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2010年9月30日

キノコ採りで考える

 木曜日の休日を利用して大泉町の山荘へ来ている。気候がようやく秋らしくなったため、当面の目的はキノコ採りである。雨が降り続いた合間の、ちょうど晴れた日に来られたのJigobo_1 で、天女山と美しの森を歩いて“獲物”を探した。地元で「ジゴボー」と呼んでいるイグチ科のキノコ「ハナイグチ」(=写真)が多く採れた。このキノコは本欄でもよく紹介したので、憶えている読者も多いだろう。地方によって「リゴボー」とか「カラマツタケ」とか「ラクヨウ」などと呼称が異なる。キノコの同定は難しく、間違うと中毒するとよく言われるが、このキノコは明確な特徴があるから、妻も私も自信をもって採ることができる。まず、①カラマツ林に多く出ること。②軸が黄色く、傘の上面は褐色から赤褐色である。これとは対照的に、③傘の下面は、イグチ科共通の特徴のスポンジ状で黄色い、④湿った環境では傘は粘液で覆われて光っている。⑤独特の香りがある。これだけの特徴があれば、まず間違うことはない。
 
 妻と私の合計で70本以上採れた。このほか、ホコリタケもたくさん出ていたが、こちらは適当に採った。それほど美味とは言えないからだ。そのほか同定できた食用キノコは、キノボリイグチ、ベニハナイグチ、アイシメジ、アカモミタケなどだ。このうちホコリタケだけは、Benitengu ソテーにして食べた。無味無臭で、食感はマッシュルームのようだ。私のこれまでの経験では、ハナイグチは長期間にわたって採れるが、アイシメジとアカモミタケは晩秋のキノコだと思っていた。それが今の時季に出ているのは、気候の変化が影響しているのかもしれない。また、毒キノコではあるが、容姿の美しいベニテングタケ(=写真)を見つけ、感動した。このキノコの毒には幻覚作用があり、古い時代にはそれを利用して宗教行事にも使われたということを、宗教学者の中沢新一氏が著書に詳しく書いている。私も『秘境』という小説の中で、このキノコの毒性を“小道具”に使ったことを思い出した。
 
 日本菌学会会長を永く務めた生物学者の今関六也氏は、生態系の中での菌類の役割について『日本のきのこ』という本の中で興味深い話を書いている。それによると、地球の生態系は、無機物でできた環境界と有機物による生物界から成っているが、キノコを含む菌類は、その中で有機物を無機物に変換する2つの重要な流れの1つを担っているという。もう1つの流れは、動物が担っているが、動物による有機物から無機物への分解能力には限りがあるので、菌類がそれを補っている。これに対して植物は、光合成を使って無機物を有機物に変換するとともに、菌類と動物とによる有機物を分解して無機物に変換する。この双方向の流れがバランスよく働いているために、生物の繁栄に必要な稀少量の無機物が無限に循環する生態系が成り立っているというのである。そして、今関氏は次のように言う--
 
「生物の出現は35億年前といわれるが、35億年の長い生命の歴史は、植物・動物・菌の共同生活によって築かれ、その永い歴史を通して生物は進化に進化を重ね、ついに人類は誕生した。人類が今日あるのは、35億年の生命の歴史のおかげであり、この歴史を築いた三つの生物群の一糸乱れぬ共同生活を続ける限り、人類の永遠?の繁栄も約束されるはずである」。

 つまり、「植物・動物・菌の共同生活」というのが、地球の生態系の本質だということだろう。三者のうちどれか1つだけが栄えたり、どれか1つが犠牲になるような方向へ動くことは、生態系の破壊につながり、したがって人類の破滅へと結びつく--そういう意味だと思う。菌類の中には、キノコのほか、カビや細菌も含まれる。細菌と言えば、いわゆる“善玉”“悪玉”の腸内細菌も、また虫歯菌も含まれる。一見“悪”と見えるものも、「本当は悪ではない」と言っているように聞こえないだろうか。
 
 谷口 雅宣

参考文献】
○今関六也他編著『日本のきのこ』(山と渓谷社、1988年)

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2010年9月28日

単行本『“森の中”へ行く』を出版

Morinonaka_pur1  すでに9月1日号の『聖使命』新聞で報じられたが、表題の本が妻と私の共著として出版された。副題は「人と自然の調和のために生長の家が考えたこと」という長いものだが、この書の内容をよく言い表している。240ページの新書判の本だから、手軽に読んでいただけると期待している。中身は、6割が私、3割が妻、残りの1割は資料、という感じだ。この1冊を読むことで、生長の家がなぜ大都会から“森の中”へ行くのかという理由を、信徒はもちろん一般の読者にも理解してほしい、という気持で作られた。が、その決定にいたるすべてを1冊の本に収めることはできないので、「大筋の理解」が得られればありがたいと思う。
 
 6章立ての構成で、第1章は「自然と人間の調和は可能か?」という題のインタビュー記事だ。これは、普及誌『いのちの環』の今年3月号(vol.3)に載ったのと同じもの。続く第2~4章には、妻が普及誌に書いたエッセーと、白鳩会の幹部研修会などでの講話を収めてある。第5章は主として私のブログから採った文章で構成されており、第6章は私の最近の2回の講演を収めてある。1つは、昨秋11月の生長の家の記念式典での挨拶で、もう1つは、今春3月の立教記念式典でのスピーチである。これらすべては、生長の家国際本部を東京・原宿から八ヶ岳南麓に移転することの意義をそれぞれの角度から説明しているから、多角的な理解が得られると思う。巻末には、この決定と関係が深い基礎的資料を添付した。1つは、「四無量心を行ずる神想観」の新バージョン、2つめは2004年に決まった「“森の中のオフィス”構想の基本的考え方」、3番目は宗教法人「生長の家」の環境方針である。

 本書のカバー写真を見ていただくとある程度わかると思うが、左側は大都会、右側は里山の風景になっていて、今の日本人の生活環境の違いを際立たせている。一般には「田舎から都会へ」の人口移動が依然として続いているが、私たちはその逆を行くという決意を表現したつもりだ。また、口絵としてカラー写真3枚が使われている--①山梨県側から見た八ヶ岳、②オフィス建設予定地の森、③予定地周辺の紅葉、である。生長の家は、このような環境で“自然と共に伸びる”運動をさらに大きく展開していく、というメッセージを読み取っていただきたい。
 
 本書の「はしがき」は今年の8月16日に書いたものだが、それだけを取り出して私の電子ブックのサイトに登録した。そこには、私の本書出版の意図がもっと詳しく書いてあるので、読者の参考に供したい。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月27日

尖閣諸島問題--“第1ラウンド”

 9月7日に尖閣諸島近くの海域で、日本の巡視船に中国漁船が衝突した事件に関連して、私は前回「この問題が起こった詳しい事情は、まだ両国の国民に知らされていない」とし、さらに「外交というものは、深刻な問題が含まれれば含まれるほど、本当の事情は国民の目から隠されるものだ」とも書いた。つまり、この事件が起こった本当の事情は不明であり今後、それが明確になるには相当時間がかかる可能性があるということだ。しかし、事件は起こってしまい、現実の国際問題になっているのだから、何らかの対応をすべきことは明らかである。
 
 これまでの経緯を簡単にまとめる--日本政府は中国漁船の乗組員を拘束し、船長を逮捕した(8日)。これに対して、中国は「中国漁船が日本の巡視船に不法に囲まれ、衝突され損害を受けた」として、乗組員と船長の即時解放を要求し、これを拒否した日本に対して、日中の密接な経済関係を利用して、矢継ぎ早に対抗措置を取った。まず、東シナ海ガス田共同開発の条約締結交渉の延期を発表した(11日)。日本はこれに対して、中国漁船の船員14人を釈放した(13日)が、中国はあくまで船長の即時無条件解放を要求し、10月に予定されていた中国人約1万人の訪日団体旅行が中止された。日本は、船長の勾留延長を決定(19日)。中国は、日本が依存するレアアースの輸出を止めるという報復措置に出た(20日ごろ)うえ、国連総会に合わせた日中首脳会談を見合わせると発表(21日)。さらに、日本企業のフジタの社員4人を国内法違反の疑いで拘束したことを発表した(24日)。この事実を深刻に受け止めた日本政府は、中国の要求を呑んで中国漁船船長を処分保留のまま釈放した(25日)が、中国側はこれに満足せず、日本に謝罪と損害賠償を要求した。が、その一方で、日中の首脳会談に向けての調整は再開された。
 
 日中間のやりとりは、このほかにも細かいものがいろいろあるが、これまでの大筋はこんなものだろう。これを見てわかるのは、中国側の対抗装置がきわめて迅速で、かつ広範囲に及んでいることだ。その背景として、24日付の『朝日新聞』は、次のように書いている--
 
「対日経済制裁は、共産党中央が今月中旬、外務省や商務省、国家発展改革委員会、政府系シンクタンクの日本担当者に具体的な措置の検討を指示した。中国政府関係者は“日本経済の弱いところを突くような制裁を検討するように指示された”としている。具体的に挙がっているのは、レアアース禁輸やすでに明らかになっている訪日旅行の募集のほか、日本側が力を入れる省エネルギー・環境産業においての技術交流の停止、公共事業の入札での日本企業の排除など。問題が長引けば、中国側がこうした措置を発動する可能性もある」。

 これで分かることは、中国側は領土問題にきわめて敏感であり、それを自国の不利益と見た場合には、相手国に対して組織的に統一された対抗措置を採る態勢ができ上がっていることだ。しかも、それらの対抗措置は、段階的にエスカレートさせることが可能であるという点も、留意した方がいい。国際関係において、こういう措置を講じる関係は、本当は友好国同士の関係とは言えない。むしろ“潜在敵国”と見なしているとも考えられる。だから、昨年の12月に、日米中の“正三角形論”を唱える小沢一郎氏が、民主党の国会議員140人余を引き連れて“中国参り”をしたことの浅薄さが露呈したと言っていいだろう。しかし、その一方で、尖閣諸島問題は数十年前から存在していて、周辺での中国漁船の操業は日本の巡視船によって取り締まりが行われていても、今回のような問題にはならなかったのである。それは「逮捕」という措置を採らなかったからで、今回は船長の逮捕を決めた日本政府が、中国側の反応を十分予測できなかったという点は「失敗」と言わねばならない。
 
 もう1つ重要な点は、対米関係の不安定さである。民主党政権成立後に起こった日米関係のグラつきを利用して、中国が“揺さぶり”をかけているという要素はあると思う。これについては、アメリカの国務副長官を務めたこともある知日派の政治家、アーミテージ氏が「中国は日本を試している」と述べたというが、もしそういう意図があるならば、今回の中国の言動は“諸刃の剣”のリスクがある。というのは、アメリカは尖閣諸島問題については「中立」の立場を表明しているが、23日にニューヨークで行われた日米外相会談で、クリントン国務長官は日米安保条約第5条にもとづく米国による日本の防衛義務は、尖閣諸島に対して「明らかに適用される」と述べ、ゲーツ国防長官もこれに関して「我々は同盟の責任を遂行する」と述べたからだ。これは、今回の尖閣諸島問題で日本がこれまで得た(恐らく唯一の)成果である。その代り、日本の外相としてクリントン氏との初顔合わせに臨んだ前原誠司氏は、米側に大きな借りを作った。沖縄の基地問題は、恐らくこれで“既定路線”へと進むだろう。また、民主党の外交政策は、小沢氏の“正三角形論”から離れて、より現実的な、日米関係重視の方向へと決定されるだろう。少なくとも、私はそうなることを願っている。

 そうなった場合、この問題は“第1ラウンド”では中国勝利だったが、“第2ラウンド”以降はどうなるか分からないのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月26日

札幌での質疑応答

 今日は、札幌市郊外にあるコミュニティドーム「つどーむ」で生長の家講習会が開催され、7,597人の受講者が集まってくださり、青空がのぞく中、初秋の半日間を過ごしていただいた。前回より受講者数が減ったのは残念だったが、大勢の生長の家幹部・会員の皆さんが推進や運営に参加してくださったことで、この北海道の中心地で、今後の運動が上昇気流に乗ることを期待している。参加者が多かったため、私の講話に対する質問の数も15通を数え、その中に7歳と11歳の姉妹からのものもあったのが、印象的だった。しかし、わざわざ取り上げて大人の前で答えるべき内容ではなかったので、他の質問への回答を優先した。が、興味のある読者のためにここに紹介する-
 
「なんで、あなたはそんなにいろいろわかるんですか」というのが7歳の子からの質問で、「なぜ先生は、何人もの人を救えるのですか? 私は、おばあちゃんが、しゆう会などへ行って、“とても元気になれました”などの感想を言ってもらうのがうれしい! と言っていたので、すごいなと思いました。なので、なぜ、何人もの人を、救えるのですか?」というのが、11歳の子の質問である。前者の質問はともかく、後者の方には答えたかったが、時間が足りなくて断念した。私が何と答えたかったかというと、それは「人が救われるのは個人の力によるのではなく、真理の力による」ということだ。真理は普遍であり、不偏であるから、1人を救うのも千人を救うのも真理自体にとっては何も変わらない。それは、竹細工のヘリコプターが飛ぶ原理が、物資運搬用の大型ヘリコプターが飛ぶ原理と変わらないのと同じことだ。もし両者の間に違いがあるとすれば、それは前者の原理を後者に“応用する”ための工夫の度合いだろう。それについては、応用者の努力や能力によるところが大きい。生長の家の場合、この点で最大の努力と能力を発揮されたのは、創始者、谷口雅春先生であることは言をまたない。

 ところで、今日の質問には、昨今の日本周辺の国際情勢を反映して、日中関係についてのものがあった。これは、“現在進行形”の問題なのでまだ不明な要素が多く、したがって私は断定的なことを言うのを避けた。が、質問の趣旨は、外交的、政治的な細い問題とは関係が薄いので、私が答えた大筋については本欄でも紹介しておいてよかろうと思う。その質問とは、67歳の女性からの次のようなものだ--
 
「日中問題では、中国側の動向には驚きが。潜在意識の部分から解決するとの午前のお話。具体的にいい方向に行くようなお話がお聞きしたい。仏教、儒教の発展の国にしては、昨日、今日の動向は考えられませんが……」

 若干意味が取りにくい部分のある質問だが、私の午前中の話を受けての質問だから、そのことを考慮して補えば、大要は次のような意味だと思う--「午前中の講話では、国家間の関係では、それぞれの国に住む大勢の人々の過去からの経験が潜在意識に共有されていて、その影響が大きいということでしたが、現在の日中間のゴタゴタをよい方向に解決するには、具体的にどうしたらいいとお考えですか? 仏教や儒教を信じる国民が多いはずの中国ですが、昨今の中国のやり方は理解できないのですが……」--多分、質問者は、こう問いたかったのだろう。
 
 この時の私の答えは、質問者の質問を言い変えた私の文章の中に、大半が書かれている。つまり、今回の問題では日中両国の「大勢の人々の過去からの経験が潜在意識に共有されていて、その影響が大きい」ということだ。もっと具体的に言えば、日本には日中戦争での侵略行為を反省し、罪の意識を感じている人が多いと同時に、歴代の日本の首相が何回謝罪しても沈静化しない中国側の不信感に嫌気が差している人も多い。また、中国との経済関係が深まってきた昨今では、日本では許されないような不正や不当な行為が、中国では放置・放任されていることが多いと分かり、中国に対する不信感も広がっている。その一方、中国側では、永年の反日的歴史教育を受けて、多くの人々は日本への不信感を抱いているし、過去の植民地支配への怒りと同時に、GDPで示される経済力では「すでに日本を抜いた」というプライドをもっている。だから、「1度は負けたが、決して2度とは負けないゾ」という強い敵愾心があると考えていいだろう。
 
 そういう中で、今回は「領土問題」という国家間では最も難しい問題をめぐって衝突が起こったのだから、私は両国の外交当局がよほど注意して処理しなければ、この問題の解決は長引くし、両国にとって好ましくない結果を招く恐れが十分あると思うのである。この問題が起こった詳しい事情は、まだ両国の国民に知らされていない。また、外交というものは、深刻な問題が含まれれば含まれるほど、本当の事情は国民の目から隠されるものだ。だから、「真相究明」とか「白黒の決着をつける」ことを急がずに、両国は“対立点”ではなく“合意点”を強調し、それを拡大していく方向に進むべきである--私は、そういう意味のことを述べたのだった。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月24日

スーパー・サーモン解禁か?

 遺伝子組み換えによって通常の倍の速さで成長するサケが、まもなく市場に登場するかもしれない。アメリカの食品医薬品管理局(FDA)の諮問委員会が20日に会合を開き、普通以上の成長ホルモンを分泌するように遺伝子を組み替えた大西洋サケ(Atlantic salmon)は、健康にも環境にも安全であるという結論に達したようだ、と22日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』が伝えた。ただし、アレルギー反応を起こす可能性については、結論がまだ出ていないようだ。この結論が正式なものとなれば、このサケは、アメリカの食卓に最初に導入される遺伝子組み換え動物になるという。同委員会では、消費者団体や環境団体の代表は組み換えサケは認可すべきでないと証言した。このサケが認可されるならば、環境への害が少ない糞を排泄するブタなど、他の組み換え動物の認可にも道が開かれる可能性があるという。また、このサケと同様、成長期間の短縮を目的とした遺伝子組み換えが研究されている魚は、今世界に18種あるというから、養殖魚類一般への遺伝子組み換えの道が開かれるかもしれない。

 同紙の記事によると、この“スーパー・サーモン”はチヌーク・サーモンのもつ成長ホルモン産生遺伝子と、別の魚(ocean pout)がもつ氷結防止遺伝子を組み込んであるという。これにより、通常のサケは冬季に成長ホルモンを産生しないところを、冬季にも成長を続けるため、通常の倍の速度で大きくなるという。開発したのは、マサチューセッツ州に本拠を置くバイテク企業アクア・バウンティー・テクノロジーズ社(AquaBounty Technologies)で、同社は、このサケが認可されれば、自然の海産資源を破壊することなく世界の食糧需要を満たすことができるとしている。また、このサケをアメリカ内陸部で養殖することにより、チリやノルウェーから空輸するより安価に大西洋サケを提供することができるという。
 
 遺伝子組み換え種の生物がもつ問題の1つは、自然界にある近似種と交雑することで、環境へ予想外の影響を与える危険性だ。これに対して同社は、このサケを内陸部の隔離された施設で養殖し、もしそこから逃げ出した場合も、周囲の環境がサケの生存に適しない塩水や温水であるような地域で育てるとしている。また、養殖を行うほとんどを繁殖力のない雌のサケとするから、自然界で交雑することはないという。同社の株価は、FDAの承認が得られるとの期待から、今年に入って3倍以上になっているらしい。

 この記事を読んで、私はかつて小説に書いた遺伝子組み換えニジマスのことを思い出した。また、このサケにはどんな飼料が与えられるのか、と考えた。穀物飼料が使われるならば、人間の食糧との競合は防げない。さらに考えたのは、「自然界から厳重に隔離して育てなければならないもの」を、人間は食料とすべきかということだ。これは自然観、人間観と深くかかわる問題で、人間を自然の一部と考える私は、肯定的に答えることはできない。アメリカという国は、これまでの遺伝子組み換え作物の利用状況などから考えて人間至上主義的だから、“スーパー・サーモン”の承認は時間の問題のような気がしている。
 
 なお、遺伝子組み換えニジマスを扱った小説は「銀化」と「銀化2」という2本の短篇で、『神を演じる人々』という短編集に収録されている。この機会に興味をもった読者のために、私の電子本サイトに2本を1本にまとめて登録した。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月23日

親・ご先祖は人生の共同構築者

 今日は午前10時から、東京・原宿の生長の家本部会館ホールで「布教功労物故者追悼秋季慰霊祭」が執り行われた。東京地方は、前日には33℃にも上がった気温が嘘のような、20℃前後の肌寒い天気。大雨警報が出ていた地方もあったが、慰霊祭中は雨足はさほど激しくなく、静かな雰囲気の中で御祭がつつがなく行われたことは、誠にありがたかった。私は斎主として奏上の詞を読み、玉串拝礼を行ったほか、大略次のような挨拶の言葉を述べた:
 
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 本日は、永年にわたり生長の家の運動に携わって来られて最近、霊界に旅立たられた方々の御霊をお招きして、生前の真心に感謝し、今後の顕幽両界での運動のさらなる進展を誓い合うという、誠に意義深い御祭の日であります。

 ただ今、229柱の御霊さまを招霊するに当たってお名前が呼ばれるのを聞いていますと、私の記憶にまだ鮮明に残っている方々のお名前があるのです。最初に呼ばれた北原オリンピオさんは、2004年と2006年に、サンパウロで国際教修会が行われたときに、堂々と発表してくださったブラジルの大幹部の1人です。杉村哲男さんと清水春夫さんは、教化部長として日本各地に赴任して、運動発展のために大いに活躍してくださいました。また、日本教文社の編集部長だった辻信行さんは、谷口清超先生がご昇天後、先生の追悼グラフを製作するのに尽力され、つい最近まで私の部屋にも来られていたことを思い出します。特に、辻さんは、私が大学を出てすぐに日本教文社に就職したとき、すでに先輩編集者として月刊誌の編集に携わっておられ、2年半ばかりいろいろご指導いただきました。そういう方々が霊界へ旅立たれると、「次は自分の番かなぁ……」などと思ってしまうのです。
 
 まあ、人間の今生での寿命は正確には本人にも分かりませんが、たとい肉体生命がこの世から姿を消しても、神の子としての人間の本当の命は不滅である、というのが生長の家の信仰です。ですから、肉体の姿が消えても、私たちは先人への感謝と、先人の遺志の尊重とを忘れてはいけないのです。特に、私たちとご先祖との関係については、ときどき1本の樹木に喩えられ、「先祖は幹や根、子孫は枝葉」などと言われます。ですから、枝葉が茂り、果実がよく実るためには「親に孝行、先祖に供養」と言われます。
 
 これを現代風の言葉に置き換えてみれば、私たち一人ひとりは両親のDNAをちょうど半分ずつ引き継いだ肉体をいただいている。それだけでなく、幼い頃からの成長の過程で、親の教育方針などを通じて、両親からは大きな心理的、人間的影響を受けています。さらに、子供は両親から社会的・経済的な支援を受けて大人になります。そんなわけで、世の中には“親の七光り”などという言葉もあるわけです。これは、商家の人のみならず、芸能界や政界、実業界、スポーツ界などにも広く当てはまることで、私自身も恐らく“親の七光り”の部分は大きい。とにかく、人間が営むそれぞれの分野において、親が優秀であることは、子の繁栄と発展に密接に関係しているということは、皆さんもきっと承認してくださることと思います。
 
 このことに関連して、最近、私が体験したことを少しお話ししましょう。
 私は、雑誌やブログのために文章を書くのが仕事の重要な一部であることは、皆さんもよくご存じと思います。そして、新聞記者時代は紙に原稿を書いていましたが、今はもっぱらパソコンで文章を書いています。また、インターネットも毎日使いますから、私のパソコンの中には、そういう原稿だとか、ネット上の新聞記事とか、雑誌の記事など、仕事に関する電子的情報の大部分が収められているのです。ところが数日前に、そのパソコンが突然動かなくなりました。コンセントに差しても、電源が入らなくなったのです。パソコンには電池が入っていますから、まったく動かないわけではありませんが、電池で動く時間は限定されています。だから、「これでは仕事にならない」と私は慌てました。いろいろ確かめてみるうちに、外部の電源から電気を取って、それをパソコン用の電圧に変換するための「ACアダプター」という装置がうまく動かないようなのです。
 
 そこで、その機械だけを急いで購入しようと思い、近くの家電量販店に電話しました。が、いろいろ調べてくれたすえ、メーカー品でないものは該当機種の在庫はなく、メーカーの純正品は川崎の支店にあるということが分かりました。けれども、入荷には2~3日かかるというのです。入手に2~3日もかかると、その間のメールは読めないし、ブログも書けない。今日のこの慰霊祭のスピーチを考えるのにも間に合わない。ということで、とりあげず注文はしておいてから、私は、夜中になって、問題のACアダプターが電源コードと接続している部分の分解を試みたのです。自分で何とか修理してみようというわけです。で、結局、電源コードの内部で銅線が切れているため、電気がアダプターからパソコンに通じないことがわかりました。それを応急的に修理して、今は動くようになっています。故障の原因が、私の手の届く範囲でよかったですが、そうでなかった場合、ちょっと危ない事態に陥る可能性がありました。
 
 この経験を通してわかったことは、パソコンにとって最も重要なのは、中に納めたデーターではなくて、パソコン自体を動かす電気だということでした。これは、考えてみれば当たり前のことです。電気が通じなければ、パソコンの中にどんなに確かで、充実したデータが入っていても、それは全く利用できません。このことは、我々の人生についても言えるのではないか、とその時私は思いました。私たちがどんなに多くの、貴重な人生経験をしても、また知識や技術を得ても、さらにどんなに経済的に豊かになっても、この肉体に命が流れていなければ、それらの貴重な資源を生かすことはできない。

 この我々の肉体を1台のコンピューターに喩えれば、肉体生命が働かなければ、電気の通じないパソコンと同じように、何の仕事もすることができない。聖経『甘露の法雨』の「人間」の項には、「神は光源にして、人間は神より出でたる光なり」という言葉がありますが、「神は電源にして、人間の肉体はパソコンなり」と言い換えることができます。そう考えるとき、私たちの両親やご先祖は、ちょうど「ACアダプター」の役割をしていることが分かります。電源である神は、宇宙を創造するような莫大なエネルギーの持ち主ですから、そのエネルギーをこの小さな肉体にそのまま使えば、きっと黒焦げになってしまう。ですから、ご先祖や両親が、この神の無限エネルギーをちょうど私たちの肉体に最も適する形に変換して、私たちが利用可能な肉体として提供してくださることにより、地上生活が可能になっている。もちろん、そういう肉体的なことだけでなく、親やご先祖からは精神的、経済的な支援も受けていることは先ほど申し上げた通りです。
 
 このように考えてくると、私たちは両親を通じてご先祖と、さらには神との連絡なくしては存在しえないことが分かります。親やご先祖は、私たちの人生の「共同構築者」だといっても言い過ぎではないでしょう。あるいは、私たちの人生を建築物に喩えるならば、その“基礎工事”は親やご先祖によってなされているのです。私たちはその上に、自由に自分の人生を築き上げることができるけれども、基礎を無視することはできない。ここにお集まりの皆さんは、生長の家とは縁の深い方々ですから、そういうしっかりとした信仰の基礎の上に、立派な人生を築いておられると思いますが、ぜひその信仰の基礎を、今度は次の世代の人々にも及ぼしていただきたい。そして、霊界からのご加護もいただきながら、ますます明るく、力強く、人類光明化と国際平和実現のためにご協力いただきたいと思います。
 
 本日は雨の中、慰霊祭へご参加くださいまして誠にありがとうございました。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月22日

本の“自炊”を試みる

 最近、その筋の人々が“自炊”と呼んでいる作業をやってみた。この呼称の由来はよく分からないが、簡単に言うと、自分が所有する本を、自分のノートパソコンや iPhone などの携帯端末用に電子化することである。それによって何冊もの本を持ち運ぶ手間が省け、どこでも本が読めることになる。市販の電子本をネットで買えば同じことができるが、電子化されていない本はまだまだ多く、電子本が入手できたとしても、その値段は紙の本とそれほど違わないから、コストはバカにならない。
 
 本の“自炊”は、持っている本を1冊丸ごとバラバラに解体して、各ページをスキャナーでパソコンに取り込むことで行う。私のように、本を書くことが仕事の重要な一部である人間にとって、これはさすがに躊躇する。が、ある有名な生長の家本部講師が、谷口雅春先生の本が出ると一度に2冊を購入して、1冊を愛蔵用として奇麗なままで取り置き、他の1冊を講話用として、これに傍線を引いたり、注釈を書き込んだり、付箋を貼ったりして、ボロボロになるまで徹底的に利用するという話を思い出して、「電子化した本も徹底的に利用すれば、オリジナルの解体は許される」などと自分にいい聞かせて、この作業をした。それでも、分厚い表紙の立派な上製本を解体する気にはなれず、まずは文庫本を試した。それも最初は、売られていた本ではなく、岩波文庫の『読書のすすめ』という無料の宣伝用冊子で試してみることにした。ページ数も84ページでそう多くないから、テストケースとして最適と思ったのである。
 
 手元にあったシートフィーダー付きの携帯型スキャナーで、案外簡単にできた。ファイルをPDF形式で保存し、それを添付ファイルとして自分の iPod touch へメールで送信し、受け取った後は、無料アプリの「iBooks」を立ち上げてファイルを開くと、自動的にアプリ内の本棚に収納される。それだけのことだ。でき上がったPDFファイルは、「1.5MB」とサイズが大きいのが気になる。また、iPod touch の画面では、文庫本の1ページの文字が小さすぎるので、指の操作で画面を拡大し、スクロールしながら読むのが面倒だ。が、それ以外の点では、十分実用に耐えると感じた。
 
 これに気をよくした私は、次に、自分の本の“自炊”を試みた。が、やはり分厚い本を解体する気にはなれないので、最近生長の家から発行されたブックレット『自然と芸術について』を、電子化の対象に選んだ。こちらの総ページ数は、カラーの口絵を入れて104ページだ。しかし、データー量が多かったらしく、でき上がったPDFファイルは「5MB」を超えてしまった。iPod touch で読もうとすると、画面が小さい上に、1ページを読み込むのに時間がかかるので、実用的とは言えない。ただし、パソコン上では何とか実用に耐える。本欄の読者にはパソコンユーザーも多いので、私の電子本のサイトの「その他」のページに掲げることにした。興味のある人は、覗いてみてください。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月21日

エゾシカの肉

 北見で入手した9月18日の『北海道新聞』(夕刊)に、当地で増え続けているエゾシカの問題が載っていた。エゾシカの生息数は2009年の推定値で約64万頭で、農林業への被害額は昨年度、50億円のレベルを突破して、十数年前のピーク時に匹敵する状態だという。私は、この問題について2007年にも本欄(11月11日同15日 )に書いたが、その時の被害額は約30億円だった。そして、この問題に対処する観点として、「家畜の肉を食すことと、野生の動物の肉を食すことを同等に扱っていいか?」という問いを立てた。記事を読むと、この設問に対する“肯定論”の方向に、北海道は動いているように見える。つまり、殖えすぎたシカは、人間が天敵の役割を担って、食用や産業に利用していこうとしているのである。

 北海道では、エゾシカの肉はすでにサラミやハム、ソーセージ、肉の缶詰などを初め、スープカレー、ハンバーガーなどに利用されているという。シカの利用を推進するのは、網走市にある東京農大生物産業学部で、そこで「エゾシカ学」を研究している増子孝義教授が、中心になっているらしい。人間の食用以外の用途としては、楽器や眼鏡拭きに使うセーム皮や、鞄類、また内臓肉を使ったペットフードが開発されている。また、シカ肉の安定供給のために、オホーツク管内の斜里町などでは、野生のシカを短期的に飼育する牧場も数カ所できているという。このような積極利用が可能な背景には、捕獲されるシカの頭数が多いことがある。同紙によると、2009年度に捕獲された頭数は約9万2千頭だが、そのうち食肉処理されたのは1万2千頭に過ぎないという。つまり、捕獲されたシカの大部分は、廃棄物として処理されているから、もっと利用すべしということだ。

「肉食」を忌避する宗教の立場からこれを考えると、複雑な気持になる。私は、山梨県の山荘付近で何度も野生のシカと遭遇しているが、彼らは実に美しい動物である。森の木の皮を剥いて枯らし、作物を食べ、バラやライラックの花芽を食べてしまうが、立ち止った姿が美しいだけでなく、軽快に跳び上がって霧の中に消えていく姿は、神秘的でさえある。そういう彼らを殺して肉を食うという行為は、「野蛮」と言えば確かに野蛮である。しかし、その野蛮さと、牛肉や豚肉を食べる野蛮さは、質が違うような気がする。

 現代の食肉生産が抱える問題については、本欄や私の著書などで何回も書いてきたから、ここで詳細は繰り返さないが、野生のシカ1頭と、穀物飼料で育った牛1頭とでは、肉になるまでにもたらした自然への損害が、質量ともに大いに違うのである。もちろん、後者が前者を大きく上回る。そういう観点から言うと、同じ“動物の肉”を食するというのなら、日本人の多くが後者から前者に食肉を転換していくことは、温暖化抑制のため、飢餓人口減少のために貢献することになるだろう。が、しかし、である。この方法は好意的に見ても「セカンド・ベスト」だと思う。なぜなら、牛1頭を殺すのも、シカ1頭を殺すのも、宗教的な「殺生戒」を侵すことに変わりはないからだ。「もっと生きたい」として屠殺場へ行くことに必死に抵抗する動物の自由意思を奪い、恐怖心の中で殺害し、皮を剥き、身体を解体して、人間の栄養源とする。それを、自分の見えないところで業者にさせておいて、「私には罪はない」と言うことはできない。それよりも、魚類の肉などから必要な栄養素を摂取する方がいいのである。
 
 そうは言ったが、セカンド・ベストへ移行する動きが出ていることを、私は評価したい。願わくは、「ワースト・チョイス」の肉の消費が減ることを夢見ながら……。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月19日

キンドルを使う (3)

 今日は、北海道北見市の北見芸術文化ホールで生長の家講習会が行われ、小雨の中ではあったが、668人の受講者が参集して和やかな雰囲気の中で会をもつことができた。あいにく前回の受講者数を上回ることはできなかったが、高齢化と人口減少が進む中、教区の幹部・信徒の熱心に推進活動を展開してくださったことに心から感謝申し上げます。

 講習会を終えて女満別空港から羽田へ向かう機上、11月に発行予定の『小閑雑感 Part 17』の校正ゲラに目を通していた。10月23日のブログまで来て、そこで「キンドル」について書いているのに気がついた。そして、もうほとんど1年がたとうとしていると知って、驚いたのである。「キンドル」(Kindle)とはアメリカ最大手のオンライン・ショップ、Amazon.com が販売している電子書籍を読むための端末機である。これを購入して使い始めたことをその日に書き、「使い心地や変わった使い方などについて、今後も本欄で紹介していくつもりである」などと書いたのだが、その後、本欄で(11月4日に)1回しか報告していないことに思い当った。そこで今日は続編を報告し、読者への約束を果したい。
 
 キンドルについては、すでに雑誌記事や書籍も多く出ていて、興味のある人はそれらを読んでいるだろうから、一般的な機能についての解説はせず、私がどんな用途にこれを利用しているかを少し書こう。この読書端末は、縦20cm、横13cmと、普通のノートパソコンの半分の大きさで、重量も275gと軽いため、携帯性がきわめていい。私は毎日、鞄のポケットに入れて持ち運んでいる。その中には、アメリカの外交専門誌『フォーリンアフェアーズ(Foreign Affairs)』が入っている。この雑誌は季刊で、発行時期に通信機能を使っていると、雑誌がまるごと1冊分自動的にダウンロードされる。このほか、私のキンドルには、十数冊分の英文書籍が入っている。これらの電子本は、新たに購入したものもあるが、すでに購入してあった紙製の英書の中で、読みたいと思いながら持ち運びの点で障害となっていた本を、電子本として新たに購入したものも含まれている。旅行中や旅先などで読むためだ。また、「sample」という印のついたファイルもいくつかある。これは、興味のある本の情報を入手した場合、それを実際に購入する前に、一部を無料で読めるサービスを Amazon.com が提供しているもの。同社は、ネット上ではパソコン向けに“ちょっと見”サービスを提供しているが、キンドル用には、一部(だいたい最初の1章分ぐらい)をサンプルとしてダウンロードできる。これがなかなか役に立つ。
 
Tategaki_kindle  そのほか変わった用途としては、自分の資料保存と閲覧用にもキンドルが使える。商用の日本語の電子本にはまだ対応していないが、自分でつくったPDF形式の文書ファイルは、キンドル上で問題なく読める。これは最近、奈良教区の山中優氏から教えていただいたことだ。うれしいことに、ルビ(振り仮名)も含めて、縦書きの文章もちゃんと表示される。ただし、これをするためには、少し下準備が必要だ。まず、キンドルの画面でも読みやすい字立ての文書を、PDF形式で作成する。次に、その文書をメールに添付して、自分のキンドルのアドレスに送信する。すると、送られた文書をアマゾンの側でキンドル形式に変換して、キンドルに送り返してくれる。ここに掲げた写真は、その文書を画面に表示したサンプルである。
 
 iPhone や iPod touch をもっている人は、キンドルのアプリをダウンロードして使える。このアプリでは、キンドルで購入した電子本を iPhone や iPod touch 上で読むことができる。つまり、A5判の大きさのキンドルでも“かさ張る”と考える場合は、ケータイ上に電子本を落として持ち運びをすればいいのである。ただし、ケータイの画面は小さいから、キンドルに比べれば文章は読みにくくなる。また、英文の場合、キンドルでは辞書機能が自動的に働くが、ケータイ上はそれができない。Amazon.com は、キンドルを日本語電子本に対応させると言っているから、私はそのバージョンアップ版を見て、iPad と比較をしながら、次の対応を考えるつもりである。

谷口 雅宣 

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2010年9月17日

生物多様性をオフセット?

 10月に名古屋市で行われる「国連地球生きもの会議」(生物多様性条約第10回締約国会議)を前に、メディアでは生物多様性についての記事や報道が増えているが、ここで話し合われる議題の1つに「生物多様性のオフセット」という考え方がある。16日付の『朝日新聞』に解説記事があるが、それを読む限りでは何となくウサン臭い感じがしてならない。排出した二酸化炭素の「オフセット」という考え方はすでに定着していて、旅行会社が販売する“炭素ゼロ旅行”などは、生長の家でも認めている。しかし、地球の大気圏内に均一に広がっているCO2の場合、どこかで増えた分を別の場所で減らすという考え方は成り立つが、地球上に不均一で独特な自然環境があるために初めて成立する多様な生態系を対象にして、ある部分が破壊されたら別の地域で代替できると考えるのは、かなり無理がある。

 『朝日』の記事の説明によれば、生物多様性のオフセットとは、「開発による自然の損失分を、近い価値の自然保護で相殺(オフセット)する手法。事業中止や計画変更で対応しきれない場合の対策として、1970年代に米国で導入が始まった。面積や希少種の数、人間にとっての利用価値などを算出する使用をつくり総合判断する例が多い」という。先行しているアメリカなどでは、湿地などの保護分と開発による損失分をクレジット(証券化)して売買する市場ができていて、その規模はアメリカ国内では、2008年に約3千億円だったものが、2020年には9千億円に拡大すると見られているらしい。

 生物多様性問題のコンサルタントをしている足立直樹氏は、昨年末から今年1月にかけて『日本経済新聞』(電子版)でこの問題を数回にわたって解説しているが、生物多様性の“オフセット”は、CO2のそれと同様の意味では考えられていないという。そして、原則としては、「ノーネットロス(no net-loss)」が守られねばならないとしている。足立氏によると、この原則は開発をまったく行わずに、環境への損失をゼロにする(no loss)のではなく、環境への「影響を最小限度にしながら開発を行うが、もう一方では同等の生息地の保全や復元を行い、マイナスの効果とプラスの効果、差引(ネット)でゼロにしようという」ものである。これを実現するためには、まず開発の影響をできる限り「回避」し、さらに影響を「最小化」する。それでも残ってしまう影響については、他の同等の生息地で「代替」しようというのだそうだ。
 
Bdoffset  図によって説明すると、環境への対策を何も講じないで開発を行った場合、「A」の長さで示される量の生態系へのマイナス影響があったすれば、まずそのマイナス影響をできるだけ回避して、「B」の量まで減らし、さらに悪影響を最小化して「C」まで減らし、それでも残ったマイナス分を、開発地の近くの別の場所で生態系を守ったり、回復したりして「D」や「E」の段階に至ることを考える。この「D」と「E」の代償行為が生物多様性オフセットに当たるのだという。
 
 まあ、理論的には分からなくはないが、実際にそんなことが可能だろうか。足立氏は、「元の生息地の近くにほぼ同等で同面積(以上)の生息地を復元または保護することで、生物の生息地と生態系を保全することができる」としているが、本当にできるかどうかは、特定の地域の生物多様性を個別具体的に検討してみなければ何とも言えないだろう。
 
 食物連鎖の上位にいる稀少動物--例えば、猛禽や猛獣--の中には、広大な生息地をもつものがいる。その場合、開発地の面積が生息地より狭くなることが考えられるから、上の図ではどうすることが生物多様性のオフセットなのか、よく分からない。また、鳥類などいわゆる「渡り」をする生物の生息地は、境界を定めることが難しいのではないか。生息地の境界が分からなければ、それを護ったり、代替地を定めることもできないのではないか……など、いろいろの疑問が出てくるだ。
 
 しかし、こういう問題が国際会議で議論されること自体はいいことだと思う。「カーボン・オフセット」という考え方が生まれたことで、CO2の排出には“コスト”がかかるということが、多くの人々に理解されつつある。だから、「生物多様性オフセット」という考え方が人々の間に浸透していけば、自然そのものに価値があり、それを壊すことには“コスト”が生じるという理解が、もっと拡大していくに違いないからだ。

 谷口 雅宣

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2010年9月15日

飢餓人口が減少

 世界の飢餓人口が減少した--最近にない“よいニュース”を取り上げることができて、うれしい。が、この傾向が続く可能性は少ないという点も、強調しておかねばならない。15日付の『ニューヨーク・タイムズ』(電子版)によると、国連食糧農業機関(FAO)などの発表では、慢性的に栄養不足の状態にある人の数は、2010年には前年より約1億人減って9億2500万人となる見込みという。飢餓人口が減少に転じるのは15年ぶりという。しかし、2009年の数字が「10億2300万人」という過去最大の数だったことからの減少であるから、世界食糧計画(WFP)では「まだ衝撃的に高い数字だ」としている。2009年の“飢餓のピーク”の主な原因は、その前年に起こった食糧価格の高騰で、今回の減少をもたらした主要原因は、新興国を含む途上国の経済成長と食糧価格の下落だという。となると、今後の食糧価格の変動によって飢餓人口が大きく左右されることが予想される。その変動を少なくするためには、食糧在庫を増やす必要があるが、本欄でも(例えば、8月23日 )述べてきたように、世界の食糧在庫量には“危険信号”が出ているのが現状だ。
 
 来年の飢餓人口数を左右するのは、今年の食糧の収穫量と在庫量だ。これについては、2つの異なった見方が考えられる。まず“楽観派”の考え方は、13日付の上掲紙の社説によく表れている。それによると、ロシアの小麦禁輸措置によって小麦価格は2007~2008年のレベルに達しているが、今年の穀物収穫量はコメなどを中心に史上3番目の豊作であること。特に、過去3年間、小麦の禁輸措置をとっているインドでは、小麦在庫の一部が倉庫で腐っているとの報道もあるらしい。また、穀物全体の在庫量も、この8年間で最大量に達する。これによって、来年の穀物在庫量も、過去30年来の最低レベルだった2年前よりは、相当増えると予想されるという。だから、ロシアやインドのような禁輸措置はやめて、世界各国が自由に国際市場から穀物を調達できるようにすれば、穀物価格は下がり、したがって飢餓人口は減少すると考えるのだ。
 
 これに対して“悲観論”では、今回のFAOの数字が、パキスタンの大水害とロシアの穀物禁輸措置に伴う小麦価格の上昇の前に集計された、という点に注目する。つまり、今回の“飢餓減少”を、あくまでも一時的なものとして見るのである。今後は、穀物需要の増大と在庫減少が続くことで、穀物価格は再び上昇に転じ、したがって飢餓人口は増大する--この大きな流れは変わらないと見るのである。この見方は、上記した8月23日の本欄で触れたように、環境運動家のレスター・ブラウン氏が唱えている。また、それを伝えた『日本経済新聞』も、恐らく“悲観論者”だと私は見る。その証拠に、『日経』は悲観論を支持するような記事を、9月14~15日に立て続けに掲載している。
 
 その記事は、今夏米国を襲った熱波のために、生産量が伸びないトウモロコシの国際価格が高騰し、在庫率が15年ぶりの低水準に落ち込んだことに注目している。その要因としては、①エタノール用の需要拡大、②海外需要の拡大、を挙げている。エタノール用は米国産トウモロコシ需要の3割強を占める。また、海外需要では、ロシア産小麦の代替としてエジプト、韓国、中国などが調達に動き始めているという。
 
 というわけで、今回の“飢餓人口減少”は喜ばしいことながら、世界の食糧事情は安易な楽観を許さない状況であるということを心得ておいた方がいい。私が特に言いたのは、食糧問題には長期的視点が大切だということだ。経済発展によって新興国の人々の購買力が増大することで、今回は飢餓人口の減少を見た。しかし、同じ経済発展は「森林破壊」や「肉食の増加」をもたらすものだから、中・長期的には、さらなる森林破壊と異常気象の拡大、食糧生産の減少へとつながる可能性が大きい。今夏の世界的な熱波と洪水被害は、そのことを有力に警告していると思う。

 谷口 雅宣

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2010年9月12日

ミカンが割れる

 今年の夏は第1級の“異常気象”であったことが報告されていることは、読者もご存じだろう。本欄では8月20日9月5日にこの件に触れたが、9月に入って、新聞各社はそれらをまとめて報道している。
 
 9月2日『日本経済新聞』--気象庁はこの夏(6~8月)の日本の平均気温が、平年より1.64℃高く、1898年の統計開始以来、過去最高を記録したと発表。
 9月4日『福島民報』--今夏の高温の原因について、気象庁の「異常気象分析検討会」が3日、見解をまとめ、今回の高温を30年に1度程度しか発生しないと定義される「異常気象」と位置付けた。
 同日『日経』--気象庁は3日、異常気象分析検討会を開き、春に終息したエルニーニョ現象と夏に発生したラニーニャ現象の相乗作用が一因とする検討結果を発表した。今後1週間は35℃以上の“猛暑日”となる地域がまだある見込み。
 9月10日『日経』--気象庁は9日、8月の日本周辺海域の平均海面水温が、平年を1.2℃上回る27.5℃となり、85年に統計を始めてから最も高かったと発表した。

 というわけで、世界各地でも通常では起こらない気象と、それに伴う被害が起こっていることはすでに報告ずみだ。日本では、熱中症による高齢者の死亡数が問題にされたが、4日付の『福島民報』には、家畜の死亡数まで掲げてあったのが印象に残った。それによると、農林水産省のまとめでは、7月初めから8月15日までで、全国で熱射病などで死んだり、廃棄された家畜は、乳牛が959頭、肉牛は235頭、ブタ657頭、ブロイラー28万9千羽、採卵用ニワトリ13万6千羽だったという。これに、口蹄疫による殺処分の頭数を加えて考えると、今年は家畜にとっても大変な年であることが分かる。
 
Mtimg091210  私の家の庭でも被害が生じている。といっても、これはミカンの話だ。高温が続き降雨量が少ないため、春に実を結んだミカンが割れて、地に落ちる現象が起こっている。こんなことは初めての経験だ。私はブルーベリーの木の根が深くなく、水分を必要とすることは知っていたから、東京にいる間はほとんど毎朝、バケツ2杯の水を与えていたが、ミカンは盲点だった。色づく途中の直径3~4cmのものの皮がパックリと破れ、やがて地に落ちる。その様子は何とも痛ましい。ところが、隣に立っているユズの方は、どうやら無事のようだ。全国のミカン農家の人たちは、きっと水やりに苦労されているのだ--そんなことを考えながら、皮の破れたミカンを描いた。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月11日

二つの祭

 生長の家の本部に近い鳩森八幡神社で秋季例大祭があるというので、夕食後に妻と連れ立って行った。神社の大祭は一般の参加者の都合を考えて、たいてい土曜、日曜に行われるが、私たちはこの両日に講習会で出張することが多い。ということで、自宅近くの産土神社にも、これまでは祭礼の日に参拝する機会がほとんどなかった。ところが幸いにも、この日は出張がなかったので、よい機会と思って足を延ばしたのである。

 鳩森神社には立派な能舞台があって、そこで日本舞踊の奉納をやっていた。ほかには、普段は見かけない屋台の店が2~3店出ていただけだ。舞台前の神社の庭にはパイプ椅子を並べた100人ほどの観客席が設けられていたが、半分も埋まっていなかった。私たちが行った時には、この「氏子奉納舞踊プログラム」は半分以上終っていたから、舞踊家や観客のすべてを見たわけではない。しかし、浴衣姿の3~4人の小学生を除いては、若者の姿はそこにはなかった。それでも観客の中には40代とおぼしき人がポツポツといた。が、舞台上で踊る人は、30代後半の女性1人を除いては、60代、70代という様子だった。そういう人々が1人ずつ舞台に上り、録音された謡曲に合わせて、普段からの練習の成果を発表する場--そんな感じのつましい集いだった。

 小一時間で奉納舞踊は終り、それがその晩の祭の終りでもあった。私たちが神社を出ると、「ハチ公バス」という名のコミュニティバスがちょうどそこへ来たので、急いで乗り込んだ。次にどこへ行くということではなく、そのバスが家の近くの表参道へ行くことを知っていたからである。ところが、そのバスが青山通りから表参道へ入った頃、外を見ていた私たちは驚いた。普段から見慣れた街ではあったが、人々の数が多いのである。土曜日の夜だからと考えてみたが、若者を中心とした人出がいつもより相当多く、しかも彼らはパーティーに出席するかのように着飾っているのだった。その理由は、私たちがバスから降りて、いくつかの店の様子を見てから判明した。

 この日は、表参道商店街のお祭だったのだ。もっと正確に言うと、この日は、青山通りと表参道の商業施設が中心になって企画した「Fashion's Night Out」(ファッションの夜に繰り出そう)という一大商業イベントをやっていたのだ。中心会場は表参道ヒルズで、ここで午後5半からファッション・ショーや種々のパーフォーマンスを含んだオープニング・セレモニー(開会式)が行われ、午後11時から30分続くクロージング・セレモニー(閉会式)まで、人々はショッピングなどを楽しむことになっていた。街は、それに参加する若者たちで溢れていたのだ。

 私は、この2つの“祭”の違いに驚いていた。一方は、50人に満たない観客の前で、音質があまりよくない録音ずみの謡曲に合わせ、若くはない人々がつましく踊る日本舞踊を奉納する会である。もう一方は、一流デザイナーズ・ブランド店が外国のモデルやタレントを動員して、派手なファッションショーや景品の抽選会をするイベントである。この2つが、文字通り「隣り合わせ」に存在していたのだった。

 商業主義のことを「祭」と呼ぶのに抵抗がある人はいるかもしれない。しかし、「祭」という日本語には、宗教的な「祭祀」という意味以外にも、「大勢で浮かれ騒ぐこと」とか「派手な催し物」という意味がある。この後者の意味ならば、表参道の商業イベントは立派な“祭”である。宗教的祭祀が廃れつつある中、商業イベントに大勢の若者が群がる現代日本を強く感じながら、私はこの日が、アメリカの同時多発テロ事件の9周年であることを、いったい彼らの何人が気づいているのかと思った。平和が続くことは誠に喜ばしいことだ。しかし、その平和を守るために欧米では大勢の若者が戦場に行き、ついに帰還しなかった者もたくさんいるという事実を、この国の若者たちがどう理解しているのか、私は知りたい。

谷口 雅宣

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2010年9月10日

アメリカの2つの出来事

 日本のメディアではあまり話題になっていなかったが、9・11の9周年を目前にしたアメリカで、キリスト教とイスラームに関する2つの出来事が奇妙に合体する様相を見せている。その1つは、この同時多発テロ事件の現場近くに、イスラームのモスクを造る計画が進んでいることで、もう1つは、イスラームに反対するフロリダ州のキリスト教の教会が、同事件の9周年に当たって聖典『コーラン』を200冊以上燃やすと宣言したことだ。この2つの出来事は、一方が北部の州、ニューヨークのマンハッタンでのこと、他方はアメリカ南端の州でのことで、互いに無関係に始まったと思われたが、問題のキリスト教会の牧師が、イスラーム側がマンハッタンのモスク建設計画を断念する代りに、『コーラン』の焼却計画も中止すると発表したことで、新たな展開を見せている。10日付の『日本経済新聞』、『朝日新聞』(夕刊)などが伝えている。

「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるマンハッタンの事件現場から2ブロック離れた所にモスクを建てる計画については、アメリカではこれまで賛否両論が戦わされてきた。しかし、オバマ大統領やニューヨーク市のマイケル・ブルームバーグ市長(Michael Bloomberg)が「信教の自由」を擁護する立場から賛成を表明してきたため、私としては大きな問題にはなるまいと思っていた。が、アメリカには政治的に“右派”であるキリスト教原理主義の考えが根強くあるため、今回のような出来事に至っていると言える。フロリダでの一件とは、次のようなものだ--

『コーラン』焼却計画を打ち出したのは、フロリダ州ゲインズビル市にある教会のテリー・ジョーンズ牧師(Terry Jones)である。彼は、信者数が50人ほどの小さな教会の指導者だが、イスラームを敵視していて、自分に共感する人々に『コーラン』焼却をするようにインターネットなどで呼びかけた。彼は9月11日を「国際コーラン焼却日(International Koran Burning Day)」とすることで、原理主義的イスラームが支配する国に、明確なメッセージを発する必要があるというのである。このことがメディアを通じて世界中に伝わると、モスレムが多く住むインドネシアやパキスタンなどの国々が非難声明を出し、アフガニスタンやイラクなどでも怒りを表した反対デモが行われた。また、オバマ大統領も9日、ジョーンズ牧師の行為は「アフガニスタンなどで米兵を深刻な危険にさらす」として、「完全にアメリカの価値観と異なるものだ」と計画の中止を強く促した。ゲーツ国防長官にいたっては同牧師にわざわざ直接電話し、イスラーム教典の焼却を行えばアフガニスタンやイラクに駐留する米兵の命を危険にさらすことになると警告したという。
 
 これに対して同牧師は、9日になって記者会見して計画を撤回する考えを表明したものの、その理由としてマンハッタンのモスク建設計画を持ち出し、この建設地を移転することでイスラーム側と合意したからだと説明した。ところが、建設計画をもっているイスラーム指導者は、「その事実はない」と否定したため、牧師は「だまされた」と憤慨しているという。
 
 グラウンド・ゼロ近くでモスク建設計画をすすめているのは、アメリカ人のイスラーム指導者、ファイサル・アブドゥル・ラウフ師(Feisal Abdul Rauf)で、ラウフ師自身はこの建物を「モスク」とは呼ばずに「コルドバ・ハウス(Cordoba House)」と呼び、コミュニティーセンター(地域住民の集会所)として位置づけている。ラウフ師は、9日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に寄稿して自分の意図を述べているが、それによると、この集会所の目的は「すべての宗教間の相互理解を養うため」という。センターにはプールや、小教室、子供の遊び場などを設け、イスラーム信仰者だけでなく、キリスト教やユダヤ教の信者、さらにはその他の宗教のための“祈りの間”を個別に設置する考えという。この施設の名前「コルドバ」は、中世に栄えたスペインの都市名で、当時、ここではモスレム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が平和共存し、互いの文化を華開かせたことにちなんでいる。
 
 自分の信仰とは異なる人々が“聖典”として崇める本を、大量に集めて燃やすという考え方の狭量さと野蛮さには呆れるほかはないが、この出来事にも、宗教における原理主義がどんなに平和と縁遠いかが示されていると思う。この出来事はまた、政治的な“右派”が、アメリカにおいても、そういう狭量さと近いところにあることを教えている。

 谷口 雅宣

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2010年9月 8日

電子ブックを提供します

 昨今は「電子ブック」「電子書籍」「電子本」などと呼ばれるものが脚光を浴びていて、私も本欄でしばしば注目してきた。この分野はアメリカのネット販売大手「アマゾン・ドット・コム」が「Kindle」という端末を携えて先行し、ソニーが「Reader」をもって後追いをしていたが、今年、アップル社が電子端末「iPad」を発売し、画面の美しさと操作性で人気を博してから、一気に普及しはじめた。また最近では、同社の携帯電話「iPhone」や電子端末「iPod touch」でも電子本が読めるようになったため、生長の家でも普及誌の一部を電子化してサイト上で公開しはじめている。
 
 かつて私も、自分のサイトで短篇小説や短い講話をいくつか電子ファイル(PDF形式)として公開していたが、ブログを書き始めてからは、忙しさもあって、その分野は縮小していた。しかし、世の中が書籍の電子化の方向に一斉に動き出し、日本でも大手印刷会社や書店、出版社などが集まって、日本版の電子本の規格を今秋にも出すという。そんな流れの中で、読者の中にも「iPhone」や「Kindle」を使って文章を読む人が増えてきているのではないかと思う。そこで、私の文章や祈りの言葉なども、需要があるなら提供しようと考えた。

 電子本のファイルの形式は、国内では様々なものが出回っていて統一性がない。が、世界的に最も標準的な形式となっている Adobe社の「PDF」ならば、パソコンも含めて、ほとんどの電子端末で利用可能と思う。そんなことを考えて、私のサイトにも電子本をダウンロードできる場所「電子ブック、あります!」を新設することにした。そこに掲げた電子本の数はまだ少ないが、だんだん内容を充実させていきたいと考えている。

 現在のところ、このサイトの構成は以下の通り--

 ①スピーチ/あいさつ (2篇)
 ②祈りの言葉 (49篇)
 ③短篇小説 (4篇)
 ④その他 (1篇)

 「祈りの言葉」の数が群を抜いて多いが、これは単行本の『日々の祈り』に収録された49篇を1篇ずつバラして電子本化したものだ。好きな祈りを iPhone などに納めて、誌友会や電車の中など、どこでも利用していただけたら幸いである。なお、iPhone と iPod touch の利用者は、電子本を読むためには iTunes のサイトからアプリをダウンロードしておく必要がある。無料で使いやすいものとしては「iBooks」や「Stanza」がお勧めである。また、電子本を使っていただいた感想も、聞かせてほしい。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月 6日

“第一言語”を大切にしよう

 9月3日の本欄で、日本人の早期からの英語教育に関しての私の意見を述べたが、中途半端な日本語を話したり書いたりする日本人になることは、本人にとっても、日本文化の発展にとっても不幸なことだと思う。ところで、ちょうどそんなことを考えていた時に、人が使う言語とその人の思考との関係について書いた記事に遭遇した。我々が考えるときに何語を使うかによって、思考の内容に違いが出てくる--こういう考え方について、マンチェスター大学のギー・ドィシャー氏(Guy Deutscher)が8月29日付の『ニューヨークタイムズ』(電子版)に書いていたのだ。

 この問題は1940年、イェール大学で人類学を教えていたベンジャミン・ウォーフ氏(Benjamin Lee Whorf)が短い論文を発表し、「我々は何を母国語とするかによって、思考の内容が限定される」と主張したことから始まったという。特に注目されたのは、ウォーフ氏がアメリカの原住民の言語を詳しく分析して、彼らは西洋人とは全く異なる世界を見ていると主張した点だ。ウォーフ氏によると、アメリカ原住民は彼らの使用言語の構造に縛られて、時間の流れや、対象とその動きとの区別ができないとしたのだ。その理由は、使用言語の語彙にない対象や概念は、話し手には理解できないというのだった。こういう考えに飛びついた別の人々は、この論法をさらに発展させて、「アメリカ原住民の言語は、アインシュタインの時間の概念を四次元として直感的に把握させる」とか、「ユダヤ教の性質は、古代ヘブライ語の時制体系によって決定された」などという考えを打ち出したという。
 
 しかし、これは常識で考えても論理の飛躍しすぎである。だから、やがて「言語は思考や思想を決定する」という種類の考え方は、学問の世界では人気がなくなり、ウォーフ氏の権威は失墜することになったそうだ。ウォーフ氏の誤りは、母国語というものは我々の心を支配して一定の考えをもつことを「妨げる」と考えた点だ。特に、ある言語に、ある概念を表す単語がない場合、話し手はその概念を「理解できない」と考えた。例えば、ある言語の動詞に未来形がないならば、それを母国語とする人間には「未来」という時間の流れは理解できないと考えた。これはあまりにも単純な考えで、英語でも未来形を使わずに未来を表すことができる--例えば、「Are you coming tomorrow?」--ことを無視していた。
 
 ところが、ウォーフ氏の問題論文から70年ほどたったここ数年、同氏の考えの“修正版”が発表されつつあるという。それによると、言語は、話者の思考や思想を限定したり、決定したりしなくても、それ相応の影響力はもつというのである。「母国語は話者の思考を限定する」のではなく、「話者の思考に影響を与える」--これならば、我々の知っている事実とも矛盾はなく、実験によっても確認できるということだ。こういう話を聞いて思い出すのは、私が大学で第二外国語としてフランス語を履修したときのことだ。フランスを含むヨーロッパ系の言語の多くには、名詞に男女の区別がある。しかし、英語には例外的な場合を除いて、それはない。英語に慣れていた私は、この違いだけでも驚きだった。英語の名詞以外に、新たなもう1つの言語の名詞を憶えるのも大変なのに、それらの1つ1つ--「椅子」や「石」や「山」など--が、男なのか女なのかまで憶えるのは「とてもかなわない」と思い、中途で挫折してしまった。
 
 ドィシャー氏の記事にもそのことが触れられていて、この「男性名詞」「女性名詞」の区別をすることが、その言語を母国語とする人の考え方に微妙な影響を与えることは、事実のようだ。
 
 本来生命をもたない物体についても男性か女性いずれかの“性”を当てはめねばならない言語は、フランス語だけでなく、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、ヘブライ語など数多くある。生まれつきそういう言語を使ってきた人は、物体について語るときも、人間の男性か女性に対するのと似た扱いをするようになるという。そして、その言語をマスターすると、そういうクセから離れることは相当むずかしいらしい。

 1990年代に行われた心理学の研究では、母国語をドイツ語とする人と、同じくスペイン語とする人の「物」に対する態度が比較された。不思議なことに、この2つの言語の間には、“性別”がまったく逆になる物の名前がたくさんあるのだ。例えば、ドイツ語の「橋(die Brucke)」は女性名詞であるが、同じ言葉のスペイン語(el puente)は男性名詞だ。同様のことが「時計」「アパート」「(食器の)フォーク」「新聞」「ポケット」「肩」「スタンプ」「切符」「バイオリン」「太陽」「世界」「愛」についても言える。そこで、この2つの言語をそれぞれ母国語とする人に対して、そういう物がもつ特徴を指摘してもらうと、スペイン語を話す人は、「橋」や「時計」や「バイオリン」に、「強さ」などの男性的イメージを感じる一方、ドイツ語を話す人は、それらに対して「繊細」とか「エレガント」などの女性的イメージをもっていることが分かった。
 
 ドィシャー氏の記事には、このほかにも興味ある研究結果が多く紹介されている。それらを見ると、我々が何語を“第一言語”としたかによって、我々の感情や思考が影響を受けることは確かなようだ。これを「国」のレベルに引き上げて考えると、「人々の第一言語は、その国の文化の形成に重要な役割を果たす」ということだから、第一言語をしっかりと身につけていない国民が増えることは、その国の文化の崩壊につながる危険性があるのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2010年9月 5日

暑さを超えて前進!

 今日は福島市のパルセいいざかで生長の家講習会が行われ、前回を71人(4.7%)上回る1,594人の受講者が参集してくださった。日本列島全体に“炎天”が続き、京都ではほとんど40℃にも達するなど過酷な気象が続くが、その中で、人口減少にもかかわらず、休場敏行・教化部長をはじめとした福島教区の幹部・信徒の皆さんが熱心に推進してくださったおかげである。この場を借りて、心から感謝申し上げます。本年度当初から累計すると、11教区で行われた講習会の受講者は、8教区で前回を上回る数となり、全体で前回比累計「+1,641人」となった。運動に明らかな盛り上がりが見られるようで、誠にありがたいことである。
 
 講習会後の幹部との懇談会で、成功要因の1つとして丁寧な駐車場対策が挙げられた。これは前回、駐車場スペースが不足したために来場者が会場前まで来たのに帰ってしまうという残念な事態を改善したものだ。今回は、駐車のためにより広いスペースを確保しただけでなく、実行委員の駐車は会場から遠い所に定め、会場と駐車場間をワゴン車などで連絡する対策を講じたという。また、高齢者の受講に配慮して、参加者の移動などFukushimaskyには車椅子を利用できることを事前に周知させ、当日はバスから会場への移動や、会場内での利用に20台の車椅子をフル回転させたという。このようなきめ細かい配慮が、高齢者が安心して参加できる環境をつくったのだろう。が、それだけではない。会場内には若い人たちの姿も数多く見られたから、新人勧誘の対策も功を奏したに違いない。
 
 講習会の旅先では、私たちはよく宿舎や駅周辺を散歩するのだが、昨日も今日も気温は35℃前後になり、強烈な日差しにも恐れ入って、宿舎とその隣のデパートに“避難”することにした。写真は、宿舎の窓からの風景である。空の大きさと雲の雄大さは、東京ではめったに見られないものだった。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月 3日

英語好きは“幸せな奴隷”か?

 3日付の『朝日新聞』に載っていた社会言語学者の津田幸男・筑波大教授のインタビュー記事を興味深く読んだ。内容を簡単に言うと、英語を国際語として重視する考え方は、“幸せな奴隷”の心境だというのである。つまり、支配されている人間がそれを感じない状態で、将来的に日本語が駆逐される恐れがあるというのだ。津田氏は「英語支配」という言葉をつくり、次のように警鐘を鳴らしている--
 
「英語は国際共通語として、ほかの言語に対して突出して強い力を持つようになりました。他言語を圧迫し、国際的な場で使わない、使えなくしてしまった。さらに重要なことは、英語力の優劣によって人々のコミュニケーション能力に差がついてしまうことです」。

「英語支配」とは、「英語と英語以外の言語との不平等な状況」のことだという。さらに具体的に言えば、企業内でも国際的な場でも、英語が上手というだけで、そうでない人に対して有利な立場にたつという現状が、英語支配を表しているという。企業のことをいえば、最近、ユニクロのファーストリテイリングと楽天が、英語を社内公用語にすると決めたことが話題になったが、津田氏は、これに反対する手紙を両社の社長に出したという。理由は、①英語支配の構造が進む、②言語による社内格差が起こる、③日本人が自国で自分の言語を使えなくなる、ということらしい。

 私は、この問題は、子供の教育の段階と社会生活の段階とを分けて考えるべきだと思う。つまり、子供の成長過程では日本語をきちんと学習させ、高等教育や社会生活においては、国際語としての英語の習熟に力を入れるのがいいのではないか。こうすれば、「日本語や日本文化の基礎の上に立って世界とどうつき合うか」という視点や政策が社会に生まれると思う。また、この方法は人間の脳の発達過程から考えても、より自然で、無理のないものと考える。現在は、日本語の基礎ができていない子供に早期から英語を詰め込むだけでなく、高等教育においても、日本語よりも英語を重視するような一種の“英語偏重”が認められるのではないだろうか。また、日本の社会全体が、明治以来の“西洋崇拝”から抜け出せずにいるため、英語などの外国語の発音をそのままカタカナにした言葉がやたらと多い。私は、この面では津田教授の「幸せな奴隷」という批判は当たっていると思う。
 
 多くの読者はご存じと思うが、私は“英語好き”の一人である。しかし、毎日ブログその他の文章を日本語で書き、日本語で講話をするのが仕事である。私の場合、この2つの言語の間に、昔はともかく、今は摩擦や軋轢のようなものを感じたことはない。その理由の1つは、恐らく「日本語が主、英語は従」という原則が私の中で確立しているからだ。私は、完全にバイリンガルの人の心境がどういうものか知らないが、もしかしたらこの主従関係が混乱することがあるのではないかと想像する。というのは、衛星放送などで外国語のニュースが放映される際の同時通訳を聞いていると、ときどき意味不明の日本語が耳に入ることがあるからだ。同時通訳者は必ずしも“完全なバイリンガル”ではないかもしれない。しかし、プロの仕事なのだから、少なくともニュースによく出る時事問題等で使われる日本語については、よく心得ていなければならないはずだ。にもかかわらず、意味不明の日本語が結構多い。今日も、北朝鮮かイランをめぐる海外ニュースの中で、通訳者が「アッパクとホウショウ」(圧迫と報奨?)と言っていた。国際政治の知識が少しでもあれば、ここで使われるべき日本語は直訳的には「圧力と報酬」であろうし、わかりやすく意訳すれば「アメとムチ」が適当である。

 もちろんニュースの同時通訳だから、通訳者の顔は見えない。だから、日本語の上手な外国人通訳者が“妙な日本語”を話した可能性はある。しかし、この女性通訳者の日本語を聞いていたかぎりでは、発音、イントネーションともに流暢な標準日本語だった。もし彼女が私の指摘を聞いて、「いやあの時は適当な日本語が思い浮かばなかったのよ」と答えたとしたら、これは問題だろう。なぜなら、彼女の仕事は、海外のニュースを自分が理解することではなく、日本人の視聴者に分かるように正しく翻訳することだからだ。「正しい日本語」が話せなければ、通訳や翻訳の仕事とは言えないだろう。
 
 谷口 雅宣

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2010年9月 2日

イラク戦争の教訓

 アメリカのオバマ大統領は、8月31日をもってアメリカ軍のイラクでの戦闘任務は終了したとして、アメリカ全土に向けてテレビ演説を行った。「我々は、アメリカとイラクの歴史上の注目すべきこの1章を通して、我々の責任を果たした。だから今や、ページを繰って次へ進む時だ」(Through this remarkable chapter in the history of the United States and Iraq, we have met our responsibility. Now, it's time to turn the page.)--この言葉の中には「勝利」という語も「目標達成」という語もない。7年5カ月に及ぶ戦いで、米軍には4,400人の戦死者が出、戦費は7千億ドル(約58兆円)に及んだ。それによって、サダム・フセインという独裁者は排除され、彼が率いるスンニ派の世俗政党・バース党の力は削がれ、代わりに多数派のシーア派がイラクの実権を握ることになった。しかし、国内は分裂状態で部族間の対立やテロは依然として続き、国会も機能していない。この間、イラク人の死者は、少なく見積もっても10万人と言われている。9月2日の『日本経済新聞』によると、2007年までの治安悪化で、イラクでは国外難民200万人、国内避難民200万人が出たという。
 
 イラク戦争のきっかけになったのは、もちろんあの9・11同時多発テロ事件である。これによって激高したアメリカ世論が、イラクは、①大量破壊兵器を保有する、②テロ実行犯を送った国際テロ組織に協力しているという、ブッシュ前大統領の挙げた理由を信用して、アフガニスタン侵攻に続き、イラク攻撃へと突き進んだ。しかし、この2つの理由は、いずれも事実でなかったことが後に判明している。では、この戦争によってアメリカが得たものは何かと考えても、私には思い浮かぶものはあまりない。その代り、長引く戦費の拠出によってアメリカ経済が疲弊し、リーマン・ショックへの伏線が引かれたという経済学者の説が思い出される。だから今、オバマ大統領が言う「次のページへ進む」こととは、財政健全化を含むアメリカの経済立て直しのことなのだ。
 
 外交政策を論じる際に、よく「国益」(national interest)という言葉が使われるが、これが何であるかを決めることは一見簡単なようでいて、きわめて難しい。例えば、9・11の後に中東地域で戦端を開こうとしているアメリカの首脳陣は、「国益」のことを考えていたことは疑問の余地がない。しかし、それはあくまでも「彼らが考えた国益」である。事件の首謀者が隠れているアフガニスタンへ侵攻して、反米のタリバーン政権を倒し、山岳地帯で活動するテロ組織を武力によって破壊することがアメリカの国益である、と考えたに違いない。この場合の「国益」とは「安全保障上の必要」という意味だろう。しかし、武力において圧倒的に有利な米軍は、アフガン侵攻と政権打倒を簡単に達成し、次なる目的であるイラク戦争に向かって突っ走った。その際に掲げられた理由は、上に挙げた2点である。アフガニスタンの山岳地帯にオサマ・ビンラーデンを首領とするテロ組織が潜んでいたことは事実である。また、その組織が9・11を実行したことも事実だった。しかしイラクは、国家として9・11に関与していなかった。そのことは、当時のブッシュ大統領も知っていただろう。だから、先制攻撃を正当化する「ブッシュ・ドクトリン」なるものを発表せざるを得なかったのだ。
 
 私は2002年6月11日の本欄で、この“先制攻撃論”を次のように説明した--
 
「今年の秋にも発表されるアメリカの新しい国家安全戦略では、テロ集団、あるいはこれらの国(“悪の枢軸”と名指しされた国)が核や生物・化学兵器などの大量殺人兵器を開発し、さらにそれをアメリカやアメリカ国民に対して使用する意図をもっている場合は、相手が実際に攻撃をしかける前であっても、アメリカは“先制攻撃”ないしは“防衛的介入”によって敵の攻撃能力を破壊し、アメリカ国民の生命と財産を守る--こういう選択肢を正式に採用することになるらしい」。

  この戦略論が、アメリカの国益を考えて練り上げられたものであることに、疑いの余地はない。しかし、その結果としてのイラク戦争が、アメリカの国益にかなっていたかというと、私はかなり疑念をもつ。つまり、国益を考えて何かを言ったり、何かをしたりすることと、実際に国益に合致することとは異なるのである。国益を考えて立てた戦略でも、それが実行に移される地域の政治環境や民衆の感情などを十分に考慮していなければ、国益を大きく損なうこともあるのである。

 2日付の『ニューヨーク・タイムズ』は、この戦いを「悲劇的で意味のない戦争」(a tragic pointless war)と形容し、「この戦争はアメリカ人の安全を損ない、新しいテロ組織を生み出し、国の軍事資源と政治的意志をアフガニスタンから逸らした」ばかりでなく、イラクを弱体化したことで、ライバルである「イランに対して、核開発や過激派の支援、イラク政治への干渉などをより自由にさせることになった」と手厳しく批判している。これは、「目的が正しくとも手段が間違っていれば、行為の正当性は失われる」という言説にも通じる重要な教訓である。日本にも「国益」を声高に叫ぶ人は多くいるが、この点をどれだけ考慮しているのか疑問に思うのである。
 
 谷口 雅宣

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