年11月 9日

飛行機事故の“偶然” (2)

 6日の本欄で、今月の初めに航空機事故が立て続けに3件起こったことに触れ、これを“偶然の一致”と見るべきか、それとも3件に共通の“原因”があると見るべきかを問いかけた。残念ながら読者の反応は1件--「原因結果の法則を学んでいるものとして、ただの偶然とは感じられません」というものだけだった。私もこの読者の意見に賛成である。しかし、それはパキスタン、オーストラリア、キューバという互いに何千キロも離れた位置を飛んでいた3機の航空機に、ある1つの原因が働いたという意味では必ずしもない。もちろん、事故にいたる種々の要因の中に共通のものがまったくないというのではない。その簡単な例を挙げれば、3件のいずれの場合も、パイロットが過密スケジュールや悪天候などの「悪条件の中を飛んだ」ということは、十分あり得る。しかし、悪条件の中を飛ぶ航空機は世界中に無数にあり、そのほとんどは事故を起こしていないから、これは「原因」ではなく「助因」(補助的要因)と呼ぶべきものである。

 3事件に共通の原因があるかどうかを考えるに当たって、読者は次の質問に答えてみてほしい--
 
①ある1日に世界で起こる自動車事故は、何件ほどか?
②その事件すべてに共通する「原因」は考えられるか?
③自動車事故は1日に何回あっても、そのすべては我々に知らされない理由は?
 
 このような手続きを踏んでから今回の3件の事件/事故を考えてみると、我々人間の心の中に潜んでいる一種の“偏向”が浮かび上がって来ないだろうか。私は上の3つの問いにこう答える--
 
 軽微な物損事故を含めると、24時間のうちに世界中で起こる自動車事故の数は、事実上「無数」と答えていいだろう(①の答え)。それらの事故のすべてに共通する原因があるとは、とても思えない(②の答え)。それでもあえて挙げてみると、「自動車があるから自動車事故が起こる」という類の不合理な考えにたどりつくだろう。では、それらの自動車事故のすべてが我々に知らされないのは、どうしてだろう。理由は簡単である。それらがあまりにも“当たり前”だからだ。別の表現を使えば「数が多すぎる」のだ。だから、それらをいちいち報道していると、新聞の紙面は溢れてしまい、ニュースの時間は足りなくなる。したがって、新聞やテレビは、「当たり前のものはニュース価値がない」として報道しないことになる。
 
 この答えを逆にたどっていくと、今回の3事件/事故が“偶然の一致”とは思えない理由が浮かび上がってくる。これらが「偶然でない」と思えるのは、航空機事故はまれにしか起こらず、したがってメディアが“重要なニュース”として取り上げるから、なのである。別の言葉で表せば、我々は航空機を含めた乗り物による事故が周囲に無数にあるにもかかわらず、その中から稀にしか起こらない「航空機事故」だけを選び出して、頭の中で1つにまとめてとらえ、「ここに3つが集まったのは偶然ではない」と感じるのだ。その感想は、もちろん正しい。なぜなら、我々が(無意識によって)“恣意的に”集めたものは、“偶然に”集まったものではないからだ。しかし、我々の意識は普通、無意識が行っている活動を知ることはないから、意識によってはそれらを“偶然の一致”だと感じるのである。
 
 別の例で同じことを言おう。
 ネコ好きの人(Aさん)が、自宅のアパートから最寄り駅までを毎日15分歩いて通っていたとする。その隣人のBさんはネコに無関心だったが、同じように最寄り駅まで15分歩いて通っていた。ある日、Aさんは自宅から駅に着くまでにネコの姿を3回見かけて驚いた--「今日はネコちゃんと3回も会えた。これは決して偶然ではない!」。これに対して、Bさんも別の日に、ネコと道ばたで3回すれ違ったが、そのことにまったく気がつかない。なぜなら、Bさんはネコとは別のもの(例えば、花)に関心があるからだ。Bさんの視覚は、もしかしたら足元を素早く横切るネコの姿を知覚したかもしれない。が、それはネコに関心がないBさんの意識は把えないから、自分がネコと会ったと認知しないのである。ネコに関心のある人が「ネコに会った」ことを記憶し、「3回も会った」という認知に達し、「これは決して偶然ではない!」などと思うのである。
 
 こう考えていくと、私たちが「これは偶然じゃない!」と強く感じる出来事が起こる理由は、私たちの“外部”にあるのではなく、“内部”にある--ということが見えてくるのである。かなりややこしい議論をして、読者を退屈させてしまったかもしれない。本件についての私の結論は、今回、短時日のうちに起こった3件の航空機事故にもし共通の原因があるとしたら、それは、経済発展とグローバル化によって航空機の利用者が世界的に増えたということだろう。3件が重なって起こったことは、別に驚くに値しないかもしれない。なぜなら、自動車事故は、同一日に数え切れないほど起こっているからだ。航空機は自動車ほど普及していないから、事故が「3件しか」なく、しかもメディアが大きく報道するから、我々が認知するところとなるのである。
 
 これと同じ内容の議論を、私は『太陽はいつも輝いている』(2008年)の第1部で詳しく展開した。より深く理解したい読者は、同書の第1部第4章「偶然と奇蹟」を参照されたい。
 
 谷口 雅宣 

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コメント

合掌 ありがとうございます。

飛行機事故の“”偶然“・・・(1)・(2)?
拝読させて頂いておりました時・・・ふと!!感じました事は・・・
『生命の実相』飛行機事故の起きうる原因は?――>『恐怖心』
確かに、本体の飛行機自体は、『墜落しない!』という想定で設計・製造された物・・!
私も同感です。・・・しかし、外部要因??例えば事故の原因が自然現象・メインテナンスにとか・・・etc?
それでも、操縦するパイロットの冷静さがあれば、対処できると・・・!

そして、パイロット同士の情報交換はあると思いますので・・・それが、
感応して、連鎖的に『恐怖心の連鎖・・・』つまり今度は、自分自身に起きるのではと??
従って、偶然性と申しますより、心の想念感情(恐怖心)の連携伝達・・・?
一番の要因ではと、思いますが・・・

今回、拝読しながら、全てに於きまして如何に冷静に対処出来る事が・・・
物事の核心に触れ、更に、如何なる状況にもA パターンBパターン Cパターン・・・
と対処でき、それが、結果的には、いい方向性を導いてくれるのではと、
今日この頃・・・痛感します。(現象世界に於きましては)

しかしながら、『実相世界の飛行機』・・・あくまでも、ブルースカイなる世界へ・・・
あのライト兄弟が・・・思い描いた空を飛ぶ!!鳥のように・・・!!
これが、あくまでも飛行機とは・・・の答えでしょうかしらんと??

最後に、『ネコちゃん』の例・・・を拝読しまして・・・
人間外部要因が仮に、何度も何度も現象としまして現れてきますと・・・
無意識のうちに、潜在意識の中に入り込み・・自然に、或る人にとりましては、
それが、『愚然』と解釈する方向に?或る人は、『無』と言う、解釈論になるのでしょうか?

つまり『心の中に思い描いたものが・・・現象世界に現れる!!』
ならば、私はいつもポジティブな感情をもちまして、イメージしたく思いました。
強い!強い!信念にて、集中して自分自身の想念を・・・^^

本日の総裁先生のお話・・・楽しく拝読させていただきました。ありがとうございます。

投稿: ナンシー YST | 2010年11月11日 03:11

合掌ありがとうございます。

少し混乱していますので、質問させて下さい。
生長の家で偶然は無い、すべて必然だ、とお教え頂いているので、身近で偶然のように思える良いことが起こったとき、「神様のお計らいだ!」とか「『甘露の法雨』を読誦したお陰だ!」とか、「私の心がけが良かったからだ!」とか本気で思ってしまうのですが、この考えは間違っていないでしょうか?

そう思うのは私の意識がそう思わせているだけで、本当のところは違うのでしょうか?

投稿: eriko | 2010年11月12日 17:03

合掌、ありがとうございます。
高校生の頃 天文クラブのX先輩と云う賢い先輩が『太陽の黒点の数と交通事故の発生率を調べると面白い結果が出ると思うよ』と言っていました。数年前 ある経済学者が黒点の数と世界経済の関係を説いているのをニュースで見てX先輩の言っていた言葉を思い出しました。現象人間は宇宙の磁場の影響を受けているので、その様な可能性も大いにあり得る事ではないかと思いますが いかがでしょうか?

投稿: みちこ | 2010年11月14日 17:23

eriko さん、

 「偶然だ」と思うこと自体に因果関係がある、というのが私の説明です。あなたの場合、「偶然」と思われるものを必然だと解釈しているので、少し違います。私は、Aという偶然が起こる前の段階を考えていて、あなたはAが起こった後のことを考えているのです。

みちこさん、
 あなたの場合は、因果関係と相関関係の違いを理解されているでしょうか? 前者は、「A→B」という一方通行の関係なのに対し、後者は双方向の関係があります。例えば、「カエルが出てきた翌日は雨になる」というのが相関関係です。「カエル」は「雨」の原因になりえません。しかし、大気中の水蒸気が増えれば、それをカエルが感じ、穴から出てくる可能性は十分あります。その 場合の因果関係は、「大気中の水蒸気の増加」→「翌日の降雨」となります。

投稿: 谷口 | 2010年11月14日 21:34

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