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2010年8月22日

アラシが吹き荒れる

 熱波が居すわった日曜日の東京の午後だったが、ジョギングを敢行した。こんな暑い日には人出は少ないだろうと考えていた。ところが、目的地の明治神宮外苑に近づくにつれて、人の数が増えてくる。プロ野球やサッカーの試合前に人が並ぶ風景は慣れっこになっていたが、今日はそれを遥かに凌駕する数の人々が、若者を主体にして外苑周辺に集結しつつあった。私以外に走る人の姿は見えず、多くの人々は、おそろいのビニール袋を提げている。走っていると人にぶつかる危険性もあり、注意が必要だった。目的地到着後、いったい何事かと思って調べてみると「アラシ」という人気グループのコンサートが、午後5時半から国立霞ヶ丘競技場であるというのである。私が走ったのは午後3時すぎだから、2時間前から何千人か--もしかしたら何万人も--の人が炎天下、開場を待って集まっていたのである。そのエネルギーには、ほとほと感心させられた。

 私は「嵐」というそのグループのことは全く無知だが、別のアラシのことを思い出した。ややこしい精神分析の話だから、興味のない人は読まない方がいいかもしれない。
 
 私は本欄で2008年の9月から「対称と非対称」のことや、「わかる」ということについてポツポツと書いてきた。その時、登場したイグナシオ・マテ=ブランコという精神分析家の考えの基本をここで復習すれば、我々の意識は通常、理性を使って物事を非対称的関係としてとらえているが、それと併行して、我々の無意識は、非対称的関係を対称的関係として取り扱う傾向があり、この2つの論理形式が同時に進行している状態を「二重論理(bilogic)」と呼んだ。我々は日常的にこの二重論理を通して、世界を見ているのである。その一例として、私は本欄で“クマの縫いぐるみ”の絵を示した。この縫いぐるみは、クマのくせに蝶ネクタイをしていたのを読者は覚えているだろうか? 我々は意識的には「人間とクマは別ものである」と非対称的に把握しているが、それと同時に、無意識の世界では「クマは人間と同じだ」と対称的にとらえている。だから、ネクタイをしたクマの縫いぐるみなどが考案されるのである。このことを「二重論理」と呼んだのである。

 マテ=ブランコが提出した二重論理構造(bilogical structure)の中にはいろいろな種類があるが、その一つが「アラシ(Alassi)」という名前で呼ばれている。これは「非対称性/対称性の交替(alternating asymmetrical/symmetrical)形式」を略したもので、通常は非対称的に処理される事象が対称的に交替して処理されたり、その逆に対称的に扱われるべきものが非対称的に入れ替わって処理されるような場合を言う。何かとんでもなく複雑に聞こえるかもしれないが、実例を挙げればそれほど難解ではない。例えば、マテ=ブランコが示しているのは、「イヌに噛まれたあとで、歯医者に相談に行った」という統合失調症の患者の例である。
 
 この患者を「A」と呼ぶとすれば、Aがイヌに噛まれた場合、通常はイヌはAに噛まれていない。これは「Aはイヌではない」という非対称性の原理にもとづく我々の理性の認識である。ところが、ここで働くべき非対称性原理が対称性原理に入れ替わってしまうと、「Aはイヌを噛んだ」ことになる。つまり、イヌに噛まれたはずのAが、心の中では「自分がイヌを噛んだ」と感じるのである。すると、イヌが人を噛むことは悪いことだから、Aは自分自身も道徳的に悪いことをしたと見なすことになる。そして、Aが道徳的に悪ければ、Aの体の一部である「歯」も(道徳的に)悪いと見なされたのだ。ここでも奇妙な論理交替が行われている。我々が通常の理性で考える場合、非対称性原理が働くから、道徳的に悪い人の歯でも、必ずしも“悪い歯”ではないと考える。しかし、Aの場合、その論理的統合がうまくいかず、本来は非対称性原理が働くべきところに対称性原理が入れ替わって働くから、「道徳的に悪い人の歯は道徳的に悪い」と考えてしまうのだ。そして、それがさらに対称化され「道徳的に悪い歯は身体的にも悪い」という結論になる。だから、歯医者に相談に行くことが、彼にとっては合理的な選択となったのである。
 
 患者Aの心中には“アラシ”が吹き荒れたのである。

 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣 先生

 最終段落にある、統合失調症の患者Aが行った三つの論理的思考の内、一つ目の「イヌはAを噛んだ」ことが「Aはイヌを噛んだ」ことになる思考結果、及び三つ目の「道徳的に悪い歯が身体的に悪い歯」という論理展開はマテ=ブランコ氏の「非対称性/対称性の交替形式」に当てはまりますが、2つ目の「Aが道徳的に悪ければ、Aの体の一部「歯」も道徳的に悪いと見なされた」という思考結果を“ここでも奇妙な論理交替が行われている”と記述されていますが、わたしが気になりますのは『Aの体の一部』という部分です。

 別の例を挙げ説明しますと、例えば、仮にBという人物の手に持った登山用ピッケルによりBが他人に危害を加えた事件があったとします。
この場合ピッケル自体には道徳的悪があるとは見なされません。
しかしBの体の一部であり「B自身の“自由意思”でしか動作」しなければ危害を加えることの出来なかったBの手には道徳的悪はなかったと言い切れるでしょうか?

「Bの手はBの心と一体」と言えないでしょうか。

少し滑稽な部分まで言及致しますと、この犯罪行為の後、Bが刑事処罰を受けます場合、Bの手もBとして刑に服します。
法律上の悪と道徳上の悪は別である、と言われればそこまでですが…。

そして厳密に考えれば、物理的に動作する「手」とあごの力がなければ動作しない「歯」を同列で比較出来ないのかもしれませんが…。

 先生はご文章の中で「我々が通常の理性で考える場合(省略)道徳的に悪い人の歯でも必ずしも悪い歯ではないと考える」と“必ずしも”と言葉を補っているところにわたしは何らかの意味を感じます。

 わたしの指摘しました2つ目のAの思考に対して「奇妙な論理交替」、「論理的統合がうまくいかず」及び本稿の結びの「Aの心中には“アラシ”が吹き荒れたのである」という表現にはAに対してやや偏向した意向を感じさせられました。

投稿: 横山浩雅 | 2010年8月23日 07:05

合掌、ありがとうございます。わかるということシリーズの続きでしょうか?ボタンのかけ違いの部分の説明と考えてもよろしいでしょうか?このように例をあげて説明下さると、大変、理解が助けられます。繰り返し読んで、勉強致します。ありがとうございました。

投稿: 松本康代 | 2010年8月23日 08:10

横山さん、
 驚きました。こんな文章に綿密なるコメントをくれる人などいないと思っていましたから……。

>>しかしBの体の一部であり「B自身の“自由意思”でしか動作」しなければ危害を加えることの出来なかったBの手には道徳的悪はなかったと言い切れるでしょうか?<<

 この論理ですが……よく考えるとおかしくありません? 文脈から言って、あなたは「Bの手にも道徳的悪がある」とおっしゃりたいように聞こえますが、そうすると、「B自身の自由意思でしか動作しない」という記述と矛盾するように思いますが…?

>>Aに対してやや偏向した意向を感じさせられました。<<

 このご指摘ですが、「偏向」とは「どちらかに偏っている」という意味だと思いますが、ここでは統合失調症の患者のものの考え方を扱っているのですから、いわゆる“健常者”と同じに扱うことはできないと思います。そのことがご不満なのでしょうか?

投稿: 谷口 | 2010年8月23日 12:10

松本さん、

>>わかるということシリーズの続きでしょうか?ボタンのかけ違いの部分の説明と考えてもよろしいでしょうか?<<

 そう考えてくださって、いいです。

投稿: 谷口 | 2010年8月23日 12:11

本欄は、マテ=ブランコの二重論理構造論の一つである「アラシ」(Alassi)について、総裁先生が解り易く紹介してくださったものです。ですから、丁寧に読めば理解できないものでは無いと思います。しかし、横山さんのコメントには、本欄の記述内容の把握に、基礎的なところで混乱が見られますので、取り急ぎ私の意見を書かせていただきます。
さて、「アラシ」とは「非対称性/対称性の交替形式」の略語で、これらは一般にも無意識過程においては理性的了解と感情的了解との二重論理構造として存在します。ここでは、逸脱例として統合失調症患者Aの例が示されています。
世界を構成する要素や概念を2個取り出してその関係性を見たとき、大多数は、個と集合、部分と全体といった関係を示し、そこには互換性や同一性ということは成立しない(非対称性)。それを、あえて入れ替えるならば、理性的には意味不明となる。例えば、人間Aと犬は非対称関係において認識すれば、普通に意味が通る(人間Aが犬に噛まれた)。しかし、認識過程で逸脱があって、対称性関係に入れ替えて認識すると理性的には意味が通らなくなる(犬が人間Aに噛まれた)。
統合失調症患者の場合、心の中で、この入れ替えが行われているであろう、ということなのでしょう。ゆえに、
理性的には互換性や同一性の成り立たない「人間A」とその部分である「歯」とが対称的に同一性において認識されている、ということなのです。
1.そこで、横山さんは「『Bの手はBの心と一体』とは言えないでしょうか」と言っておられますが、これは
人間Bから「手」と「心」とを取り出して互換性や同一性の成り立つ関係として対称的に見ておられるわけです。普通の理性的認識では、「手」と「心」とは入れ替えられません。ということは、横山さんの心の中で「アラシ」が吹き荒れているとしか思えません。
2.横山さんは「Aに対してやや偏向」と指摘されますが、「Aの心の中のアラシ」とは、Aの心の中で「非対称性/対称性の交替形式」が見られたということなのであって、この記述のどこに「偏向」が見られるのか、私にはさっぱり了解不能なのです。

投稿: 水野哲也 | 2010年8月25日 10:52

合掌、ありがとうございます。対称・非対称や2重論理について、興味深く勉強させていただきました。その中で、どうしても自分自身では、説明が出来ない疑問がありますので、質問させていただきます。よろしくお願い致します。それは、「私が他人の悪口を言ったから、こんな風に怪我をした。」という解釈です。最近、そのような方が私の周りに3人も現れて、それは真理ではないというように私は考えているのです。その理由の一つとして、①悪口を言っても怪我をしない時の方が圧倒的に多い。
②悪口を言ってすぐに怪我をしたとしても、その因果関係を証明することは不可能。
また、真理とは、そんな簡単なものではない。という、先生の教えに従ってそう考えています。心の研究において、潜在意識(95%も占める)の働きを知ることが重要と認識していますが、悪口を言うと怪我をする(悪が起こる)と信じている方に、どう本当のことをお伝えしたらよいか?その点を、今の、2重論理や、アラシなどに関連づけて考えるとすれば、そういう解釈の背景にどういうことが潜在意識で起こっているのか。をもっと詳しく知りたいのです。2重論理が働くということと、そのことは真理ではないということを、はっきり説明するためには、もっと私自身の勉強が必要だと思っています。どのように考えていくのがよいのでしょうか。「百万の鏡」が映すものや(客観世界というものは本当は無いこれは、私の解釈です。)、『叡智の学校』の中にも、ヒントが隠されているようにも思っています。(叡智の学校では、カースト制などの説明)ご指導よろしくおねがい申しあげます。

投稿: 松本 | 2010年8月29日 09:15

松本さん、
 あなたの質問の内容に今ひとつ分からないところがあるのですが、分かった範囲でお答えします。

>>それは、「私が他人の悪口を言ったから、こんな風に怪我をした。」という解釈です。最近、そのような方が私の周りに3人も現れて、それは真理ではないというように私は考えているのです<<

 「真理ではない」と断定できるだけの情報が、あなたの質問の中に書いていないので、私としては何とも言えません。しかし、そういうことを3人もの人が貴方に忠告しているとしたならば、それをむげに否定しない方がいいかもしれません。貴方が置かれている状況を詳しく知らないので、断定はできませんが、3人の方が言っていることの方が真理に近いという可能性はあるのではないでしょうか? 「真理自体は単純でない」かもしれませんが、「真理を単純に表現する」ことはできます。例えば、「人間は神の子である」とか「神は愛なり」などです。

投稿: 谷口 | 2010年8月29日 22:59

合掌

 1年前の自分の文章を見ると確かに「アラシ」が吹き荒れていますね。

投稿: 横山浩雅 | 2011年8月14日 22:07

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