« 『創世記』の天地創造 (2) | トップページ | 『創世記』の天地創造 (4) »

2010年7月15日

『創世記』の天地創造 (3)

 前回の本欄では、『創世記』の第1章と第2章の成立年代に大きなズレがあることを指摘し、「表現スタイルや表現内容が違っていても当然だろう」と書いた。しかし、その違いについて具体的な説明をしなかった。今回は、それをしよう。
 
 私はかつての本欄(2008年10月)で、人間のものの見方の中には「対称性原理」と「非対称性原理」の2つが働いているというマテ=ブランコの考えを紹介し、それがおおむね正しいことを示した。また、人間の潜在意識では、この2つの原理のうち前者が働くことが多いのに対して、現在意識では後者が働くことが多いことを述べた。そして、「“わかる”ということ」を考えたシリーズでは、この2つの原理を使って、人間が何かを“わかる”という場合の、複雑な心的過程を次のように表現した--
 
「その過程では、まず基本的には、私たちの意識は世界から2つの概念(集合)を切り出して、それらの関係性を組み立てることから始める。この際、ほとんどの場合は、非対称性の原理にしたがって、2つの概念の間の“違い”が意識されるのである。(中略)が、そのような意識の活動と並行して、無意識のレベルでは対称性の原理が働いていて、意識が切り分けた2つの概念間の“違い”を解消させる方向に力が動いている。この意識と無意識の関係は互いに“相補的”であり、意識が物事を細分化し、自我を孤立化していく方向に働くのに対し、無意識は物事に共通性を見出し、それらを統合する働きをしている。そして、人間の理性は、これら2つの動きを把握し、全体をより高次の統合へと進める力をもっている」。(本年4月4日の本欄,)

 さて、宗教の教典は歴史書ではない。しかし、歴史的事象を扱っているものも少なくない。聖書の場合はその典型で、歴史書の体裁をとりながら、その中に歴史的事実とは異なるものが散りばめられている。だから、新約聖書の4つの福音書は、同じイエス・キリストの教えと生涯を記述していても、4つとも微妙に異なる内容になっている。では、この聖書において、イエスよりもはるか前の話--誰も目撃したことがないはずの天地創造や、人類の最初期の出来事が描かれているとしたら、私たちはそれをどう受け止め、どう理解すべきだろうか? 私は、それを「神話」として受け取るのが正しい態度であると思う。そのことは、谷口雅春先生も『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』(1990年)の中で次のように書いておられる--
 
「こうして人類の祖先はエデンの楽園から追放されたと云うのであります。これを簡単に楽園追放と云われております。しかしこの通りの出来事があったなどと素朴に考えるのは、あまりに馬鹿げだことであります。これは神話であります。神話と云うのはただのお伽譚(とぎばなし)とはちがいますけれども事実にあった話ではない。それは神様物語に託した寓話、即ち“たとえばなし”であります。その“たとえばなし”をそのまま受け取って、人間にはアダムの原罪があって、生まれながらに罪がある“罪の子”だなどと考えるのは実際と“たとえ話”とを混同したのであります」。(p.163)

 このように、『創世記』の初期の物語が神話として読まれるべきならば、その神話の「構造」を考えてみることは有意義なことと思う。神話の「構造」については、昨年秋に亡くなった構造人類学の祖、レヴィ=ストロース氏について書いたとき、私は簡単に触れたので、それを参照してほしい。ごく簡単に言えば、世界各地に残っている数々の神話には、登場する神々や人物が皆異なっていながら、共通した筋書きや、役割--つまり、共通の構造--がある。そのことに着目し、その意味を分析するのが構造人類学の1つの仕事だ。人類には共通した心の性向があり、それにもとづいて神話が語られ、つくられるという前提が、この考え方の背後にはある。神話が後世に語り継がれていく理由は、人間の心の深部にある希望や情念を、それらが満たしてくれるからで、神話を研究することで人類をより深く理解することができる、というわけである。
 
 それで、結論を先に言ってしまえば、『創世記』第1章は非対称性の原理が支配的であり、第2章はどちらかというと対称性の原理が色濃く出ている、というのが私の見方である。ただし、これはレヴィ=ストロース氏の『神話論』の内容とはあまり関係がない私独自の見解である。「独自」と言っても「独断」ではない。第2章に登場する神が具象的であり、人間と近い関係にあること--つまり、対称性原理が働いていること--は、イギリスの社会人類学者、ジェームズ・フレーザー氏(James George Frazer, 1854-1941)も次のように指摘している。ここで“『ヤハウェ資料』の作者”とあるのは、本シリーズの2回目で触れた“作者J”のことである。

「年代の古い『ヤハウェ資料』の作者は、神を具象的に捉えているので、神は人間と同じような言動をし、粘土で人間を造り、園に植物を茂らせ、1日の涼しい時間に園を散歩しながら、隠れている木蔭から出てくるように人間たちに呼びかけ、羞恥心を知った人類の始祖が裸体を隠すためにイチジクの葉で造ったごく貧弱な布に代えて毛皮の服を縫ってやるのである」。(『神話としての創世記』p.184)

 谷口 雅宣

【参考文献】
○谷口雅春著『日常生活の中の真理 無門関・聖書篇』(1990年、日本教文社)
○エドマンド・リーチ著/江河徹訳『神話としての創世記』(ちくま学芸文庫、2002年)

|

« 『創世記』の天地創造 (2) | トップページ | 『創世記』の天地創造 (4) »

コメント

投稿するのは久しぶりになります。わたしも『旧約聖書』は読むのですが、わたしの好きな『雅歌』や『コーヘレト書』は他の旧約聖書と趣がかなり違うと感じていましたが、創世記も、そのような秘密があるのですね
非常に勉強になります。
ありがとうございます

投稿: 山口謙介 | 2010年7月16日 09:36

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 『創世記』の天地創造 (2) | トップページ | 『創世記』の天地創造 (4) »