平凡の価値 (2)
前回の本欄では、ミカンの実の中の1個の種が、20万分の1の確率で次世代の親木に育つと仮定した。この確率を表す数字は当てずっぽうだから、重要でない。重要なのは、「1つの個体が次世代を残すために、おびただしい数の“種(たね)”や“卵”を産生する」という事実である。これは植物に限ったことではなく、動物も菌類も同じである。例えば、魚の産卵数を見ると、親魚の大きさにもよるが、サケは平均して1尾から4000個、カワヤツメは7万個、ニシン8万個、コイ50万個、ヒラメ50万個、マダイ600万個、マアナゴ800万個……などという。しかし、ここから育つ稚魚数を調べた例では、ニシンは0.05~4.3尾で、平均すると1.12尾という数字になる。それだけ、自然界の環境は厳しい--というのが大方の見方だろう。
しかし、同じ数字をこう見ることもできる--1尾の雌のニシンの腹に詰まった8万個の卵のほとんどすべては、他の海中生物の栄養源となる。これをニシンの観点から見れば、「ムダになってもったいない」と評価されるかもしれない。しかし我々は人間だから、そう見なければならないわけではない。別の観点から見れば、ニシンは他の海洋生物に与えるために8万個を産卵し、その報酬として--つまり、「与えれば与えられる」の法則にしたがって--次世代の稚魚1尾を得る、と考えることができるだろう。「報酬」という言葉は因果関係を暗示するから気に入らないという人には、もっと中立的な表現を使ってもいい--1回の産卵でニシンが放出した卵のほとんどすべては、他の生物の栄養源となり、そのうちわずか1個が稚魚に育つ。「適者生存」という言葉は、この文章の後段のことを表現しているのだが、前半のことについては何も言っていないのである。しかし、ニシンの卵のほとんどすべては前半のことなのだから、「適者生存」だけで生物界の営みを説明するのは不十分なのだ。
私がここで何を言いたいのか、賢い読者はすでにお気づきだろう。「適者生存」の原則によってごく少数の“非凡な”個体が次世代に遺伝情報を残すのは事実である。しかし、それができるのは、その非凡な個体の背後に膨大な数の“平凡な”個体が存在するからなのだ。ミカンやユズの木に実がつき、それが鳥に運ばれて別の地で実生となって成長することと並行して、おびただしい数の実は、未熟の状態で落下し、あるいは熟して動物に食されたまま実生ともならずに消えていく。この2つの事実は、どちらか一方が欠けては成立しない--このようなものの見方ができると、「適者生存(生存競争)」と「与え合い」の世界とは、2つの矛盾した概念ではなく、実は同じものを別の角度から表現していることが分かるだろう。
ここでいきなり論理を飛躍させるが、これと同じことが人間社会にもいくつも観察されるのである。サッカーのワールドカップで活躍できるような選手を出す国には、その背後に層の厚い、多くの選手群、多くの監督、多くの支援施設や大規模な支援制度、そしておびただしい数の熱心なサッカーファンがいなければならない。このことを「非凡」と「平凡」という言葉で表すのは適当でないかもしれない。複雑な人間社会に対しては、ミカンやユズのような単純な分類はできないからだ。が、私が言いたいことは、“選手と社会”“兵士と国 家”とは分離して考えることはできないということだ。それと同じように、「非凡」の価値と「平凡」 の価値とは、分離したり、対立させて考えることはできないのである。
谷口 雅宣
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コメント
合掌 ありがとうございます。
ここ数日は、私どもの地方は、『梅雨・・!』という感の雨の日・・・
窓辺から見えます風景を・・・ペットと一緒に??
子供たちの色とりどりのパラソル・・・??カラフルカラーも鮮やかに!!
さて・・・『平凡?』・『非凡?』・・・
この言葉?何を基準に定義をするのでしょうか?
人それぞれの解釈論があり、その解釈が正しいとは断言できないと思います。
では、何を基準として・・・この言葉が?・・・
『人生50年・・・!』・・・ふと振り返りました時・・・自分自身の人生観
価値観を、自問自答してしまいます。
自分自身の於かれました環境・現在の状況・また、条件付けのせいに・・・etc
少なくとも人間として自分の人生に責任を持つ事が・・・まず基本的要因ではと思います。
私自身の行動は、周りの状況からではなく、最終的には自信の選択によるものと
思います。そのベースは、『感情』--->価値観に従わせることができると思います。
そのことは、物事を成し遂げる率先力を発揮できることと思います。
仮に私が自分の人生に対しての責任を放棄すると・・・多くの場合には、周囲の
人からの多大なる影響を受けてしまい・・・
例えば・・・
天気が良ければ、気分も良い!天気が悪ければ、気分も悪くなり?
行動力も無くなる。・・・
人が親切にしてくれると気分もいい。そうでない場合、落ち込む。
これは、その人の精神状態が他人の言動・言葉に左右され・・
結果的には、振り回されてしまう。 これ・・・『平凡??』
反対に、自分の価値観に基づき行動する・・・その時は、深く考え
選択し、内面の価値観に基づき自分自身で・・・選択する。・・・
それが、人生のつらく厳しい経験であっても、それは人格形成になり
内的力が、育てられる。そして、それが、難しい状況である場合は、
他の人にも模範となり、感動・励ましを、与える結果となり・・・
これ・・・『非凡??』
仮に・・・ある人物が、不自由な身体に悩みながらも・・・見事に精神的に強さを維持した場合・・・
そのような人と接触した場合・・・
どれだけの勇気・誠実さを、私たちはその人物よりもらうのでしょう??
素晴らしい感動・・・!!苦しみや困難を乗り越えた人の生き方は・・・
これ・・・『非凡??』
『非凡??』この人々は、周りの人々の精神状態をーーー>ポジティブに・・!
そして『 勇気・希望 』を、与えてくれる!!そのような存在かしらんと?
両者とも、『使命にに生きる・・!』事ではないでしょうか? 進化・・・!
つまり、両者の接点--->『人間の価値観!』の相違と思います。
『平凡』・『非凡』しかり・・・!
ようは、人間としての使命感を如何に全うするか・・・?その価値観になるのでは、ないでしょうか??
なぜなら『人間神の子・・!』人間は、神の自己実現を成せる生命体だからです。
この、両者・・・『平凡・非凡』これで・・・一つの世界観念が成り立っていると思わずには居られません。
大変失礼な文章になりましたが・・・
個人的な『気づき』として、書かせて頂きました。
再合掌
投稿: ナンシー YST | 2010年6月30日 04:29