緑の聖書 (2)
ドウィット教授が取り上げた6項目の疑問のうち④は、これまで本欄で何回も言及し、リン・ホワイトも問題視した『創世記』第1章の28節の解釈の問題である。聖書には神の言葉として「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」と書いてあるのを、ここでは「神は、被造物に対して我々がしたいことをする権利を与えてくださった」と解釈しているわけである。これに対して、ドウィット氏はこう答えている--
「聖書で説かれている"支配権(dominion)"とは、他をまったく顧みない弾圧のことではありません。まず第1に、『創世記』第1章28節には、人間が罪を犯す前のことが書いてあるのです。第2に、この文章は聖書の他の箇所や文脈から切り離して理解してはいけません。それらをよく読めば、ここでの“支配権”とは、“責任をもって管理する”という意味だと分かります。神は人間に、被造物に対する特別な役割と責任を与えられたのです。被造物に対してドミニオン(支配権)をもつということは、人間が神の象(かたち)のごとく創造されたことと重要な関係があります。地上に神の存在を映し出すことを志さねばなりません。人間が尊厳をもつ所以のひとつは、被造物の管理を神から委ねられていることにつながっています。神が人間に被造物の支配権を与えたとき、その意図は、被造物を破壊することではなく、それらを維持し、世話をすることで、今後何世代にもわたって、すべての人間と生き物に利益をもたらすためです」。
この文章で分かりにくいのは、「人間が罪を犯す前のこと」という箇所ではないだろうか。これは“楽園追放”の物語を指している。楽園追放の話は『創世記』第2~3章に書いてあるから、ドウィット氏は第1章28節より「時間的に後に起こった」と解釈しているのである。そう解釈すると、神はいったんは人間に自然への支配権を付与したものの、人間は神が禁じた“知恵の木の実”を食べるという罪を犯したため、その支配権は無効となったとも解釈できるのである。
次に、⑤ にある「環境より人間が大切だ」という主張に対しては、ドウィット氏はこんな回答をしている--
「この考えは、絶滅の危機にある生物種でも救う必要はないという理由によく使われます。しかし、聖書はどう教えているでしょうか? 『創世記』第6~9章にあるノアの洪水の話を思い出してください。誰が死滅し、誰が救われたでしょう? 人間以外の生物種は人間よりも重要でないのでしょうか? 最低限に言っても、他の生物種への思いやりは、人間が重要だという理由で無視することはできません。キリストの救いは、人間だけでなく、すべての生き物を含みます」。
ここにある「ノアの洪水」の物語については、読者もよくご存じだろう。が、細部まで記憶していない人のために言えば、神は世の中が乱れすぎたためにノアとその家族以外の人間すべてを根絶しようとして大洪水を起こしたのである。ただし、すべての鳥と獣は、種を絶やさないために少数が残された。ドウィット氏は、ここから「罪深い人間は鳥や動物より価値がない」というメッセージを読み取っているようだ。逆に言えば、「人も動物も神の前には等しく価値がある」ということにもなるだろう。同氏は、それを直接には言わずに、問題提起の形で読者に考えさせようとしているのだ。
環境意識の高いキリスト教の人々は今、『創世記』の記述をこのように解釈することによって、「人間は神の被造物である自然界を大切に管理する責任がある」という環境倫理を教義の中に取り入れているのである。
谷口 雅宣
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コメント
私は63歳の男性です。総裁先生のブログを拝読し「生長の家」についての認識を全く新たにさせられ、「いのちの環」第3号より購読させて頂いておりますが、これもまた毎号、楽しみにしております。
私は以前はクリスチャンでしたので、多少は聖書も学んだこともありますが、地球環境問題への宗教者としての関わり、教示には大いに共感しております。ここでは新約聖書のローマ書8章19節から23節において、被造物は神の子らが現れることを切なる思いで待ち焦がれているとある、その切なる思いを「生長の家」の神の子たる皆様といっしょに聴き届けていきたいとの、私の願いを述べて、コメントに替えさせて頂きます。
投稿: 水野哲也 | 2010年7月27日 02:53
水野さん、
本欄をご愛顧くださり、ありがとうございます。あなたが教えてくださった聖書の箇所は、なかなか意味深長であると思います。本欄の読者とも共有するために、ここに引用します:
「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」。
投稿: 谷口 | 2010年7月27日 13:22
雅宣先生
はじめてコメントを書かせていただきます。
自宅で翻訳の仕事をしているものです。生長の家は、ものごころついた頃からですが、本格的なのはここ15年くらいです。
1ヶ月ほど前に世界保健機構のあるガイドラインのDRAFTの和訳をしたのですが、それによれば現在バラバラである植物命名法や表記法を統一し、世界各国で自国の植物をPick-upし、世界中の植物リストを作成し、絶滅の危機に瀕している植物(特に薬用植物)の保護をしようというようなものだったのです。
翻訳するにあたり、この分野を調べる必要に迫られました。そこで、Google検索すると、日本のある大学教授のブログに行きあたりました。そのBiodiversityの項を読んでいると、今までの疑問の答えが見つかりそうな気がしていました(実際はまだですが…)。それは、ダーウィンの「種の起源」あるいは「進化論」をどうしてキリスト教が認めなかったかということです。どのように宗教と関係あるのだろうかと…ところが、植物学的には人間も動物も植物も同じ表現をするのですね。個体だの種だのと。
また、なぜか日本の「神社」はどこから来たのか?朝鮮総連の金氏なるものの「朝鮮に起源がある」との論評を論破するこころみもありました。理系(植物)学者としてのその大学教授の推論によれば、1800年前ころに「中国南方から」というものでした。だったら、皇紀2670年は何なのさぁ?なんて疑問もわき上がりました。
日本書紀や万葉集にも当然のことながら言及されたものだったのですが、Biodiversityを調べると宗教に行き着くんだ。だから雅宣先生があれほど環境についてご教授くださるのかぁ。「山川草木悉皆成仏」だからだと勝手に解釈しているのは間違いだったのかな?なんていろいろな疑問が出てきました。
すみません。論理的な書き方ができなかったかもしれませんが、Bibleの話をされていたので、「そうだ。今こそお尋ねしてみよう!」と勇気を振り絞ってコメント欄をクリックしました。
投稿: 谷口 美恵 | 2010年7月27日 22:55
谷口さん、
翻訳は文化の橋渡しの仕事ですね。重要なお仕事です。ところで、貴女のご質問が今いち判然としないのですが、、、
投稿: 谷口 | 2010年7月28日 22:59