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2010年10月25日

万聖節に立ち上がる

 日本ではハローウィンが人気の行事となりつつあるが、この“お祭り”の起源が中世キリスト教の「万聖節」(All Saints' Day)と関係していることは、読者もご存じだろう。万聖節は、カトリック教会では「諸聖人の祝日」と呼ばれ、11月1日をその日とすることが西暦800年ごろに固定したという。要するに、教会から“聖人”と認定された人々を記念する日で、ローマ教皇グレゴリウス4世(在位827-844)の時代に、正式に教会の祭日として確定したという。ところが、万聖節にはもっと古い起源があって、ヨーロッパでの新年を祝う日だった。この前日の夜、農民たちが行う“火祭り”の行事がハローウィンの本当の起源らしい。この日は、放牧中の家畜が寒さで弱らないように畜舎に入れ、同時に、死者の霊を自宅の炉端に迎え入れる日だったという。農民たちは自分で火を焚いて先祖の霊を導き入れ、悪魔を追い払う行事をした。そういう“異教”の習慣をやめさせるために、カトリック教会は万聖節を11月1日に定め、翌2日を万霊節(All Souls' Day)として、キリスト教の中に取り込んでしまった。日本の仏教でいえば、お彼岸かお盆に当たる日を、「天国で神のもとにあるすべての死者の霊を慰める日」に変えてしまったのだ。これは、クリスマスを12月25日の不敗太陽神の復活祭(冬至祭)に充てた話とよく似ている。
 
 ところで、ハローウィンを祝う10月31日は、プロテスタントでは宗教改革記念日であることを読者はご存じだろうか。私は、プロテスタント系の学校で教育を受けながら、このことをつい最近まで知らなかった。教科書的な表現をすれば、マルティン・ルターは1517年の10月31日の正午、カトリック教会を批判する『95カ条論題』なるものを、ヴィッテンベルクの城教会の扉に貼り出したことで、宗教改革は始まった。ただし歴史家は、この日付と場所を疑っている。が、ルター自身は、自分と「ローマ法王庁の論争がはじまったのは、1517年の諸聖人の祝日であった」と語ったという。敬虔な修道士であったルターは、だから、この区切りのいい、意義ある記念日を明確に意識して、当時の教会権力に“反対”の狼煙を上げたと考えるべきだろう。
 
 ルターが反対したことで有名なのは、当時の教会が発行していた贖宥状(しょくゆうじょう)である。これは、一般的には「免罪符」と呼ばれてきたものだ。ヨーロッパ教会史に詳しい歴史学者、永田諒一氏は、この免罪符とは何かを次のように描いている--
 
「これを買えば、信仰上の違反行為や怠慢が許され、結果として来世の天国が約束されるという御札である。当時のローマ・カトリック教会の長であった法王レオ十世は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂を再建する費用を得るために、ドイツで贖宥状を大々的に売り出していた。しかしルターは、修道士としてのそれまでの修行と思索から、死後の魂の救済は、そのような現世的行為によってではなく“信仰のみ”によって達成されるという確信を得ていた。そのことを神学的問題提起の形でまとめたのが『論題』であった」。(『宗教改革の真実』p.18)
 
 このように「金銭によって罪が赦される」とか「金を多く出せば救われる」という考え方に異義を唱え、本当の信仰とは何かを問い詰めたことから、キリスト教の宗教改革は始まった。私たちも「信仰」を重視する立場から、ハローウィンを単に“西洋風の収穫祭”としてエンジョイするだけでなく、この日に合わせて自ら信仰のために立ち上がり、歴史を変えた人々があったことを思う日にしたい。
 
 谷口 雅宣
 
【参考文献】
○永田諒一著『宗教改革の真実--カトリックとプロテスタントの社会史』(講談社現代新書、2004年)

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コメント

総裁先生。
宗教改革の意義を踏まえて、信仰中心の「生長の家」を築きあげようということが、先生の御志しかと推察申し上げます。改革以前にも、ローマ・カトリック内で様々な信仰復興の働きはあったようですが、それまでの「教会」へのアンチ・テーゼのかたちで、ある程度は原始の信仰が回復されたということと思います。
それにしても、現代のローマ・カトリックの包摂力には感心させられます。内部的には、様々な色合いの「教団」が存在して、ローマ教皇様がそれらを統括しておられる、そういう印象です。
ところで、私は正直に言って、「信仰」とか「愛」ということがよく分かりません。それらは大変、主観的なことであって、目に見える形でそれを現すのが例えば”献金”などの金銭と言われれば、「そうかな・・・」と思うばかりでした。
一時、一遍さんの教えに感動したことがあります。親鸞さん(真宗)は「信じて念仏を唱えれば救われる」と教えられたのかと思いますが、一遍さんは「信じなくても念仏を唱えれば救われる」と言われたからです。
この問題は、私の内では解決しておりません。

投稿: 水野哲也 | 2010年10月26日 01:51

総裁先生、ありがとうございます。

さて、水野さま、聖書には「信仰がなくとも、信仰があるフリをしていれば、そこに信仰が備わる」ということが書かれてあるそうです。
神様や仏様の存在は、私たちが信じているかいないかを別にして、確かに存在しているというのを説いているのが生長の家です。

感謝礼拝

投稿: 阿部裕一 | 2010年10月27日 09:27

合掌 ありがとうございます。
この問題を書いてくださった事をとっても嬉しく思います。たとえば献金の事、あるいは聖使命会費のことなどもあてはまると思います。わたしはこのことでスゴク学ばせて頂く機会を頂きました。信仰とは何か?と言う事を学ばせていただく機会になりました。人類光明化運動をするにあたっても大事な事だと思います。また私たちをよろしくご指導くださいますことを願っています。再拝
   
   

投稿: 真由美 | 2010年11月 1日 16:06

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