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2010年9月 3日

英語好きは“幸せな奴隷”か?

 3日付の『朝日新聞』に載っていた社会言語学者の津田幸男・筑波大教授のインタビュー記事を興味深く読んだ。内容を簡単に言うと、英語を国際語として重視する考え方は、“幸せな奴隷”の心境だというのである。つまり、支配されている人間がそれを感じない状態で、将来的に日本語が駆逐される恐れがあるというのだ。津田氏は「英語支配」という言葉をつくり、次のように警鐘を鳴らしている--
 
「英語は国際共通語として、ほかの言語に対して突出して強い力を持つようになりました。他言語を圧迫し、国際的な場で使わない、使えなくしてしまった。さらに重要なことは、英語力の優劣によって人々のコミュニケーション能力に差がついてしまうことです」。

「英語支配」とは、「英語と英語以外の言語との不平等な状況」のことだという。さらに具体的に言えば、企業内でも国際的な場でも、英語が上手というだけで、そうでない人に対して有利な立場にたつという現状が、英語支配を表しているという。企業のことをいえば、最近、ユニクロのファーストリテイリングと楽天が、英語を社内公用語にすると決めたことが話題になったが、津田氏は、これに反対する手紙を両社の社長に出したという。理由は、①英語支配の構造が進む、②言語による社内格差が起こる、③日本人が自国で自分の言語を使えなくなる、ということらしい。

 私は、この問題は、子供の教育の段階と社会生活の段階とを分けて考えるべきだと思う。つまり、子供の成長過程では日本語をきちんと学習させ、高等教育や社会生活においては、国際語としての英語の習熟に力を入れるのがいいのではないか。こうすれば、「日本語や日本文化の基礎の上に立って世界とどうつき合うか」という視点や政策が社会に生まれると思う。また、この方法は人間の脳の発達過程から考えても、より自然で、無理のないものと考える。現在は、日本語の基礎ができていない子供に早期から英語を詰め込むだけでなく、高等教育においても、日本語よりも英語を重視するような一種の“英語偏重”が認められるのではないだろうか。また、日本の社会全体が、明治以来の“西洋崇拝”から抜け出せずにいるため、英語などの外国語の発音をそのままカタカナにした言葉がやたらと多い。私は、この面では津田教授の「幸せな奴隷」という批判は当たっていると思う。
 
 多くの読者はご存じと思うが、私は“英語好き”の一人である。しかし、毎日ブログその他の文章を日本語で書き、日本語で講話をするのが仕事である。私の場合、この2つの言語の間に、昔はともかく、今は摩擦や軋轢のようなものを感じたことはない。その理由の1つは、恐らく「日本語が主、英語は従」という原則が私の中で確立しているからだ。私は、完全にバイリンガルの人の心境がどういうものか知らないが、もしかしたらこの主従関係が混乱することがあるのではないかと想像する。というのは、衛星放送などで外国語のニュースが放映される際の同時通訳を聞いていると、ときどき意味不明の日本語が耳に入ることがあるからだ。同時通訳者は必ずしも“完全なバイリンガル”ではないかもしれない。しかし、プロの仕事なのだから、少なくともニュースによく出る時事問題等で使われる日本語については、よく心得ていなければならないはずだ。にもかかわらず、意味不明の日本語が結構多い。今日も、北朝鮮かイランをめぐる海外ニュースの中で、通訳者が「アッパクとホウショウ」(圧迫と報奨?)と言っていた。国際政治の知識が少しでもあれば、ここで使われるべき日本語は直訳的には「圧力と報酬」であろうし、わかりやすく意訳すれば「アメとムチ」が適当である。

 もちろんニュースの同時通訳だから、通訳者の顔は見えない。だから、日本語の上手な外国人通訳者が“妙な日本語”を話した可能性はある。しかし、この女性通訳者の日本語を聞いていたかぎりでは、発音、イントネーションともに流暢な標準日本語だった。もし彼女が私の指摘を聞いて、「いやあの時は適当な日本語が思い浮かばなかったのよ」と答えたとしたら、これは問題だろう。なぜなら、彼女の仕事は、海外のニュースを自分が理解することではなく、日本人の視聴者に分かるように正しく翻訳することだからだ。「正しい日本語」が話せなければ、通訳や翻訳の仕事とは言えないだろう。
 
 谷口 雅宣

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コメント

ありがとうございます。

かなり興味のある内容でした!
私も゙英語好ぎの一人です(^-^)
ただ知り合いの中でも、まだ日本語もおぼつかない小さなうちから英語の絵本やDVDを子供に観せている方がいてその子は日本語はまだ全然話せないのに英語で数を数えたりできます。
日本語でもない英語でもないようなときも。
そんなことに小さな疑問を持っていたので、今回先生のご文章を読ませていただいてすとんと落ちました。すごくわかりやすかったです。
ありがとうございました!

投稿: 川口郁代 | 2010年9月 4日 23:56

奈良教区の山中優です。私も“英語好き”の一人ですが、日本語と英語とでは、ものの捉え方における発想がかなり違うので、日本人の子供の場合は、その成長過程でまず日本語を学習しておくことが、私もすごく大事だと思います。

そのうえで、高等教育や社会生活の段階で英語を学べば、日本語と英語の発想の違いがわかって、非常におもしろく学習していけるのではないかと思います。

ちなみに、英語と日本語の発想の違いについては、シェークスピアの翻訳で有名な故・安西徹雄氏の説明が大変勉強になりました。

たとえば、

A humming of insects suggested the autumn.

--という英語の場合、直訳すると「虫の声が、秋であったことを思わせた」となりますが、日本語の発想に立って意訳すると、「虫が鳴いていたので、秋であったように思えた」となります(安西徹雄『英語の発想』ちくま学芸文庫、84頁)。

つまり、日本語では、情況がおのずからそう「なる」といった捉え方をするのに対して、英語では、〈もの〉が他の〈もの〉をある新しい状態に「する」という捉え方をする--というわけです(同書86頁)。

ですので、日本人に分かりやすく通訳・翻訳するには、正しい日本語を心得ておくことが、非常に大切なことだと私も思います。

実は昨年、ある英語の本の監訳の仕事をしました。幸い、達意の日本語で非常に読みやすいという評価をいただきましたが、そのときに、いかに日本語の正しい理解が大切か、大いに痛感させられました。

同時通訳の場合は、それを瞬時に行わなければならないわけですから、非常に大変だとは思いますが、プロである以上は、もっと頑張ってほしいものですね。

投稿: 山中優 | 2010年9月 5日 21:07

川口さん、
 コメント、ありがとうございます。
 貴女の話を聞いて、アメリカの日系2世や3世の人が陥りやすい identity crisis の話を思い出しました。子供のころから英語をペラペラ話している人が年頃になると「自分はいったい何者か?」と疑問をもち、スランプに落ちるという話です。今でもそういうことがあるのかどうか知りませんが、人間には文化的な“基盤”が必要なのだと思います。

山中さん、
 翻訳、難しいですね。私も2冊やりましたが、英語の勉強はもちろんですが、日本語表現の勉強としては、これほど厳しいものはないと感じました。自分の文章なら、自分流に逃げることは可能ですが、それを翻訳でやることは許されませんからね。

 ところで、iPad は使ってみましたか? もしお使いでしたら、Kindle との違い、どうお考えでしょう?

投稿: 谷口 | 2010年9月 5日 21:57

谷口雅宣先生、

はい、翻訳は日本語表現の勉強としても本当に大変で、日本語の類語辞典や活用辞典を新たに買い込んだほどでした。たしかに、日本語表現の点では、翻訳よりも自分の論文を書く方がずっとやさしいです。

さて、iPadですが、実はまだ使ってみたことがありません。私の場合、今のところ電子書籍との付き合いは、その「文章」を読むことに限られていますが、文章を読むだけなら、バックライトを使っていないKindleの方が、はるかに読みやすいと思ったからです。実際、Kindleの画面は、開発者がまさにそれを目指したのでしょうが、紙媒体の書籍と結構似ているところがあるように思います。

ただ、KindleはPDFファイルを読むにはやや不便だと感じています。PDFファイルだと日本語の文書でも読めるので、たとえば聖使命新聞や機関誌もKindleのなかに移して読んでみたのですが、ページを繰るときの動作が大変遅くなる時があって不便です。またKindleでは、もともとはカラー刷りのファイルでも白黒になってしまいます。

iPadでは当然、PDFファイルも快適に読めることでしょう。またアップル社のことですから、グラフィックな情報の表示機能は大変優れていることと思いますので、絵画や写真の情報も含んだ電子書籍を読むなら、断然、iPadの方が便利なのかもしれません。

投稿: 山中優 | 2010年9月 7日 18:53

山中さん、
 Kindle の感想、ありがとうございます。

 Kindle でPDFが読めるとは聞いていましたが、日本語の場合、縦書きのPDFも読めるのでしょうか?

投稿: 谷口 | 2010年9月 7日 21:54

はい、日本語の縦書きも読めます。おそらく、文字としてではなく、PDFファイル全体を画像として表示しているのだと思います。

投稿: 山中優 | 2010年9月 8日 08:22

英語好きは幸せな奴隷、という考え方はいわゆる英語帝国主義と同じくらい問題ですね。英語も他の言語と同じく1つの言語と考える姿勢が必要だと思います。

高校あたりでは、人により英語を学ぶ時間を少なくして国語を学ぶ時間を増やすことができるようにしてもよいのではないか、と思います。

少なくとも初等教育で英語を必修にする必要はないですね。

投稿: 加藤裕之 | 2010年9月15日 23:06

英語学習を20年以上継続している者です。将来機会があれば比較宗教学の学位を取りたいと思っています。

「奴隷」という言葉に関してですが、広辞苑では「人間としての権利・自由を認められず、他人の支配の下にさまざま労務に服す人」となっており、英英辞典ではa person who excessively dependent upon or controlled by somethingとなっています。私は、英語にコントロールされた状態でもありませんし、過剰に搾取されているわけでもありません。自分の意志で学び、感情的に過度に英語を崇拝していることもありません。

言語教育は、模倣や暗記が大きい比率を占めるため、一見従属的にみられるかもしれませんが、意見形成・分野選択において主体的な活動です。英語好きを「奴隷」と言いきってしまう点にを感情的な誤解を感じますし、学習者の主体を無視した議論だと思います。

日本の英語教育は歴史的にフィリピンやミャンマーの植民地主義的経緯とは異なり、主体的な学びを中核としており、今後は「国粋主義的な感情論」を脱して、言語ツールとしての客体・理論的方法論を推進する方向性を取っていくと感じています。

投稿: 英語好き | 2010年10月22日 12:23

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