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2010年8月 4日

ネット時代の運動を考える

 生長の家の組織は複雑である。日本全国を、都道府県の数より多い59の「教区」に分けているのはまだいいとしても、それぞれの教区には「三者」と呼ばれる白鳩会、相愛会、青年会の中心的な運動組織があり、信徒を性別と年齢によってそれぞれの組織に「会員」として帰属させる努力をしている。これに加えて、“職能組織”の色彩を帯びた栄える会と教職員会がある。これらを「教化部」という宗教法人が支援・統括する形で、教区の運動が行われている。さらに言えば、教区内の地方講師によって構成される「地方講師会」もある。だから、「生長の家に入信する」と言った場合、どの組織に入会することなのかを考えて、初めての人は途方に暮れてしまうかもしれない。
 
 しかし一般には、生長の家に入信するとは、自分の意志で「聖使命会」に入会することを指す。ここでまた「○○会」という組織のような名前が出てきたが、聖使命会は、人の組織というよりは、生長の家の運動を支えたいという「人の意志」の集まりのようなものだ。生長の家の教えに触れて感動し、また生長の家の目的に賛同して、この運動の運営資金を寄付したいと思う人々の意志の“受け皿”が、聖使命会である。だからこれは「人の組織」ではない。

 ここで1つの教区の、生長の家組織を考えてみよう。中心的な運動組織である白鳩会、相愛会、青年会の三者は、それぞれの教区における組織の指導者が1人いて、それぞれ「白鳩会○○教区連合会長」「相愛会○○教区連合会長」「○○教区青年会委員長」と呼ばれている。教区は、都道府県を基礎とした地理的な区域である。地理的な区域の中に人的な組織があるということで、白鳩会、相愛会、青年会の三者に属する人(組織の会員)は、基本的に居住地の地理的な近さによってグループ化される。つまり、住む場所が近い者同士が集まって“単位組織”を作る。この単位組織がいくつか集まって「地区連合会」(地区連)となり、地区連合会がいくつか集まって「地区総連合会」(地区総連)と呼ばれ、これら地区総連がいくつかあるのが「教区」である。ということは、1つの教区内には、白(白鳩会)・相(相愛会)・青(青年会)がそれぞれに階層構造をもった組織をもっていることになる。
 
Souhakusei01  このことを図示しようとすると、ここに掲げたような3つの円錐が寄りあった絵(図-1)を描くことができるだろう。それぞれの円錐は4つの階層に分かれているが、それらは(下から)単位組織、地区連、総連などを示していると考えてほしい。これら三者組織の中の情報の流れは、基本的に上下方向である。つまり、白鳩会の情報は白鳩会の円錐を「上下」に行き来するのが基本であり、相愛会や青年会も同様であって、白鳩会から相愛会、相愛会から青年会というように「横方向」への情報の流れはあまり見られない。だから、このような傾向が強まると、同じ生長の家の信徒であっても、また同じ町内に住む信徒同士であっても、所属する組織が違うと、別のことを考えたり、別の行動をしたりすることにもつながる。近年は、これを「縦割り組織の弊害」として批判する人が多い。

 さて、私がなぜ、こんな堅い話を本欄に持ち込んだかというと、前回触れた「ネット社会」の動きが、今の生長の家の運動組織と深く関わってくることの影響を、少し考えてみたいからである。インターネットを経由する情報の性質には、迅速性、匿名性、無階層性、協働性などがある。が、これまでの我々の組織運動には、これらの性質と“逆”とは言わないまでも、かなり異なる性質があったと思われる。だから、ネット社会の到来は、我々の運動へ少なからざる影響を与えるのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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コメント

総裁先生。つい数ヶ月前まで私が「生長の家」について有していたイメージは、古い、断片的な情報に基づいた負の政治性の強いものでした。そして総裁先生のブログ
を通して「生長の家」のその古いイメージを、私は払拭しました。この間、私は「生長の家」のどなたとも接触していないのですから、これは「生長の家」からすれば「ネット時代の運動」の成果と言えるのでしょうか。
『小閑雑感』第16巻の「ブラジル全土で”ネット研修会”」という記事の中で、先生は「昨今の通信技術」の効果的な利用の意義を指摘しておられますが、同時に
「人と人との密接なコミュニケーションが不可欠」なことも述べておられます。私も、宗教においては法灯の継承という特別の場面でなくても、「面授」が必要と思います。ネットというものに余り依拠し過ぎて、運動また人間自体が空洞化するという事態も、無きしもあらずでは?とは杞憂でしょうか。

投稿: 水野哲也 | 2010年8月 6日 12:11

水野さん、

>>私も、宗教においては法灯の継承という特別の場面でなくても、「面授」が必要と思います。ネットというものに余り依拠し過ぎて、運動また人間自体が空洞化するという事態も、無きしもあらずでは?とは杞憂でしょうか。<<

 杞憂だとは思いません。実際に、そのような危険性はあると考えます。ですから、ネット利用で可能な部分と、不可能な部分とをはっきり認識し、それぞれの必要に応じた対策を講じなければならないと思います。

投稿: 谷口 | 2010年8月 6日 13:15

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