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2010年6月 5日

情報の質について

 社会の問題として「情報過多」が言われるようになって久しい。特に、インターネットの普及が進み、その利用価値との関係でインフォメーション・オーバーロード(information overload)という英語も使われるようになった。しかし、こういう場合の「情報」という言葉の意味は、必ずしも明らかでない。情報を知識として得ることと、同じ情報を行動を通じて体験として得ることの違いは大きい。例えば、前回の本欄に書いた山の中のカッコウの鳴き声だが、これは「山奥で1羽のカッコウが1時間にわたって鳴き続けていた」という文章に置き換えられる。その場合、これの知識としての情報量はわずか「26文字」だ。しかし、私が実際の体験を通して得たものは、それよりはるかに多い。前回はそれを約1千字を使って文章に表現した。が、それだけがすべてではない。前回書かなかったことの中には、その時の天候や気温、私の服装、降り注ぐ日差し、カッコウの鳴き声の描写、ホトトギスとの違い、そのほかにも聞こえた鳥の鳴き声のこと、喉の渇き、水を飲んだ時の感覚……などたくさんある。これらすべての“環境”に囲まれた中で、「カッコウが1時間にわたって鳴き続けていた」のである。また、実際のカッコウの鳴き声は、文字に表現できるものではない。
 
 こう考えてくると、知識として得る情報と、体験を通して得る情報とは、“異質”と言わないまでも相当の違いがあることは否定できない。前者は主として“左脳”の活動によるから、論理的、抽象的、観念的であるのに対し、後者は“右脳”の活動を通して得るものだから、前者よりも具体的、感覚的、実際的、包括的である。私はここで、前者よりも後者の情報の方が質が優れている、などと言うつもりはない。なぜなら、私自身が後者の情報を得たのちに、それを前者の形にまとめ上げたからだ。私は、本欄の読者にわざわざ“劣った情報”を提供するつもりで前回のブログを書いたのではない。私の体験を表現するのに不要な情報は削り取り、必要だと思うものを残して、その体験が私にとって何だったかという左脳的判断を付け加えたものを、読者にも知ってほしいと思い、ブログとしたのである。
 
 別の例を出そう。私は2日の朝、山荘の周囲の森を散策しながらキノコを見つけた。朝の9時前で、カラマツが密生した森は清々しい空気に満ちていた。林地には、朝露にぬれたカラマツの落葉が散り敷いていた。と、地に落ちた小枝の間から、私は軸の長い赤茶色のキノコが何本か出ているのを見つけた。春のこの時期に出るキノコはそう多くないから、Kitsunetake ちょっと驚いた。そのキノコは、かつて図鑑で調べた際に、それほど美味ではないが食用になると知った種類のものに、よく似ていた。手を伸ばして抜いてみると、その軸部の弾力も、記憶に残っていた。傘の裏側のヒダの文様にも見憶えがあった。鼻を近づけてみると、キノコ特有の香りがほのかにする。毒のあるキノコは、鼻を刺すような刺激臭が混じっているものが多いが、目の前のものにはそれが感じられなかった。が、これだけの情報では、キノコの食の安全性を判断してはいけない。よい匂いのものに毒性がある場合も珍しくないからだ。山荘へ持ち帰って図鑑を調べてみると、それは「キツネタケ」と呼ばれるものとよく似ていた。説明には、こうある--

「オオキツネタケに似るが、ひだは淡紅色で柄の基部に紫色の菌糸はない。胞子はほぼ球形でとげにおおわれる。夏~秋、林地に発生する。ほぼ世界的に分布。ローリエやクローブの香りを効かせたピクルスによく合う。」

 この説明文は、キツネタケのカラー写真とともにあった。実に簡潔でわかりやすく、胞子の形や分布状態、食用にする際のアドバイスなど、私の説明の範囲を大きく超えている。しかし、論理的、抽象的、観念的であり、“左脳”の産物と言える。これに対して、その前に私が書いたキノコの描写は、どちらかというと具体的、感覚的、実際的である。これは“右脳”の経験を“左脳”が表現したからだ。

 私は今年3月の本欄で“「わかる」ということ”について何回か書いたとき、何かをよく「わかる」ためには、それについての“左脳的情報”と“右脳的情報”をバランスよく得ることが必要だと述べた。その考えにもとづいて上記のキツネタケの情報を眺めてみると、こんなことが言えると思う--私は山荘裏の森でキツネタケのようなキノコを採取した際には、主としてそれの“右脳的情報”を得たが、山荘に帰って図鑑を調べたときには、主に“左脳的情報”を得た。これによって、このキノコをよりよく「わかる」ための努力が実を結びつつある。しかし、キノコについて「わかる」という場合は、それが食用であるのかないのか、また食した場合の味や香り、食感の体験などの“右脳的情報”を抜きにしては、どうしても不完全である。だから、機会を見て、私はその点を確かめてみたいと思っている。
 
 谷口 雅宣

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