« 『創世記』の天地創造 (3) | トップページ | 微生物の偉大な力 »

2010年7月16日

『創世記』の天地創造 (4)

 前回は、『創世記』の第1章と第2章以降の違いについて、「第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている」という私の見解を述べた。が、具体的な例を示していないので、読者には分かりにくかっただろう。そこで第1章のポイントとなる章句を並べてみる--
 
「神は“光あれ”と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」。(3~5節)

「神はまた言われた、“水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ”。そのようになった」。(6~7節)

「神はまた言われた、“天の下の水は一つの所に集まり、かわいた地が現れよ”。そのようになった」。(9節)

「神はまた言われた、“地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ”。そのようになった」。(11節)

「神はまた言われた、“地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ”。そのようになった」。(24節)

Genesis1  ここにある天地創造の過程は、渾然と1つになった全体の中から、何かを切り分けることで創造が行われるというパターンが繰り返されている。3~5節では、神はまず光を生むことで、「光のない場」である闇が創られる。「非AはAではない」という非対称の原理そのものが、ここにはある。それ以降、神は1つの対象を「分ける」ことで次々と諸物を創造していく。6~7節では、水の間に大空を挿入して分離することで、「天」と「天以外の水(海)」とを創造する。続いて9節では、天から分離された「天以外の水」の表面にある水を1箇所に集め、かわいた「地」を創造する。これも分離の働きである。
 
Genesis1b  植物の創造は11節で描かれるが、その過程は、進化論が唱えるような「単一種 → 複数種」の方向とは逆に、初めから神のアイディアの中(理念の世界)にある「すべての種」が一気に創造されるのである。これを言い換えれば、「植物全体を一気に全種分離する」と表現できるだろう。動物についても同じで、数多くの「種類」という分離されたものが、まず神のアイディアの中に存在していて、それにしたがって動物全種が一気に創造される。非対称の原理による天地創造だと考えられる。
 
 これに対して、『創世記』第2章4節以降の天地創造では、ものごとの共通性に着目する対称性の原理が処々に顔を出している。まず有名な人間の創造では、こうある--
 
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」。(7節)

 ここでは、「人」の中に「土のちり」と「神の命」の2つが統合されている。言い換えれば、人間には物質的な側面と神的な側面とが共存しているということだ。物質と霊との共存とは、本来異質と思われる2つのものの統一であり、「Aは非Aでもある」という対称性原理の表現である。次に、獣や鳥と人間との関係については、こうある--
 
「また主なる神は言われた、“人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう”。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。」(18~19節)

 神はなぜ「人がひとりでいるのは良くない」と考えたのか? その1つの答えは、「人間は人間だけでは生きられない」ということだろう。つまり、“助け手”がいるということで、その意味は必ずしも「食べるために動物や鳥が必要」というのではない。なぜなら、この節に先立つ9節で「食べるに良いすべての木」が創造されていて、16節では、“善悪を知る木”以外ならば「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい」と言われているからだ。つまり、人間の栄養源としてはすでに植物が用意されている。そのうえに必要な“助け手”とは、目や耳を楽しませ、さらに心を楽しませたり、慰めてくれるという意味ではないだろうか。となると、獣や鳥は、人間にとっては“対立者”ではなく“支援者”である。そして、人間との共通性が大きい。このことは、神が獣や鳥を創造するさいに、すべてを人間と同じように「土で造った」と記述されていることからも分かるだろう。神にとって、人も動物も同じである。ここにも対称性の原理が働いている。
 
 男と女との間にある対称性については、あまり説明を要しないだろう。『創世記』第2章では、神が人のあばら骨の1つを取って女を造ったと書かれているから、男女は本来同質であるというメッセージがそこにある。さらに、そのことを強調するために、男は女を見て「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(23節)と言って喜んでいる。そして、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(24節)と書いてある。対称性の原理はここでも明らかである。

 谷口 雅宣

|

« 『創世記』の天地創造 (3) | トップページ | 微生物の偉大な力 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。