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2010年8月30日

日本の地方は衰えない

 昨日は滝川市のたきかわ文化センターで生長の家講習会が行われ、前回を129人(6.5%)上回る2,125人の受講者が各地から参集してくださった。会場は、後部の座席がせり上がっていく大きな“階段教室”といった雰囲気で、演壇上の私は、真正面を見ながら話ができるという稀な機会を得た。稀ついでにもう一つ言えば、午前中の妻の講話の最中に、会場から「ワン、ワン」という声が響いたのには驚いた。受講者の1人が、膝の上に愛犬を載せて参加していたのである。その後、イヌの声は聞こえなくなったが、私の講習会経験で初めての出来事だった。講話に対する質問も10個と、この規模の講習会では多く出たのはよかった。ただし、1人で4つの質問を書いた人の分も含む。また、「質問ではありません」という注釈付きで、次のような感想をよこしてくださった千歳市の70代の女性の言葉が印象に残った--
 
「平成の時代となり22年間、この間、平成の子供達は成長し、その世代に合った年齢の方々がこの教えに関心を持ち始めている様に思います。日本が平和でも、テレビ等、あらゆる面で世界の戦争が見える時代。今こそ若い世代に教えを伝える責任があると思う。」

 空知地方は、例にたがわず高齢化と過疎化が進み、人口の減少が続いているが、その中で、このような気骨ある多くの先輩信徒・幹部の皆さんが、今回も熱心に講習会を推進してくださったおかげで、前回を上回る数の受講者が来てくださったのだと思う。この場を借りて、皆さんに心から感謝申し上げます。
 
Bookshelf  ところで、ここに掲げた写真は、滝川の町を妻と散策している時に、商店の中を窓の外から撮影したものだ。なかなか立派な本棚があるのを見つけて、思わずシャッターを押した。よく見ていただくと分かるが、この本棚と中に並んだ本は本物ではなく、ミニチュアである。8月13日の本欄でご披露した私のミニチュア本棚より、数段すぐれている。「やはりプロの仕事は違う」と思った。こういう感覚とウデをもつ人々がこの地に残っているということは、私に希望を与えてくれた。そう言えば、宿泊したホテルのことでも、妻と笑顔で合意したことがある。それは、毎回利用するこのホテルが、年を経るとともに外観だけでなく室内の設備も古びてきているのが寂しかったのだが、今回は違った。1階にあるレストランが新しくなっていて、東京の渋谷や原宿近辺でもザラにはないような美味で、上品なイタリア料理を出してくれた。しかも、値段は半額ほどだ。北海道ならではの地元の新鮮な食材が使われていたこともあるが、やはりそれを使う料理人が優れているからだ。

 こういう体験をしてみると、私は「日本の地方が衰える」というのは、一種の“ニセ伝説”ではないかと思う。伝説を信じる者はそれに縛られるが、信じずに自分のベストを尽くし、人々の求めるものを与えられる者は成長し、繁栄するに違いない。

 谷口 雅宣

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2010年8月27日

“マルチタスク”はほどほどに

 6月15日の本欄で「情報の質」について書いたとき、情報機器を駆使していわゆる“マルチタスク”をする人の問題点に触れた。その1つは、情報刺激によるドーパミン系の活性化が起こることで一種の「中毒症状」を起こす危険性があることだった。この中毒症状とは具体的にどんなものか、詳細は分からない。が、想像するところ、新しい情報を求めて次から次へとネットサーフィンをするうちに、気がついたら1時間たっていて……などというものだろうか。この程度だったら、あまり実害はなさそうにも思える。ところが、そういう“中毒”は、気がつない形で我々を疲労に追い込んでいるということになると、大いに実害があることになる。
 
 26日の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に載った記事は、「疲労」だけでなく「記憶の阻害」も起こるらしいことを伝えているから、マルチタスクのお好きな読者は注意した方がいいだろう。それによると、トレーニング中に音楽を聴いたり、ビデオを見たりするなど、休む間もなくデジタル情報で脳を刺激している人は、“何もしていない時間”の脳の働きを阻害するというのだ。妙な表現を使ったが、今“何もしていない”と書いたが、その時間は、我々の意識が「何もしていない」と感じているだけで、脳自体はこの時間に「学習」や「記憶」を行い、さらには新しい「発想」に向けて活動しているらしい。
 
 カリフォルニア大学サンフランシスコ校で行ったネズミを使った実験では、知らない場所へ行くなどの新しい経験をさせると、脳内に新しいパターンの活動が生まれるが、それが記憶につながるためには、その経験から一度離れて休息をする必要があるという。これと同じことが人間にも言える可能性が高い。同大学のローレン・フランク氏(Loren Frank)は、「暇な時間というものは、脳が過去の経験を復習して、確かな形に整理し、長期記憶の中に焼き付ける時間だとほぼ確実に言える」という。だから、ひきりなしに脳を刺激するだけでは、学習の妨げになるのである。また、ミシガン大学での研究では、自然の中を散策した後と、混雑した街中を歩いた後とでは、学習の結果にかなりの違いが出ることがわかっている。もちろん、前者の方が結果がいいということだ。街中は広告や信号、自動車のクラクション、音楽、人々の会話などで満ちているから、一種のマルチタスクになるということだろう。
 
 こういう話を聞いてみると、我々が一見ボーッとして、何もしていないような時間が、実は脳にとっては大切な情報整理と記憶の時間だということが分かる。
 
 もう1つ、マルチタスクの危険を思わせる記事が、同じ日の同じ新聞に載っていた。それは、イヤフォンから聴く音楽との関連を強く思わせるものだ。簡単に言えば、アメリカのティーンエージャーの5人に1人が、聴力に衰えがあるという話だ。10年前の調査では、この率は7人に1人だったというから、変化は大きい。アメリカ医学協会の紀要の最新号に発表された研究で、12歳から19歳までの若者1,771人を2005~06年に調べた記録と、1988~94年の調査データを比べたものだ。研究者は、これらの若者が特定の騒音源と関係しているかどうかを突き止めることはできなかったというが、若者からは、「騒音があったとしても自分には聞こえないはずだ。なぜなら、いつも大きな音で音楽を聴いているから」という答えがしばしば返ってきたという。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月24日

ソマリアの祖母の教え

Infidel_pb  ソマリアのモスレムの家に生まれ、成人後ヨーロッパへ移住してオランダの国会議員となった女性政治家、アヤーン・ヒルシ・アリ氏(Ayaan Hirsi Ali)が書いた『Infidel(不信仰者)』という本に、彼女が祖母から聞いたという教訓物語が出てくる。それは、美しい妻をもった若い遊牧民の話だ。この若夫婦には、まだ生まれてまもない息子が一人いて、砂漠の中を家畜を連れて移動するのである。砂漠では、家畜が養えるような牧草地を見つけて、そこに滞在し、雨が降らずに牧草が不足してくると、別の地に雨と牧草を求めて移動する。この家族が移動を始めてまもなく、若い夫は瑞々しい草地のある恰好の場所を見つけたという。おまけにそこには、まだ建ってまもないような小屋が1軒あったのだ。小屋には誰もいなかったので、夫は妻子のところへ取って帰り、「たった一日の旅で、理想的な場所を見つけたぞ!」とうれしそうに告げたという。
 
 ところが、その2日後、一家でその場所へ行ってみると、小屋の入口には見知らぬ男が立っていた。背はあまり高くないが、頑丈そうな身体をしていた。そして、真っ白な歯となめらかな肌をしていた。その男は、こう言った。
「あんたには妻と子がいるから、この家を使えよ。大歓迎だ!」
 そして歯を見せてニッと笑うのだった。
 若い夫はそれを見て、ずいぶん気前のいい人だと思い、感謝の言葉を述べた。そして、「あなたにはいつでもここへ来てほしい」と言ったのである。しかし、彼の妻は、その見知らぬ男に何か違和感を覚えたそうだ。赤ん坊も、この男の顔を見たとたんに、泣き出したという。
 
 その晩のこと、獣が1匹家に忍び込んできて、赤ん坊をベッドからさらっていった。夫は、腹いっぱい食事をしてぐっすり眠っていたから、何も気がつかなかったという。そこへ、家を貸してくれた男がやってきて、事件のことを告げたのだ。若い妻は、その男が話をする様子を聞きながら、歯の間に赤い肉のかけらが付着していて、白い歯の1本が少し欠けているのに気がついた。男は夫婦とともに家に残り、その年の間じゅう、周囲の草地は青々としていて、雨も適当に降ったという。だから、一家は別の場所に移動する理由はなかった。
 
 やがて、妻はその小屋で2人目の子を産んだ。同じように立派な男の子だった。しかし、その子が生まれて半年たつかたたないうちに、再び1匹の獣が夜陰に乗じて小屋に忍び込み、男の子をくわえて連れ去った。今度は、父親がそれを見つけて獣を追いかけたが、足が遅すぎてつかまらなかった。1年後に、また同じことが起こり、その際は、父親は獣に追いついて格闘となった。が、獣の方が力が強く、3人目の子供も食べられてしまった。それを見た妻は、夫に対して「私はあなたと別れます」と宣言し、この遊牧民はすべてを失ってしまった--こういう話である。

 この話をアリ氏は、ソマリアの「女の子」として祖母から聞かされたのである。つまり、これは女性のための教訓話なのだ。「安穏をむさぼり、妻子を危険から護れないような男とは一緒になるな」ということであり、万一結婚してしまったならば「別れなさい」という教えなのだろう。砂漠の遊牧民の生活は厳しい。遠方に豆粒のように、1頭のラクダの姿が見えたとしたら、それが敵か味方かを早く判別し、適切に対処しなければならない。そういうピリピリとした緊張感の中で人々が生きてきたことは、映画『アラビアのロレンス』の中でも描かれている。甘言に乗らず、鋭敏な感覚で相手の本当の意図を察知して対応しなければ、男も女も生き延びていくことはできなかった。
 
 私はこの話を読みながら、厳しい環境にある北アフリカとは別のことを考えていた。それは、何回も同じ間違いを繰り返していながら、その原因を突き止めて取り除く努力をせず、「問題が起こったら、その時対処すればいい」というような生ぬるい現状肯定の態度が、今の社会には蔓延していないかという疑問である。現代の日本では、生活環境があまりに楽であるために、人々はその安楽さに感覚を鈍らせてしまい、諸方から数々の問題が指摘されていても、「そのうち何とかなるさ」と考えて、何の対策も講じない。そして、何か問題の事件が起こると、そのつど対処療法的な措置を採る。しかし、原因の究明や抜本的対策に手をつけることができない。そんな国がもしあったとしたら、国際社会からは「早く出ていけ」と言われるに違いない。私は、少なくとも生長の家の運動は、そうあってはならないと思う。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○Ayaan Hirsi Ali, Infidel (New York: Free Press, 2007)

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2010年8月23日

世界の食糧事情は悪化している

 20日の本欄で、私は異常気象によるロシアの穀物禁輸について言及したが、22日付の『日本経済新聞』は世界の穀物在庫の減少について報じている。それによると、国連食糧農業機関(FAO)が「安全な水準」としている穀物の在庫率--消費量に対する在庫量の割合--は17~18%だが、世界は2000年代に入ってから、この数字が20%前後に低迷しているという。つまり、「安全な水準」を割り込む可能性が生じているということだ。これに対し、1990年代の世界の穀物の在庫率は30%前後だったことを思えば、低下の原因が何であるかは大体想像がつく。それは、世界人口の増大と穀物消費量の拡大である。需要の増大は当然、穀物価格の上昇をもたらす。2006年半ばから2008年半ばまでに、世界の小麦、コメ、トウモロコシ、ダイズの価格はざっと3倍になった。この価格は、世界経済危機が始まった2008年以降やや下がっているが、それでもまだ歴史的な高価格帯にある。その結果、飢餓は世界的に拡大しつつある。
 
 飢餓状態にある人々の数は、1990年代半ばには8億2500万人のレベルにまで下がったが、それ以降は2008年末には9億1500万人に上昇し、2009年には10億人を超えた。環境運動家のレスター・ブラウン氏の予想では、世界の飢餓人口は2015年には12億人以上になるという。
 
 同氏の悲観的予測は、穀物需要の上昇が見込まれる中で、穀物生産量については楽観的な要因が見当たらないことから来る。需要サイドの要因は、人口増大と肉食の増加にともなう飼料としての穀物消費の拡大、そして、エタノールなどの自動車燃料としての需要拡大である。これに対し、供給サイドでは土地の疲弊、水源の減少、熱波の増大、高山や極地の氷の融解、海面上昇など、悲観的要因ばかりが目立つ。これに加えて、経済発展にともなう農地の減少、都市化にともなう水資源の都市への集中、そして石油の供給量減少などが悲観要因である。現在の人口増加のペースを数字で表すと、世界の食卓の周りには毎年、新たに7900万人の人が加わるというから、世界的な食糧難が予想されるのである。
 
 こういう認識に立って、世界の主要国は食糧の確保に着々と手を打ち始めている。しかし、そのやり方が、これまでにないパターンであり、貧困国に対する倫理的な問題を惹起しかねない問題をはらんでいることを指摘しなければならない。ブラウン氏は、『プランB Version 4』の中で、これを「稀少食糧をめぐる危険な地政学」(dangerous geopolitics of food scarcity)と呼んでいる。同氏によると、この始まりは、2007年の後半、今回のロシアの禁輸措置に先駆けるように、ロシアやアルゼンチンなどの小麦輸出国が、国内消費のために小麦の輸出を制限ないしは禁止した時からである。コメ輸出国のベトナムもそれに倣ってコメの禁輸に走り、その他の穀物輸出国もそれに続いた。これに驚いたのは、増大する人口を抱えながら主食の穀物を輸入に頼る国々で、将来の“食糧安全保障”を目的として、長期的な穀物輸入を輸出国との二国間条約などで確保する方法を模索し始めた。例えば、イエメンはオーストラリアに政府代表団を送り、エジプトはロシアと交渉して毎年300万トンの小麦輸入に漕ぎつけた。しかし、売り手市場でそれを実現できなかった国は、新しい形の食糧確保の方法を考え出した。

 それは、「経済が比較的豊かな国が貧しい国の土地を確保し、そこから得られる食糧を入手する」という方法である。まず、穀物需要の9割を輸入に頼っていたリビアが、ウクライナとの1年にわたる交渉のすえ、10万ヘクタールの土地を借りて、そこで育てた小麦を得る約束を取りつけた。これが、他の多くの食糧輸入国の先例となった。国際食糧政策研究所(International Food Policy Research Institute, IFPRI)は、そういう合意を50近くも集めて公表しているが、その典拠は各国での報道だから、実際はそれ以上の数の合意が成立しているだろう。こういう合意を結んだ土地の“借り手”と“貸し手”のリストを見れば、その問題点は明らかになる。借り手側には、サウジアラビア、韓国、中国、クウェート、リビア、インド、エジプト、ヨルダン、アラブ首長国連邦、カタールの名前がある。これに対して、貸し手側には、エチオピア、スーダン、コンゴ、ミヤンマー、モザンビーク、インドネシア、ウクライナ、トルコ、カザフスタン、フィリピン、ベトナム、ブラジル、オーストラリアなどの名前がある。後者のリストにある国は、すべてがいわゆる“貧しい国”ではないが、エチオピアやスーダン、コンゴは、世界食糧計画(WFP)が飢餓救済のための支援を行っている国だ。
 
 食糧援助を得ているような国が、その土地を外国の食糧生産のために提供する。これは、かつての欧米によるアジア=アフリカ諸国の植民地支配の構造と似ている。農業技術者が“本国”から派遣され、飢えている人々には手に入らない農産物を機械化した方法で生産し、“本国”へ送り返す。それを、飢えた現地の人々が黙って見ているだろうか? それとも、現地で生産された食糧を現地の人から守るために、現地の警察に頼るというのか? はたまた“本国”から軍隊を派遣するのだろうか? 世界各国でこのような事態が予想できるとき、日本の農業の実情を振り返れば、読者は背筋が寒くならないだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2010年8月22日

アラシが吹き荒れる

 熱波が居すわった日曜日の東京の午後だったが、ジョギングを敢行した。こんな暑い日には人出は少ないだろうと考えていた。ところが、目的地の明治神宮外苑に近づくにつれて、人の数が増えてくる。プロ野球やサッカーの試合前に人が並ぶ風景は慣れっこになっていたが、今日はそれを遥かに凌駕する数の人々が、若者を主体にして外苑周辺に集結しつつあった。私以外に走る人の姿は見えず、多くの人々は、おそろいのビニール袋を提げている。走っていると人にぶつかる危険性もあり、注意が必要だった。目的地到着後、いったい何事かと思って調べてみると「アラシ」という人気グループのコンサートが、午後5時半から国立霞ヶ丘競技場であるというのである。私が走ったのは午後3時すぎだから、2時間前から何千人か--もしかしたら何万人も--の人が炎天下、開場を待って集まっていたのである。そのエネルギーには、ほとほと感心させられた。

 私は「嵐」というそのグループのことは全く無知だが、別のアラシのことを思い出した。ややこしい精神分析の話だから、興味のない人は読まない方がいいかもしれない。
 
 私は本欄で2008年の9月から「対称と非対称」のことや、「わかる」ということについてポツポツと書いてきた。その時、登場したイグナシオ・マテ=ブランコという精神分析家の考えの基本をここで復習すれば、我々の意識は通常、理性を使って物事を非対称的関係としてとらえているが、それと併行して、我々の無意識は、非対称的関係を対称的関係として取り扱う傾向があり、この2つの論理形式が同時に進行している状態を「二重論理(bilogic)」と呼んだ。我々は日常的にこの二重論理を通して、世界を見ているのである。その一例として、私は本欄で“クマの縫いぐるみ”の絵を示した。この縫いぐるみは、クマのくせに蝶ネクタイをしていたのを読者は覚えているだろうか? 我々は意識的には「人間とクマは別ものである」と非対称的に把握しているが、それと同時に、無意識の世界では「クマは人間と同じだ」と対称的にとらえている。だから、ネクタイをしたクマの縫いぐるみなどが考案されるのである。このことを「二重論理」と呼んだのである。

 マテ=ブランコが提出した二重論理構造(bilogical structure)の中にはいろいろな種類があるが、その一つが「アラシ(Alassi)」という名前で呼ばれている。これは「非対称性/対称性の交替(alternating asymmetrical/symmetrical)形式」を略したもので、通常は非対称的に処理される事象が対称的に交替して処理されたり、その逆に対称的に扱われるべきものが非対称的に入れ替わって処理されるような場合を言う。何かとんでもなく複雑に聞こえるかもしれないが、実例を挙げればそれほど難解ではない。例えば、マテ=ブランコが示しているのは、「イヌに噛まれたあとで、歯医者に相談に行った」という統合失調症の患者の例である。
 
 この患者を「A」と呼ぶとすれば、Aがイヌに噛まれた場合、通常はイヌはAに噛まれていない。これは「Aはイヌではない」という非対称性の原理にもとづく我々の理性の認識である。ところが、ここで働くべき非対称性原理が対称性原理に入れ替わってしまうと、「Aはイヌを噛んだ」ことになる。つまり、イヌに噛まれたはずのAが、心の中では「自分がイヌを噛んだ」と感じるのである。すると、イヌが人を噛むことは悪いことだから、Aは自分自身も道徳的に悪いことをしたと見なすことになる。そして、Aが道徳的に悪ければ、Aの体の一部である「歯」も(道徳的に)悪いと見なされたのだ。ここでも奇妙な論理交替が行われている。我々が通常の理性で考える場合、非対称性原理が働くから、道徳的に悪い人の歯でも、必ずしも“悪い歯”ではないと考える。しかし、Aの場合、その論理的統合がうまくいかず、本来は非対称性原理が働くべきところに対称性原理が入れ替わって働くから、「道徳的に悪い人の歯は道徳的に悪い」と考えてしまうのだ。そして、それがさらに対称化され「道徳的に悪い歯は身体的にも悪い」という結論になる。だから、歯医者に相談に行くことが、彼にとっては合理的な選択となったのである。
 
 患者Aの心中には“アラシ”が吹き荒れたのである。

 谷口 雅宣

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2010年8月20日

パキスタンの大洪水

 地球温暖化問題が国家や地域の安全保障と密接に関係する時代が来ている--そんな印象が強まってきた。海面上昇に悩まされるツバルやモルディブなどの島嶼国にとっては、そんなことは相当前から自明な事実だった。しかし、大陸に位置する国々にとっては、そんな時代はまだ先のことと考える人が多かったのではないだろうか? ところが、今夏の異常気象は、そんな楽観主義から目を覚まさせるほどの被害を及ぼしつつある。読者は新聞報道などですでにご存じと思うが、日本の熱波襲来と集中豪雨に輪をかけたような激しい気象変化が、世界各地で起こっているのだ。
 
 夏の熱波は、アメリカ西部とアフリカ大陸の一部、日本を含む東アジア、そしてロシアを襲っている。特にロシアの旱魃は深刻で、山火事が各地で発生し、何千人もの命と広大な地域で育っていた小麦が犠牲となったため、プーチン首相は、穀物の全面禁輸を命じたほどだ。降水量の増加は、アメリカ東部のニューイングランドからケンタッキー、アーカンソー、オクラホマ三州にかけて顕著で、各地で洪水が発生した。そして、パキンスタンでは二千万人を巻き込む深刻な被害に及んでいるため、国連が各国の支援を要請している。
 
 こういう表現だと、国家や地域の安全保障問題のようには聞こえないかもしれない。しかし、大量の穀物が国際市場から引き上げられれば、世界の穀物は高騰し、貧しい国にとっては大打撃だ。また、複数の国を流れる主要河川が洪水で氾濫すれば、飲料水の確保が難しくなり、“水争い”が起こることもある。さらにパキンスタンのように、国内にテロ集団やテロ支援勢力を抱える国では、洪水などで生じる混乱を利用して政府転覆やテロ拡大が行われる可能性が増大する。事実、今回の国連によるパキンスタンへの支援要請の背後には、その懸念があるのだ。
 
 20日の『日本経済新聞』(夕刊)によると、19日、ニューヨークの国連本部ではパキスタンの洪水被害への対応を話し合う総会の特別会合が開かれ、その中でアメリカは、すでに拠出を表明していた9千万ドルの支援に加えて、さらに6千万ドル(約51億円)の支援を追加することを、クリントン国務長官が発表した。その際、同長官は「アメリカは、パキスタンが長期的な困難を乗り切り、より強い国家を築くために支えていく」と支援の目的を明確にしている。つまり、パキスタンの洪水被害は、同国の内政・経済に長期的な打撃を与えるほどの規模だということだ。そして、テロ対策との関係では、パキスタンのクレシ外相は「テロリストと戦っている時に、そうした地域を洪水が襲った。支援に失敗すれば、政府がテロとの戦いで得たものを損なうかもしれない」と述べた、と20日付の『朝日新聞』は伝えている。日本もここで、1440万ドルの支援と自衛隊のヘリ部隊の派遣を表明した。
 
 20日の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙は、今回のパキスタン大洪水の被害の大きさを数字で示している:世界保健機構(WHO)の概算では、1千5百万人を超える被災者のうち、安全な飲料水を得ることができる人数はわずか120万人であり、洪水地域にあった1,167の医療施設のうち病院など200箇所が損害を受けたという。そして、被災者の間には呼吸器疾患と深刻な下痢が広がりつつある。問題は、洪水を惹き起こしたモンスーンの季節がまだ終っていないことで、今後も大雨が降る可能性があることだ。再び洪水が起これば、インドとの国境を接し、人口の多いプンジャブ地方に被害が及ぶ可能性が大きい。ここは、パキンスタンの農業の中心地である。首都・イスラマバードもインダス流域にあるが、ここに駐在するユニセフの職員は、「インダス川の水量は通常の40倍もある」といい、「人口25万人以上の流域の都市からは、人々はすべて避難した」という。
 
 各国からの支援は、アメリカを中心に同国に届きつつあるが、そのペースは遅れている。国連は8月11日に総額4億6千万ドルの支援を国際社会に求めたが、18日までに手当てされたのはその半分の2億3千百万ドルで、拠出の約束がされた4千万ドルを加えても、まだ全体の6割だ。その中で、アメリカの対応は迅速である。同国はすでに15機のヘリコプターを現地に派遣して6千人を避難させ、18日には軍の貨物機を使って食糧を含む28トンの救援品を運んだことで、救援品の合計は325トンに達した。これによって、現地でのアメリカの印象は改善しつつあるという。日本が派遣するヘリコプター部隊は6機と約200人になる予定。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月18日

中国の“足長バス”

 お盆も終ったので、帰省先や行楽地から自動車で長時間かけて帰還した読者も多いだろう。私も16日、山梨の山荘から5時間半ほどかけて妻と帰宅した。途中で夕食のために休憩したので、ハンドルを握っていた時間は5時間もなかったが、それにしても長時間の交通渋滞には神経を鍛えられるものである。ところが、そんな交通渋滞にも煩わされずに、道路をスイスイと走る大型バスのような交通機関が中国で実験稼働中だという。しかも、1回に最大1200人を乗せ、動力の一部は太陽光から得るというのだから、どんな乗り物かと頭をひねってしまった。
 
 私はこの話を、携帯端末のアイポッド上で『ニューヨークタイムズ』のアプリによって17日に知ったのだが、その記事には写真がついていなかったので、この交通機関の形をいろいろ想像してみた。しかし、「そんなことがどうやってできるのか?」と頭をかしげ、思いつけずにいたのだった。が、18日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙がその記事を写真入りで掲載していたのを見て、アッと驚いた。実に新鮮な発想だと思った。読者は、貿易港の桟橋に設置されているガントリー・クレーンという運搬機械をご存じだろうか? 大きな貨物用コンテナを船に積み込むための機械で、高さは3~4階建てのビルほどもあるだろうか。このクレーンは、巨大な鋼鉄製の「門」のような形をしていて、門の両脚の下端に車輪がついている。だから、桟橋にやってくる大型トラックでも楽々とまたぎながら移動できるのである。そして、トラックの荷台のコンテナを吊り上げて、貨物船の中に吊り下ろす。実験中の新交通機関は、このガントリー・クレーンを“引き延ばした”というか、“いくつもつなげた”というか、そんな形の乗り物だった。
 
Chinatrans2  写真からスケッチした図をここに掲げるが、ちょうど通常の道路の2車線をまたぐ横幅(6m)をもち、2階建てビルほどの高さだろうか。この2階部分に乗客を収容し、天井に張ったソーラーパネルで発電した電気と、通常の電線からの電気を組み合わせたもので走るという。走行スピードは平均40キロで、普通のバス40台分の乗客が収容できる。記事ではこれを「またぎバス」(straddling bus)と呼んでいるが、私は「足長バス」の方が分かりやすいと思う。メーカーの話では、これによってバス40台分の燃料--年間860トン--を節約できるから、CO2に換算して2,640トンの排出削減ができるという。建設コストは、走行機1台と40Km分の設備一式で740万ドル(約6億3千万円)。高価なようだが、地下鉄の建設費に比べると10分の1だそうだ。すでに北京の一部でテストが始まっていて、今年末までには9Kmの設備が完成するという。
 
 私は、炎天下の交通渋滞の中でハンドルを握りながら、「車の天井にソーラーパネルの設置を義務づけたらいいのになぁ……」などと考えていたが、“足長バス”ではこれが見事に実現している。ただ、日本で同様のものを走らせるとしたら、人間や動物が道路を横断しない場所でなければならないだろう。あるいは、現在より高い場所に歩道橋を設置することになるのかもしれない。とにかく、“人間のため”を考えた乗り物のようではあるが、私にはどうも“乗り物優先”のイメージが拭い去れないのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月16日

映画『ザ・コーヴ』(The Cove)

 最近見た映画の中に『ザ・コーヴ』がある。これは、2009年度アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞などを受賞したアメリカ映画である。ご存じの読者も多いと思うが、そんな名誉ある映画を、日本では大手の映画館が上映をやめた。理由は、この映画が日本のイルカ漁を批判的に扱っていて、政治的に“右寄り”と言われる人たちに「反日的」というレッテルを貼られたからだ。そんな理由で映画館が上映を渋るのは、「言論の自由」「表現の自由」を標榜する民主主義国として恥ずかしいかぎりだ。が、幸いにも中小の映画館には気骨ある経営者がいたおかげで、この映画が何をどう言っているのかを知る機会を私に与えてくれたのである。結論を先に言ってしまえば、私はこれを見て知らなかったことをいろいろ知り、とても勉強になった。
 
 日本では伝統的に、動物の屠殺場は一般市民の目から隠されてきた。そして、屠殺や動物の体の処理にかかわる人々を差別してきた歴史がある。このことを思い出させる内容だった。が、知らなかったことは、その動物の中に「イルカ」もいたということだ。クジラとイルカは同じ仲間とは聞いていたが、日本では悪名高い“調査捕鯨”とは別に、小型船による沿岸捕鯨で、ツチクジラ、イシイルカ、バンドウイルカ、マダライルカ、スジイルカなど多数(捕獲枠は年間2万頭)が捕獲され、それらの肉が「クジラ肉」や「イルカ肉」と表示して売られている、ということも知らなかった。クジラもイルカも同類であれば、どちらの表示でも“偽装”ではないのだろう。さらに知らなかったことは、これらのクジラ類の肉の水銀汚染について、厚生労働省は規制基準をもっていないということだ。これには少し驚いた。
 
 環境化学研究者、小野塚春吉氏によると、1973年に当時の厚生省は行政上の指導指針として「総水銀0.4ppm、メチル水銀0.3ppm」という暫定的規制値を定めた厚生省環境衛生局長通知を出したが、この文書には「魚介類の水銀の暫定的規制値について」という表題がついていたため、哺乳類であるクジラやイルカは魚介類でも魚類でもないという解釈から、規制基準はないのである。しかし、多くの読者はご存じのように、海中では「小さいものは大きいものに捕食される」という原則があるから、海中の汚染物質は大型魚の体内に最も高濃度に蓄積されていく。特に、クジラの仲間でも歯をもったハクジラ類に属するイルカは、海中の食物連鎖の頂点にあるから、体内の水銀濃度が高くなる確率が高い。にもかかわらず、その肉の有害物質による汚染は規制されていないのである。
 
 映画の主な舞台は、和歌山県太地町の風光明媚なリアス式海岸の入江である。入江を英語で「cove」といい、それに「the」という定冠詞がつくと「ある特定の入江」という意味になる。その特定の入江は、外部から見えず、近づけないようになっていて、そこでイルカの追い込み漁が行われてきた。その様子を記録するためにアメリカから来た撮影隊が、地元の人々の反感や妨害を受けながら、ついに“屠殺”の現場を撮影することに成功する--というのがストーリーだ。私は今、「風光明媚」と書いたが、映画の中に出てくる風景は、そういう表現に当てはまらない。わざと暗く、陰湿な感じに色落としがされている。これは恐らく、「善」と「悪」とを峻別するアメリカ的考え方によるものと私は解釈した。風景だけでなく、撮影に反対する地元の人々も、顔が隠され、暗く、何か空恐ろしい雰囲気である。それが残念でならない。
 
 私が指摘したいのは、この映画が「善が悪をくじく」式の単純な発想で成り立っている点だ。地元民の反対を押し切って撮影した映画だから、自ずから限界があることは確かだ。しかし、山田洋次監督が撮るような美しい自然の中で、その地で生きる人々が、恐らく良心の呵責に耐えながらも行わねばならない“屠殺”がある--そういう観点からイルカ漁を描く方が、日本の観客には訴える力が強かったのではないかと思った。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月13日

木で工作をする

 このところ“左脳”を酷使して文章を書いてきたと感じたので、“右脳”の活動に専念することにした。妻がブログで書いているように、私たちは今、夏休みをとって山梨県大泉町の山荘に来ている。標高1200mの高地なので雲か霧かよく分からないが、昨日から周囲は曇天続きで、時々雨が降る。妻が原稿書きに専念しているあいだ、私は木工をした。山荘ができて9年ほどになるが、建てた当時に使い残した木材をいくつか取っておいたので、それを見ていると何か作りたくなったのだ。それに、7月23日の本欄に書いたように、山荘のロフトに自家製の本棚を取り付けたあとの木材も、まだ残っていた。今回山荘に来た際、その本棚に入れる蔵書の一部を運んできたが、そういう本たちを眺めているうちに、急にミニチュア本と本棚を作りたいという気持になった。

 まず、本棚作りから始めた。といってもミニチュアだから、横幅が12cm、奥行き6cmほどの代物である。それにあくまでもオモチャだから、棚が何段もある必要はないと思った。材料を必要な大きさに切るところは比較的やさしい。案外大変なのは、切り出した各部品がピッタリと隙間なく接合するように、ヤスリがけをする作業だった。釘を使わずにボンドで貼り合わせるつもりだったから、部品間に隙間があると接着力が弱くなる。まっすぐの平面同士を接合させる必要がある。また、部品の要所要所はきちんと「直角」が出ていなければ美しくない。そのための作業をしていると、以前から気づいていた人工物のもつ不思議さを、改めて感じた。
 
 それは、人間の造るものには「四角」とか「直角」とか「平面」が多いということである。これに対し、自然界に存在するものの中には、四角や直角や平面は少ない。というよりは、純粋な四角や直角、平面は存在しないと言っていいだろう。針葉樹の多くは天に向かって垂直に立っているように見えるが、近くへ寄って調べてみると、人間が建てるビルのように垂直ではなく、若干の“揺らぎ”があるものである。また、自然の石に「箱」のように四角いものはない。石や岩だけでなく、90度の角をもった体の一部を有する動物や植物を、私は知らない。「四角い雲」などもちろんなく、雪や塩や砂糖の結晶で「四角」のものも見たことはない。もちろん、水晶などの宝石類は“四角い結晶”のように見えることがあるが、それは人間が原石を削って四角く細工するのである。大平原や砂漠地帯などは、自然がつくった平面のように見えるが、それは遠くから見るからで、近くに寄ってよく見ると、それらの表面には多くの隆起があることが分かる。

 これに比べて、人造物・人工物は四角、直角、平面のオンパレードだ。切手、名刺、カード、ノート、本、スケッチブック、キャンバス、机、テレビ、窓、タンス、額縁、冷蔵庫、黒板、看板、プラカード、畳、障子、ボックスカー、家屋、ビル、駅のホーム、桟橋、田んぼ、街の区画……。これらは、基本的にすべて「四角」「直角」「平面」で構成されている。だから、木工をする際も、私は人類の一員として、人類の基本的性向に即して行うほかはない--そんなことを考えながら、本棚を作り、次に本の製作にかかった。ミニチュア本は、作った本Minibooks 棚にきちんと納まるサイズに木材を切ればいい。簡単な作業だが、これだけではつまらないので、厚手の表紙の上製本ににせて、背面に緩いカーブをつけ、その反対面には緩い窪みをつけた。あとは塗装である。
 
 塗装には、本棚部分をオイル系で、本はトールペインティング用の水性塗料を使った。ミニチュア本は8冊作り、妻と私の著書の題名をラベルに書いて、それぞれに貼りつけた。仕上げに上からニスを塗ったが、本の題名が少し滲んでしまったのが残念だった。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月11日

ネット時代の運動を考える (6)

Mmodel_matome  前回の本欄で考察したリアル組織とバーチャル組織の特徴を表-1にまとめてみた。言葉の使い方を前回から変えているところがあるが、本質的な意味は変わっていないと思う。リアル組織の外貌は実名的であるのに対し、バーチャル組織は匿名的である。リアル組織の位置は地理的であるのに対し、バーチャル組織は地理的には存在しない。リアル組織の構造は階層的だが、バーチャル組織のそれは非階層的であり、上下関係の意識が薄い。リアル組織の基盤は功利的だが、バーチャル組織の基盤は親和的である。リアル組織の結合は傾倒的(強く、深い)なのに比べ、バーチャル組織は非傾倒的(弱く、浅く)に結合している。
 
 このように明確に対比してはみたが、これはあくまでも“モデル”としての対比であり、この2種の組織の一般的な「傾向」を示しているにすぎない。だから、リアル組織に所属している人同士が、実際に、例外なく実名を使っているかと言えば、そうでない場合もあり、また功利的な基盤でしかつながっていないかと言えば、友情や同志愛でつながっている場合もあるだろうし、構成員間の結合が強くないリアルの組織も、あり得るだろう。さらに言えば、リアルとバーチャルの両方に属している人もおり、その数はしだいに増えていくだろうから、そういう人同士の関係は、この対比表のようにはいかないだろう。そのことを念頭に置いておいてほしい。
 
 私は8月8日の本欄で、今後のネット上の活動しだいでは、「バーチャル組織の構成員がリアル組織へつながる可能性も拡大してくる」と書き、そういう運動が求められるとも言った。これは、従来の両軸体制下で「普及誌購読者を組織の会員へ導く」運動と似ている。しかし、この「バーチャルからリアルへ」と人を呼び込む活動には、細心の注意が必要だと思う。なぜなら、両軸体制での組織の会員の拡大は、うまくいかなかったからである。その理由はいくつも考えられるが、1つには、“会員化”することで組織の数値的な目標を達成しようと急ぐあまり、かえって会員化を嫌がる人が多く出てきたことが挙げられる。会員化の対象となった人々の中では、組織の会員になることで縛られるだけでなく、いろいろな義務を負わされるという一種の“恐怖感”が生まれたのではないか。これがすでに「階層的」で「傾倒的」なリアルの組織の中で起こったのだから、ましてや「非階層的」であり、「非傾倒的」であるバーチャルの組織においては、性急なリアル組織への呼び込みは、構成員の心に強い違和感や拒絶感を生み出すのではないだろうか。
 
 このあたりが、ネット時代の運動の難しいところではないか、と思う。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月10日

ネット時代の運動を考える (5)

Mmodel40  前回の本欄で言及した「リアル」と「バーチャル」の2つの組織を、図式化してみた。図-5は、リアルの組織に加入している信徒の一部が、携帯電話やパソコン等を使ってバーチャル(インターネット)での活動にも参加していることを表現したものである。リアルとバーチャルを表した円の大きさにさほど違いがないが、分かりやすくするための便法だと思ってほしい。実際のインターネット利用者の数は、海外も含めれば生長の家の信徒数の千倍以上になるだろう。が、その比率を図に反映させることは、ここではあまり重要でない。そうではなく、ここでは「リアル<バーチャル」の関係が明確になればいいのである。
 
Mmodel41  この図に対して、両軸体制の考え方を取り入れた図-6のような図式を考えることもできる。しかしこれだと、リアルの信徒のすべてがバーチャルに含まれること--つまり、高齢の会員もすべてインターネットを使えることになり、実態と大きくかけ離れる。また、リアルとバーチャルの両方に含まれる信徒(図の紫色の部分)の動きを表現することも難しい。さらには、リアルとバーチャルの組織の相互関係を考えるにも不都合な点があるようだ。したがって、今後の考察は図-5を基礎にして行う。
 
 私は、バーチャルの信徒の組織ができるとしたら、それに属する人々は、媒体としてのインターネットの特性を反映すると思うのである。もっと具体的に言うと、インターネットには、よく知られている①匿名性のほか、②非地理性、③非階層性、④親和性、⑤非傾倒性などがある。「匿名性」とは、ネット上の発言や活動を誰がやっているのか分からないという性質である。ネット上では本名を使わない人が多く、また、本名をネット外から探しても分からないことが多い。また、ネット上の人物の居場所も確定することが難しい。すると、本名も居場所もわからない人は、社会的な立場がどうなっているのかも分からない(非階層性)。ネット上でつぶやきを流すツイッターなどでは、よく世界的な有名人が顔写真入りで発言しているが、それが本当に本人の言なのか確認することは難しい。私はかつて、前首相の鳩山由紀夫氏をツイッター上でフォローしていたことがあったが、新聞の解説記事で「本人からのメールの言葉をアシスタントがツイッター上に登録している」という説明を読むまでは、前首相本人の弁だとは思っていなかった。また私から、ツイッターを通して鳩山氏宛にメッセージを書いたこともあったが、「どうせ読んではくれまい」と思いながらそうしていたのである。

 このように半信半疑の心境で人とつき合う場がインターネットであるが、「自分の名前や身分が隠せる」という“利点”(欠点でもあるが)を使って、人々はネット上で何をするのだろう? それは恐らく、本人の「関心があること」以外にないだろう。名前や身分をわざわざ隠して、自分に興味も関心もないことをする人はいないからだ。するとネット上では、「人々は自分の興味や関心ある物事の周囲に集まる」という現象が生じることになる。例えば、「買い物」に関心のある人は買い物のサイトへ、「読書」に興味のある人は本のサイトへ、「政治」に関心のある人は政治問題を扱うサイトへ、「料理」に興味のある人は献立サイトへ……という具合にである。このことを、私は「親和性」と表現した。生長の家で説く“親和の法則”そのものである。
 
「非傾倒性」というのは、あまり聞きなれない日本語である。というよりは、私はこの語を手元の英和辞典から探して、造語した。原語は英語の「commitment」である。この英語は、何かの対象に対して、自分の責任で後もどりできない形で関わりをもつことを意味する。リアルの人生では、恋愛にしろ、就職にしろ、結婚にしろ、深い人間関係や社会関係をもつときは必ず、相手とこのような関係を結ぶ。しかし、バーチャルのネット社会では、このようなコミットメントの意識が希薄である。それは、自分が誰であり、どんな社会的立場にあり、どんな顔をしているかなど、自分のリアリティーが相手にはわからないからだ。簡単に言えば、無責任な関係なのである。ネット上で何かまずい事態になれば、最悪の場合でも、ケータイやパソコンの電源を切ってしまえば、相手とはオサラバだからだ。

 谷口 雅宣
 
 

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2010年8月 8日

ネット時代の運動を考える (4)

 前回の本欄で、私は「現在のネット社会では、携帯電話等の通信端末を使えるならば、白鳩会の一般の会員が、組織の階層構造をまったく経ずに、ネット上の生長の家の情報を(ニセ情報を含めて)簡単に入手できる」と書いた。また、「生長の家の組織の“円錐形”の階層秩序は、ネット社会の浸透によって“円形”に平たく潰されてしまう」とも書いた。この2つは同じことを別の言葉で表現しているだけだ。そのポイントは、企業や団体が伝統的にもってきた階層的秩序というものが、ネット社会の浸透によって、“非階層化”する方向に動かされるということだ。前回掲げた図-4では、それが“稲妻マーク”で示されている。

 ところで、生長の家の組織内部では昨今、「単層伝達」とか「多層伝達」という言葉が使われている。これは、組織内部の何段階もの階層秩序を前提として、互いに接する層と層間に行われる情報伝達を前者とし、それを超えた情報伝達を後者とするものだ。そして、前者を後者よりも優先することが“炭素ゼロ”を目指した運動では好ましいとされている。ただし、ここでいう「情報伝達」とはあくまでも人と人とが会して行う情報伝達である。ネット社会にあっては、このような“マンツーマン”の情報伝達に加えて、ネットを経由した情報伝達が存在し、それがしだいに拡充する方向に動いていくことを忘れてはならない。
 
 さてここで、“マンツーマン”の情報伝達を基礎として成り立つ人間の組織を「リアル組織」と呼び、ネット経由の情報伝達を基礎として成り立つ組織を「バーチャル組織」と呼ぶことにする。すると、生長の家の信徒の間には、この双方が成立していることに思いが至るのである。もちろん、リアル組織の方が“本流”であり、そこに加入している人の数はバーチャル組織よりも圧倒的に多い。が、その一方で、ネットでの出会いを契機として、真理の理解や相互の信頼関係を深めつつある人々も、数が増えつつある。そういう人々の中には、生長の家の大きな行事の際に知り合い同士で集まって、親交を深める“オフ会”なるものを開く人も出てきている。こうして、バーチャル組織はリアル組織へと発展する道が開かれつつある。
 
 今後、ネット社会が浸透し拡大してくると、このバーチャル組織の構成員がリアル組織へつながる可能性も拡大してくると思われるから、この分野で新たな活動が始まり、また求められるだろう。また、リアル組織の人間がバーチャル組織に参加することで、真理の理解を深めたり、帰属意識を強める可能性も出てくるから、この双方の組織は対立するのではなく、共存していくと考えられるのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月 7日

ネット時代の運動を考える (3)

 前回の本シリーズで描いたクラウド・コンピューティングのイメージを、先の図-3に描き加えたのが図-4である。上段の黄色い円錐の周りに、リング状に“雲”が浮かんでいるように見えるが、これがインターネットによる“情報の雲”である。その雲と連結して「白」Souhakusei04 「相」「青」「講」などと書いた白い球が宙に浮かんでいるが、これらは、白鳩会、相愛会、青年会、講師会等に関する情報源である。東京の生長の家本部にあるコンピューターがそれらの情報源である場合は、黄色い円錐に接して白い球を描くべきだろうが、今日の電子情報の一般的な保存状況を考えると、外部のサーバーに情報を置く可能性も十分ある。だから、この図は、情報の物理的場所を示すのではなく、「ネット上に情報源が存在する」という概念を分かりやすく図示したものと考えてほしい。

 白い球で示した情報源の中に、「人の顔」や「怪獣」の絵が描かれたものがある。これは、「ネット上には生長の家とは無関係な情報源がある」という事実を示すために付け加えた。もっと正確に言えば、ネット上にあるほとんどの情報は生長の家とは無関係である。また、残念ながら、生長の家に関する間違った情報も存在する。ネット時代の情報源は、それら白・黒・灰色のすべてを呑み込んだ“情報の雲”であるという事実を喚起するために付加した。
 
 ところで、図の下段の、ピンクの円錐の手前のところに、稲妻のようなマークが描かれているのに注目してほしい。これは、“情報の雲”から“稲妻”のような素早さで情報を取り出すことができる、ということを示している。言い直せば、ネット社会にあっては、パソコンや携帯端末(携帯電話を含む)を使えば、誰でも即座に、生長の家に関する情報を引き出すことができるということだ。もちろん、その情報が正確であるかどうかは別問題だ。この稲妻マークの下端は、ピンクの円錐の最下部に達している。「ピンクの円錐」は白鳩会の組織を示していた。また、この円錐は重層的な構造になっていて、最下部は「支部長」以下の第一線組織である。ということは、現在のネット社会では、携帯電話等の通信端末を使えるならば、白鳩会の一般の会員が、組織の階層構造をまったく経ずに、ネット上の生長の家の情報を(ニセ情報を含めて)簡単に入手できるということである。

 これは、強調してもしすぎることがないほど重要な事実である。おびただしい数のコンピューターが使われ、衛星通信や光ファイバーを駆使した高速度情報網が完備しつつある現代社会は、時々「フラット社会」(平らな社会)と呼ばれることがある。その意味は、従来の社会の階層的な秩序が、少なくとも「情報入手」の側面では破壊されてしまい、社会の上・中・下層のいずれに属する人も、(ニセ情報も含めて)同じ情報を共有する、ということだ。図-4に即して言えば、生長の家の組織の「円錐形」の階層秩序は、ネット社会の浸透によって「円形」に平たく潰されてしまうのである。

 デジタル・デバイド(digital divide)という言葉が使われて大分時間がたつが、今日、パソコン等の情報機器を使えるか使えないかで、個人が得られる情報の質と量が大幅に違ってくる。この差が、社会的な格差を生むようになった状態を、こう呼ぶ。この言葉は、主として国家間の格差の1つを表現するものとして使われてきたが、現在では同じ1つの国の中でも、デジタル・デバイドが生まれ、進行しつつあることが問題視されている。子供の頃から携帯電話を駆使してきた世代が、青年会の年齢を超えて白鳩会、相愛会の年齢に達しようとしている今、生長の家の組織内にもデジタル・デバイドが生まれていることは否定できない。ネット時代の運動をスムーズに運営するためには、この格差を埋める努力が必要である。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月 6日

ネット時代の運動を考える (2)

 前回は、生長の家の伝統的な“三者組織”を4段階の階層をもった円錐として描いた。(図-1)この図は、しかしあくまでも考察の便利のための“モデル”である。だから、現実を正確に表してはいない。例えば、会員数で表される組織の規模を考えれば、白・相・青を示す円錐の大きさは、前回の図とは相当異なってくるだろう。「白」は一番大きく、「相」はその何分の1かであり、「青は」最小で、階層構造がないものもあるだろう。しかし、ここで重要なのは白・相・青の間の規模の違いではなく、組織の構造の共通性である。

 図-1はまた、1つの教区内の3組織を表すと同時に、日本全体の3組織をも表すと考えていいだろう。なぜなら、これら3組織にはそれぞれ「中央部」や「総轄実行委員会」などの全国をまとめる上部機関があるからだ。この中央部の決定に従って、各教区の下部組織が動くという関係があり、これは、教区の連合会長や委員長の決定に従って、総連会長→地区連会長→支部長(相愛会長・単青委員長)が動くという、教区レベルの運動組織と相似形になっている。
 
Souhakusei02  さて、図-1の3つの円錐の上方から、さらにもう1つ、やや大きめの円錐をかぶせたのが図-2である。その構造が分かりやすいように、透視図にしてある。この上部の円錐を本部機構だと考えると、この図は日本の生長の家の運動組織の全体を表すと言っていいだろう。もちろんこれも便宜上の概念図であり、実際の生長の家の組織全体はこれほど単純ではないし、“三者”以外にも「栄える会」や「教職員会」もある。また、「教化部」「練成道場」などという立派な宗教法人の組織もある。が、それらすべてを図の中に書き込むと、煩雑すぎて「考察の便宜」にならなくなってしまう。だから、図-2も単純化された“モデル”だと考えてほしい。
 
 図-2を見ると分かるのは、この円錐を組み合わせた組織は、基本的に上下方向に情報が行き来するという点では、前回の図-1と変わらないということだ。別の表現を使えば、下部の3つの円錐間を流れる情報は、少ない。セオリーとしては、地方講師が“組織Souhakusei03 の血液”としてこの役割を果たすことになっているが、その講師たちも三者のいずれかに所属しているから、それらの組織に心情的に強力に引っ張られているのが現状ではないだろうか。図-2に着色したのが図-3である。白・相・青の3組織に対応するように、下段の円錐を「ピンク」「青」「水色」に塗ってある。黄色の円錐は本部に該当する。ここまでが、従来の生長の家の運動組織の単純化モデルの図示作業だ。
 
 次に、インターネットによる情報の流れを、図に描き加えてみよう。今、ネットの世界では「クラウド・コンピューティング」(cloud computing)という考え方がもてはやされている。このクラウドとは「雲」のことだ。地上から雲を見上げると、そこには何かが豊かに存在しているように見える。一方、パソコンからインターネットを覗いてみると、そこには何かすさまじい量の情報が塊になって存在しているように感じられる。この2つの共通性に着目して、インターネット上に置かれたソフトウエアや記憶媒体を使って、個人や企業が数値計算や、文書作成、データ管理などを行うことを「雲の上の情報処理」というような意味合いで「クラウド・コンピューティング」と呼んでいる。これまでのパソコン利用と違う点は、自分で使うソフトやデータが手元のパソコンにではなく、ネット上にあるという点だ。これだと、軽量で持ち運びがしやすいパソコンや情報端末を使って、全国どこからでも共通データを操作することができ、手元のオフィス・スペースや記憶媒体の容量を節約することができる。インターネットによる情報処理は、今後このような形に移行していくと言われている。
 
 生長の家の教義や運動に関するデータも、ネット上に蓄積されつつある。私のこのブログが、いい例だ。もう10年近く書き続けているから、その頃からの過去の私の考えが保存されていて、キーワードなどによる検索ですぐに引き出すことができる。生長の家の公式サイトにも、教義を含めた過去のデータが蓄積されており、これに書籍データが加われば、教義のデーターベース化も可能である。こうなってくると、ネットが利用できる人ならば、生長の家の組織をまったく経由せずに、かなりの情報を自分で直接引き出すことが可能になるし、現にそうしている人の数が着々と増えていると考えられる。

 谷口 雅宣

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2010年8月 4日

ネット時代の運動を考える

 生長の家の組織は複雑である。日本全国を、都道府県の数より多い59の「教区」に分けているのはまだいいとしても、それぞれの教区には「三者」と呼ばれる白鳩会、相愛会、青年会の中心的な運動組織があり、信徒を性別と年齢によってそれぞれの組織に「会員」として帰属させる努力をしている。これに加えて、“職能組織”の色彩を帯びた栄える会と教職員会がある。これらを「教化部」という宗教法人が支援・統括する形で、教区の運動が行われている。さらに言えば、教区内の地方講師によって構成される「地方講師会」もある。だから、「生長の家に入信する」と言った場合、どの組織に入会することなのかを考えて、初めての人は途方に暮れてしまうかもしれない。
 
 しかし一般には、生長の家に入信するとは、自分の意志で「聖使命会」に入会することを指す。ここでまた「○○会」という組織のような名前が出てきたが、聖使命会は、人の組織というよりは、生長の家の運動を支えたいという「人の意志」の集まりのようなものだ。生長の家の教えに触れて感動し、また生長の家の目的に賛同して、この運動の運営資金を寄付したいと思う人々の意志の“受け皿”が、聖使命会である。だからこれは「人の組織」ではない。

 ここで1つの教区の、生長の家組織を考えてみよう。中心的な運動組織である白鳩会、相愛会、青年会の三者は、それぞれの教区における組織の指導者が1人いて、それぞれ「白鳩会○○教区連合会長」「相愛会○○教区連合会長」「○○教区青年会委員長」と呼ばれている。教区は、都道府県を基礎とした地理的な区域である。地理的な区域の中に人的な組織があるということで、白鳩会、相愛会、青年会の三者に属する人(組織の会員)は、基本的に居住地の地理的な近さによってグループ化される。つまり、住む場所が近い者同士が集まって“単位組織”を作る。この単位組織がいくつか集まって「地区連合会」(地区連)となり、地区連合会がいくつか集まって「地区総連合会」(地区総連)と呼ばれ、これら地区総連がいくつかあるのが「教区」である。ということは、1つの教区内には、白(白鳩会)・相(相愛会)・青(青年会)がそれぞれに階層構造をもった組織をもっていることになる。
 
Souhakusei01  このことを図示しようとすると、ここに掲げたような3つの円錐が寄りあった絵(図-1)を描くことができるだろう。それぞれの円錐は4つの階層に分かれているが、それらは(下から)単位組織、地区連、総連などを示していると考えてほしい。これら三者組織の中の情報の流れは、基本的に上下方向である。つまり、白鳩会の情報は白鳩会の円錐を「上下」に行き来するのが基本であり、相愛会や青年会も同様であって、白鳩会から相愛会、相愛会から青年会というように「横方向」への情報の流れはあまり見られない。だから、このような傾向が強まると、同じ生長の家の信徒であっても、また同じ町内に住む信徒同士であっても、所属する組織が違うと、別のことを考えたり、別の行動をしたりすることにもつながる。近年は、これを「縦割り組織の弊害」として批判する人が多い。

 さて、私がなぜ、こんな堅い話を本欄に持ち込んだかというと、前回触れた「ネット社会」の動きが、今の生長の家の運動組織と深く関わってくることの影響を、少し考えてみたいからである。インターネットを経由する情報の性質には、迅速性、匿名性、無階層性、協働性などがある。が、これまでの我々の組織運動には、これらの性質と“逆”とは言わないまでも、かなり異なる性質があったと思われる。だから、ネット社会の到来は、我々の運動へ少なからざる影響を与えるのではないだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2010年8月 2日

ネット社会の情報力

 生長の家の組織の将来の可能性について最近、考える機会があった。
 その1つの要素は、インターネット社会の拡大である。例えば、7月31日の『産経新聞』は、中国人民解放軍がこのほど「情報保障基地」なるものを総参謀部の直属で発足させ、軍としてのインターネット戦略を統合・指揮することになった、と伝えている。この情報が中国軍の機関紙に発表された--というところがポイントである。つまり、通常は秘密にしていてかまわない性質のものを、あえて公表したのである。その理由は恐らく、これにより、今年1月末に発覚した米グーグル社などへの中国からのサイバー攻撃に関連して、事実上「中国もサイバー部門をきちんと管理する」ことを表明したことになるからだ。(この件について、私は本欄の1月28日から3回書いた。)
 
 これに関連し『産経』は、中国軍による情報発信規制が6月中旬から始まっていることを、香港の英字紙が報じたことを伝えている。その内容は、「230万の全軍人を対象に、休日や一時帰省中を含め、ホームページの開設や、ブログ、チャットの使用を禁止し、海外サイトへのアクセスも原則的に認めない」という厳しいものだ。これらは、中国が国を挙げてインターネットを経由した情報の出入りを規制し、管理する方向に動き始めたことを示しているのだろう。
 
 それと対照的なのが、アメリカの事情である。今日の『朝日新聞』は、最近起こったアフガニスタン戦線での機密情報漏洩の経緯について書いている。漏れた情報の詳細について私は知らないが、『朝日』には「米国のアフガニスタン戦争に関する約9万2千件もの機密情報」だと書いてある。具体的には、「米軍秘密部隊が、誤った攻撃で市民を殺害」したことや、「CIAが軍事活動を拡大し、空爆も実施」したこと、「01~08年にアフガン諜報機関の予算を支出し、事実上の下部組織として利用」したこと、「パキスタンの情報機関がタリバーンに接触し、過激派組織を育成」したことなどだ。これらの機密情報を誰が漏らしたのかが、アメリカでは今後問題になるだろう。しかし、機密情報を掲載したサイトを閉鎖させるという話には、恐らくならない。なぜなら、それはジャーナリズムの存在意義を否定することになるからだ。
 
 上記した1月の事件の際に、ヒラリー・クリントン米国務長官が中国に対して行った演説の中に、次のような件がある--
 
「情報の自由は、世界の進歩の基盤となる平和と安全を支えるものである。歴史的にみると、情報へのアクセスの非対称性は、国家間紛争の主因の一つだ。深刻な見解の相違や物騒な事件に直面したとき、その問題をめぐって対立する立場の人々が、同じひとまとまりの事実と意見を入手する手段を持つのは、決定的に重要なことなのだ」。

 この考えのもとに、中国国民のインターネットへの自由なアクセスを求めたアメリカが、自国に都合の悪い情報を漏洩したという理由で、“情報の自由”を制限することなどできないだろう。もちろん、政府の職員が機密漏洩を行うことは規制できる。しかし、それは別の理由だ。今回の機密情報を掲載したサイトはアメリカ政府とは関係がない、独立した団体だ。そこが、米英などの大手メディアと協力して行った一種の“調査報道”なのである。このような情報伝達のルートが日ごとに強化されつつあるのが、現代のネット社会である。生長の家の組織の内部でも、この流れを止めることなどできないだろう。だから、間違った情報がある程度発信されることは不可避である。その場合、そういうニセ情報を消したり、規制したりするよりも、正しい情報を迅速に、効果的に、かつ大々的に発信することの方が有効になってくるだろう。
 
 組織運動の中での“情報力”の重要性が増大していくのである。
 
 谷口 雅宣

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