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2010年10月18日

福井で受けた“結婚相談”

 昨日は福井教区での生長の家講習会が行われ、前回を255人(11.8%)上回る2,424人の受講者の方が集まってくださった。白・相・青の3組織そろっての増加である。

 今回の受講者増加の大きな要因は、同教区で初めて複数会場による受講を実現したことだろう。ただし、その準備の過程では、教区の幹部・信徒の方々には相当のご苦労があったと聞いている。前回の受講者数は2,169人だったから、普通の教区では1会場で行うか、多くても2会場の規模である。しかし、福井県は南北に長い地形で、県庁所在地の福井市が同県の北側にあるという特殊な事情がある。ここから南に敦賀市まで行き、さらに西の端の小浜市まで行く距離は、福井市から金沢市までの距離より長く、直線距離では、福井市から岐阜市までの距離に匹敵する。そんなことも考えて、今回は敦賀市と小浜市に新しい会場を設け、3会場の同時中継で講習会を開催したのだろう。結果は、敦賀市、小浜市近郊の信徒の人々が燃えて、さらに同県周辺の教区から参加者も集まり、2桁の増加を示したと推測する。竹内智・教化部長を初め、福井県の幹部・信徒の皆さんには、心から感謝申し上げます。

 私の午前中の講話に対する質問も12通と比較的多く、質問者の住所も多様なのが印象的だった。福井県下はもちろんだが、富山県富山市、同県魚津市、京都府宮津市、大阪府寝屋川市、それにアメリカのフロリダ州に住む人からも質問があったのは、驚いた。この人の場合は、「福井県の実家に帰っていた」という説明が添えられていたから、例外的なケースだろう。それらの質問の中に、35歳の女性からの次のようなものがあった--
 
「唯心所現というお話をよく聞きますが、この部分がやっぱり自分自身で理解しにくいです。今の私で言えば、なかなか結婚をすることが出来ずに悩みます。でも、生長の家では“必ず魂の半身はいるから信じて神に全托せよ”と言われますので、信じて想念に描いていますが、状況は逆の方向に向かい、もう信じることが出来なくなって来ました。これは、私が本心で結婚を望んでいないということでしょうか? 潜在意識がそれを望んでいないということでしょうか?」

 私は講習会の講話で、「質問を受け付けるが個人的な悩みの相談は避けてほしい」とお願いするのが常だ。昨日もそう言ったのだが、それでもこの質問が来たのである。だから、質問者は相当悩んでいるのだろう。提出された質問には、午後の講話のときに時間が許すかぎりお答えしているが、この質問には答えなかった。質問者の抱える事情が、これだけではほとんど分からないからである。しかし、同種の悩みを抱えている人は、男女を問わず、本欄の読者にも多くいると思うので、“一般的な回答”をここで簡単に述べることは意味があるだろう。
 
 まず、「唯心所現」の意味は、「心で思うことが実現する」というような単純なものではない。その点は質問者自身も自覚していて、「潜在意識」や「本心」が何を望んでいるかを問題にしている。つまり、自分の現在意識は「早く結婚したい」と願い、人生の伴侶たる相手を、心の中で強く思い描くことをしているらしい。恐らく神想観を実修しながら、そう念じているのだろう。が、そういう努力にもかかわらず、「状況は逆の方向に向か」っているというのだ。これは多分、付き合っている男性とうまくいかず、相手と別れるという事態になっているのかもしれない。だから、自分の本心/潜在意識は、結婚を望んでいないかもしれない--そういう不安を抱いているのである。結婚をしたくてもなかなかできないという悩みを抱えている人は、「自分は本当に結婚を望んでいるのか」を、一度真剣に検証した方がいい。

 結婚とは、ひと組の男女が互いに裸になって向き合うことである。これは何も肉体的なことを言っているのではない。もちろん、結婚すればそういう事態に自然に到るのだが、心と心が裸になって向き合うことは、肉体が向き合うより数段難しい。だから、肉体だけ向き合っておいて、心は向き合うのを避ける人も多い。そんな人たちは、いざ結婚という段階になると、いろいろな理由をつけて逃げ出してしまうのである。また、結婚を一種の“条件闘争”の結果として得る賞金のように考えている人も、結婚は難しく、結婚に到った場合も、それは離婚への“待ち時間”であることが多い。ここでいう“条件闘争”の意味は、自分勝手に作り上げた結婚相手の理想像を「100」として考えた場合、目の前に現れる“候補者”を冷徹に採点して「90でなければいけない」とか、「80だけど結婚してみるか」とか、「70だけど後がないから妥協するか」などと、商売人が値踏みするように相手を考えることである。結婚にいたるまでに、二人の間にこの種の“値踏み”がまったくないとは言わないが、これだけで結婚したり、これを愛情より優先させるような結婚は、いずれ破綻するだろう。

 また、結婚に際して考えねばならないのは、自分と親との関係である。よく言われることだが、男は母親との関係、女は父親との関係が、結婚相手を選択する際の重要なポイントになる。これは、意識的にそうなるというよりは、無意識(潜在意識)の世界で、男の子は母親を「女性」の代表としてとらえ、女の子は父親を「男性」の代表として見ながら成長するからである。だから、男性とその母親との関係が年齢に不相応に近かったり、女性とその父親との関係が異常に密接であったりすると、結婚への障害となることは珍しくない。「マザコン」とか「ファザコン」という言葉は、この辺の事情を指している。

 ここまで書いてきたことは、あくまでも一般論であり、例外はある。また、男女の関係はこれだけですべてを説明できないことは、もちろんである。しかし、他人に結婚の相談をする場合は、これらの情報--自分の結婚観、過去の交際の状況、自分と親との関係など--を、相談する相手に包み隠さず知らせることが“最低限”必要だろう。

 なお、ここに掲げた質問の中に「魂の半身」という言葉が出てくるが、若い人の中にはこの言葉の意味を浅薄に解釈している人が案外多い。これについて深く知りたい人は、私がかつて書いた「半身半疑」という文章が電子ブックのサイトに掲げてあるので、ぜひ一読されたい。
 
 谷口 雅宣

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コメント

 私も年は結構とっておりますが、まだ結婚はしておりません。自慢することではないのですが未だかつて一回も結婚したことはありません。
 同年代位の人たちは早く結婚する人もあったので、私も現象の心では早く結婚したいと常々思っていたのですが、潜在意識の方では何かがあったようで、それらが作用して現在に至っていると思います。その潜在意識等の中には両親との関係(両親をどのように思うか)や前世でのこともあると思います。
 その両親についてですが、私の両親は、私がまだ幼い頃から良く夫婦喧嘩をしまして、私はそれをイヤだな、と、散々思っておりました。が、しかし、私が幼い頃からそういう夫婦喧嘩を良く見せつけられる環境に生まれてきたということは、何か前世での原因があったのではと思います。
 確か高校生位の時のできごとですが、生長の家講習会を受けて家路につくまでは心はウキウキしているのですが、家に帰りますと、父と母が喧嘩しているのです。
 それをみますとウキウキした心も地に落ちてしまいます。そのことを一回、青年会の時、飛田給で青年会の研修会があった帰り青年会長さんと京王線の車内で一緒になったので、そのような場合、どのような対応をしたら良いのですか?と質問したことがあります。
 その回答は、「祈るしかない」というものであったと思います。
 その父の本当の實相を観れるようになれば私も結婚できるのではないかと思っております。
 しかし、私の父は不思議な人です。
 私は、父が旧『生長の家』詩をとっていたことにより『生長の家』を知りました。父は、『生長の家』詩をとっているだけで、生長の家の組織には入ってはいませんでしたし、私に生長の家の本を読め、とはただの一言も言いませんでした。私は中学一年の夏、家で寝転がっている時、家にあった『生長の家』詩をフト読んでみたくなり読んでみますと、イイことが書いてありその瞬間感動しそれから父の元に来る旧『生長の家』詩を父かが封を切る前に私が封を切ってはじめから終わりまで全部読んでいました。
 を私はもともと本を読むのは大キライでしたが『生長の家』の本は大好きになりました。

 何故かこんな話になってしまいましたが、世の中には早く結婚する人も遅く結婚する人もいます。
 それはそれでイイと思います。
 それぞれ今与えられた環境での問題を克服したり解決して行くことで人は實相顕現して行くと思いますし、
もって生まれた使命が違うので皆、同じ時期に結婚しいうわけには行かないと思います。

 私には弟が二人いますが、二人とも結婚しています。
 散々、夫婦喧嘩を見せつけられた家庭に育ってもこのような違いがあります。

 なお、弟たちは結婚しているのですが、私は何となく弟が結婚したという実感がわかないのです。

 以上、私の現在の心境における結婚観について述べさせていただきました。

 私は、あせることなくマイペースで今与えられた問題を一つ一つ解決して行くことが結婚に限らず前進するたために必要と思います。

                        
                      再 拝

投稿: 志村 宗春 | 2010年10月22日 00:22

志村さんのコメントはすばらしいなぁーと思って読ませていただきました

私は結婚が遅かったのですが(確か35歳だったと思います)、結婚願望はありましたがやはり、その時やるべきことに全力で臨んでいたと思います。

世の中は婚活がはやっていますね。また、“結婚”を目標に両親に感謝したり、先祖供養を熱心にすることが、そういった時期に特にはやっているようですが、それは良いチャンス(きっかけ)にはなりますが、本末転倒にならないように気をつけないといけないと思っています。

結婚するための取引的な両親やご先祖様への感謝とならず純粋な気持ちで行い、幸せな結婚に導かれていただきたいなあと思っています

また自己の願いの実現にのみ執着しやすい時こそ、三正行のうちの愛行に他のために自分の時間や労力を注ぐことも大事だなあとしみじみと感じています

投稿: GEN | 2010年10月24日 09:32

 GEN 様
 合掌ありがとうございます。
 コメントありがとうございます。

 ご指摘の愛行についてでありますが、私は過去に聖経を何人かの人に渡したことがあります。
 それは、コンビニで会った人や居酒屋で会った人で、
「これを読むといいことがありますよ」という言葉を添えてお渡ししました。そういうことをしょっちゅう毎日行っているわけではありませんが、私と話された方で何となく聖経を渡したいと思った人にお渡ししました。
 新しい聖経を渡したこともありますし、私の背広のポケットに入っていた聖経を渡したこともあります。
 それは自然体の愛行だと思います。

 こういうことを毎日実行できればと思っております。

 さて、私の父のことですが、私は前職を退職し、その退職金の一部をつぎ込んで、実家を改修等して私の住むスペースを確保し、実家の傷んだ所も治そうとしたのですが、父はダメということでした。また、実家の周りは草が茫々としているのですが、対面的にもみっともないのでそれを刈ってよいかと父に聞きますと、それもダメといいます。
 また、私は長男で父が亡くなってからは家のことを様々行わなければならない立場にあります。そのためにとりあえず、家の図面を作ろうとしたのですが、父はそれもダメと言います。
 私が何を提案しても父はダメというので、父には家のことは何も提案しないようにしました。
 以上、実家に住めばお金もかからないのですが、私は今、部屋を借りて住んでいるので多少はお金がかかります。
 話は前後しますが、実家を改修したいと思いますのは、父が亡くなって、実家で葬儀を行う場合(葬儀を行うか否かは未定ですが)ボロボロな家で行うのはみっともなく少しは見栄えの良い状態にしたいという思いがありました。(しかし、葬儀をしましても親戚の人も含めほとんど人は来ないと思います。)

 以上は、現象の赤裸々な告白ですが、この状態を克服して行くのが、“今”私に与えられた課題であると思っております。
 
 この解決は解けにくい方程式(そうとう難産)であると思います。
 現象世界で解決できるのか?についても不明です。

 再拝

投稿: 志村 宗春 | 2010年10月24日 21:20

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