« プラトンと画家 | トップページ | プラトンと画家 (3) »

2010年11月30日

プラトンと画家 (2)

 前回述べたようなプラトンの絵画観、芸術観の何が問題だろうか? すぐに思いつくのは、それが写実的絵画にしか当てはまらない点だ。いや、写実的表現を使った絵画であっても、それは目の前の対象を肉眼に「見えるがままに写し取る」のが目的ではない。それが目的ならば、写真の方が優れている場合が多いだろう。いや写真でさえ、フレーミングによる対象の切り取り、被写界深度の調整によるボカシと省略、ライティングによる強調と省略、カラー写真のモノクロ化、二重露光や三重露光などを通して、「見えるがままに写し取らない」工夫をわざわざすることが多いのである。
 
 絵画にいたっては、写真よりも自由に対象の強調、省略、デフォルメが行えるし、抽象絵画などは、実際には見えないものを見えるように描く。また、現実世界にはありえない風景を描くことも珍しくない。それらが何のために行われるかと言えば、自分の感情表現であり、対象についての感動を表現するためである。この「感動」と「表現」という芸術における重要な要素が、プラトンの芸術観からは欠け落ちているように見える。

R0uaultm1  例えば、ここに掲げた絵は、フランスの画家、ルオー(Georges Rouault, 1871-1958)の作品『ヴェロニカ』の模写である。彼の作品そのものではないが、「表現主義」と呼ばれる絵画の特徴を表していると思う。見る人の目にまず飛び込んでくるのは、修道女のような恰好をした女性の顔である。特に、目の大きさと、口の小ささが対照的だ。これは明らかに、実在の人物の忠実な模写ではない。どんな人でも、口の幅は目の幅より広いものだが、この絵では逆になっている。その理由は「表現」のためである。小さい口と縦長の顔は精神性を表しているのだ。また、真剣な目つきは敬虔さを表している。さらに、この女性の頭部の大きさと、それを載せた両肩とを比べてみよう。肩は明らかに狭すぎる。が、それによってこの女性から「肉感性」は失われ、「知性」が前面に出ている。

 服装はどうだろう。白いガウン様のものを被っているが、単純な「白」ではなく、虹のような多色の混合によって、全体として白く見えるような工夫がある。白は「純潔」を表すが、この「混色による白」は、単純な純潔ではなく、様々な感情や思いを抱きながらも、神への純潔を全うしようという「信仰心」を表していないだろうか? 次に背景に目をやると、教会の天井へと延びるアーチのようなものが見える。室内は暗いようだが、どこからか差し込む光によって青銅のように輝き、暗がりでさえ暖かそうだ。ここには「神の愛」が満ちている、と感じないだろうか?
 
 このような表現主義の絵画を見ていると、プラトンが批判の対象にしているような画家は、いったいどこにいるのかと思ってしまうのである。

 谷口 雅宣

|

« プラトンと画家 | トップページ | プラトンと画家 (3) »

コメント

谷口雅宣先生

 絵画には写実的なものと印象派の様な印象を大事にした芸術的なものがあると思います。私は大学時代は美術部に所属し、油絵や彫塑をやっておりました。最近、美術部のOB展に妻の頭像の彫塑を出展致しました。およそ30年ぶりに制作致しました。
 ところで私は制作する時に余り、特徴をデフォルメして作ろうとか表現しようという感覚は持っていません。ひたすら制作致します。でも、私はこれから作品を作ろうとするのではなくて既に私の内部に存在する作品のイメージを現実化する為に余計な部分をそぎ落とし、足らない部分に粘土を盛るという感覚でやっています。それは本物そっくりにしようと言うより自分の中のイメージ、アイデア通りに制作してるという感じです。

投稿: 堀 浩二 | 2010年12月 2日 00:03

堀さん、
 奥さんの彫像ですか……いいですねぇ。私は彫刻はほとんどやったことないのですが、妻の頭部を作ったら、彼女が満足するようなものはできないなぁ~と思います。絵に描くことはやってみましたが、どれもダメでした。(笑)

投稿: 谷口 | 2010年12月 2日 10:23

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« プラトンと画家 | トップページ | プラトンと画家 (3) »