『創世記』の天地創造 (5)
前回、本テーマで書いたときの結論は、『創世記』の第1章と第2章以降の記述の違いを分析すると、「第1章は非対称性の原理が支配的であるのに対して、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」ということだった。このことは何を意味しているだろうか? 以前、「対称と非対称」や「“わかる”ということ」について本欄で書いたときに強調したことの1つは、人間の心の中では、現在意識が主として「非対称性原理」によって動いているのに対し、潜在意識は「対称性原理」を特徴とするということだった。そして、人間はこの双方を本来兼ね備えている。ということは、天地創造の物語としては、どちらにも立派な存在意義があるのである。言い直せば、天地創造について古代から2つの異なった言い伝えが併存し、双方が重視されてきたのは、双方ともに人間の心の要求に沿うものだったから、ということになるのではないだろうか。
先日の生長の家教修会では、田中明憲講師は、中世から近代にかけての西洋の自然観が人間至上主義的になった一因として、この『創世記』の天地創造神話に加えて、デカルトの物心二元論の影響に言及した。デカルトの思想の背後にキリスト教の教えがあることは否定できないが、彼は神学を超えた哲学の分野で、近代科学技術の基礎となる考え方を確立した人間だから、『創世記』に“罪あり”とするならば、それと同程度に彼に“罪あり”とも言わねばならないだろう。デカルトの思想に関し、田中講師が引用した芹川博通氏の言葉がそのことを簡潔に言い表している--
「かれ(デカルト)の科学思想の基礎にスコラ学的カトリックの思想のあることが無視できない。(中略)この機械論的自然観は、自然を一種の機械とみる思想で、これはアリストテレス(中略)霊魂観のスコラ的解釈である“物体にひそむ生命体原理”をすべて排除するもので、自然を神から隔絶し、自然を物体化し、生命のない自然から人間を切り離すものである。これは、旧約以来の神-人間-自然の関係を近代科学的に再構築したものであり、自然科学の発展に寄与しただけでなく、近代科学文明形成に大きく貢献した」。(芹川博通著『現代人と宗教世界』[増補版]、p. 172)
この文章を読むと、芹川氏も自然破壊の原因を“キリスト教思想”に帰したいように見えるが、私はそういう論法に前から疑問を呈してきた。その大きな理由は、“キリスト教思想”が浸透しているとは決して言えない日本や中国において、自然破壊が大いに行われてきた歴史的事実があるからで、この点を私は、ブラジルで開催した国際教修会でも指摘したのだった。もう1つ言わせてもらえば、もし“キリスト教思想”が基本的に人間至上主義的、自然破壊的だと言うならば、アッシジの聖フランチェスコ(1182-1226)やドイツのカトリック枢機卿で大司教も務めたニコラウス・クザーヌス(1401-1464)のように自然を愛し、自然界は神の“映し”だと説いたキリスト教指導者は、キリスト教を信じていなかったことになってしまう。まったく奇妙な話である。
手前味噌に聞こえるかもしれないが、この問題は「宗教目玉焼き論」を採用すれば簡単に説明できると思う。この論は、拙著『信仰による平和の道』の第1章で展開した考え方で、本欄でもたびたび言及してきた。(例えば、2007年7月19日の本欄)これをごく簡単に言えば、宗教の“教え”の中には、卵の目玉焼きに“黄身”と“白身”があるように、“中心部分”と“周縁部分”があるという考えである。前者(中心部分)は、教えの神髄に当たる部分で、言葉によっては容易に表現できない。しかし、教えは表現しなければ(伝えなければ)意味がないから、古来、宗教の指導者たちは、それを人・時・処に応じて工夫を凝らし、様々な言葉や象徴、儀式等を媒介として表現してきた。これらが後者である。前者は時代や場所を超えて不変であるが、後者は時代や場所、文化、相手の心境などに応じて可変であり、また可変でなければならない。
そのことと、キリスト教に含まれるとされる人間至上主義と、どう関係するのか? 簡単に言えば、キリスト教は、中世から近代にかけてその伝播地を拡大するにともない、“周縁部分”として人間至上主義を採用したのである。そして、世界第一の宗教となった。しかし、人間至上主義はキリスト教の神髄ではないから、20世紀末期から21世紀に入って、自然破壊や地球温暖化問題が深刻化してくると、その“周縁部分”の変更を迫られている。そして、一部の意識あるキリスト教者は、聖書にもとづいて、自らの自然観の変更と環境倫理の確立を急いでいる--こういう見方ができるだろう。
谷口 雅宣
【参考文献】
○芹川博通著『現代人と宗教世界--脳死移植・環境問題・多元主義等を考える』[増補版](北樹出版、2009年)
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