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2010年7月11日

生長の家教修会が終わる

 昨日の午後と今日にかけて、東京・原宿の生長の家本部会館で全国の本部講師・本部講師補などを集めて本年度の生長の家教修会が行われた。その準備のため1週間、本欄を休載した。今年の教修会は昨年8月、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家国際教修会」に引き続き、世界の宗教がもつ自然観がテーマだった。4人の発表者が、それぞれ①ユダヤ教・キリスト教・イスラームの自然観、②ヒンズー教・仏教・儒教の自然観、③日本における自然観、④心理学の視点から見た自然と人間の関係について、研究結果を発表した。妻は1日目の最後に講話し、私はすべての発表の後に、それらをまとめた講話を担当した。

 しかし、「まとめの講話」というのは難しい。特に今回のテーマは広大な領域をカバーしているので、それらすべてについて「知る」ことだけでも1~2週間でできるものではない。1つの世界宗教の自然観を知ることだけでも、大学院レベルの研究が少なくとも1年間は必要だろう。というわけで、私の講話は、キリスト教の自然観のもととなっていると思われる『創世記』に絞り込んでおこなった。『創世記』はユダヤ教の教典の一部でもあり、イスラームでも『コーラン』に、この書にもとづいた記述が各所に見られるから、間接的に影響を及ぼしている。そういう意味で、この書に表現された世界観や自然観は、過去の人類にとってはもちろん、現代人にとっても重要な意味があると思うのである。

『創世記』に表れた自然観について有名なのは、アメリカの社会学者、リン・ホワイト(Lynn T. White, 1907-1987)の批判である。このことは昨年の教修会でも触れたが、ホワイトは1967年に出した「生態学的危機の歴史的起源(The Historical Roots of Our Ecologic Crisis)」という論文で、「地球は人間の消費の対象である」と見なす考えの起源は中世キリスト教とその自然に対する態度にあるとし、ユダヤ=キリスト教の神学は基本的に自然界に対して搾取的であると批判した。そして、この搾取的態度の元となっているのが、『創世記』第1章28節にある次の記述だと指摘した--

「神は彼ら(男と女)を祝福して言われた、“生めよ、ふえよ、地に満てよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ”」

 この論文は、欧米において宗教の教えが社会の自然観を形成・維持するのにどれだけ関与したかについて、長い論争を引き起こし、その後10年にわたるキリスト教環境神学に一定の方向を与えただけでなく、環境史、環境神学、環境倫理学などの新しい学問を発達させる契機になったと言われている。日本でも、このホワイト論文は学者の間で人気があり、ユダヤ=キリスト教の思想は人類が自然破壊を引き起こす大きな要因になったというのが、一種の“定説”のようになったのである。私はこの指摘に、前から疑問を感じていた。だから、2002年に出版した『今こそ自然から学ぼう--人間至上主義を超えて』でもそれを表明し(p.115)、昨年のサンパウロでの国際教修会では、この議論の弱点を指摘した。それは、この日本の戦後の自然破壊の歴史を見れば、キリスト教とは関係のないところでも自然に対する搾取的な言動は当たり前に見られるからである。『日本列島改造論』の田中角栄元首相が、キリスト教の神学を信じていたなどという話は聞いたことがないからである。だいいち、公式統計では、日本のキリスト教系宗教団体の信者数は300万人前後で推移していて、人口に占める割合はわずか「1.4%」なのである。
 
 今回の教修会でも、私はこの問題に触れ、宗教の教説と社会の動向に密接な関係があることは認めるが、それは必ずしも「因果関係」ではなく、「相関関係」にすぎない場合もある、という意味のことを述べたのだった。相関関係を因果関係と混同する誤りは、学問の世界でもよく起こることだし、政治の世界に至っては意識して行われることも珍しくない。例えば、戦前の日本ではマスメディアも宗教もこぞって日本の中国大陸侵攻を擁護し、支援さえしたが、それはあくまでも相関関係であり、因果関係ではない。言いなおすと、マスメディアや宗教が大陸侵攻の原因になったのではなく、原因は別のところにあったのである。しかし、その時代の現象を一部だけ捉え、切り取って眺めると、「社会の戦争擁護」と「軍の大陸侵攻」という2つの現象は同時併行的に存在している。だから、相関関係があるという事実は否定できないのである。

 別の例を挙げれば、ヨーロッパ列強の植民地支配とキリスト教の海外伝道とは同時併行的に行われた。しかしこれも、両者の相関関係を示していても、必ずしも因果関係を示していない。こういう視点から眺めてみると、たとえ中世キリスト教の神学が自然界に対して搾取的であっても、また、同時に中世から近世にかけてヨーロッパの自然が広範囲に破壊されたとしても、前者は後者の原因だったとは必ずしも言えないということが分かるだろう。それを言うためには、もっと別の、より広範囲の情報が必要なのである。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口雅宣先生

 とても勉強になりました。有り難うございます。

投稿: 堀 浩二 | 2010年7月12日 15:56

総裁 谷口 雅宣先生:

合掌 ありがとうございます。

この度は、教修会の内容を掲載してくださり、ありがとうございました。

以前、「キリスト教=環境破壊の根元」という一説に出会って以来今日まで、
(失礼ながら)非常に安直かつ短絡的な見解であるとの印象を抱き続けております。
なぜなら、環境問題のような地球規模かつ長期的な課題は、
より多角的・複眼的視野から俯瞰的に考察するべきであると考えるためです。
「大量生産・大量消費」という社会構造等から起因する環境破壊問題を、
1つの宗教あるいは『創世記』に責任転嫁する(かのような)論理は、
浅薄さや、主観的・単眼的思考から派生しているように見受けられます。
総裁先生が「より広範囲の情報が必要」とご指摘くださいましたように、
聖書全体を更に鳥瞰的に調査・研究した上、それがどのように
欧米圏そして世界の文化・文明へ影響を与えてきたか、妥当な
データを収集・分析・提示されない限り、信頼性と客観性が欠如した「学説」であると思います。

また、純子先生もブログ『恵みな日々』におきまして、
「グリーン・バイブル」の記述をしてくださいましたが、
聖書には、環境保護等を認める記載が多く存在するという意見に共感いたします。
例えば、旧約聖書『イザヤ書』第10章6~9節には、
オオカミや羊が調和して生活している様子が描かれておりますが、
「生物多様性」や「共存共栄」について考えるとき、私はこの箇所がイメージされます。
新約聖書『ヨハネの黙示録』には、「命の木“The tree of life”」
「命の水“The water of life”」という言葉が散見されます。
個人的には、樹木や水にも「生命(または非物質的・有機的存在)」が宿る
という黙示が強調されているように感じられます。

いずれにいたしましても、聖書は欧米の文化や英米語を学ぶ上で
必須の存在であり、理解する重要な鍵とも考えますので、
肯定的な解釈のもと、文化の発展のために善用されることを願うものです。

*話題は転じますが、12日の日本の政治に関するご意見に関しましても、
門外漢ながら「然り」と頷きつつ拝読させていただきました。
それでは、まとまらず長文となり恐縮ではございますが、
貴重なご指導をいただき、誠にありがとうございました。 再拝  
                
<参考文献>
○『聖書』(口語) 日本聖書協会 1986年 
○『和英対訳新約聖書』(新共同訳)日本聖書協会 2007年

投稿: 川部 美文 | 2010年7月13日 06:02

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