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2010年7月13日

『創世記』の天地創造

 11日の本欄で今年度の生長の家教修会のことに触れたが、さらに続けよう。リン・ホワイトは『創世記』第1章にある天地創造物語を批判の対象としたが、実は『創世記』には、そこ以外にも天地創造物語が存在する。このことは、生長の家の『創世記』解釈を谷口雅春先生の著作から学んだ読者は、よくご存じのはずだ。もう1つの天地創造は、同じ書の第2章4~6節にある。『創世記』第1章は、31節すべてが天地創造物語であり、そのストーリーはさらに第2章の3節まで食い込んで続いている。これに対して、第2章にある物語は、実に簡単である--
 
「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた」。(第2章4~6節)

 これはもちろん全ストーリーではなく、人間が造られる前段階までの筋書きだ。第2章では、わずか3節の文章で人間誕生までが描かれるのだが、第1章では、実にていねいに、25節にわたる文章を使って、人間創造までの6日間の過程が1日ごとに描かれている。だから、文章の細部にあまり注意せずに聖書を読んでいると、第2章の話は、第1章に描かれた宇宙最初の1週間のうち、特定の1日の出来事を改めて詳述しているのだと誤解してしまう。しかし、上の引用文をよく読むと、その解釈が成り立たないことがわかるのである。なぜなら、この直後に来る第2章7節にはこう書いてあるからだ--
 
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。
 
 つまり、第2章では、植物よりも人間の方が、先に創造されたことになっているのだ。そして、その理由まできちんと書いてある。それは、人間創造の前には、雨もなく、土を耕す人間もいなかったから、植物が生えるはずがないというのだ。

 これに対して、第1章では、植物の創造が3日目、人間の創造は6日目、とはっきり書いてある。そして、植物は人間がいなくても、神が「はえさせよ」と命ずれば、どんどん生えてくるのである--
 
「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ草とをはえさせた。神は見て、良しとされた」。(11~13節)
 
 これだけではない。第1章と第2章の記述で食い違うところは、数多くある。おそらくその最大のものは、人間の創造である。上に掲げた第2章の人間創造と、以下の第1章の記述の違いは明らかである--

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」。(第1章27節)

 第2章の物語では「アダム」という名前の男だけが創造され、その後の第2章21~22節で、アダムのあばら骨を取って「エバ」(女)が造られるのである。ところが、上記の1章27節では、いっぺんに男女の人間が造られている。それだけではない。第2章では、神は「土のちり」で人間を造ったが、第1章では、そういう“素材”の話は一切出てこない。恐らく、神の創造には物質的な素材など不要なのである。
 
 このように、ごく一部を比べただけでも、『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ。ということは、リン・ホワイトの指摘がきわめて部分的である可能性を暗示している。つまり、彼が第1章28節の記述のおかげで、人間が自然破壊を正当化するようになったと指摘しても、作者が異なると思われる第2章に、自然破壊を戒める教えが書いてあれば、彼の主張は瓦解するか、少なくとも“証拠不十分”の誹りを免れないことになる。
 
 谷口 雅宣

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