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2010年7月22日

『創世記』の天地創造 (6)

 本題におけるここまでの検討で、次のことが言えると思う--
 
 ①『創世記』の成立には長い時間と多くの人が関与しているため、書かれた内容は、同じ天地創造の物語にしても複数あり、互いに矛盾している。
 ②中世から近世にかけてのキリスト教は、それらの記述の中から人間の“自然支配”を正当化する記述を選んで教義を確立した。
 ③しかし、その「自然支配の教義」はキリスト教の神髄ではないため、今日のキリスト教者のうち環境意識の高い人々は、同じ『創世記』を典拠として環境保護に重点を置いた新しい解釈を引き出し、現代にふさわしい教義を形成しつつある。
 
 今回は、上記の③について、さらに詳しく述べよう。これは「教典解釈学」(Hermeneutics)と呼ばれる分野に属することだ。教典の解釈とは、過去のテキスト(教典に記述されたこと)と現在の読者との間にある文化的、歴史的距離を乗り越えるための作業であり、キリスト教のみならず、仏教やイスラームなど、長い伝統をもつ宗教ではどこでも行われてきたことだ。何千年も前の異文化圏で、異なる言語で説かれたことが、科学的知識の洗礼を受けた現代人にとって意味のある“信仰のメッセージ”となるためには、過去の事実の再現だけで済まされるはずがないからだ。この作業がうまくできない場合、その宗教は消滅の道をたどることになるだろう。
 
 こんな書き方をすると、教典解釈はたいへん難解なもののように聞こえるかもしれない。難解な部分があることは確かだが、しかし、『創世記』のように、第1章と第2章以降に矛盾した記述が多い場合などは、案外簡単にできることもある。例えば、リン・ホワイトが槍玉に挙げた第1章28節を、ここに再掲する--
 
「神は彼ら(男と女)を祝福して言われた、“生めよ、ふえよ、地に満てよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ”」

 この章句は、神が天地創造を終える最終日(6日目)に人間を造ったときに言った言葉として書かれている。宗教改革で有名なカルヴァンは、このことを「神はすべてのお膳立てを整えた後に人間を造った」--つまり、神は万物を人間のために創造された、と解釈した。ところが、今日の環境保護派のキリスト教では、同じ章句をこう解釈する--人間は神の創造の最終日に、しかも家畜や這うもの、地の獣と同じ日に造られたのだから、他の被造物より特に優れていたり、特に神に愛されているわけではない、と。
 
 また、第2章15節には、こうある--
 
「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」。

 この章句は、これまであまり注目されず、この後に来る16~17節の神の言葉--「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」--が強調されてきた。が、環境保護派のキリスト教では、15節にある「耕す」という語の原語(ヘブライ語)には「仕える」とか「働く」という意味があることを強調する。そして、そこから「人間は神の被造物である自然界を忠実に守り、育てる義務がある」という解釈を引き出すのである。
 
 谷口 雅宣
 

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