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2010年9月 6日

“第一言語”を大切にしよう

 9月3日の本欄で、日本人の早期からの英語教育に関しての私の意見を述べたが、中途半端な日本語を話したり書いたりする日本人になることは、本人にとっても、日本文化の発展にとっても不幸なことだと思う。ところで、ちょうどそんなことを考えていた時に、人が使う言語とその人の思考との関係について書いた記事に遭遇した。我々が考えるときに何語を使うかによって、思考の内容に違いが出てくる--こういう考え方について、マンチェスター大学のギー・ドィシャー氏(Guy Deutscher)が8月29日付の『ニューヨークタイムズ』(電子版)に書いていたのだ。

 この問題は1940年、イェール大学で人類学を教えていたベンジャミン・ウォーフ氏(Benjamin Lee Whorf)が短い論文を発表し、「我々は何を母国語とするかによって、思考の内容が限定される」と主張したことから始まったという。特に注目されたのは、ウォーフ氏がアメリカの原住民の言語を詳しく分析して、彼らは西洋人とは全く異なる世界を見ていると主張した点だ。ウォーフ氏によると、アメリカ原住民は彼らの使用言語の構造に縛られて、時間の流れや、対象とその動きとの区別ができないとしたのだ。その理由は、使用言語の語彙にない対象や概念は、話し手には理解できないというのだった。こういう考えに飛びついた別の人々は、この論法をさらに発展させて、「アメリカ原住民の言語は、アインシュタインの時間の概念を四次元として直感的に把握させる」とか、「ユダヤ教の性質は、古代ヘブライ語の時制体系によって決定された」などという考えを打ち出したという。
 
 しかし、これは常識で考えても論理の飛躍しすぎである。だから、やがて「言語は思考や思想を決定する」という種類の考え方は、学問の世界では人気がなくなり、ウォーフ氏の権威は失墜することになったそうだ。ウォーフ氏の誤りは、母国語というものは我々の心を支配して一定の考えをもつことを「妨げる」と考えた点だ。特に、ある言語に、ある概念を表す単語がない場合、話し手はその概念を「理解できない」と考えた。例えば、ある言語の動詞に未来形がないならば、それを母国語とする人間には「未来」という時間の流れは理解できないと考えた。これはあまりにも単純な考えで、英語でも未来形を使わずに未来を表すことができる--例えば、「Are you coming tomorrow?」--ことを無視していた。
 
 ところが、ウォーフ氏の問題論文から70年ほどたったここ数年、同氏の考えの“修正版”が発表されつつあるという。それによると、言語は、話者の思考や思想を限定したり、決定したりしなくても、それ相応の影響力はもつというのである。「母国語は話者の思考を限定する」のではなく、「話者の思考に影響を与える」--これならば、我々の知っている事実とも矛盾はなく、実験によっても確認できるということだ。こういう話を聞いて思い出すのは、私が大学で第二外国語としてフランス語を履修したときのことだ。フランスを含むヨーロッパ系の言語の多くには、名詞に男女の区別がある。しかし、英語には例外的な場合を除いて、それはない。英語に慣れていた私は、この違いだけでも驚きだった。英語の名詞以外に、新たなもう1つの言語の名詞を憶えるのも大変なのに、それらの1つ1つ--「椅子」や「石」や「山」など--が、男なのか女なのかまで憶えるのは「とてもかなわない」と思い、中途で挫折してしまった。
 
 ドィシャー氏の記事にもそのことが触れられていて、この「男性名詞」「女性名詞」の区別をすることが、その言語を母国語とする人の考え方に微妙な影響を与えることは、事実のようだ。
 
 本来生命をもたない物体についても男性か女性いずれかの“性”を当てはめねばならない言語は、フランス語だけでなく、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ヘブライ語など数多くある。生まれつきそういう言語を使ってきた人は、物体について語るときも、人間の男性か女性に対するのと似た扱いをするようになるという。そして、その言語をマスターすると、そういうクセから離れることは相当むずかしいらしい。

 1990年代に行われた心理学の研究では、母国語をドイツ語とする人と、同じくスペイン語とする人の「物」に対する態度が比較された。不思議なことに、この2つの言語の間には、“性別”がまったく逆になる物の名前がたくさんあるのだ。例えば、ドイツ語の「橋(die Brucke)」は女性名詞であるが、同じ言葉のスペイン語(el puente)は男性名詞だ。同様のことが「時計」「アパート」「(食器の)フォーク」「新聞」「ポケット」「肩」「スタンプ」「切符」「バイオリン」「太陽」「世界」「愛」についても言える。そこで、この2つの言語をそれぞれ母国語とする人に対して、そういう物がもつ特徴を指摘してもらうと、スペイン語を話す人は、「橋」や「時計」や「バイオリン」に、「強さ」などの男性的イメージを感じる一方、ドイツ語を話す人は、それらに対して「繊細」とか「エレガント」などの女性的イメージをもっていることが分かった。
 
 ドィシャー氏の記事には、このほかにも興味ある研究結果が多く紹介されている。それらを見ると、我々が何語を“第一言語”としたかによって、我々の感情や思考が影響を受けることは確かなようだ。これを「国」のレベルに引き上げて考えると、「人々の第一言語は、その国の文化の形成に重要な役割を果たす」ということだから、第一言語をしっかりと身につけていない国民が増えることは、その国の文化の崩壊につながる危険性があるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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コメント

9月3日と6日のご文章を、興味深く読ませていただきました。

以前私が勤めていた会社は、スイスに本社がある、
世界的企業でした。
会社で活躍し、出世していくには英語は必須でした。
幹部候補生として採用される新人たちは、
日本で育った人の中でも、
英語圏からの帰国子女の中でも、
トップクラスの人たちだったと思われます。
そんな人たちと接し、優秀さや将来性に憧れつつ、
いつも少しの違和感を感じていました。

彼らは英語の得意な人たちという、
ごく少数の輪の中で生きているように思われました。
日本にいながら、半海外に住んでいるような。
一概には言えませんが、社会での成功はあるかもしれませんが、
人間として幸せかというと、そうでないように思われました。

英語ができたら、世界で活躍できて、仕事にも優位なのは実感としてありますが、
かと言って、自分の子供を幼少から英語漬けにしたいとは思えません。
将来、なぜ習わせてくれなかったの!と言われても、自分で必要な時に学んでほしいです。

投稿: 衣川陽子 | 2010年9月 8日 16:56

ありがとうございます。
またまたとっても興味深い内容でした!

今、私は働きながら日本語教師になるための学校へ通い、勉強しています。

日本語は世界の言語の中でも、ほんとに、学ぶのも教えるのも難しい言語だなぁと実感しています。

男性名詞女性名詞も文化的に大きな影響があるのですねー。
言葉って文化なのですね。

日本語の『すみません』には

「まあ、こんなものまでいただいてすみません」

みたいに

『ありがとう』の意味があるけど

英語の『I'm sorry』にはその意味はない。
すみません=I'm sorry
ありがとう=thank you

とは訳しきれない。

これって面白いなぁって思います。

でもこれも、私に、日本語という基盤があって日本の文化を持ってるから感じることなのですね(^-^)

投稿: 川口郁代 | 2010年9月 8日 23:55

総裁先生、

日本人はまず日本語で語彙と表現力を身につけることが必要だと思います。
最近は本を読まず、情報をTVやネットの(文字を中心としない)動画に頼る人が多いのか、表現力の乏しい若者が増えつつあるようにも思います。

例えば、「ヤバイ!」緊急事態もヤバイ!美味しい物を食べた時もヤバイ!要するに気持ちが大きく動いたら良くも悪くもヤバイ!なのでしょうか。

また、「微妙」うちの子供もよく使いますが、どうも否定の時に使うようです。

私-「試験できた?」
子供-「微妙」

私-「夕食美味しい?」
子供-「微妙」

初めは「微妙」というのは良いか悪いか判断が付かないという意味だと思っていましたが、否定に使っているようです。試験は余り出来ていない。夕食は美味しくない。と言うことを「微妙」と言う言葉で表現しているようです。
本来の意味と違う使い方をしても、周りの友達も同様なので何の疑問を持たないのでしょう。

言葉の微妙なニュアンスは、本をたくさん読み、言葉の使われ方の違いを味わうことで理解されていくと思います。例えば、「現れる」と「顕れる」と「表れる」など。

母国語の文書をしっかり読んでしっかり書くことが大切ではないでしょうか?

投稿: 近藤 静夫 | 2010年9月 9日 14:57

とても魅力的な記事でした。
また遊びにきます。
ありがとうございます。

投稿: あろえ | 2010年9月 9日 20:31

ありがとうございます。
JICAシニアボランティアとして、活動するためにスペイン語をただ今特訓中です。

他の言語ができるようになるのは素敵なことですが、心を通い合わせたい!と思うことがとても大切かなあ・・と感じています。
でも、自分の気持ちの微妙なところ、本当に日本語できちんと身近な人に伝えられているのか、直ぐに括ってしまっていないか?
海外に出ていくことで、また再確認できることも多いけれど、活躍の場が狭くても心はグローバルな人も多いですよね。

投稿: たけやまひさえ | 2010年9月15日 06:52

この記事へのコメントは終了しました。

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