口蹄疫は何を教える
家畜の伝染病である口蹄疫が、宮崎県で急速に拡大し始めた。11日付の『朝日新聞』によると、10日現在で感染が確定されたものと感染の疑いがあるものを含めると、同県内の67農場が被害を受け、殺処分の対象となるウシとブタは7万6千頭を超えると見られている。最初に感染の疑いが出たのが4月20日、同県都農(つの)町の農場のウシだった。それが、5月に入ってからはブタへ急速に拡大し、殺処分の対象は同県内のブタ総数の7%を超えたという。この数はあくまでも殺される「対象」の数で、実際の殺処分は人手が足りず、また死体の処分場所が未定のものも多いという。口蹄疫の国内での感染確認は2000年以来で、前回は宮崎県でウシ35頭、北海道でウシ705頭が殺処分の対象となった。これと比べると、今回の感染は規模が大きい。
口蹄疫の問題については、私は『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)などに書いたが、感染拡大を防ぐための「殺処分」という方法が、人間至上主義の矛盾をさらけ出していることを指摘したい。この病気は、主として哺乳動物の偶蹄類(ヒヅメが偶数に分かれているもの--ウシ、水牛、ブタ、ヒツジ、ヤギなど)に感染するウイルス性の急性熱性伝染病で、人間にはうつらず、感染した動物も死ぬことはない。それなのに、なぜ大量の殺処分が行われるかというと、感染した動物の肉の質が悪くなり、乳の出も悪くなるからだ。また、その病名の通り、感染動物の口や蹄(あし)から外部へ広がる速度が速い。英語でも「foot-and-mouth disease」(脚から口への病気)と呼ぶ。このため、感染を防ぐには「感染範囲内のすべての対象家畜を早く殺す」のと「感染範囲内の他の動物や人、自動車の移動を制限する」という方法が採られてきた。国際的に決められた防疫措置は、発生農家を中心に半径20km以内を移動制限地域とし、同50km以内を搬出制限地域に設定する。
2001年にイギリスで発生した際は、当初の対応に遅れたために感染が拡がり、結果的に約600万頭の家畜が殺されることになった。このような殺処分の方法は、山火事における「防火壁」にも似ている。つまり、延焼を防ぐために火事の起こっている周辺地域に逆に火を放つのと似ているのだ。「燃えるものがなくなれば延焼しない」と考えるのと同じように、「感染の対象がなくなれば感染は拡大しない」と考えて、範囲内の対象家畜のすべて--感染していないものも含めて--殺すのである。家畜たちを何年もかけて、手塩にかけて育てた農家の人々は、まさに耐えがたい苦しみを経験するに違いない。
人間は、他の人はもちろん、動物などに対しても「感情移入」をするという点を、本欄では指摘してきた。それが「人間の本質だ」として、“感情共有の文明”を築き上げろというアメリカの文明評論家の本も紹介した。5月初めの生長の家の幹部研鑽会でも、このことを脳科学の知見から訴える講話を私はした。なぜなら、この“本質”を生かした生活を理想とする教えを、日本の伝統的な仏教が説いてきたからだ。具体的には、「観世音菩薩」の教えや「四無量心」の考え方が、他者への感情移入を基礎としているのである。そういう日本の文化的土壌で生きる農家の人々が、自ら手塩にかけて育ててきたウシやブタを、市場価値が下がるというだけの理由で、成獣も幼獣も、健康なものも病んでいるものも、一切区別することなく「全頭を殺処分する」のが、「国際的に決められた防疫措置」なのである。これを「非人間的措置」と言わずに何と呼んでいいのか、私は知らない。
このような悪業の原因をつくっているのが、私たちの肉食の習慣である。今さらながら、現代文明の修正の必要性を感じるのである。
谷口 雅宣
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コメント
谷口雅宣先生
全く愕然としました。今回の件では何万頭と殺処分となりましたなんて軽くアナウンサーが伝えているのを聞いてて、「これは確か人には感染しないはず。どうしてこんな事をしなくちゃならないのか」と思っていました。
肉の価値が下がるとか乳の出が悪くなるなどという理由でこれだけの家畜が無惨に殺されるのですね。肉食の習慣が根源にあると言う事ですね。
最近はハンバーガーショップの他、色々とハンバーグ専門店の大手チェーン店が出て来たり、牛丼とかのチェーン店もますます増えて、肉食産業が大手チェーン化している傾向ですね。これは宗教的にも地球環境的にもゆゆしき事ですね。生長の家の唱える思いやりの生き方、自他一体の愛の生活はこれから時代の潮流になると思いますが一方、分かっていない人達はますます業を深めている感じがします。
投稿: 堀 浩二 | 2010年5月12日 13:29
合掌 ありがとうございます
痛ましい事件です。…なんとも、言いようがありません。
牛、豚、人ともに被害が最小限であることを願います。
投稿: 水野奈美 | 2010年5月12日 21:50
今日の夕食で、シジミのみそ汁をいただきました。昨日子供たちと市内の旭川で拾ってきたものです。良く肥っていて、臭みもなく、おいしいです。
1時間ほど拾えば家族で3~4食分はあり、市街地の真ん中で意外な気もしますが、年中いつでも採れます。
今もシジミたちは桶の中で口を開いてゴソゴソしています。子供たちをそれを覗き込んで、生き物をいただいている、ということを、幼いなりに理解してくれればと思います。
私は生きた魚をさばくことが出来ないのですが、達者な父に「魚と目が合うと可哀そうで・・。」と言い訳すると、「食べるのは平気なくせに勝手だ。」と言われます。まったくその通り・・。
これが牛ともなると・・・。
スーパーに並んでいる牛肉はどれも、生きているときは生きた牛さんだった、と、誰もが知ってはいるけれど、私も含めて多くの人はその実感が希薄だと感じます。
より多く深く自然と触れ合ってきた人ほど、一見残酷には見えても、生き物をいただいている、という意識はきっと深いのでしょう。
口蹄疫のニュースを見るにつけ、文明的生活とは何なのか、考えさせられつつ、先生のご文章を拝読しました。
投稿: 片山 一洋 | 2010年5月17日 21:43
宮崎で口蹄疫の感染が拡大していることで、いろいろと考えさせられます。11万頭以上の牛や豚が殺処分される状況は、悲惨です。宮崎では、5年ほど前のご講習会で、質疑応答に養豚業の方から「生長の家では肉食を控えるように言われますが、自分たちにとっては死活問題です。そのことをどう考えられますか?」というような問いに、総裁先生が「養豚業はいずれやめるべきです。」という趣旨のお答えを下さったと記憶しています。当時、青年会員だった女性とその家族(養豚業をされています)は、その質問の答えを受け止めることができなかったようで、その後、生長の家の行事から足が遠のいていました。今年の講習会にその女性をお誘いしましたが、参加できないと断られました。今回、その女性に連絡をとったところ、家族は大変だけれど、今は神想観と聖典拝読、日時計日記をつけているとのメールをいただきました。一度は信仰から離れてしまった彼女が、これを機に、もう一度生長の家に戻って来られたらと願っています(彼女自身も、こんどゆっくりお話したいと言ってくれました。)。
そして、総裁先生の上記質問に対するお答えは、5年ほど前のご講習会の時ではありますが、
その後起こるこのような問題にも答えを与えるものだったと今さらながら気づかせていただきました。
現代の肉食の文化がこのような問題をもたらしていることを本当に残念に思います。
投稿: N.N. | 2010年5月18日 21:48
コメントを下さった皆さんへ、
ありがとうございます。
今朝の新聞では、宮崎県内で殺処分の対象となる家畜は、11万8千頭になったそうです。
この問題は、現在進行中の深刻な問題ですが、人間がこれまでに積み上げてきた“業”の結果でもあります。我々が肉食を好み、その量を増やすことが文明生活だと誤解し、また動物性蛋白質を多く摂取することで自分の価値が上がるかのような肉体人間思想に浸りながら、何の反省もしないで来た悪業の積み重ねの、結果です。
ここで人類のうちの意識ある人々がハタと気づき、人類と同様に感情や心をもつ家畜の立場を少しでも理解し、「感情移入」できる人が増えることを私は望みます。現代の肉食産業は、人間至上主義の欠点が最も顕著に表れているものの一つです。私たちは、屠殺の現場を知らない。だから平気で、舌鼓を打ってビーフステーキを食べる。ミートボールを食べる。焼肉を食べる。家畜のエサが人間と競合することを知らないか、知っていてもよく考えない。考えても、良心の声を無視する。
このような毎日毎日の行為の積み重ねが、一定の結果を持ち来さないと考える方が、どうかしているのです。
投稿: 谷口 | 2010年5月19日 14:18