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2010年7月29日

チョウの翅の模様 (2)

 遺伝子の突然変異によってチョウの翅の上に特定の模様が生じ、それが自然淘汰の過程を経て後世に引き継がれている--こういう説明は、ある一種類のチョウに注目して、その特徴を考えたときには何となく納得する。しかし、その種以外の多くの種にも目を振り向けると、そんな単純な説明では足りないことがわかるだろう。例えば今、ジャノメチョウ科のチョウの「目玉模様」について考えているが、チョウはこのほかアゲハチョウ科、シロチョウ科、マダラチョウ科、フクロチョウ科、ワモンチョウ科、モルフォチョウ科、タテハチョウ科、テングチョウ科……など10種類もの科に分けられる。そして、それぞれが翅の模様に特徴がある。ということは、他の10種類の模様も共に、永い自然淘汰の荒波を越えて現代にまで引き継がれてきているのだから、チョウの翅の「目玉模様」だけが特別に生存に有利だったのではないことになる。
 
 そう考えると、ある一定の模様をもったチョウと、その天敵との関係を見るだけではなく、そのチョウと天敵を含んだ特定の場所の生態系全体を考えて、その特殊な条件の中で自然淘汰の原理が働く--という、より広い視点を持たねばならないだろう。もっと別の言い方をすれば、ある特定の自然環境(A)では、チョウを捕食する種類の鳥が育ちやすいが、別の環境下(B)では、もっと別の--例えば、トカゲやカエルを捕食する種類の鳥が育ちやすいということもある。そうすると、環境Aではチョウの翅の「目玉模様」が生存に有利であっても、環境Bでは別のパターンの模様がチョウの生存にとって有利になることもある。こう考えると、チョウの翅の模様に11種類のパターンがある場合、チョウは少なくとも(大別して)11種類の異なった生態系に適応して進化してきたともいえる。
 
 さて、ここで生物進化の過程において初めてチョウが生まれた時のことを考えてみよう。チョウは、ガを含む鱗翅(りんし)目の昆虫だが、生物学者の矢島稔氏によると、チョウは昆虫類の中では出現が最も新しく、鱗翅目の特殊化した一群であるという。「新しく出現した」ということは、それまでの多くの鱗翅目の昆虫(ガのこと)がすでに特定の植物との共生関係を成立させていた中で生き延びねばならなかったから、「いやなにおいや味のする植物またはアルカロイドやキノンなどの有毒成分を含む植物を食べなければ生き残れない状態であったろう。その結果特有の体臭をもつものが多く、捕食者にきらわれて生存率が高くなり同時に昼間活動できるようになったと思われる」のだそうだ。
 
 こういう厳しい環境下で生きてきた生物は、複雑で不思議な生態を発達させているようだ。矢島氏によると、シジミチョウ科のチョウには、天敵への対策だけでなく、食糧を共有するアリやアブラムシとの共存を達成しているものがある。具体的には、彼らの食用する葉にアブラムシが群れてついている場合などは、シジミチョウの幼虫は葉とともにアブラムシも食べることがある。また、そこから転じて、葉の代りにアブラムシを主食とする種類が生まれ、さらにアブラムシを食べずにその分泌物を飲む種類のものもあるという。

 アブラムシの分泌物にはアリも寄ってくるから、ここから、シジミチョウとアリの関係も生まれる。その1つは、アリと共存するために、背中から分泌物を出し、その見返りにアリから餌をもらう種類のものだ。この種類のシジミチョウは、さらに驚くべき生態を発達させている。それは、幼虫の体が大きくなると、アリがそれを巣の中に運んで、サナギから羽化するまで面倒を見てくれるらしい。また、別のゴマシジミの幼虫は、分泌物を求めるアリによって巣の中に自分が運ばれると、今度は逆にアリの幼虫を捕食するのだそうだ。
 
 このような諸々の複雑な生態は、もちろんチョウやアリが自ら考えて作り上げたものではない。では、進化論のセオリー通りに「突然変異によって偶然に生まれた」と考えるべきなのだろうか? 私は、それには納得できないのである。そうではなく、現象としての生物の背後にある「生きる力」「生かす力」が、時間の経過とともに、より多様に--つまり、鳥も、チョウも、アリも生かす形で--生物全体としては、より完全な形に表現されつつあるように思えるのだ。
 
 谷口 雅宣

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コメント

谷口総裁先生。たまたま「book of」で100円也で入手した「緑の思考」(ピエール・ガスカール著)という本の訳者あとがきに「しかしここで語られているのは、もはやいわゆる環境問題ではない。ガスカールは現状維持を頑なに主張するエコロジストに対しても、ある距離を保っている。そして生命の消滅をパースペクティヴに置いて浮かんでくる、生物と人間との共存の美しさを説いているかのようである。たとえば、ガスカールは絶滅途上の花を手折るなというような対症的な提案をしたりはしない。どうしても手折りたくなるほどに花を愛する気持ちの方を大切にしようとする。そのような気持ちが、結局は花を絶滅から救うのである」とあります。このガスカールのように、細やかな感性をもって神の被造物たちに接しられる総裁先生に私は深く共感するものです。
さて蝶の形態について「シュタイナー医学原論」(L.F.C.メース)という本の中で興味深いことが書いてありましたのでお知らせしたく、コメントさせて頂きます。「卵、イモムシ、蛹、チョウのサイクルは、種子、葉、芽、花のサイクルと、すてきな類似を示しています。・・・茎と葉、植物の本当のはの領域と、チョウのイモムシ段階は、変態における最も生命力に溢れた段階を表象しています。・・・蛹と芽を、表面的静止と停滞の瞬間として特徴づけるのに困難はありません。・・花とチョウが最後に現れると、準備されていたものが目に見えるようになります。チョウと花が、その姿において、特に彩り鮮やかな華麗さにおいて親密な関連を表出していることははっきりと目に見えます。ルドルフ・シュタイナーは、この関連を述べた講義を次の詩文で閉じています。植物を見よ そは、大地に縛られし 蝶なり
 蝶を見よ そは、宇宙に解き放たれし 植物なり 」
また「植物が天と地の間で生きているように、動物は動物自身と環境の間で生きています。この動物の生命は誰にでも研究できます。それは欲望と言うしかないものです」「動物の変態は、卵細胞から成熟した形態へ至る発達において自らを展開させる欲望の変態です」「つまり、動物は欲望と形態と環境の統合体である」と書いてあります。さらに読み進みますと、人間の場合の形態の交替は再受肉(生まれ変わり)の法則に見ることが出来るというように論じられています。

投稿: 水野哲也 | 2010年7月30日 03:18

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