« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »

2010年7月30日

本欄が書籍に (10)

Part16_gb2  このブログの記事を単行本にした「小閑雑感」シリーズの16巻目、『小閑雑感 Part 16』(=写真)が世界聖典普及協会から発刊された。カバーしている期間は、2009年3月から7月の5ヵ月間だ。ということは、私が生長の家総裁を襲がせていただいた後の“最初の記録”が、本書にあるということだ。もっと具体的に言えば、生長の家総裁法燈継承の日の祝賀式での私の挨拶の“大筋”が、収録されている。3月2日付の「数々のお祝いに感謝申し上げます」という文章がそれだが、これは実際に話された言葉ではなく“スピーチ原稿”に該当する。実際の言葉は、2009年5月号の生長の家機関誌に掲載されているので、興味のある読者はそちらの方が省略がないので、ぜひ参照していただきたい。
 
 『Part 16』に収録された文章は、すべて本欄で読めるが、上記のような“スピーチ原稿”が掲げられている場合もあるから、実際のスピーチがどうだったかは、本欄だけでは分からない。その場合は、機関誌や『聖使命』新聞に“ノーカット版”が掲載されていると思うので、そちらも参照されたい。本書でこの種の“スピーチ原稿”に該当するのは、上記の祝賀式での話のほか、3月20日の春季慰霊祭での挨拶、4月24日の谷口輝子聖姉二十一年祭での挨拶、6月17日の谷口雅春大聖師二十四年祭での言葉である。
 
 ブログに比べて書籍が優れているのは、「一覧性」だろう。目次は記載順に表題を一覧できるし、索引では、テーマ別に一覧できる。さらに、写真やスケッチも書籍のページをパラパラとめくることで一覧できる。今回の本では、そういう絵や写真が63点も収録されているところが、特徴といえば特徴かもしれない。もう1つの特徴は、社会や時事問題に関連して私の見解を述べている文章が多いことだ。「臓器移植法改正は不要である」「臓器移植の先に見えるもの」「裁判員として“罪”をどうするか?」「信仰による戦争の道」「なぜ今“地球環境工学”か?」「宗教の社会的貢献」「ウソの看板は降ろそう」などが、それに該当する。最後の文章は、いわゆる“非核3原則”に関する私の見解である。
 
 今日、入庫したての本書に100冊ぐらいサインをしたので、読者の皆々さまには旧著と変わりなくご愛顧をお願い申し上げます。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (3)

2010年7月29日

チョウの翅の模様 (2)

 遺伝子の突然変異によってチョウの翅の上に特定の模様が生じ、それが自然淘汰の過程を経て後世に引き継がれている--こういう説明は、ある一種類のチョウに注目して、その特徴を考えたときには何となく納得する。しかし、その種以外の多くの種にも目を振り向けると、そんな単純な説明では足りないことがわかるだろう。例えば今、ジャノメチョウ科のチョウの「目玉模様」について考えているが、チョウはこのほかアゲハチョウ科、シロチョウ科、マダラチョウ科、フクロチョウ科、ワモンチョウ科、モルフォチョウ科、タテハチョウ科、テングチョウ科……など10種類もの科に分けられる。そして、それぞれが翅の模様に特徴がある。ということは、他の10種類の模様も共に、永い自然淘汰の荒波を越えて現代にまで引き継がれてきているのだから、チョウの翅の「目玉模様」だけが特別に生存に有利だったのではないことになる。
 
 そう考えると、ある一定の模様をもったチョウと、その天敵との関係を見るだけではなく、そのチョウと天敵を含んだ特定の場所の生態系全体を考えて、その特殊な条件の中で自然淘汰の原理が働く--という、より広い視点を持たねばならないだろう。もっと別の言い方をすれば、ある特定の自然環境(A)では、チョウを捕食する種類の鳥が育ちやすいが、別の環境下(B)では、もっと別の--例えば、トカゲやカエルを捕食する種類の鳥が育ちやすいということもある。そうすると、環境Aではチョウの翅の「目玉模様」が生存に有利であっても、環境Bでは別のパターンの模様がチョウの生存にとって有利になることもある。こう考えると、チョウの翅の模様に11種類のパターンがある場合、チョウは少なくとも(大別して)11種類の異なった生態系に適応して進化してきたともいえる。
 
 さて、ここで生物進化の過程において初めてチョウが生まれた時のことを考えてみよう。チョウは、ガを含む鱗翅(りんし)目の昆虫だが、生物学者の矢島稔氏によると、チョウは昆虫類の中では出現が最も新しく、鱗翅目の特殊化した一群であるという。「新しく出現した」ということは、それまでの多くの鱗翅目の昆虫(ガのこと)がすでに特定の植物との共生関係を成立させていた中で生き延びねばならなかったから、「いやなにおいや味のする植物またはアルカロイドやキノンなどの有毒成分を含む植物を食べなければ生き残れない状態であったろう。その結果特有の体臭をもつものが多く、捕食者にきらわれて生存率が高くなり同時に昼間活動できるようになったと思われる」のだそうだ。
 
 こういう厳しい環境下で生きてきた生物は、複雑で不思議な生態を発達させているようだ。矢島氏によると、シジミチョウ科のチョウには、天敵への対策だけでなく、食糧を共有するアリやアブラムシとの共存を達成しているものがある。具体的には、彼らの食用する葉にアブラムシが群れてついている場合などは、シジミチョウの幼虫は葉とともにアブラムシも食べることがある。また、そこから転じて、葉の代りにアブラムシを主食とする種類が生まれ、さらにアブラムシを食べずにその分泌物を飲む種類のものもあるという。

 アブラムシの分泌物にはアリも寄ってくるから、ここから、シジミチョウとアリの関係も生まれる。その1つは、アリと共存するために、背中から分泌物を出し、その見返りにアリから餌をもらう種類のものだ。この種類のシジミチョウは、さらに驚くべき生態を発達させている。それは、幼虫の体が大きくなると、アリがそれを巣の中に運んで、サナギから羽化するまで面倒を見てくれるらしい。また、別のゴマシジミの幼虫は、分泌物を求めるアリによって巣の中に自分が運ばれると、今度は逆にアリの幼虫を捕食するのだそうだ。
 
 このような諸々の複雑な生態は、もちろんチョウやアリが自ら考えて作り上げたものではない。では、進化論のセオリー通りに「突然変異によって偶然に生まれた」と考えるべきなのだろうか? 私は、それには納得できないのである。そうではなく、現象としての生物の背後にある「生きる力」「生かす力」が、時間の経過とともに、より多様に--つまり、鳥も、チョウも、アリも生かす形で--生物全体としては、より完全な形に表現されつつあるように思えるのだ。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2010年7月27日

チョウの翅の模様について

Brazil048  私の眼前には今、熱帯雨林の片隅で翅(はね)を休ませているチョウの姿がある。その翅はガのように静止したままではなく、ゆっくりと上下に動いている。左右の翅が同時に上下するから、上方から見ていると翅は「開閉している」ように見え、両翅の模様が現れたり消えたりするのだ。現れるのは2つの大きな“目玉”である。いや、チョウの翅に目玉は付いていないから、本当の目玉ではない。が、これらは「目玉」という形容がぴったりするような、“白眼”と“黒目”の両方をもった円文様なのだ。チョウがゆっくり翅を動かすと、これらの目が見えたり、隠れたりするから、上方からそれを見る者にとっては、2つの目が開いたり、閉じたりするように見えるのである。
 
 このような「紋」を翅につけたチョウは案外、数が多い。日本にもいるクロヒカゲやヒメジャノメなどのジャノメチョウ科のチョウは、その名が「蛇の目」であるから、2つ以上の目玉模様をもっているものが多い。しかし、なぜチョウは翅にわざわざそんな「目玉模様」を付けているのか。その説明には、普通はこんな言い方がされる--チョウは目玉模様を翅に付けることによって、自分を獣の顔のように見せかけ、天敵の鳥類から身を守るのだ。これは、専門的には「擬態」と呼ばれる現象の1つだ。擬態の意味は、百科事典にはこうある--「ある種の生物が自分以外の何物かに外見(色、模様、形)やにおい、動きなどを似せることにより、生存上の利益を得る現象をいう」。(平凡社『世界大百科事典』)

 こういう説明は、一見わかりやすいが、厳密に考えれば奇妙である。わずかな脳機能しかもたないチョウのような昆虫が、自ら「鳥から身を守るために、翅に模様をつけよう」などと思うことはあるまい。ましてや、「翅をゆっくり開閉することで、模様を獣の“目玉”に見せかけて鳥を脅かしてやろう」などと考えるはずはない。さらに不可解なのは、彼らが一定の目的を意識して自分の体の一部の色を変化させ、目玉模様を作り出した--などということはあり得ないのだ。そんなことは、脳機能が高度に発達した人間にもできない。だから、あえてそうしたい人間は、体に刺青をしたり、ペイントを塗ったり、刺青シールを貼ったりするのである。
 
 では、どのようにしてチョウの翅に目玉模様ができるのか? 普通、この種の説明には進化論が使われる。すなわち、1羽の個体としてのチョウが何かの目的意識をもって自分の体の一部を変化させることはないが、長い時間が経過する間には、突然変異と自然淘汰の原理を通して、種としてのチョウが、様々な特徴のある模様を翅の表面に描くことは十分可能だ、というのである。さらに噛みくだいて言えば--ある日、太古の森で偶然に“目玉”のような模様を翅につけたチョウが生まれる。これは遺伝子の突然変異による結果で、チョウ以上の知性をもった何かが、目的意識をもって行った結果ではない。このチョウは、こうして偶然に、天敵である鳥が警戒する模様を翅につけたことにより、結果的にその他のチョウよりも生存に有利であった。このため、より多くの子孫をもうけることができた。さらに、そのチョウの子孫も、生存に有利な模様を遺伝的に受け継いできたために、目玉模様のないチョウよりも多くの子孫を後世に残すことになり……という状況が現在まで継続してきた。だから、この種のチョウの翅には今も目玉模様があるのである。

 多くの科学者は、こういう論法ですべての生物の特徴がなぜ今日、現状のようにあるかを説明し、満足しているようである。が、私には「何か」が足りないような気がするのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2010年7月26日

緑の聖書 (2)

 ドウィット教授が取り上げた6項目の疑問のうち④は、これまで本欄で何回も言及し、リン・ホワイトも問題視した『創世記』第1章の28節の解釈の問題である。聖書には神の言葉として「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と書いてあるのを、ここでは「神は、被造物に対して我々がしたいことをする権利を与えてくださった」と解釈しているわけである。これに対して、ドウィット氏はこう答えている--
 
「聖書で説かれている"支配権(dominion)"とは、他をまったく顧みない弾圧のことではありません。まず第1に、『創世記』第1章28節には、人間が罪を犯す前のことが書いてあるのです。第2に、この文章は聖書の他の箇所や文脈から切り離して理解してはいけません。それらをよく読めば、ここでの“支配権”とは、“責任をもって管理する”という意味だと分かります。神は人間に、被造物に対する特別な役割と責任を与えられたのです。被造物に対してドミニオン(支配権)をもつということは、人間が神の象(かたち)のごとく創造されたことと重要な関係があります。地上に神の存在を映し出すことを志さねばなりません。人間が尊厳をもつ所以のひとつは、被造物の管理を神から委ねられていることにつながっています。神が人間に被造物の支配権を与えたとき、その意図は、被造物を破壊することではなく、それらを維持し、世話をすることで、今後何世代にもわたって、すべての人間と生き物に利益をもたらすためです」。

 この文章で分かりにくいのは、「人間が罪を犯す前のこと」という箇所ではないだろうか。これは“楽園追放”の物語を指している。楽園追放の話は『創世記』第2~3章に書いてあるから、ドウィット氏は第1章28節より「時間的に後に起こった」と解釈しているのである。そう解釈すると、神はいったんは人間に自然への支配権を付与したものの、人間は神が禁じた“知恵の木の実”を食べるという罪を犯したため、その支配権は無効となったとも解釈できるのである。
 
 次に、⑤ にある「環境より人間が大切だ」という主張に対しては、ドウィット氏はこんな回答をしている--
 
「この考えは、絶滅の危機にある生物種でも救う必要はないという理由によく使われます。しかし、聖書はどう教えているでしょうか? 『創世記』第6~9章にあるノアの洪水の話を思い出してください。誰が死滅し、誰が救われたでしょう? 人間以外の生物種は人間よりも重要でないのでしょうか? 最低限に言っても、他の生物種への思いやりは、人間が重要だという理由で無視することはできません。キリストの救いは、人間だけでなく、すべての生き物を含みます」。

 ここにある「ノアの洪水」の物語については、読者もよくご存じだろう。が、細部まで記憶していない人のために言えば、神は世の中が乱れすぎたためにノアとその家族以外の人間すべてを根絶しようとして大洪水を起こしたのである。ただし、すべての鳥と獣は、種を絶やさないために少数が残された。ドウィット氏は、ここから「罪深い人間は鳥や動物より価値がない」というメッセージを読み取っているようだ。逆に言えば、「人も動物も神の前には等しく価値がある」ということにもなるだろう。同氏は、それを直接には言わずに、問題提起の形で読者に考えさせようとしているのだ。
 
 環境意識の高いキリスト教の人々は今、『創世記』の記述をこのように解釈することによって、「人間は神の被造物である自然界を大切に管理する責任がある」という環境倫理を教義の中に取り入れているのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (4)

2010年7月25日

緑の聖書

Greenbible  先日行われた生長の家教修会で、私は参加者に『The Green Bible』(=写真)というのを紹介した。これは、直訳すれば『緑の聖書』である。英語圏では、「green」という言葉を「環境に配慮した」という意味で使うことは読者もご存じだろう。「グリーン・ビジネス」と言えば、環境保全や二酸化炭素を減らしたり出さない機器や製品、サービスを提供するビジネスを言い、そういう製品やサービスを選んで買うことを「グリーン調達」と言う。それでは「グリーン・バイブル」とは、環境に負荷をかけない材料で造った聖書だろうか? 確かに、この本のトビラ裏にはそういうことが書いてある――「本文用紙は10%の再生紙を使い、大豆原料のインクで印刷し、表紙は100%の天然コットン製で、環境に配慮した環境で育てられた綿を使っている」そうだ。しかし、この本が「グリーン」だという本当の意味は、このような"外装"にあるのではない。本の中身――つまり、聖書の言葉そのものが、実は環境に配慮し、神の被造物である自然を大切にせよとのメッセージに満ちている、と訴えているのである。

Biblelpagesr  読者は、英語の聖書を開いたことがあるだろうか? 英語の聖書にはいろいろな種類があるが、中には、イエスの言葉だけを目立つように赤色で印刷してあるものもある。私がもっている英文聖書の1つが、それである。有名な「Kind James Version」(欽定訳)の聖書で、ページのサンプルをここに掲げよう。これは、新約聖書の『マタイによる福音書』の第7章から第8章を含んだページである。こうすると、どれがイエスの言葉であるかがすぐにわかる。『The Green Bible』(2008年刊)ではこれに倣い、自然に関する教えが書Biblelpagesg かれた箇所がすべて緑色で印刷されているのだ。サンプル・ページをご覧に入れよう。ここには旧約聖書の『創世記』第2章から第3章が含まれている。第2章には天地創造のことが書かれているから、ほとんどが緑一色である。第3章では、エデンの楽園からの人間の追放物語が書かれていて、半分ぐらいが緑色だ。このようにして、旧約と新約の聖書の全体が2色刷りになっている。それだけでなく、巻末には自然や環境と関係のあるキーワード--例えば、土地、山、月、草、雨、種、空、星……--ごとに、それが出てくる聖書の箇所が示された索引までついている。

 この本の編纂者の意図は明確である。それは、「環境への配慮をもって聖書の言葉を読もう」ということだ。事実、この聖書の本文が始まる前に、何人かが解説文を書いているが、その中の1つには「Reading the Bible through a Green Lens」(緑のレンズを通して聖書を読む)という題がついている。それを書いているのはカルヴァン・ドウィット(Calvin B. DeWitt)というウィスコンシン大学の環境学の教授だ。もちろんキリスト教徒である。このドウィット教授の解説文は、キリスト教徒が環境問題の解決に取り組もうとする際に直面する6項目の疑問点についての"模範解答集"のような体裁になっている--

 ① この世界は私の魂が留まる家ではなく、一時的な滞在場所だ。
 ② キリスト教徒でなくても、環境問題に取り組んでいる人は大勢いる。
 ③ 過激な運動や危機感をあおるようなことはしたくない。
 ④ 神は、被造物に対して我々がしたいことをする権利を与えてくださった。
 ⑤ 環境より人間が大切だ。
 ⑥ 私は、一部の環境運動家や科学者が「こうなる」と言っていることを信じない。

 これらの疑問の中には、生長の家の信仰者が抱きがちなものも含まれていると思うので、いくつかの項目についてドウィット教授の解答を紹介しよう。
 
 谷口 雅宣
 

| | コメント (0)

2010年7月23日

本棚を製作する

 水曜日の夜から山梨県・大泉町の山荘に来ている。今回は、小さめの段ボール箱に本を詰めて持って来て、それらを収納する本棚を作る予定だった。この山荘は約9年前、あくまでも“仮の住まい”として造ったものだから、本は最低限の数が収納できればいいと思い、造りつけの6段の本棚しか置いていなかった。ところがご存じのように、あと3年もすれば、私たちは仕事場ごとこちらに移転する。となると、東京の自宅にある大量の本も移動しなければならない。狭い山荘には、それらすべてを収納するスペースはもちろんない。が、一部でもいいから、収納できる場所を用意しておくべきだと考えたのだ。
 
 市販の本棚を入れる選択肢は、もちろんあった。しかし、外壁も内壁も、天井も階段も床も木でできた建物の中に、化粧合板の既成の本棚を入れても、周囲とマッチするかどうか疑わしかった。それに、本棚を置きたい場所がロフトのような所で、上方が切妻屋根に沿って傾斜していて、低い。そういう所に置ける本棚を見つけるのは難しいと思った。

 中央道の長坂インターを降りてすぐの所に、DIY店がある。昨日の午後、そこで棚板や捻じ込み式の棚ダボなどの材料を買い、製作を開始した。もう大分長い間、木工らしいことをしていない。2001年の8月5日の本欄に、当時飼っていたブンチョウのために小屋を造ったことを書いているが、たぶんそれ以来だ。だから、頭では「簡単にできる」と考えていたことが、実際に体を動かし、材料を正しく整形して組み立てるとなると、予想外にエネルギーと手間がかかることを思い知った。東京では、熱波のため気温が「35℃」になったというニュースを聞いたが、こちらも朝夕は涼しいものの、日中は東京に勝るとも劣らない高温になる。そんな中で汗をいっぱいかきながら、慣れない作業に没頭した。没頭しながら、金属で木材を加工するための、全身の大小の筋肉を使った作業が、パソコンで文章を書いたり、スケッチブックに絵を描くのとどれほど違うかを痛感した。そして「大工さんは偉い!」と思った。
 
Bookshelf  結局、昨日の夕方と今日の日中を使って、山荘のロフトに造りつけた横長の簡単な本棚を一応、完成させた。(=写真)「一応」と書いたのは、木材の色が白っぽすぎて、板壁の飴色から突出して見えるので、塗装したいと考えているからだ。また、この上にさらに2段分ぐらいの本棚があってもいいと思う。が、そういう作業は、別の機会に譲ることにした。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2010年7月22日

『創世記』の天地創造 (6)

 本題におけるここまでの検討で、次のことが言えると思う--
 
 ①『創世記』の成立には長い時間と多くの人が関与しているため、書かれた内容は、同じ天地創造の物語にしても複数あり、互いに矛盾している。
 ②中世から近世にかけてのキリスト教は、それらの記述の中から人間の“自然支配”を正当化する記述を選んで教義を確立した。
 ③しかし、その「自然支配の教義」はキリスト教の神髄ではないため、今日のキリスト教者のうち環境意識の高い人々は、同じ『創世記』を典拠として環境保護に重点を置いた新しい解釈を引き出し、現代にふさわしい教義を形成しつつある。
 
 今回は、上記の③について、さらに詳しく述べよう。これは「教典解釈学」(Hermeneutics)と呼ばれる分野に属することだ。教典の解釈とは、過去のテキスト(教典に記述されたこと)と現在の読者との間にある文化的、歴史的距離を乗り越えるための作業であり、キリスト教のみならず、仏教やイスラームなど、長い伝統をもつ宗教ではどこでも行われてきたことだ。何千年も前の異文化圏で、異なる言語で説かれたことが、科学的知識の洗礼を受けた現代人にとって意味のある“信仰のメッセージ”となるためには、過去の事実の再現だけで済まされるはずがないからだ。この作業がうまくできない場合、その宗教は消滅の道をたどることになるだろう。
 
 こんな書き方をすると、教典解釈はたいへん難解なもののように聞こえるかもしれない。難解な部分があることは確かだが、しかし、『創世記』のように、第1章と第2章以降に矛盾した記述が多い場合などは、案外簡単にできることもある。例えば、リン・ホワイトが槍玉に挙げた第1章28節を、ここに再掲する--
 
「神は彼ら(男と女)を祝福して言われた、“生めよ、ふえよ、地に満てよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ”」

 この章句は、神が天地創造を終える最終日(6日目)に人間を造ったときに言った言葉として書かれている。宗教改革で有名なカルヴァンは、このことを「神はすべてのお膳立てを整えた後に人間を造った」--つまり、神は万物を人間のために創造された、と解釈した。ところが、今日の環境保護派のキリスト教では、同じ章句をこう解釈する--人間は神の創造の最終日に、しかも家畜や這うもの、地の獣と同じ日に造られたのだから、他の被造物より特に優れていたり、特に神に愛されているわけではない、と。
 
 また、第2章15節には、こうある--
 
「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」。

 この章句は、これまであまり注目されず、この後に来る16~17節の神の言葉--「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」--が強調されてきた。が、環境保護派のキリスト教では、15節にある「耕す」という語の原語(ヘブライ語)には「仕える」とか「働く」という意味があることを強調する。そして、そこから「人間は神の被造物である自然界を忠実に守り、育てる義務がある」という解釈を引き出すのである。
 
 谷口 雅宣
 

| | コメント (0)

2010年7月20日

『創世記』の天地創造 (5)

 前回、本テーマで書いたときの結論は、『創世記』の第1章と第2章以降の記述の違いを分析すると、「第1章は非対称性の原理が支配的であるのに対して、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」ということだった。このことは何を意味しているだろうか? 以前、「対称と非対称」や「“わかる”ということ」について本欄で書いたときに強調したことの1つは、人間の心の中では、現在意識が主として「非対称性原理」によって動いているのに対し、潜在意識は「対称性原理」を特徴とするということだった。そして、人間はこの双方を本来兼ね備えている。ということは、天地創造の物語としては、どちらにも立派な存在意義があるのである。言い直せば、天地創造について古代から2つの異なった言い伝えが併存し、双方が重視されてきたのは、双方ともに人間の心の要求に沿うものだったから、ということになるのではないだろうか。
 
 先日の生長の家教修会では、田中明憲講師は、中世から近代にかけての西洋の自然観が人間至上主義的になった一因として、この『創世記』の天地創造神話に加えて、デカルトの物心二元論の影響に言及した。デカルトの思想の背後にキリスト教の教えがあることは否定できないが、彼は神学を超えた哲学の分野で、近代科学技術の基礎となる考え方を確立した人間だから、『創世記』に“罪あり”とするならば、それと同程度に彼に“罪あり”とも言わねばならないだろう。デカルトの思想に関し、田中講師が引用した芹川博通氏の言葉がそのことを簡潔に言い表している--
 
「かれ(デカルト)の科学思想の基礎にスコラ学的カトリックの思想のあることが無視できない。(中略)この機械論的自然観は、自然を一種の機械とみる思想で、これはアリストテレス(中略)霊魂観のスコラ的解釈である“物体にひそむ生命体原理”をすべて排除するもので、自然を神から隔絶し、自然を物体化し、生命のない自然から人間を切り離すものである。これは、旧約以来の神-人間-自然の関係を近代科学的に再構築したものであり、自然科学の発展に寄与しただけでなく、近代科学文明形成に大きく貢献した」。(芹川博通著『現代人と宗教世界』[増補版]、p. 172)

 この文章を読むと、芹川氏も自然破壊の原因を“キリスト教思想”に帰したいように見えるが、私はそういう論法に前から疑問を呈してきた。その大きな理由は、“キリスト教思想”が浸透しているとは決して言えない日本や中国において、自然破壊が大いに行われてきた歴史的事実があるからで、この点を私は、ブラジルで開催した国際教修会でも指摘したのだった。もう1つ言わせてもらえば、もし“キリスト教思想”が基本的に人間至上主義的、自然破壊的だと言うならば、アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)やドイツのカトリック枢機卿で大司教も務めたニコラウス・クザーヌス(1401-1464)のように自然を愛し、自然界は神の“映し”だと説いたキリスト教指導者は、キリスト教を信じていなかったことになってしまう。まったく奇妙な話である。
 
 手前味噌に聞こえるかもしれないが、この問題は「宗教目玉焼き論」を採用すれば簡単に説明できると思う。この論は、拙著『信仰による平和の道』の第1章で展開した考え方で、本欄でもたびたび言及してきた。(例えば、2007年7月19日の本欄)これをごく簡単に言えば、宗教の“教え”の中には、卵の目玉焼きに“黄身”と“白身”があるように、“中心部分”と“周縁部分”があるという考えである。前者(中心部分)は、教えの神髄に当たる部分で、言葉によっては容易に表現できない。しかし、教えは表現しなければ(伝えなければ)意味がないから、古来、宗教の指導者たちは、それを人・時・処に応じて工夫を凝らし、様々な言葉や象徴、儀式等を媒介として表現してきた。これらが後者である。前者は時代や場所を超えて不変であるが、後者は時代や場所、文化、相手の心境などに応じて可変であり、また可変でなければならない。
 
 そのことと、キリスト教に含まれるとされる人間至上主義と、どう関係するのか? 簡単に言えば、キリスト教は、中世から近代にかけてその伝播地を拡大するにともない、“周縁部分”として人間至上主義を採用したのである。そして、世界第一の宗教となった。しかし、人間至上主義はキリスト教の神髄ではないから、20世紀末期から21世紀に入って、自然破壊や地球温暖化問題が深刻化してくると、その“周縁部分”の変更を迫られている。そして、一部の意識あるキリスト教者は、聖書にもとづいて、自らの自然観の変更と環境倫理の確立を急いでいる--こういう見方ができるだろう。
 
 谷口 雅宣

【参考文献】
○芹川博通著『現代人と宗教世界--脳死移植・環境問題・多元主義等を考える』[増補版](北樹出版、2009年)

| | コメント (0)

2010年7月18日

雄大なり、長野の空

 今日は、梅雨明け後の目の醒めるような晴天の下、松本市の長野県松本文化会館において生長の家講習会が開催された。参集してくださった受講者の数は、前回を128人(8%)上回る1,706人だった。長野教区の幹部・信徒の方々が協力して、熱心に推進してくださった努力と信仰の証である。心から感謝申し上げます。また、他教区からも参加者も案外多かったのではないかと思う。この感想は、質問者の中に川崎市からの参加者がいたり、会場で新潟越南教区の幹部の方の姿を見たし、帰途、松本駅で岐阜県からの参加者に挨拶されたことなどから得た。「連休中」というのは、講習会の開催に不向きと考える人もいるようだが、必ずしもそうではないかもしれない。普通の日曜日よりも、人々は自由に動き回れるから、「この機会に他県の講習会へ行こう」と思う人もいるのではないだろうか。
 
Naganoclouds1  今回、長野県へ行って印象深かったことの1つは、「空が大きい」ということだった。ビルが林立する東京では、目に入る空は限られているので、「空が大きい」という当り前の事実に気がつくことが少ない。ところが今回、梅雨明け宣言の直後ということもあり、長野の空の青は目に染み入るように鮮やかだった。それだけはでない。その青い空を背景にして、白い積乱雲がモクモクと湧いていて、その形が、緑の山々の頂の盛り上がりと好一対をなしていた。私はそれを見て、「山があるから雲が湧く」という、これまた当り前の事実に改めて感じ入ったのだ。

Naganoclouds2  広い青空に浮かぶ雲は、いつまで見ていても飽きない。多様な形が、見る人の想像力を掻き立てるし、光の当たり具合によって様々な色に変化する。私は、宿舎の窓や帰途の列車の窓からそれらをデジカメに納めた。そのうちの2枚を、ここに掲げる。自然界には、芸術が溢れているではないか!
 
 谷口 雅宣

| | コメント (9)

2010年7月17日

微生物の偉大な力

 15日付の『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』紙に、動物の体内に棲む細菌の働きの偉大さを感じさせる記事が2本載っていた。細菌と宿主生物との間には通常、共存共栄の関係があるのだが、それが崩れると病気の様相を呈してくる。そのことを多くの人は知識として知っているから、ヨーグルトや納豆などの細菌を含んだ発酵食品を進んで食べる人も多い。が、そういう“善玉”の細菌の代わりに“悪玉”が体内に入るとどうなるのか--その例として、次の話を読んでほしい。
 
 2008年のこと、ミネソタ大学病院で消化器病を専門としているアレクサンダー・コーラッツ博士(Alexander Khoruts)は、胃腸へのひどい感染症で苦しむ女性患者の治療に苦慮していた。彼女は下痢が止まらず、ついにオムツをつけた車椅子生活を余儀なくされていた。コーラッツ博士は、彼女に何種類もの抗生物質を処方してみたが、下痢を止めることはできなかった。下痢は長く続いていたから、患者の体重は8カ月で27キロも減っていた。そこで博士は“移植”を決意したのである。「移植」といっても他人の臓器や組織の移植ではなく、細菌の移植である。患者の夫の便を少量採り、それを生理食塩水で溶いたものを彼女の結腸に入れたのだった。すると驚いたことに、下痢はほとんど1日で止まってしまったという。それだけでなく、細菌の感染も恒常的に消えてしまった。この方法を「細菌治療」(bacteriotherapy)とか「便移植」(fecal transplantation)というそうだ。過去数十年間で数例しか実施されていない珍しい治療法だ。加えて、過去の実施例にはなかった新しい過程も付加された。それは、患者の内臓の細菌の遺伝子検査を移植の前と後とで行ったことだ。これにより分かったことは、移植前の患者の内臓には、通常人の胃腸に棲みついている細菌はまったく存在せず、その代り、本来人間の内臓にいるべきでない細菌群で覆われていたという。移植後2週間たって、再び患者の胃腸内を調べてみると、夫から移植された細菌群が全面に繁殖しているのが分かった。これらの細菌が“悪玉”を駆逐し、数日の間に彼女の内臓の機能を正常にもどしたのだ。
 
 人間の体内に棲む細菌の数は、体の細胞の総数(60兆~100兆個)の10倍ほどもあるという。だから、人間にとってこれらは別の“臓器”だと考えていい。しかし、それらの細菌群が体内でどのような働きをしているかは、医学的にもまだほとんど分かっていないらしい。だいたい体内細菌の種がどのぐらいの数かも分かっていない。口腔内だけも500~1000種類の細菌がいて、体の部分部分で棲む細菌の種類が異なるという。本来細菌はいないと考えられていた肺の中にも、128種の細菌が見つかっており、数的には1平方センチ当たり2000個の細菌がいるという。このような情報を知ってみると、我々の健康は数多くの細菌の協力によって守られていることが分かる。「天地のすべてのものに感謝せよ」という教えの正しさが分かると思う。
 
 ところで、もう1つの細菌の話は、地球温暖化に関係するものだ。微小のものが極大のことに関与している。それは、オーストラリアで飼われているウシの内臓に棲む細菌のことだ。石炭の産地であるオーストラリアは、それを発電に使っていることもあり、1人当たりの温暖化ガス排出量は世界最高レベルにあるという。その温暖化ガスのうち1割以上は、ウシやヒツジが排出するゲップ(メタンガス)だ。これらの家畜は、牧草を食べている間中ゲップをしているそうだ。メタンの温室効果はCO2の21倍もあるというから、深刻な問題である。そこで同国では、この“家畜による排出量”を減らすために、餌を工夫したり、排泄物の処理方法を改善したり、家畜の胃腸内に棲む細菌の調整をしたり、ゲップの排出が少ない種を選択的に殖やしたり、様々な検討がなされている。
 
 この“改善策”の1つに、カンガルーの利用がある。カンガルーは草食で、ウシとほとんど同じものを食べているが、メタンガスを口から出さないそうだ。そこで、カンガルーの胃腸内の細菌を牛に移植する方法が考えられているらしい。が、そんな不自然な方法は“邪道”だとして、ウシの代りにカンガルーの肉を食べるべきだと言う人も出てきている。同国では実際、カンガルーの肉が一部ですでに食されているが、量はそれほど多くない。その理由の1つは、カンガルーは基本的に野生動物であり、家畜のように柵の中に囲って飼うことはできないからだ。また、肉の量もウシの10分の1ほどしかないという。

 本欄では、牛肉を食することの様々な問題については何回も書いてきたから、もう繰り返さない。ウシの体内細菌の構成を変えてまでその肉を食べようとするのは、明らかに過剰な執着心である。代りにカンガルーを食べるというのも、不殺生の立場からあまり賛成できない。肉食への執着を放たない限り、人間にとって好ましくない結果がやってくることは、今回の宮崎県での口蹄疫の問題も示している。細菌などの微生物でさえ、人間に多くの恩恵を与えてくれているのだから、すべての生物に感謝し、その命を敬う心をもっと拡大していきたい。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2010年7月16日

『創世記』の天地創造 (4)

 前回は、『創世記』の第1章と第2章以降の違いについて、「第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」という私の見解を述べた。が、具体的な例を示していないので、読者には分かりにくかっただろう。そこで第1章のポイントとなる章句を並べてみる--
 
「神は“光あれ”と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」。(3~5節)

「神はまた言われた、“水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ”。そのようになった」。(6~7節)

「神はまた言われた、“天の下の水は一つの所に集まり、かわいた地が現れよ”。そのようになった」。(9節)

「神はまた言われた、“地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ”。そのようになった」。(11節)

「神はまた言われた、“地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ”。そのようになった」。(24節)

Genesis1  ここにある天地創造の過程は、渾然と1つになった全体の中から、何かを切り分けることで創造が行われるというパターンが繰り返されている。3~5節では、神はまず光を生むことで、「光のない場」である闇が創られる。「非AはAではない」という非対称の原理そのものが、ここにはある。それ以降、神は1つの対象を「分ける」ことで次々と諸物を創造していく。6~7節では、水の間に大空を挿入して分離することで、「天」と「天以外の水(海)」とを創造する。続いて9節では、天から分離された「天以外の水」の表面にある水を1箇所に集め、かわいた「地」を創造する。これも分離の働きである。
 
Genesis1b  植物の創造は11節で描かれるが、その過程は、進化論が唱えるような「単一種 → 複数種」の方向とは逆に、初めから神のアイディアの中(理念の世界)にある「すべての種」が一気に創造されるのである。これを言い換えれば、「植物全体を一気に全種分離する」と表現できるだろう。動物についても同じで、数多くの「種類」という分離されたものが、まず神のアイディアの中に存在していて、それにしたがって動物全種が一気に創造される。非対称の原理による天地創造だと考えられる。
 
 これに対して、『創世記』第2章4節以降の天地創造では、ものごとの共通性に着目する対称性の原理が処々に顔を出している。まず有名な人間の創造では、こうある--
 
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。(7節)

 ここでは、「人」の中に「土のちり」と「神の命」の2つが統合されている。言い換えれば、人間には物質的な側面と神的な側面とが共存しているということだ。物質と霊との共存とは、本来異質と思われる2つのものの統一であり、「Aは非Aでもある」という対称性原理の表現である。次に、獣や鳥と人間との関係については、こうある--
 
「また主なる神は言われた、“人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう”。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。」(18~19節)

 神はなぜ「人がひとりでいるのは良くない」と考えたのか? その1つの答えは、「人間は人間だけでは生きられない」ということだろう。つまり、“助け手”がいるということで、その意味は必ずしも「食べるために動物や鳥が必要」というのではない。なぜなら、この節に先立つ9節で「食べるに良いすべての木」が創造されていて、16節では、“善悪を知る木”以外ならば「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」と言われているからだ。つまり、人間の栄養源としてはすでに植物が用意されている。そのうえに必要な“助け手”とは、目や耳を楽しませ、さらに心を楽しませたり、慰めてくれるという意味ではないだろうか。となると、獣や鳥は、人間にとっては“対立者”ではなく“支援者”である。そして、人間との共通性が大きい。このことは、神が獣や鳥を創造するさいに、すべてを人間と同じように「土で造った」と記述されていることからも分かるだろう。神にとって、人も動物も同じである。ここにも対称性の原理が働いている。
 
 男と女との間にある対称性については、あまり説明を要しないだろう。『創世記』第2章では、神が人のあばら骨の1つを取って女を造ったと書かれているから、男女は本来同質であるというメッセージがそこにある。さらに、そのことを強調するために、男は女を見て「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(23節)と言って喜んでいる。そして、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(24節)と書いてある。対称性の原理はここでも明らかである。

 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2010年7月15日

『創世記』の天地創造 (3)

 前回の本欄では、『創世記』の第1章と第2章の成立年代に大きなズレがあることを指摘し、「表現スタイルや表現内容が違っていても当然だろう」と書いた。しかし、その違いについて具体的な説明をしなかった。今回は、それをしよう。
 
 私はかつての本欄(2008年10月)で、人間のものの見方の中には「対称性原理」と「非対称性原理」の2つが働いているというマテ=ブランコの考えを紹介し、それがおおむね正しいことを示した。また、人間の潜在意識では、この2つの原理のうち前者が働くことが多いのに対して、現在意識では後者が働くことが多いことを述べた。そして、「“わかる”ということ」を考えたシリーズでは、この2つの原理を使って、人間が何かを“わかる”という場合の、複雑な心的過程を次のように表現した--
 
「その過程では、まず基本的には、私たちの意識は世界から2つの概念(集合)を切り出して、それらの関係性を組み立てることから始める。この際、ほとんどの場合は、非対称性の原理にしたがって、2つの概念の間の“違い”が意識されるのである。(中略)が、そのような意識の活動と並行して、無意識のレベルでは対称性の原理が働いていて、意識が切り分けた2つの概念間の“違い”を解消させる方向に力が動いている。この意識と無意識の関係は互いに“相補的”であり、意識が物事を細分化し、自我を孤立化していく方向に働くのに対し、無意識は物事に共通性を見出し、それらを統合する働きをしている。そして、人間の理性は、これら2つの動きを把握し、全体をより高次の統合へと進める力をもっている」。(本年4月4日の本欄,)

 さて、宗教の教典は歴史書ではない。しかし、歴史的事象を扱っているものも少なくない。聖書の場合はその典型で、歴史書の体裁をとりながら、その中に歴史的事実とは異なるものが散りばめられている。だから、新約聖書の4つの福音書は、同じイエス・キリストの教えと生涯を記述していても、4つとも微妙に異なる内容になっている。では、この聖書において、イエスよりもはるか前の話--誰も目撃したことがないはずの天地創造や、人類の最初期の出来事が描かれているとしたら、私たちはそれをどう受け止め、どう理解すべきだろうか? 私は、それを「神話」として受け取るのが正しい態度であると思う。そのことは、谷口雅春先生も『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』(1990年)の中で次のように書いておられる--
 
「こうして人類の祖先はエデンの楽園から追放されたと云うのであります。これを簡単に楽園追放と云われております。しかしこの通りの出来事があったなどと素朴に考えるのは、あまりに馬鹿げだことであります。これは神話であります。神話と云うのはただのお伽譚(とぎばなし)とはちがいますけれども事実にあった話ではない。それは神様物語に託した寓話、即ち“たとえばなし”であります。その“たとえばなし”をそのまま受け取って、人間にはアダムの原罪があって、生まれながらに罪がある“罪の子”だなどと考えるのは実際と“たとえ話”とを混同したのであります」。(p.163)

 このように、『創世記』の初期の物語が神話として読まれるべきならば、その神話の「構造」を考えてみることは有意義なことと思う。神話の「構造」については、昨年秋に亡くなった構造人類学の祖、レヴィ=ストロース氏について書いたとき、私は簡単に触れたので、それを参照してほしい。ごく簡単に言えば、世界各地に残っている数々の神話には、登場する神々や人物が皆異なっていながら、共通した筋書きや、役割--つまり、共通の構造--がある。そのことに着目し、その意味を分析するのが構造人類学の1つの仕事だ。人類には共通した心の性向があり、それにもとづいて神話が語られ、つくられるという前提が、この考え方の背後にはある。神話が後世に語り継がれていく理由は、人間の心の深部にある希望や情念を、それらが満たしてくれるからで、神話を研究することで人類をより深く理解することができる、というわけである。
 
 それで、結論を先に言ってしまえば、『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方である。ただし、これはレヴィ=ストロース氏の『神話論』の内容とはあまり関係がない私独自の見解である。「独自」と言っても「独断」ではない。第2章に登場する神が具象的であり、人間と近い関係にあること--つまり、対称性原理が働いていること--は、イギリスの社会人類学者、ジェームズ・フレーザー氏(James George Frazer, 1854-1941)も次のように指摘している。ここで“『ヤハウェ資料』の作者”とあるのは、本シリーズの2回目で触れた“作者J”のことである。

「年代の古い『ヤハウェ資料』の作者は、神を具象的に捉えているので、神は人間と同じような言動をし、粘土で人間を造り、園に植物を茂らせ、1日の涼しい時間に園を散歩しながら、隠れている木蔭から出てくるように人間たちに呼びかけ、羞恥心を知った人類の始祖が裸体を隠すためにイチジクの葉で造ったごく貧弱な布に代えて毛皮の服を縫ってやるのである」。(『神話としての創世記』p.184)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口雅春著『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』(1990年、日本教文社)
○エドマンド・リーチ著/江河徹訳『神話としての創世記』(ちくま学芸文庫、2002年)

| | コメント (1)

2010年7月14日

『創世記』の天地創造 (2)

 前回の本欄では、『創世記』の第1章と第2章の天地創造の話は、それぞれ別の作者の手になるということが、聖書研究者の間では合意されていることを書いた。実は、それだけでなく、いわゆる「旧約聖書」と呼ばれているユダヤ教の教典の初期のものについては、紀元前1世紀ごろまで、後世の人々によって様々な編集作業が行われたことが分かっているのだ。イギリスの社会人類学者、エドマンド・リーチ氏(Edmund Leach)の言葉を引こう--
 
「まず第一に、二つの合意事項がある。あらゆる学問的見地から見て、旧約聖書各巻の現在の校訂本は、きわめて多様な文書の集合体であって、紀元前100年頃にようやく最終的編纂を終え、正典としての完全な承認を受けたものだと考えられている。さらにまた、この集大成のちとくに『初期のもの』と称される文書類は、整合性のため、あるいは政治的、宗教的信条の論点に伝承的支柱を与えるために、後の時代の編纂者たちが時に応じて挿入した数多くの改竄個所を含むということが、すべての学者たちの合意点である」。(『神話としての創世記』p.46)

Hbibleorigins  このことは、「肉食と世界平和」をテーマとした2006年の生長の家教修会で小林光子講師が行った発表の中で言及されている。この時は、肉食の是非を旧約聖書の記述から確認しようとした場合、『創世記』の第1章、第9章、『レビ記』第11章で矛盾した記述が見られるため、その理由を同講師が述べたのだった。詳しくは、この時の教修会の発表をまとめた『肉食と世界平和を考える Ⅱ』を参照されたい。なお、先日の教修会では、私は旧約聖書の最初の5巻で「モーセ五書」と呼ばれているものの成立年代とそれらの“著者”のことを、ここに掲げる図にまとめて説明した。この図で最も訴えたかったことは、『創世記』では“作者P”の手によるとされている第1章が、“作者J”による第2章より「400年」もあとに書かれたという点である。日本の歴史と比較すると語弊が生じるかもしれないが、この「400年」のズレの大きさを感じてもらうために敢えてそれをすると、戦国時代に書かれた文章と明治初期に書かれた文章とが、同じ書に同居していることになる。表現スタイルや表現内容が違っていても当然だろう。しかも、前後が逆転しているのだから、聖書の作者たちが『創世記』に“歴史的事実”を記述する意図がなかったことは明白だ。
 
 私は、この『創世記』成立の過程には、人類初の“一神教”としてのユダヤ教の立場が深く関係しているのではないかと思う。『創世記』第2章の記述だけで天地創造を説明することは、前回本欄で指摘したように、いかにもおざなりである。かと言って、第2章の楽園追放物語からノアの大洪水の話、バベルの塔の物語を経て、アブラムの誕生にいたる筋書きだけでは、神の創造は、人間の不服従と不遜によって傷つけられたままである。つまり、神は天地創造に失敗したことになる。そんな神を、「唯一絶対神」として、他の諸々の異教の神々の競争相手として定立することに、聖書の作者たちは満足しなかったのではないか。あるいは、第1章を書き加えなければ、ユダヤ教は“一神教”になりえなかったのではないか。もちろん、これはあくまでも私の想像である。が、もし私が当時のユダヤの地に生きていたとしたら(この設定も相当不自然だが)、『創世記』第2章から始まる天地創造しかできない神を信仰する気にはなれないのである。その神は、とても人間的ではあるが、怒り、嫉妬し、残虐を働き、信仰者から愛する者を無慈悲に奪うからだ。

 こう考えてくると、『創世記』第1章に表現された神が、ユダヤ教とキリスト教を本当の意味で一神教たらしめるという、重要な役割を果たしたことが分かる。

 
【参考文献】
○エドマンド・リーチ著/江河徹訳『神話としての創世記』(ちくま学芸文庫、2002年)
○生長の家国際本部教化・講師部監修『肉食と世界平和を考える Ⅱ』(生長の家刊、2010年)

 

| | コメント (0)

2010年7月13日

『創世記』の天地創造

 11日の本欄で今年度の生長の家教修会のことに触れたが、さらに続けよう。リン・ホワイトは『創世記』第1章にある天地創造物語を批判の対象としたが、実は『創世記』には、そこ以外にも天地創造物語が存在する。このことは、生長の家の『創世記』解釈を谷口雅春先生の著作から学んだ読者は、よくご存じのはずだ。もう1つの天地創造は、同じ書の第2章4~6節にある。『創世記』第1章は、31節すべてが天地創造物語であり、そのストーリーはさらに第2章の3節まで食い込んで続いている。これに対して、第2章にある物語は、実に簡単である--
 
「主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた」。(第2章4~6節)

 これはもちろん全ストーリーではなく、人間が造られる前段階までの筋書きだ。第2章では、わずか3節の文章で人間誕生までが描かれるのだが、第1章では、実にていねいに、25節にわたる文章を使って、人間創造までの6日間の過程が1日ごとに描かれている。だから、文章の細部にあまり注意せずに聖書を読んでいると、第2章の話は、第1章に描かれた宇宙最初の1週間のうち、特定の1日の出来事を改めて詳述しているのだと誤解してしまう。しかし、上の引用文をよく読むと、その解釈が成り立たないことがわかるのである。なぜなら、この直後に来る第2章7節にはこう書いてあるからだ--
 
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。
 
 つまり、第2章では、植物よりも人間の方が、先に創造されたことになっているのだ。そして、その理由まできちんと書いてある。それは、人間創造の前には、雨もなく、土を耕す人間もいなかったから、植物が生えるはずがないというのだ。

 これに対して、第1章では、植物の創造が3日目、人間の創造は6日目、とはっきり書いてある。そして、植物は人間がいなくても、神が「はえさせよ」と命ずれば、どんどん生えてくるのである--
 
「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ草とをはえさせた。神は見て、良しとされた」。(11~13節)
 
 これだけではない。第1章と第2章の記述で食い違うところは、数多くある。おそらくその最大のものは、人間の創造である。上に掲げた第2章の人間創造と、以下の第1章の記述の違いは明らかである--

「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」。(第1章27節)

 第2章の物語では「アダム」という名前の男だけが創造され、その後の第2章21~22節で、アダムのあばら骨を取って「エバ」(女)が造られるのである。ところが、上記の1章27節では、いっぺんに男女の人間が造られている。それだけではない。第2章では、神は「土のちり」で人間を造ったが、第1章では、そういう“素材”の話は一切出てこない。恐らく、神の創造には物質的な素材など不要なのである。
 
 このように、ごく一部を比べただけでも、『創世記』の第1章の天地創造と第2章4節以降の物語は、互いに大きく食い違い、矛盾している。だから、聖書研究者の間では、これらの話は、それぞれ別の作者の手になるということが、大筋で合意されているのだ。ということは、リン・ホワイトの指摘がきわめて部分的である可能性を暗示している。つまり、彼が第1章28節の記述のおかげで、人間が自然破壊を正当化するようになったと指摘しても、作者が異なると思われる第2章に、自然破壊を戒める教えが書いてあれば、彼の主張は瓦解するか、少なくとも“証拠不十分”の誹りを免れないことになる。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (0)

2010年7月12日

イメージショウはもうやめよう

 参議院議員選挙の結果、民主党が敗北し、自民党の復調とみんなの党の躍進が明らかになった。これまでの民主党の“業績”を見ていれば仕方ないことであり、今後かえってよい結果につながると私は思う。昨年の8月31日の本欄で、私は「民主党政権の誕生を歓迎する」と書いたが、そこにある日本政治への期待は今も少しも変わらないので、以下に一部を引用する--
 
「私は日本に2大政党制が到来することを待ち望んでいる。そういう意味では、野に下る自民党は崩壊してしまわずに、イギリスの保守党やアメリカの共和党のように、“自由尊重”と“現実主義”の立場から政策を提言し続けてほしいし、民主党は、イギリスの労働党やアメリカの民主党のように、“平等”と“理想主義”の価値を政策に反映させてほしい。まあ、これは英米の例にあえてなぞらえて書いたのだが、日本には日本独自の価値観の組み合わせがあってもいいし、またそうあるべきだろう。とにかく、現状のように、民主党も自民党も内部に“右”から“左”までの考えが混在している状態では、“どっちが政権を取っても同じ”という印象はぬぐい切れず、これが国民の間の政治不信と政治への無関心の原因となっている。今回の大変化を好機として、両党はぜひ政策論争を深めて、政治的に健全で、国民にとって有意義な“対立軸”を固めていってほしいのである」。

 今回の選挙結果は、鳩山氏から首相の座を譲り受けた菅首相が、選挙直前になって「消費税10%」を言い出すような“策に溺れる”態度に、多くの国民がイエローカードを渡す決断をしたと言える。これに加えて、堅実な自民党の選挙戦術が“小沢流”の豪腕戦術を上回った。つまり、民主党の驕りに国民が「ノー」の票を投じたということだろう。私が言っている“小沢流”とは、民主党が改選数2議席以上の複数区のほとんどで、2人の候補者を立てたことだ。これに対し、自民党は複数区では共倒れを防ぐために候補者を1人に絞り、1人区での勝利を狙う戦術をとった。危機感がそうさせたのだろう。その結果はご存じのように、参院の議席数で「民主-10」「自民+13」「みんな+9」「公明-2」となった。これにより、参院と衆院とで与野党の議席に“ねじれ現象”が生じたから、これからの政治運営は遅々としたものとなるだろう。その中で、今回躍進をとげた「みんなの党」が立ち回って“政界再編”をねらう……そんな構図が見えてくる。

 私は上に引用したように、日本の政治に“イメージショウ”ではなく、優先順位を明確にした“政策論争”を早く持ち込んでほしいのである。「みんなの党」というのは、党名からして政策がない。だから、どんな政策でもその時々の“風向き”に応じて取捨選択することが可能で、責任ある政党にはなり得ないと思っている。ところで、『ニューヨークタイムズ』紙の国際版である『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』は今日付の紙面で参院選の結果を報じているが、そこではみんなの党のことを「Your Party」と英語表記していて、その党名の前に「oddly named」という形容詞句を入れている。これは「奇妙な名前の」というほどの意味だ。これから推測すると、「みんなの党」の正式英語名が「Your Party」なのだろう。ということは、渡辺党首は「あなたの党」という意味でこの名称を使っているということになる。私は、こちらの党名の方がわかりやすいと思う。「あなたのための政策をやります」という意味に取れるからだ。しかし、「みんな」では、考え方の違う人間が大勢いるだろうから、それらすべてを満足させる政策などありえない。ということは、「無政策の党」あるいは「無策の党」になってしまう。いずれにせよ、この奇妙な党名は“イメージショウ”の延長線にあるとしか思えないし、その“煙幕”の背後には政治的野心が丸見えである。“政界再編”と”権力奪取“のためだけの政治家集団は、今の日本が必要としているとは思えないのである。

 谷口 雅宣

| | コメント (1)

2010年7月11日

生長の家教修会が終わる

 昨日の午後と今日にかけて、東京・原宿の生長の家本部会館で全国の本部講師・本部講師補などを集めて本年度の生長の家教修会が行われた。その準備のため1週間、本欄を休載した。今年の教修会は昨年8月、ブラジルのサンパウロ市で行われた「世界平和のための生長の家国際教修会」に引き続き、世界の宗教がもつ自然観がテーマだった。4人の発表者が、それぞれ①ユダヤ教・キリスト教・イスラームの自然観、②ヒンズー教・仏教・儒教の自然観、③日本における自然観、④心理学の視点から見た自然と人間の関係について、研究結果を発表した。妻は1日目の最後に講話し、私はすべての発表の後に、それらをまとめた講話を担当した。

 しかし、「まとめの講話」というのは難しい。特に今回のテーマは広大な領域をカバーしているので、それらすべてについて「知る」ことだけでも1~2週間でできるものではない。1つの世界宗教の自然観を知ることだけでも、大学院レベルの研究が少なくとも1年間は必要だろう。というわけで、私の講話は、キリスト教の自然観のもととなっていると思われる『創世記』に絞り込んでおこなった。『創世記』はユダヤ教の教典の一部でもあり、イスラームでも『コーラン』に、この書にもとづいた記述が各所に見られるから、間接的に影響を及ぼしている。そういう意味で、この書に表現された世界観や自然観は、過去の人類にとってはもちろん、現代人にとっても重要な意味があると思うのである。

『創世記』に表れた自然観について有名なのは、アメリカの社会学者、リン・ホワイト(Lynn T. White, 1907-1987)の批判である。このことは昨年の教修会でも触れたが、ホワイトは1967年に出した「生態学的危機の歴史的起源(The Historical Roots of Our Ecologic Crisis)」という論文で、「地球は人間の消費の対象である」と見なす考えの起源は中世キリスト教とその自然に対する態度にあるとし、ユダヤ=キリスト教の神学は基本的に自然界に対して搾取的であると批判した。そして、この搾取的態度の元となっているのが、『創世記』第1章28節にある次の記述だと指摘した--

「神は彼ら(男と女)を祝福して言われた、“生めよ、ふえよ、地に満てよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ”」

 この論文は、欧米において宗教の教えが社会の自然観を形成・維持するのにどれだけ関与したかについて、長い論争を引き起こし、その後10年にわたるキリスト教環境神学に一定の方向を与えただけでなく、環境史、環境神学、環境倫理学などの新しい学問を発達させる契機になったと言われている。日本でも、このホワイト論文は学者の間で人気があり、ユダヤ=キリスト教の思想は人類が自然破壊を引き起こす大きな要因になったというのが、一種の“定説”のようになったのである。私はこの指摘に、前から疑問を感じていた。だから、2002年に出版した『今こそ自然から学ぼう--人間至上主義を超えて』でもそれを表明し(p.115)、昨年のサンパウロでの国際教修会では、この議論の弱点を指摘した。それは、この日本の戦後の自然破壊の歴史を見れば、キリスト教とは関係のないところでも自然に対する搾取的な言動は当たり前に見られるからである。『日本列島改造論』の田中角栄元首相が、キリスト教の神学を信じていたなどという話は聞いたことがないからである。だいいち、公式統計では、日本のキリスト教系宗教団体の信者数は300万人前後で推移していて、人口に占める割合はわずか「1.4%」なのである。
 
 今回の教修会でも、私はこの問題に触れ、宗教の教説と社会の動向に密接な関係があることは認めるが、それは必ずしも「因果関係」ではなく、「相関関係」にすぎない場合もある、という意味のことを述べたのだった。相関関係を因果関係と混同する誤りは、学問の世界でもよく起こることだし、政治の世界に至っては意識して行われることも珍しくない。例えば、戦前の日本ではマスメディアも宗教もこぞって日本の中国大陸侵攻を擁護し、支援さえしたが、それはあくまでも相関関係であり、因果関係ではない。言いなおすと、マスメディアや宗教が大陸侵攻の原因になったのではなく、原因は別のところにあったのである。しかし、その時代の現象を一部だけ捉え、切り取って眺めると、「社会の戦争擁護」と「軍の大陸侵攻」という2つの現象は同時併行的に存在している。だから、相関関係があるという事実は否定できないのである。

 別の例を挙げれば、ヨーロッパ列強の植民地支配とキリスト教の海外伝道とは同時併行的に行われた。しかしこれも、両者の相関関係を示していても、必ずしも因果関係を示していない。こういう視点から眺めてみると、たとえ中世キリスト教の神学が自然界に対して搾取的であっても、また、同時に中世から近世にかけてヨーロッパの自然が広範囲に破壊されたとしても、前者は後者の原因だったとは必ずしも言えないということが分かるだろう。それを言うためには、もっと別の、より広範囲の情報が必要なのである。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (2)

2010年7月 4日

キノコの不思議 (2)

 前回の本欄で有毒のキノコと食用のキノコを比較して、「どちらが優れていて、どちらが劣っているか」などと質問したが、さっそく読者から的確にポイントを突いたコメントをいただいた。その中で、キノコの毒性について「優劣の観点で考える」ことに疑問を呈していられるが、その疑問は多分、私の表現の足りなさから来たものだ。私が問いたかったのは、適者生存の原則にもとづく“進化”を考えた場合、人間にとって有毒のものと、人間が食用にできるその近似種とは、どちらが“適者”であり、どちらがそうでないかということ。また、その適性を誰がどういう理由で決められるのか……という問題である。もっと具体的に言えば、食用のクロハツと猛毒のクロハツモドキは、どちらが“適者”であり、どちらがそうでないのか。もしどちらか一方が“適者”だというならば、その理由は何だろうか? また、いずれのキノコも“適者”だといえるならば、「適者生存」という原則は、この場合成り立つのか--そういう疑問である。

 私の思考の筋道は、こうなる--まず一方では、食用になるクロハツは、それを動物(人間を含む)が食することで胞子が遠方に運ばれるため、子孫の増殖に有利に働く。しかし他方では、動物の食用にされることは、常に食いつくされる危険を伴うから、毒性をもったニセクロハツの方が、子孫の増殖に有利に働く場合もある。こうなると、キノコが毒性をもつかもたないかは、進化論的な意味で「適性」に該当するかどうか疑わしくなる。さらに言えば、ある動物に対してキノコが毒性をもっていても、別の動物はその毒性に対する免疫をもっている場合があるから、「毒性をもつ」ことのメリットは、常に捕食動物や天敵との関係で変動することになり、キノコの有毒無毒の別は、進化論的にはそれほど意味がないとも考えられる。ただここで言えることは、クロハツの系統のキノコの複数種を“一体”として考えた場合、この中に有毒なものと無毒のもの双方がある方が、どちらか一方しかないよりも、天敵への対応能力が全体として増すから、「適者生存」の原則に合致するということだ。
 
 ややこしい言い方をしてしまったが、私の言いたいことは、要するに「多様性のある方がグループ全体の生存に有利に働く」ということだ。クロハツが属する「ベニタケ科ベニタケ属」のキノコについてこれを言えば、このグループ中に毒性のあるものと無毒のものが混在する方が、どちらか一方しか存在しないよりも、グループ全体の生存に有利に働くということだ。その場合、クロハツもニセクロハツも共に「適者」ということになるだろう。

 ここでキノコと人間とを比べるのは早急かもしれないが、最近の研究で興味あるものが報道されている。それは、人類も“進化”の途上にあることを示す研究だというのだ。7月2日付の『ニューヨーク・タイムズ』(電子版)によると、人類でもっとも最近起こった“進化”は、約3千年前に中国の漢人からチベット人が分化したことだとする研究が、アメリカの科学誌『サイエンス』の最新号に掲載されるらしい。この進化の内容は、高地でも高山病にならないような遺伝子の変化で、「HIF2a」(hypoxia-inducible factor 2-alpha)と呼ばれている遺伝子と関係しているという。人間は酸素が少ない高地へ行くと、足りない酸素をより多く吸収しようとして、体が血液中の赤血球を増加させるらしい。このために血液がドロドロとなって高山病に陥る危険が増し、また生殖能力の一部が低下するらしい。漢人とチベット人の遺伝情報を比べると、漢人に稀にしかない30個の遺伝子が、チベット人の間にはごく普通に存在していることが分かったという。特に驚いたのがこの「HIF2a」という遺伝子で、漢人は9%にしかこれがないが、チベット人の87%がこれをもっているらしい。この遺伝子のおかげで、チベット人は高地にいても赤血球があまり増加しないという。
 
 もしこれが“進化”だとした場合、チベット人は漢人より全体的に「優れている」のだろうか? そんなことはあるまい。もし優れている面があるとしたら、それは「高地にあって生活する能力」という一部だけである。ただしその反面、この遺伝的な適応があったおかげで、別の面ではハンディキャップが生まれているかもしれないのだ。全体としてどちらが優れているかは、誰にも分からないだろう。なぜなら、生存上の有利不利は、その人が棲む「環境」を無視しては決められないからだ。そして、環境は地域によって様々だから、比較して優劣を言うことはできないからだ。しかし、ここでも言えることは、上記のように漢人からチベット人が分化したことで、中国系の人類全体を1つのグループと考えれば、そのグループ全体の環境への適応能力は増加したのである。だから人類は、このようにして多様性を拡大することで、人類全体の生存能力を増大してきたということができるだろう。
 
 谷口 雅宣
 

| | コメント (2)

2010年7月 2日

キノコの不思議

 妻が昨日のブログでハナビラタケを採ったことを書いているが、キノコの食用種と有毒種のことを考えると、いつも不思議に思う。ネットなどで調べると、ハナビラタケは日本には1種しかなく、食用にも栄養補給にもよい貴重種だ。もう少し具体的に言うと、このキノコの分類学上の名前は「ハナビラタケ科ハナビラタケ属ハナビラタケ」である。これに対して、シイタケは「ヒラタケ科マツオウジ属」のシイタケである。マツオウジ属のキノコは、日本産ではシイタケのほかに3種あるらしい。ということは、形質の似通った同属のキノコであっても、有毒のものとそうでないものが存在する可能性があるのだ。ここのところが、キノコの面白いところであり、かつコワイところでもある。食用種だと思って安易に食すると、とんでもない目に遭うことになる。しかし、ハナビラタケの場合は1種しかないから、特徴さえしっかり覚えてしまえば、そういう危険性はまずない。
 
Kurohatsu  ところで、今日は別のキノコに遭遇した。ここにその写真を掲げるが、私が見たところでは(確信はないが)、クロハツではないかと思う。山荘の北側にある林の斜面に、何株も頭をもたげていたのである。名前のように黒い色をしているから、湿った地面を押し上げて出ていても見えにくい。傘の直径が10数センチあり、傘の上面は黒くても下面と軸は白い。肉質はもろく弾力に乏しい。ものの本によると、「風味には癖がなく、汁物や煮物にはよい味が出る」とあるが、次のような注意書きが添えられている--「肉を切り裂いて、はっきり黒変することが確認されない限り、似た仲間を食用にしてはならない」。つまり、似たような近種がいくつかあって、その中には有毒のものがあるのである。クロハツは、分類学上は「ベニタケ科ベニタケ属」に入っていて、この中には「シロハツ」(白色)とか「クサハツ」(褐黄色)とか「キチャハツ」(ほぼ白色)など、黒くない近似種がいくつもある。それだけでなく、黒い色の近似種にも「ニセクロハツ」と「クロハツモドキ」がある。このうちニセクロハツについては、次のような説明がある--
 
「猛毒。食後5~20分後、嘔吐、下痢。その後、瞳孔の縮小、背中の痛み、肩こり、言語障害、尿が赤くなるなどの症状が出て、心臓が衰弱し、意識不明に陥る。2日後に死亡。致死量は2~3本。毒成分は不明。」

 こんな記述を読めば、よほどの人でない限り、本物のクロハツを見つけたとしても、それを食べるわけにはいかないだろう。有毒か否かを調べる方法も、書いてあるにはある。それは、クロハツの場合は切断すると、切り口が赤変した後に黒くなるが、ニセクロハツは赤変するだけで黒くならないというのである。それで、私は採ったキノコの軸を折って様子を見たのだが、赤変も黒変もしなかった。恐らく別種か、あるいは変種かもしれない。つまり、キノコも環境の変化によって変種を生み出す可能性は、常にあるのだ。
 
 このクロハツとニセクロハツのように、外見は似ているが、一方は食用でも他方は有毒という関係のキノコは、案外多い。鮮やかな赤い色で有名なタマゴタケには、有毒なベニテングタケがある。食用のクリタケには、よく似た有毒のニガクリタケがある。食べられるシモフリシメジやアイシメジにも、外見のよく似たネズミシメジという有毒種がある。また、食用のチャナメツムタケには、下痢症状を起こすヤケアトツムタケという近似種がある……という具合だ。
 
 ここで私は、6月22~23日の本欄で書いた「平凡と非凡」の問題を思い起こすのである。人間の食用になるキノコと有毒のキノコでは、いったいどちらが「平凡」で、どちらが「非凡」なのだろうか? 別の言葉でいえば、どちらが優れていて、どちらが劣っているのか? あるいは、「適者生存」の原則に即して、どちらがより進化をとげているのだろうか? この問いに対する答えは、結構むずかしいと思う。
 
 谷口 雅宣

| | コメント (4)

« 2010年6月 | トップページ | 2010年8月 »