« 口蹄疫は何を教える | トップページ | 間近に迫った電子図書館 »

2010年5月14日

本物とニセモノ

 私が再びアイポッドを使い出したことを4月12日の本欄に書いたが、音楽を聴くのにはあまり利用していない。というよりは、この機械には音楽をまだ1曲も入れていないのである。音楽を聴きながら何かをするという習慣がないからだ。だから、アイポッドやそれに類する携帯音楽プレーヤーの音楽が、実は昔のレコードやCDのそれより劣っている、などということは知らなかった。聴き比べる機会がなかったからだ。ただ、デジタル音源がアナログ音源に比べて繊細さに欠けるという話は、聞いたことがあった。これは、デジタルとアナログの違いからいって当然のことなのだが、相当“耳のいい人”にしか分からない程度の差だと理解していた。そして、CDで聴くのとアイポッドで聴くのとでは音質に違いがない、などと漠然と考えていた。
 
 ところが、そうではないと知った。現在、我々がアイポッドを含めた携帯音楽プレーヤーで聴く音楽は、“本当の音楽”ではないらしい。別の言葉で言えば、それらは劣化したニセモノであるし、中にはオリジナルの演奏から意識的に変えて作られているものもあるという。11日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。それによると、この“劣化”の主な原因は、携帯音楽プレーヤーに収められた音楽ファイルが「圧縮」されているという点にある。その結果、それらの機械から再生される音楽は、割れたような感じの、より金属質で、薄まった音になるという。では、そんな音楽に満足しない人が文句を言って、もっと良質の録音をした媒体を要求するかと言えば、そういう現象はあまりないのだ。なぜか? その理由を記事はこう説明している--
 
「コンピューターやアイポッドに音楽を収録する容易さによって、1世代にわたるファンは、ダウンードの簡便さと持ち運びの便利さを取り、音楽の質と再現性を喜んで放棄した。このことが、より良質でより高価な音楽の聴き方を音楽産業が創造する努力の阻害要因となっている」。

 要するに、音楽は今、CDやアップル社の音楽サイト、その他のインターネット上のサイトから簡単にダウンロードできるので、その容易さと、携帯音楽プレーヤーの携帯性を重視したユーザーが、音楽の質を要求しなくなったというのである。これに伴い、音楽の聴き方にも大きな変化が起こったという。音楽は最早、「それ自身を聴く」ことはされずに、何か別のことをしながら「背後に流れる」BGMの役割しかしていないことが多い。私の言葉を使えば、音楽は「ながら族」の聞き方しかされていない。それが今の趨勢らしい。もちろん、この動きに異を唱える人々もいる。そういう人々は、約10年前に音楽CDより良質の「DVDオーディオ」とか「SACD」(Super Audio CD)の規格を作り出した。しかし、この努力は実っていない。両規格の音楽は、2003年にはアメリカで170万タイトルが売れたものの、2009年には20万タイトルにまで減ってしまった。
 
 携帯音楽プレーヤーから聞く音楽は、このように「劣化」しただけでなく「変質」もした。それは、イヤフォーンで聴く音楽とスピーカーで聴く音楽の違いにもよるらしい。イヤフォーンでは、繊細な音よりも「大きな音」が好まれるらしい。特に、ポピュラー音楽については、録音業者は音量を限界近くにまで上げて録音するようになったらしい。
 
 私は、こういう一連の動きを知ってみると、“文明の劣化”が起こっているような気がしてならない。変化がめまぐるしい現代社会では、人間の「注意」の期間も短くなる。ある事象Aが起った翌日に別の事象Bが起った、と伝えられると、Aはすぐに忘れ去られ、Bに注意が向けられる。これと同じ現象が、アーティストAとアーティストBの間にも起る。そういう“流行の先端”を追いかける人々は、1人のアーティストとじっくり付き合うことはない。簡便なダウンロードによって、劣化した音楽を早く入手し、次々とアーティストを変える。どうせBGMを聴くのだから、音楽の質は問題ではないのだ。ニセモノでも何でも構わないから、“流行の先端”にいるという実感さえあればいい。こんな動きがもしあるとしたら、私は、それは技術が文明を劣化しつつある現象だと思う。
 
 すでに与えられた数々の“神の恵み”をしっかり味わい、ホンモノに感謝する日時計主義とは、ずいぶん違う動きではないだろうか。

 谷口 雅宣

|

« 口蹄疫は何を教える | トップページ | 間近に迫った電子図書館 »

コメント

そんなに音楽が劣化していたとは知りませんでした。勉強になりました。

投稿: もさ | 2010年5月16日 11:39

異議ありません。
が、同類のことがあまりにも多すぎて、本物が隠れてしまい、日常の生活では、それに慣れてしまってることにたいへん危惧を感じます。
見るもの、聞くもの、触れるもの、食するもの・・・水や土、空気さえも江戸時代(昔)とは全然違うのは間違いではないでしょう。
すべては神様の恵みであることから、偽象に見える物事さえも受け入れて感謝することが必要なのでしょうが、感謝しきれません。
それでも、いろんな犠牲のうちに成り立ってる環境の中、人間は逞しく生きてきていますが、今、まさしくターニングポイントがそこまで近づいていることをわかっている人はまだまだ少ないし、行動を起こす人はもっと少ない。
是非とも『森のオフィス』構想を、早く全世界に知らしめて、少しでも世の流れを変えてくださることを念願いたします。

投稿: 浦尾 道夫 | 2010年5月17日 06:23

音楽が好きなのでコメントいたします。

私も先生と同じようなことを感じていました。
車の中でCDを直接かけるのと、
i-podを繋いで車のスピーカーで聴くのとでは
同じアーティストの同じ楽曲なのに
音質が違う感じがしていました。
CDの音の方がいい気がしていました。

これは一長一短なので気分で使い分けています。
i-podだと長距離ドライブのときは
いちいちCDを取り替える必要はないからです。

音楽の傾向は変わってきています。
演奏する方も聴く方も演奏テクニックの追求は
好まれなくなりました。かつて一世を風靡した
ジャズ・フュージョンは流行らなくなりました。
聴き方もお気に入りのアーティストを深く聴くよりは
流行りものを次々とダウンロードして
若い人たちは聴いているようです。

私のi-podには聖歌、神想観、真理の吟唱、
そして日々の祈りもCDから入れています。

何かをしながら聴くのはどうか?
という考えもありますが、
運転中でも、家事をしながらでも、寝る前でも
物事のネガティブ面に心を向けるよりは
真理の言葉を耳から入れて、お掃除をしたり、
食事の用意をするのは
そう悪くはないと思っております。

もっとも、音楽も真理もライブが一番ですが。

投稿: 石光 淑恵 | 2010年5月18日 10:06

浦尾さん、
 コメント、ありがとうございます。
 “コピーの文化”が浸透していますから、何でも「簡便」なのがよいということでしょう。

石光さん、
 お久し振りです。貴女のように、ニセモノと本物が分かる人は、時に応じて「簡便なもの」を利用するのはいいと思います。問題は、ニセモノを本物だと思っているということですね。

投稿: 谷口 | 2010年5月18日 14:04

音楽を愛する者としてコメントさせて頂きます。

おっしゃる通り、ディジタル音源は原音に対しては似て非なるモノだと思います。原音に一番近い音質媒体はレコード、つまりアナログ媒体です。次にCD、ディジタル音源の順になると思います。

其々、長所、短所はありディジタル媒体の最大の長所は扱いがとても簡単である事と雑音(SN比)に優れている点でしょうが、最大の短所はCDも同様ですが、音域の高低をカットしてしまう為、本来聞こえるべき楽器が消えてしまったり(特にアコーステッィクな音源とダイナミックレンジの広いクラシックでは、顕著に影響が出ます。)CDより携帯式のディジタル機器は更に顕著になります。

そして、一番危惧される事は、音楽とはその言葉通り「音」=「音色」を楽しむものであり、その根源は自然界の持つサインウェーフ゛の中のf/1の「揺らぎ」を含むからであり、その揺らぎが心の奥に潜在意識の中の在る部分に響くから、感銘をするのではないか?・・
と考えるからです。

だから、生演奏は物凄く感動するのではないでしょうか。作曲した人の思念が旋律の中で生き生きとし、演奏者の心が其れを捉え、聞く人の心の奥に響き渡る・・・・つまり、音は言葉と同様に「オトダマ」でもあると思います。

残念ながら、ディジタル音源=パルス波では、その大切な「揺らぎ」が表現出来ないのでは・・・と思うわけです。

投稿: captain-blue | 2010年5月20日 14:48

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 口蹄疫は何を教える | トップページ | 間近に迫った電子図書館 »