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2010年5月29日

“テロとの戦争”“先制攻撃論”の終焉

 鳩山政権内部のゴタゴタをはじめ、朝鮮半島や日米関係との関係で国際情勢は目を離せない状況が続いている。しかし、こういう時こそ、現象の表面でめまぐるしく変遷する出来事に目を奪われることなく、現象は現象でも、底流としてある大きな流れがどちらの方向に動いているかを的確に押さえておく必要があるだろう。民主党と社民党は安全保障政策でもともと立場が相違しているのだから、連立政権として継続するのが難しいことは、初めから自明であった。だから、沖縄の米軍基地問題で袂を分かつことは、日本全体としては好ましいことだろう。だから、社民党なきあとの政権は、国家の基盤である安全保障政策の新しい方向性を今、しっかりと定立しなければならない。

 そこで避けて通れないのは、新しい日米関係の位置を決めることだ。これには、すでに1年前から米オバマ政権がブッシュ時代からの政策変更を決め、動きだしているから、同盟関係にある日本としてはその動きと整合性を保ちつつ、自らの外交方針を作り上げていかなければならない。そういう意味で重要なのが、このほど発表されたアメリカの国家安全保障戦略(National Security Strategy, NSS) である。これは、オバマ政権下で作られた初めての外交基本方針であり、ブッシュ時代のものからの相当な変更が見られる点が注目される。ひと言でいえば、私はこの新方針に賛成である。その理由を次に述べよう。
 
 まず第一に、私が数年前から使用をやめるべきだと訴え続けてきた「テロとの戦争」(the war on terror)という言葉がどこにも存在しない。これは大いに歓迎すべきことだ。「テロ」や「テロリズム」という言葉は何度も登場するが、ブッシュ政権が2006年3月に出した前回のNSS では、54ページの文書の9カ所に使われていたこの言葉が、今回の60ページの文書からは全く姿を消した。その代り使われているのが「暴力的な過激主義との戦い」 (combating violent extremism)という言葉である。「暴力的な過激主義」という言葉自体は10回使われているが、それとの戦いも「戦争(war)」ではなく、「combat(戦闘)」「counter(対抗)」「confront(対決)」など、小規模な戦いや内政でも用いられる言葉を使用している。これは、ブッシュ氏が9・11以降の外交を「戦争中」と考えて特例化していたのと、明確に異なる。同氏は、テロの容疑者を「容疑者(suspect)」とは呼ばず、「敵の戦闘員(enemy combatant)」と呼び、軍事法廷での裁判を主張したが、オバマ氏はそういう扱いをしないとの意思表示だろう。つまり、人権を尊重した通常の裁判を行う考えだろう。
 
 私がこうして言葉の使い方に神経を使う理由は、本欄と永くつき合ってくださる読者にはお分かりだろう。「言葉は心の表現である」と同時に、「言葉は心を形成する」からである。大統領の「戦争をするぞ」という心が「戦争」という言葉を使わせただけでなく、国じゅうで「戦争」という言葉を使えば、戦争など考えなかった人々も戦争をする心になるのである。9・11以降の世界は、まさにそのように動いてきたことを思い出してほしい。だから、ここで「テロとの戦争」という言葉がアメリカの正式外交方針から消えたことは、この大きな流れの停止、さらには逆転を意味するから、その意義は大きいと言わねばならない。
 
 もう1つ、前回のNSSにあって今回なくなった言葉がある。それは、ブッシュ氏が言い出した先制攻撃論を記述するための「preemption」や「preemptively」という用語である。 これは前回5カ所にあったのだが、今回は消滅している。ブッシュ氏の先制攻撃論については、2009年5月29日の本欄などに書いたから繰り返さないが、北朝鮮はこの理論に脅威に感じたため核開発を急いだと見ることもできるのである。
 
 アジア戦略については、28日付の『日本経済新聞』が簡潔なまとめをしているので、それを引用しよう:
 
「新戦略は、米国の軍事的優位性を維持すると明言した上で“補完的手段やパートナー”がなければ米国の負担が重くなりすぎるとして、国際協調が必要だと主張。中でも日本と韓国を“地域・世界の問題に対処する上での重要なリーダー”と位置付け、日韓との同盟関係の“近代化”を目指すと強調した」。

 このように見てくると、日本がアメリカとの信頼関係を立て直すことができれば、アメリカのアジア戦略を韓国とともに一部補完する中で、日本独自の“アジア重視”の外交を展開することは十分可能であると思う。しかし、この場合の“アジア重視”とは、日米安保条約が続く限り、日米同盟を基盤としたものでなければなるまい。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月27日

バイキン・クッキー

 今日は休日を利用して、妻とのドライブがてらに冬仕様から夏仕様にタイヤを交換した。「今ごろ?」と言われるかもしれないが、時間がとれずにいたからだ。その帰りがけに、20年ほど前に住んでいた世田谷・駒沢の地へ寄った。地下鉄の駒沢大学駅から歩いて7分ぐらいの所にあったマンションに、3年住んでいた。すでに2人の息子がいたが、そこで長女が生まれた。マンションはもちろん風呂付きだったが、広い風呂の快適さを子供にも味わわせてあげようと、たまに近くの銭湯に連れていったものだ。銭湯から上がり、菓子店でアイスクリームを買って食べるのが最高だった。その銭湯も菓子店も今はもうなくなっていたが、「大菊」という蕎麦屋が残っていたので、そこで昼食をいただいた。妻は、そこの店員の顔を何となく憶えているというが、私は憶えていなかった。
 
 食後、蕎麦屋のすぐ脇を通る遊歩道を小泉公園の方角へ歩き、季節の花と緑を楽しんだ。この公園では昔もよく遊んだが、子供たちが走りまわるスペースが狭くなり、代りに年配の人が静かに休めるような空間ができていた。そして実際、そういう人々が2~3人休んでいた。もちろん、砂場やブランコ類の周辺には、若いお母さんと学齢前の子供もたくさんいた。「ドラえもんパン」のことを妻がブログに書いているが、それを製造していたパン屋の前で彼女を車から降ろし、私は道路脇で他の車の通過を気にしながら待っていた。そして、しばらくたって帰ってきた彼女から、目的のパンが入手できなかった話を聞き、代りに買ったアンパンマンとバイキンマンのクッキーを見せてもらった。Baikincookie
 
 私は、国道246号線を渋谷方向に走る車の中で、ハンドルを握りながら考えた。パン屋の店主の代替わりがあったに違いない。そんな関係で、「ドラえもん」のキャラクターを菓子パンに使うのをやめ、アンパンマンに乗り換えたのだろうか? 著作権使用料が関係しているのか。それとも、製造方法とコストの問題か? しかし、客の入りもよかったそうだから、“横丁のパン屋さん”として続いているのはうれしい。帰宅後、クッキーの1つを絵に描いた。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月25日

自然は多様性を求めている

 口蹄疫への対策が全国に広がってきた。宮崎県外への感染を予想して、貴重な“種ウシ”を離島に避難させたり、山間部へ離散させるケースが出てきている。今朝の『朝日新聞』によると、鹿児島県は24日、種ウシ6頭を鹿児島県から南方約380キロにある喜界島へフェリーで避難させた。さらにこれとは別に、種ウシ6頭と「かごしま黒豚」の種ブタ150頭も、種子島などへ避難させる予定という。また、同日付の『日本経済新聞』は、「但馬牛」のブランドをもつ兵庫県では、加西市にある県立農林水産技術総合センターで飼っている種ウシ33頭を、約70キロ離れた朝来市の山間部の施設に移動することを検討しているという。また、大分県では、竹田市の県畜産研究部で飼育している種ウシなど36頭を、県内の数カ所に分散させる方針という。
 
 こういうことを考えると、近年、口蹄疫などの家畜の感染症が深刻な被害をもたらすようになった原因の1つに思いいたるのである。それは、生産効率化のために、多数の家畜を狭い領域で飼育する方法が一般化しているということだ。家畜はもともと“自然”に育つものではないが、それでも“自然”に近い飼い方をするほうが伝染病の被害が少ないのである。これと同じことは、養殖魚や作物についても言えるだろう。私はかつて、山梨県の養魚場に行ったことがあるが、そこではヤマメとニジマスを大きさ別に、いくつかの養殖池で飼育していたが、それらの池はほぼ満杯状態だった。魚たちが泳ぎ回るスペースがあまりないほど、込み入っていたのである。そのためか、性格が獰猛なニジマスは互いに喧嘩をして、鼻先が欠けているものもいた。また、こういう環境ではストレスによる病気も発生するだろうから、薬品を使ったり、成長を促進するためのホルモンの添加もあるのではないかと思う。
 
 作物については、読者もよくご存じの通りだ。単位面積当たりの収量を増やし、かつ作業を効率化することが、まるで“至上命令”のように行われてきた。そのためには、作物の1株と1株の間に生じる別種の植物は“雑草”と呼ばれて駆除されるのである。これは、家畜の同種だけを狭い空間に集めて育てるのと、同じ考え方に立っている。この考え方を徹底したのが、遺伝子組み換え作物だろう。人間にとって有用な植物の遺伝子を操作して、除草剤への耐性を組み込み、その他の植物を“敵”に見立て、除草剤の大量散布によって死滅させてしまおうというのである。自然界は生物多様性を本質的な特徴とする。しかし人間は、単一種の生物を大量に高密度で栽培・飼育することで、より多くの利益を得ようとしているのである。言い直すと、自然の中では決して出現しない状態をむりやり作り出すことで、人間は自然からより多く奪おうとしているのである。今回の口蹄疫の蔓延は、「そんなやり方は長続きしないよ」と、ウシやブタが涙ながらに教えてくれているように思う。
 
 遺伝子組み換え作物をめぐる最近の状況も、同じようなメッセージを伝えているのではないか。イギリスの科学誌『New Scientist』は5月15日号(vol. 206, No.2760)で、除草剤への耐性をもった“雑草”の出現が、南北アメリカ大陸に深刻な影響を及ぼしつつあることを伝えている。それによると、現在、世界全体では1億ヘクタール近くの農地に除草剤耐性をもった遺伝子組み換え作物が栽培されているという。具体的には、アメリカ南東部を初め、ブラジルやアルゼンチンなどの広大な領域で、除草剤耐性をもった遺伝子組み換え種のトウモロコシ、ダイズ、綿花などが栽培され、ほとんど連作の状態にあるという。その除草剤は、グリフォサート(glyphosate)という特定の薬品で、モンサント社の「ラウンドアップ」という商品が有名である。これらの地方では、これを大量に長期にわたって使用し続けたために、“雑草”と呼ばれる植物のうち少なくとも9種が、これに対する耐性を獲得しているという。つまり、除草剤が効かなくなっているのだ。
 
 これに対処するにはどうすればいいか? それは、特定の除草剤に頼るのではなく、除草のための複数の方法を併用するのがいいという。例えばカナダでは、遺伝子組み換え種のナタネが栽培されているが、連作を避けて小麦や大麦と交替で育て、そのつど、それぞれに合った除草剤を使っている。おかげで、グリフォサートに耐性をもった“雑草”はまだ出現していないという。

 自然は、ある特定の領域内に生きる生物種の数を減らそうとする人間の試みに対して、「ノー」と言っているように見える。また、そういう方法で利益の増進をはかる人間に対して、除草剤耐性をもつ“雑草”を生み出して抵抗している。しかし、生物種の数を減らさずに多種を残した場合には、除草剤への耐性を“雑草”に与えないのである。読者には、「多様性を壊すな」という声が聞こえてこないだろうか?
 
 谷口 雅宣

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2010年5月24日

買い物では世界を救えない

Newspaper  今日の新聞の1ページ全面を使って、貸金業者の「ジェーシービー(JCB)」が広告を掲載していた(=写真)。画面の下段に大きく2行に書き分けて「買い物は、世界を救う。」とあり、上段には、高橋是清の随想録からの引用として、「貯金よりもお金を使うことが国の経済に貢献する」という意味の古典的議論がズラズラと展開されている。その文章は「1929年11月」のものだ、とも書いてある。それを見て、私はこの会社の見識を疑った。今どき、こんな理論が通用すると考えるほど、JCBは国民を軽く見ているのだろうか。高橋是清とは、1910年代から30年代にかけて蔵相や首相を務めた政治家で、積極財政による景気刺激策を推進したが、軍事費抑制を試みたために、2・26事件で殺害されてしまった。そういう人の意見を拝聴しなければ日本経済は立ち直れない--JCBは、そんな古い考え方をしているのか、と私は少し腹立たしくなった。
 
 JCBが引用している高橋の文章を要約すれば、ある人の可処分所得が5万円の場合、3万円を使って2万円を貯金することは、個人にとってはよくても、社会にとってはメリットが少ない。それよりも、もう2千円を消費に回せば、それが社会に還流して20倍、30倍の生産力になる、という論理だ。この2千円の用途としては、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりすることを暗に勧めているのだ。そうすれば、料理人の給料、食材の代金、その運搬費、商人の利益、農漁業者の収入増などにつながって、社会のためになるというわけだ。これを安政元年(1854年)生まれの高橋が言うのはいいが、21世紀初頭の地球温暖化と人口爆発の時代に、しかも世界的な金融危機を経験した後に、“一流”と目される日本の企業が新聞の全面広告で訴えるのは、PR上も誠にお粗末だと私は思う。

「物を消費すればするほど経済が豊かになる」という古い理論は、経済学では「外部性(externalities)」と呼んでいる重要な要素を無視する点で、現実政策としては採用不可能である。外部性の一例としては、いわゆる「公害」が挙げられる。消費が増えることで工場生産が増加し、有害物質が河川や田畑に流出すれば、農漁業に悪影響を与え、住民の健康被害にも及ぶ。その場合は、医療費が増加したり、国の財政負担が増えるなどの経済へのマイナス効果となる。そんなことは経済学の教科書に書いてあることだ。大企業がそれを知らないはずはないから、この会社は「国民には分かるまい」と思っているのだろう。特に今日では、ほとんどあらゆる経済活動に付随して「温室効果ガスの排出」という外部不経済が関与していることを、企業は熟知しているはずである。だからわざわざ「地球にやさしい」などという表現を使って、自社の製品やサービスが温室効果ガスの排出を抑制している点を訴えるのである。

 単なる「買い物」では世界は救えないのである。無原則の買い物が、かえって世界を苦しめているのである。だから、倫理的に生きるつもりならば、どのような製品やサービスを買うかを、消費者はしっかりと吟味する努力が必要だ。そのための雑誌や書籍も数多く出版されている。かつて、有名なスポーツ用品メーカーが売っている靴が、途上国の若年労働者を“搾取”して作られていたことが問題になった。今でも、多くの途上国では、自国民が消費できない高価な農産物が、多国籍企業によって海外向けに生産されている。これによって、自国民の消費すべき食糧が不足することもあるのだ。また、先進国での大量消費によって出た廃棄物が、途上国に回ってきて捨てられ、深刻な健康被害をもたらしているケースもある。そういう事実を無視した全面広告を打つような金融会社から借金をすれば、相当厳しい取り立てが待っていることを我々は覚悟すべきだろう。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月23日

コーヒーカップの“実相”

 今日は愛媛県下の4会場を高速回線で結んで生長の家講習会が開催され、昨年3月に行われた前回の講習会を一割強上回る6,092人が受講してくださった。朝から雨が降っていたため受講者の出足が鈍るかと思ったが、同教区の中村徳久・教化部長によると「予定されていた運動会などが中止となり、雨が降ったことがプラスに作用したかもしれない」という。もちろん、天候だけが増加要因ではない。県下の各組織の人たちが熱意をもって友人、知人、そして見知らぬ人にも講習会の受講を勧めてくださったおかげである。会場が1箇所増えたことも、推進活動に勢いを与えてくれたに違いない。相愛会・白鳩会・青年会の3組織ともに増加したことも特筆に値する。この場を借りて、関係者の皆々様に心から御礼申し上げます。
 
 ところで、今日の『愛媛新聞』の第1面で、作家の吉村萬壱氏が「怖いコーヒーカップ」という題で興味ある文章を書いていた。それはコーヒーカップの「実相」についてである。吉村氏によれば、コーヒーカップの実相は恐怖すべきものかもしれないというのである。氏の説明を聞いてみよう--
 
「目の前のコーヒーカップは、実は大変な量の情報をもっているはずです。その表面には微細な凹凸が広がり、無数の光が反射しています。実際に人間の知覚は、意識されないだけで、それらのおびただしい情報を把握しているそうです。(…中略…)しかし大多数の平凡な人間にとって、コーヒーカップはコーヒーカップにすぎません。いくら目をこらしても、それ以外の像は出てきません。これが人間の発達させた“脳力”なのです。もし人が常にコーヒーカップの“実相”を見なければならないとしたら、たかがコーヒーカップといえども意味不明の光の洪水と化し、理解できない恐怖の対象になってしまうでしょう。そんな無際限な認識能力では日常生活はとても営めません。余分な情報を捨てなければ、世界は理解不可能なのです」。

 私はこれを読んで、「人間は同じ言葉を使っても、まったく違う意味のことを言うのだなぁ」という感慨を深くしたのである。上に引用した吉村氏の文章の前半には、私はまったく同感である。が、後半の文章についてはいろいろ言いたいことがある。まず、第一にここに書かれた「実相」の意味は、生長の家で言う「実相」とはまったく違う。普通のコーヒーカップの表面を例えば虫眼鏡で拡大し、細かく観察することで得られる刺激のことを、吉村氏はコーヒーカップの“実相”と呼んでいるようである。あるいは、虫眼鏡ではホンモノは見れないから、電子顕微鏡を使ってその表面を細かく観察することで、人間の眼がとらえる刺激を“実相”と呼んでいるのかもしれない。が、いずれの場合であっても、結局は人間のもつ「視神経」という感覚器官を経由して得られる情報のことだから、これらは生長の家で「現象」と呼んでいるものに該当する。

『甘露の法雨』にあるこの言葉を思い出していただきたい--「感覚にて視得るものは、すべて心の影にして第一義的実在にあらず」

 また同氏は、上記の文章を読む限り、コーヒーカップの“実相”はただ1つしかない、と考えておられるらしい。だから、「常にコーヒーカップの“実相”を見なければならないとしたら」という表現が使われているのだと思う。しかし、氏の論法にしたがって考えれば、ある特定のコーヒーカップについて、それを肉眼だけで見る場合、虫眼鏡を使って見る場合、電子顕微鏡を使って見る場合、さらに素粒子レベルで見る場合(もしそんなことができるとしたらの話だが)では、見え方が違ってくるはずである。氏は、どのレベルの見え方が“実相”だというのだろうか? それとも、どのレベルでも“実相”だと言うのか? もし後者が氏の答えだとしたら、実相が何種類もあることになるから、言葉の矛盾は否めない。まあ、氏は作家であるから、私が宗教の立場からあまりウルサイことを言っても仕方がない。氏は作家としてのご自分の考えにもとづいて言葉を定義し、自由に使われていい。宗教家が文句を言う筋合いのものではないだろう。
 
 しかし、本欄の読者に気づいてほしいのは、同じ「実相」という言葉でも、それを誰が使うかによって意味がずいぶん異なることがあるという点である。これと同じことが、「神」や「罪」や「霊」や「救い」……などについても言える。だから、表面上の類似点を見て、中身も同じだろうと考えると間違うことがあるのである。最近は「コトバの力」とか「心の法則」など、生長の家で昔から使っている言葉を正面に掲げた書物が出回っているようである。教えをしっかり理解したうえで研究される分はいいが、理解が不十分の場合、生長の家でないものを生長の家だと誤解する危険があることを留意されたい。

 谷口 雅宣

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2010年5月21日

人工細菌ができるとしたら……

 21日の新聞朝刊は大きな出来事がいくつも報道されていたから、新聞の切り抜きを日課としている私にとっては忙しい朝となった。国内では口蹄疫の対策が遅れて被害が深刻化していること、海外では韓国の哨戒艦沈没の問題で同国と北朝鮮の関係が緊迫していること、ソニーとグーグルがインターネットTV開発で提携したこと、日本でまもなく発売されるアップル社の多機能携帯端末「iPad」向けに、講談社が京極夏彦氏の新作を書籍より安く提供すること……などで、切りぬいていくと新聞がバラバラになってしまうほどだった。口蹄疫と電子書籍の問題については、すでに書いた。韓国と北朝鮮の問題は日本の安全保障とも密接な関係にあり、看過できない。が、きわめて流動的で今日、予定されている米国務長官の来日の影響で、さらに変化するだろう。だから、何を書いてもすぐ古くなる--というわけで、今回は、リストに挙げなかったもう1つの問題について、触れたい。
 
 それは、アメリカの科学者のチームが、一部のDNAの組み換えや加工ではなく、ゲノム全体を人工的につないで細菌を作ったという話である。ゲノム以外の細胞の部品は自然のものを使ったから“人工生命の誕生”とはまだ言えないが、そこまで「あと一歩」の状況だ。この研究を発表したのは、ヒトゲノムの解読にも携わったクレイグ・ベンター博士の研究所のチームで、遺伝情報が少ない細菌のゲノムをまねてDNAの断片をつなぎ合わせ、それを別の細菌のゲノムと入れ替えることで、自己増殖を繰り返す細菌を生み出す段階に到達したということらしい。簡単に言えば、従来のような“遺伝子組み換え”の細菌ではなく、“遺伝子全とり替え”で細菌を生み出したのである。21日付のアメリカの科学誌『サイエンス』の電子版に発表されている。
 
『朝日新聞』はこれについて、「この技術を応用して遺伝情報を効率的に設計すれば、医薬品の原料やバイオ燃料など、人間が欲しい物質を人工細菌に作らせることも可能になる」と肯定的評価をする一方、「生物兵器などへの悪用も心配される」だけでなく、「人工的に作られた生命体が、意図せずに自然界に出た場合、生態系や人体などへの影響も懸念され」るなどと、問題点も挙げている。『日本経済新聞』は、肯定的評価は『朝日』とほぼ同じだが、否定的側面については、「テロに悪用できる細菌兵器や生態系を破壊する生物などもできる」と書いている。
 
 この問題は結局、科学技術は“諸刃の剣”だということで、その“剣”を人間が“善”の目的に限って利用できるかどうかという、古くからの疑問に帰着するのである。そして、その疑問の基底には、「自然」というものを我々がどう見るかという宗教的・哲学的視点の違いがある。きわめて概括的に言えば、「自然は、人間によって改善されるべきものだ」という考えの人たちは、科学技術を利用して人間が自然に手を加えることを肯定する。しかし、「自然は、このままで何も不都合はない」と考える人は、科学技術の利用に懐疑的になる。前者の人たちは、人間の本質について楽観的だ。つまり、人間は多少の過ちを犯したとしても、いずれ自分たちの努力で善を実現すると考えるのだ。これに対して後者の人々は、人間は基本的に過ちを犯す存在だと悲観的に考える。だから、強力な技術の無制限の利用は、人類の自滅へとつながると恐れるのである。「理想」という言葉を使えば、自然懐疑派の人は人間を理想化し、人間懐疑派の人は自然を理想化する。
 
 私の立場は後者である--こう書くと、誤解を招くかもしれない。なぜなら、生長の家では「人間は神の子である」と教えているからだ。だから、「神の子」を懐疑的に見ることは教えに反する。しかし、その一方で、生長の家では「現象は不完全である」とも教えている。不完全なものを懐疑的に見ることには問題がない。だから、私が生長の家は後者の立場だという時は、「現象論としては」という修飾語を加えなければならない。つまり、生長の家では、現象論(現象処理の処方箋)としては後者の立場をとるのである。その理由は、このブログの最初に書いた現在進行形の“大きな出来事”のいくつかを振り返ってみればわかるはずだ。
 
 口蹄疫の蔓延は、現象人間としての我々が、動物の生命を奪って肉を食いたいと欲望していることが原因だ。北朝鮮と韓国の間の政治・軍事的対立は、お互いが相手を“敵”だと見なし、不信感を深めていることが原因だ。つまり、双方とも、人間の「神の子」なる本性が深く覆い隠されていることが原因だから、この原因が除かれるまでは“人間懐疑論”にもとづいて現象処理をするのである。ただし、これは文字通りの意味での“人間懐疑論”ではない。人間の本性は「神の子」であると信じながら、現象は完全でなく、悪因からは悪果が生じるとの認識をもって考え、行動するという意味である。本当の人間懐疑論ではなく、現象人間懐疑論を採用し、それと並行して「人間の実相は神の子である」という真理を広く伝えることで、“神の子”の自覚をもった人間を増やし、懐疑の対象となる人間を減らしていく。そういう2段階の手続きが必要である。
 
 今回の“人工細菌”の開発でも、現在のように国家間の不信感が存在し、憎悪に満ちた爆弾テロなどが起こっている間は、また、人間が自らの快楽増進のために他の生物の命を奪うことに一顧もしない状態であるうちは、悪用が行われる可能性は高いと思う。医薬品開発に使えるというが、現在のほとんどの医薬品の元になったのは、もともと自然界にある植物である。その夥しい数の植物種のうち、医薬品の原料として研究されてきたものは、きわめてわずかだ。また、バイオ燃料の製造に役立つといっても、この分野でも自然界にある藻類などの研究で、バイオ燃料の生産に有力視されているものがすでにいくつもある。だから、私は、“人工細菌”の開発には賛成できないのである。
 
 谷口 雅宣 

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2010年5月20日

古い記録 (14)

 休日の今日は朝から雨模様で、私は午後から“古い記録”の整理を始めた。本欄をこの題で書くのは昨年の暮れ以来だが、この整理のおかげで高校時代の面白い写真を見つけた。私の高校時代の様子は、2年前の12月から翌年の1月の本欄に3回にわたって書き、それが現在、単行本『小閑雑感』の「 Part 15」にも収録されている。が、そこに書き漏らしていたことがあった。すでに書いたことは、当時の私が新聞を発行する「出版部」というクラブにいて、高校生が読む紙面に「日本国憲法失効論」などを書く“右翼少年”であり、生長の家の高校生の集まりである生長の家高校生連盟(生高連)にも所属していたことなどだ。書かなかったことは、当時の私が心酔していた作家のことである。
 
 私は、三島由紀夫のファンだった。そして、彼の書いた小説を買い集め、そのほとんどを読んだか、読もうとしていた。何がきっかけで三島ファンになったのかよく憶えていないが、『金閣寺』は、私が読んだ三島作品としては初期のものだったと思う。後期の三島作品では、4部作「豊穣の海」の最初の2作品--『春の雪』と『奔馬』--に感動したのを憶えている。三島作品の何に惹かれたのかと言えば、その典雅な文体と凝った表現だろうか。また、様々な作品に通底している悲劇的なストーリーも好きだった。そしてもう1つ、彼が文学者としての枠を超えて、肉体を鍛えたり、自衛隊に体験入隊したり、政治的な言動をするのを見聞して、「カッコイイ!」と思っていた。「右翼少年としては、さもありなん」と読者も思うだろう。

 私はその頃、文章を書くだけでなく、剣道もやっていた。当初は目黒区の碑文谷警察署の道場に通っていて、後に参議院会館の道場へ移った。なぜ警察道場に通うようになったかの経緯はよく憶えていないが、参議院会館については、当時、生長の家が応援していた玉置和郎議員の世話によるものだ。その碑文谷の警察道場に、三島由紀夫も来ていたのだ。憧れの作家と同じ道場で剣道ができるということは、当時の私にとって大変な魅力だっKendo001m たと思うが、私が実際にそこで三島と居合わせたのは、1回か2回ぐらいだったのではないかと思う。剣道では、対戦するときには気合いをかけるが、三島のそれは他の人と違って、かなり甲高く、喉の奥から絞り出すような音で、最初聞いたときは意外な感じがした。もっと低い、男らしい声を想像していたからだ。もちろん三島は、高校生と試合うことなどなかった。私は遠くから、その気魄のこもった戦いぶりを見ていただけだ。
 
 当時の写真をここに掲げるが、写っている顔ぶれから見て、これは碑文谷道場ではなく参議院会館でのスナップだと思う。私の右手の中指の第一関節は、それを覆う皮膚と骨とが今でもつながっている。これはその当時、防具の上から竹刀で叩かれ続けたおかげでタコができているのである。また、激しいスポーツをすると血尿が出ると言われるが、私はこの剣道の練習で初めて血尿が出て驚いたのを憶えている。
 
 谷口 雅宣 

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2010年5月17日

電子ブックはどうなる?

 前回の本欄で、近々日本で始まる電子図書館の構想について書いたが、国会図書館がこれとどう関わっていくのか、私は知らない。国会図書館も蔵書の電子化を進めていると聞いているが、私が気になるのは、その電子化された本のファイルフォーマットのことだ。これが大日本印刷と丸善で製作している電子本のフォーマットと異なるとすると、互換性がないため、読む側で2種類の読書用ソフトを使い分けねばならなくなる。かつてビデオがカセットで提供されていた頃、ベータ方式とVHS方式の2種類が併存したため、ユーザーは不便だったが、それと似たような状態になる。また、読書用端末機を使って読む場合、問題はもっと深刻だ。ソフトウェアだけでなく、ハードウエアーまで別々に揃えなければならないだろう。
 
 私は、携帯小説など、日本で発行されている電子ブックをきちんと読んだことがない。だから今、日本の電子本で何種類のフォーマットが存在するか知らなかったが、ウィキペディアを調べてみると、「代表的なPDFやEPUBを含め、日本国内だけでも20種類以上のファイルフォーマットが存在する」とある。しかも、「多くは世界水準として認められているとは言えないもの」というから、この状態では、海外からやってくるキンドルやiTunes、アンドロイドなどの規格と勝負できないだろう。まず、国内で電子本出版を手がけているメーカーが一致して統一フォーマットを作り、それを海外でも採用させる方向で動き出す必要がある。キンドルは日本語に対応すると言っているし、iPadの上陸もすぐ目の前だから、多分、日本の出版各社はその辺のことはすでに行っているのだろう。

 こうして、日本語の電子本のフォーマットが1本化されたとしても、問題はまだ残っている。それは、この分野にはまだ“世界標準”がないということだ。電子本で先行しているアメリカでも、この問題は解決されていない。5月13日付の『ヘラルド朝日』がこの問題を取り上げているが、それによると、アメリカでの電子本の規格は、主なもので4種類あるらしい。それらは、①キンドル用、②コーボー、③バーンズ・アンド・ノーブル、④iPad/iPhone用だ。①と④は、それぞれのハードウエアーに合わせたファイルフォーマットだが、②は、アメリカの大手書店「ボーダーズ(Borders)」の規格で、③は、同名の大手書店チェーンが定めた規格である。これにグーグルが定めたアンドロイドの規格が加わると、どの規格の、どの本を、どの機械で使うかという選択が、はなはだややこしくなる。読者の側から見れば、こういう規格の乱立は、電子本の「買い控え」につながるだろう。

 ということで、今後は、電子本のファイルフォーマットの共通化が大きなテーマになると思う。これが、1バイト文字を基本とする欧米の方向に共通化するのか、それとも日本語のような2バイト文字を取り込んだ共通化に向かうのか? 私は多分、後者ではないかと思う。それは、今後の電子本は、中国のユーザーを無視することができないと思うからだ。インターネット人口の世界一位は中国人であり、今後もどんどん増え続けると考えられる。だから、その中で、日本の規格を早く統一することは、いわゆる“国益”にも合致するだろう。日本の関係業界の努力に期待したい。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月16日

間近に迫った電子図書館

 まもなく日本でも電子図書館なるものが登場するらしい。ネット経由で電子化した書籍を読むシステムで、現在流通している電子本や電子ブックとの違いは「無料」である点だ。16日付の『日本経済新聞』が伝えている。それによると、このシステムを開発したのは大日本印刷と丸善で、今夏から図書館向けに電子本の貸し出しサービスを始めるという。両社は現在、50の出版社と書籍の電子化について交渉していて、今夏には専門書や学習書を中心に5千冊分のデータを用意して、このサービスを図書館に売り込むらしい。情報源として書籍を大いに利用させてもらっている私にとっては、大変ありがたい話である。が、これには“次なる目的”もあるらしい。それは恐らく、書籍データの“囲い込み”だ。
 
 多くの読者がご存じのように、アメリカで大ヒット中のアップル社の多機能情報端末「iPad」が、今月末には日本で発売される。これは電子ブックのリーダー(読書端末)としての機能をもっていて、何千冊分もの書籍データをフルカラーのまま保管できる。つまり、“携帯型個人図書館”が原理的には実現するのである。これに先立ち、同じくアメリカの大手ネット通販「アマゾン・ドット・コム」は、すでにモノクロの書籍データを数千冊分保管して読める「キンドル」を世に出していて、書籍の電子化を着々と進めている。急成長するこの分野では、著作権の使用権を押さえることが重要だ。つまり、著作権の一部である電子ブックとしての利用権を数多く押さえたものが、より多くの利益を得ることができる。そのためには、現在、著作権の一部である出版権を多く握っている出版社と、著作物の著者の了解を得て、書籍の電子化をより多く進めることが欠かせない。また、実際の電子本の運用を早期から進めることで、ノウハウをより多く蓄積することが、この新規市場のシェアを獲得することにつながる。

 上記の『日経』の記事によると、今回両者が「図書館向け」を先行させたのは、公共性の高い図書館向けなら出版社や著者の了解を取りやすいからだという。そのこと自体は問題がないどころか、ありがたいことである。特に、市場で流通しない絶版本や再販未定本、また流通量が少ない学術書や専門書のたぐいが電子化されることは、社会の知識ベースを拡大することになる。しかし、よく売れている本の電子化となると、とたんに利害関係が前面に出てくるだろう。これをどのように調整するかで、今後の出版業界の動向が決まっていくだろう。また、今回の電子図書館構想には、妙な点もある。それは、記事に次のように書いてあることだ--
 
「利用者は図書館の窓口やサイトであらかじめ氏名などを登録すれば、蔵書を探して無料で借りられる。ただ“貸し出し中”の本は“返却”が済むまで借りることはできない。本のデータは暗号化し、コピーもできないようにする」。

 この言葉の意味は、必ずしも細部まで明瞭でないが、前半に書いてあることは「電子ブックを物理的な本と同じように扱う」と読める。つまり、例えば、Aという電子図書館に『生命の實相』頭注版第1巻の電子版が1冊分あり、それが誰かに貸し出されている間は、別の誰かは同じ本の電子版をそのサイトから入手できない、ということではないか。これでは、電子ブックの電子ブックたる意味が半減してしまう。電子ブックの長所である「在庫を持つ必要がない」ということは、何人の希望者がいても同じ本のデータが提供できるというのと同義であるはずだ。また、後半にある文章の意味は、電子ブックを借り出した人が、自分の用途のためにそれを複製することも許さない--という意味にとれる。これでは、電子ブックの利便性が減少する。例えば、米アマゾン・ドット・コムのキンドル用の電子ブックは、今でも、パソコン上でも読むことができるが、日本の電子図書館ではそれが不可能になるのだろうか。そうすると、利用者の中には、同じ本を電子図書館からは借りずに、アマゾンから購入する人も出てくるだろう。
 
 生長の家の出版物についても、この大きな流れと無縁ではありえない。現在流通している書籍類の大半は、製作の過程ですでに電子化されているから、技術的な問題は少ないと思う。今後は、それらのデータをどのような形態で、誰が、どう利用するかを大局的見地に立って決めることが重要だ。紙を使わず、在庫がいらず、しかも高速で伝送できるという電子データの特長を生かした、新しい“文書伝道”の道を早期に確立したいものである。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月14日

本物とニセモノ

 私が再びアイポッドを使い出したことを4月12日の本欄に書いたが、音楽を聴くのにはあまり利用していない。というよりは、この機械には音楽をまだ1曲も入れていないのである。音楽を聴きながら何かをするという習慣がないからだ。だから、アイポッドやそれに類する携帯音楽プレーヤーの音楽が、実は昔のレコードやCDのそれより劣っている、などということは知らなかった。聴き比べる機会がなかったからだ。ただ、デジタル音源がアナログ音源に比べて繊細さに欠けるという話は、聞いたことがあった。これは、デジタルとアナログの違いからいって当然のことなのだが、相当“耳のいい人”にしか分からない程度の差だと理解していた。そして、CDで聴くのとアイポッドで聴くのとでは音質に違いがない、などと漠然と考えていた。
 
 ところが、そうではないと知った。現在、我々がアイポッドを含めた携帯音楽プレーヤーで聴く音楽は、“本当の音楽”ではないらしい。別の言葉で言えば、それらは劣化したニセモノであるし、中にはオリジナルの演奏から意識的に変えて作られているものもあるという。11日付の『ヘラルド朝日』紙が伝えている。それによると、この“劣化”の主な原因は、携帯音楽プレーヤーに収められた音楽ファイルが「圧縮」されているという点にある。その結果、それらの機械から再生される音楽は、割れたような感じの、より金属質で、薄まった音になるという。では、そんな音楽に満足しない人が文句を言って、もっと良質の録音をした媒体を要求するかと言えば、そういう現象はあまりないのだ。なぜか? その理由を記事はこう説明している--
 
「コンピューターやアイポッドに音楽を収録する容易さによって、1世代にわたるファンは、ダウンードの簡便さと持ち運びの便利さを取り、音楽の質と再現性を喜んで放棄した。このことが、より良質でより高価な音楽の聴き方を音楽産業が創造する努力の阻害要因となっている」。

 要するに、音楽は今、CDやアップル社の音楽サイト、その他のインターネット上のサイトから簡単にダウンロードできるので、その容易さと、携帯音楽プレーヤーの携帯性を重視したユーザーが、音楽の質を要求しなくなったというのである。これに伴い、音楽の聴き方にも大きな変化が起こったという。音楽は最早、「それ自身を聴く」ことはされずに、何か別のことをしながら「背後に流れる」BGMの役割しかしていないことが多い。私の言葉を使えば、音楽は「ながら族」の聞き方しかされていない。それが今の趨勢らしい。もちろん、この動きに異を唱える人々もいる。そういう人々は、約10年前に音楽CDより良質の「DVDオーディオ」とか「SACD」(Super Audio CD)の規格を作り出した。しかし、この努力は実っていない。両規格の音楽は、2003年にはアメリカで170万タイトルが売れたものの、2009年には20万タイトルにまで減ってしまった。
 
 携帯音楽プレーヤーから聞く音楽は、このように「劣化」しただけでなく「変質」もした。それは、イヤフォーンで聴く音楽とスピーカーで聴く音楽の違いにもよるらしい。イヤフォーンでは、繊細な音よりも「大きな音」が好まれるらしい。特に、ポピュラー音楽については、録音業者は音量を限界近くにまで上げて録音するようになったらしい。
 
 私は、こういう一連の動きを知ってみると、“文明の劣化”が起こっているような気がしてならない。変化がめまぐるしい現代社会では、人間の「注意」の期間も短くなる。ある事象Aが起った翌日に別の事象Bが起った、と伝えられると、Aはすぐに忘れ去られ、Bに注意が向けられる。これと同じ現象が、アーティストAとアーティストBの間にも起る。そういう“流行の先端”を追いかける人々は、1人のアーティストとじっくり付き合うことはない。簡便なダウンロードによって、劣化した音楽を早く入手し、次々とアーティストを変える。どうせBGMを聴くのだから、音楽の質は問題ではないのだ。ニセモノでも何でも構わないから、“流行の先端”にいるという実感さえあればいい。こんな動きがもしあるとしたら、私は、それは技術が文明を劣化しつつある現象だと思う。
 
 すでに与えられた数々の“神の恵み”をしっかり味わい、ホンモノに感謝する日時計主義とは、ずいぶん違う動きではないだろうか。

 谷口 雅宣

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2010年5月11日

口蹄疫は何を教える

 家畜の伝染病である口蹄疫が、宮崎県で急速に拡大し始めた。11日付の『朝日新聞』によると、10日現在で感染が確定されたものと感染の疑いがあるものを含めると、同県内の67農場が被害を受け、殺処分の対象となるウシとブタは7万6千頭を超えると見られている。最初に感染の疑いが出たのが4月20日、同県都農(つの)町の農場のウシだった。それが、5月に入ってからはブタへ急速に拡大し、殺処分の対象は同県内のブタ総数の7%を超えたという。この数はあくまでも殺される「対象」の数で、実際の殺処分は人手が足りず、また死体の処分場所が未定のものも多いという。口蹄疫の国内での感染確認は2000年以来で、前回は宮崎県でウシ35頭、北海道でウシ705頭が殺処分の対象となった。これと比べると、今回の感染は規模が大きい。
 
 口蹄疫の問題については、私は『今こそ自然から学ぼう』(2002年刊)などに書いたが、感染拡大を防ぐための「殺処分」という方法が、人間至上主義の矛盾をさらけ出していることを指摘したい。この病気は、主として哺乳動物の偶蹄類(ヒヅメが偶数に分かれているもの--ウシ、水牛、ブタ、ヒツジ、ヤギなど)に感染するウイルス性の急性熱性伝染病で、人間にはうつらず、感染した動物も死ぬことはない。それなのに、なぜ大量の殺処分が行われるかというと、感染した動物の肉の質が悪くなり、乳の出も悪くなるからだ。また、その病名の通り、感染動物の口や蹄(あし)から外部へ広がる速度が速い。英語でも「foot-and-mouth disease」(脚から口への病気)と呼ぶ。このため、感染を防ぐには「感染範囲内のすべての対象家畜を早く殺す」のと「感染範囲内の他の動物や人、自動車の移動を制限する」という方法が採られてきた。国際的に決められた防疫措置は、発生農家を中心に半径20km以内を移動制限地域とし、同50km以内を搬出制限地域に設定する。
 
 2001年にイギリスで発生した際は、当初の対応に遅れたために感染が拡がり、結果的に約600万頭の家畜が殺されることになった。このような殺処分の方法は、山火事における「防火壁」にも似ている。つまり、延焼を防ぐために火事の起こっている周辺地域に逆に火を放つのと似ているのだ。「燃えるものがなくなれば延焼しない」と考えるのと同じように、「感染の対象がなくなれば感染は拡大しない」と考えて、範囲内の対象家畜のすべて--感染していないものも含めて--殺すのである。家畜たちを何年もかけて、手塩にかけて育てた農家の人々は、まさに耐えがたい苦しみを経験するに違いない。
 
 人間は、他の人はもちろん、動物などに対しても「感情移入」をするという点を、本欄では指摘してきた。それが「人間の本質だ」として、“感情共有の文明”を築き上げろというアメリカの文明評論家の本も紹介した。5月初めの生長の家の幹部研鑽会でも、このことを脳科学の知見から訴える講話を私はした。なぜなら、この“本質”を生かした生活を理想とする教えを、日本の伝統的な仏教が説いてきたからだ。具体的には、「観世音菩薩」の教えや「四無量心」の考え方が、他者への感情移入を基礎としているのである。そういう日本の文化的土壌で生きる農家の人々が、自ら手塩にかけて育ててきたウシやブタを、市場価値が下がるというだけの理由で、成獣も幼獣も、健康なものも病んでいるものも、一切区別することなく「全頭を殺処分する」のが、「国際的に決められた防疫措置」なのである。これを「非人間的措置」と言わずに何と呼んでいいのか、私は知らない。
 
 このような悪業の原因をつくっているのが、私たちの肉食の習慣である。今さらながら、現代文明の修正の必要性を感じるのである。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月10日

テロリストは特殊か?

 ニューヨークのタイムズスクエアで起きたテロ未遂事件の容疑者、ファイサル・シャザード(Faisal Shahzad、30)は、イスラーム原理主義組織、タリバーンによる指示と資金提供によって事件を起こした--アメリカのホルダー司法長官は9日、これまでに得た証拠にもとづき、そういう結論を公表した。タリバーンは事件直後に犯行声明を出していたから、驚くべき結論ではない。しかし、米当局はタリバーンの実行能力に疑問を呈していたという。10日付の『朝日新聞』などが伝えている。これによって、アメリカなどがアフガニスタンのタリバーン掃討作戦を強めていることに対して、報復的な意味をもった事件であることが分かる。シャザード容疑者自身も、捜査当局の取り調べに対して、タリバーンの関与について積極的に供述しているというから、「我々には報復能力がある」という明確なメッセージを伝えるための事件と考えていい。
 
 このシャザード容疑者の人物像が明らかになりつつあり、これまでのテロリストとの共通点が浮き彫りになってきた。それは、「中産階級の構成員として西洋社会に溶け込みながら、その破壊を目指す人物」というものである。これまでの報道にもとづき、彼の人物像をまとめてみると--
 
 シャザード容疑者は、1979年にパキスタンで生まれ、祖父か父がパキスタン空軍の高官だったという。パキスタンのどの地で生れたかについては、情報が混乱している。パキスタンの役人によると生まれはナウシェラ(Nowshera)という北部地域でアフガニスタン人の難民キャンプのある地という。しかし、大学の入学願書に本人が書いた出身地は、「カラチ」だった。同容疑者の友人によると、シャザード家の人たちは周囲に尊敬されていて、政治的な言動はせず、宗教組織にも所属していなかったらしい。
 
 彼は1999年1月に19歳でアメリカへ渡り、その後の10年のうちに情報科学で学士号、経営学で修士号を取り、大学卒業後はコネチカット州の金融会社に入社した。昨年は滞米11年目であり、仕事もあり、パキスタン系のアメリカ人を妻にもち、2人の子供と郊外の2階建ての家に住んでいた。妻のフマ・ミアン氏(Huma Mian)は、ジーンズをはき、フランス語とウルドゥー語を話す洗練された女性らしい。彼がアメリカ市民権を得たのは、コロラド州生まれのこの女性との結婚による。彼の滞米期間は12年近くに及び、その間、学業を収め、定職につき、自分の家の売り買いをし、接する人々にはテロリストと関係があることなど全く想像させなかったという。2004年にコネチカット州のシェルトン市で彼が不動産を買うのに関与したブローカーは、シャザード容疑者がブッシュ大統領とイラク戦争に反対していたのは知っていたが、その頃は、他の多くのアメリカ人もそういう意見をもっていたから、気にかけなかったという。
 
 彼が変わったのは、恐らく昨年6月からの8カ月に及ぶパキスタン滞在以降と思われる。シャザード容疑者は昨年、パキスタン政府の力が及ばないワジリスタンという部族支配地域で爆発物の製造と取扱いについて訓練を受けたと考えられている。パキスタン側の情報では、同容疑者は一時、パキスタンが肩入れしていたラシュカレタイバという反インド過激派やアルカイーダとのつながりもあったという。問題は、アメリカで教育を受け、すでに仕事も家族ももった青年が、なぜパキスタンへ帰ってテロリストの訓練を受けたかということだが、これについては、本人が金融危機の影響を受けて借金を抱えていたこと以外は、まだよく分かっていない。
 
 が、西洋社会をよく知り、中産階級以上の地位をもった若者がイスラーム過激派に転向して暴力事件に関与するというパターン自体は、決して“珍しい”とは言えない。今年1月9日付の本欄で扱ったナイジェリア人、ウマル・ファルーク・アブドゥルムタラブ氏(Umar Farouk Abdulmutallab)は、裕福な銀行家の息子として、西アフリカの英国系一流学校で学び、卒業後はロンドンの一流大学で機械工学を専攻した。また、歴史にも興味をもち、ヒップホップ音楽やビデオが好きで、友だちとはバスケットボールをしたという。あの9・11事件に関係したテロリストの中にも、似たようなパターンが見られる。首謀者のオサマ・ビンラーデン自身が豊かな家庭で育ち、テロリストになる前は国際ビジネスマンであり、その兄弟は今も西洋社会で生きている。アルカイーダの2番目の実力者とされるアイマン・アルザワヒリ(Ayman al-Zawahiri)は、エジプトの名家出身の外科医だった。彼の父親はカイロにある大学の薬学部教授であり、母親も同様に名家の人だ。彼女の父はカイロ大学学長で、キング・サウド大学の創立者でもあり、エジプト大使としてパキンスタン、イエメン、サウジアラビアに駐在していたこともある。
 
 このように見てくると、“テロリスト”という何か別の人種を想定し、それに対して戦いを挑むという考え方が、問題の解決に結びつかないことが分かると思うのである。
 
 谷口 雅宣
 

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2010年5月 8日

「南泉斬猫」で4万人救う

 先の大戦の終結時に、日本軍の武装解除の命令に従わずに内蒙古でソ連軍と約1週間も戦った軍司令官がいたことを、私は知らなかった。これに対し、満洲では関東軍が即刻命令にしたがい自ら敗走したため、取り残された日本人が数多く犠牲となったり、残留孤児となったことはよく知られている。内蒙古で戦った司令官は「根本博中将」といい、命令違反の目的は、内蒙古居留の邦人4万人の保護のためだったという。根本中将率いる駐蒙軍は、8月9日からソ連軍と戦っていたが、根本中将は“玉音放送”に至る前に、命令に反してでも「邦人保護」を優先させる決意をしていたらしい。このことを記した新刊書『この命、義に捧ぐ』(門田隆将著)を、版元の集英社の高田功氏から送っていただいた。

 当時の日本軍の最高司令官は天皇陛下ご自身である。その陛下ご自身の放送は、軍にとっては至上命令である。しかし、軍隊という組織の最大の任務は日本を守ることであり、中国大陸にあっては在留邦人の生命と財産を守ることだ。ソ連と戦闘中に武装解除をすることは、前者に従うことにはなるが、後者を放棄することにもなる。このジレンマの最中にあって、根本中将は後者を採った。この本の中には、その大きな要因になったのが、『生命の實相』の中にある谷口雅春先生の「南泉斬猫」の公案の解説だったと書いてある。

「南泉斬猫」は有名な公案なので知っている読者も多いと思うが、簡単に言えばこうなる--ある日、南泉和尚のもとで修行している僧たちが猫をつかまえ、「この猫に仏性があるか?」と論争していた。すると、その場にやってきた和尚がその猫を取り上げて、「この公案をお前たちが解けなければ猫を斬り捨てるぞ」と言った。しかし、誰も公案を解けなかったので、和尚は猫を斬って捨ててしまった、というのである。
 
 雅春先生の解説文は、現在の頭注版では第18巻(宗教問答篇)の第2章「南泉猫を斬る生活」に、次のようにある--
 
 南泉和尚が猫を斬ったのは「形に捉われるな、仏性というものは形のいかんにあるのではない。形の猫を斬ってしまったら、そこに仏性があらわれるのだ」ということを猫を斬る行為で示されたのであります。(第18巻、p.58)
 
 根本中将は、眠れない夜中にこの解釈を読んで、「そうだ。余計なことを思い悩む必要はない。ただ自分は、形や現象に捉われることなく、自分自身の使命を果たせばよい」と思ったという。つまり、形式的には武装解除の命令に違反することになっても、軍の最大の任務である邦人保護を全うすべきだと考え、「気持が楽になった」という。また、『生命の實相』が同中将の座右の書の1つだったとも書いてある。
 
 この決断に関連して、本の中で私が興味をもった箇所がもう1つある。それは、当時、南京の支那派遣軍総司令官だった岡村寧次(ねいじ)大将が、武装解除しないで戦い続ける根本中将に対して、8月20日付の電文で「詔勅を体し、大命を奉じ、真に堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶの秋たるを以て本職は大命に基き、血涙を呑んで(…中略…)有ゆる手段を講じ、速かに我より戦闘を停止し、局地停戦交渉、及武器引き渡等を実施すべきを厳命す」と言っている点である。

 岡村大将といえば、この人も生長の家との関係が近い。昭和19年12月、谷口雅春先生が南京に行かれたとき、岡村大将は副官も退けて、雅春先生と2人だけの場を設け、「今の日本軍は皇軍じゃないんですよ」と現地の軍隊の実情を詳しく説明したことが、『生長の家』誌昭和34年3月号には書かれている。また、その文章は、私が監修した『歴史から何を学ぶか--平成15年度生長の家教修会の記録』(生長の家刊)の22~23ページに引用されている。

 生長の家の教えに触れた2人の軍人が、何万人もの命が関わる終戦時の重要な局面で、意見を異にして向き合っていたのである。読者だったら、どちらの判断に与するだろうか。
 
 谷口 雅宣

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2010年5月 6日

人間は倫理的存在

 5月4日の本欄に書いたように、私は今回の生長の家の幹部研鑽会などの講話で、人間に“生来の善性”があることを示す一例としてミラーニューロンのことを取り上げた。人間が生物種として、この「他者の心や感情を映し出す神経細胞群」を最も発達させているとしたら、それを充分に使った生き方が人類の生存に有利に働いてきたということだろう。すると、昔から巷で使われている「生存競争」という言葉が、この世の現実を示すものとして、はたして正確であるかどうか疑わしくなってくる。

 この言葉を辞書で引くと、「自分の方が長く生き延びようとして、弱い他の生物をおしのけるために起こる競争」(三省堂『新明解国語辞典』、1989年)という意味が出てくる。また、『広辞苑』第1版(岩波書店、1955年)では、同じ言葉をこう定義する--(struggle for existence の加藤弘之による訳語)生活体がその生存を全うする為に、相互に競争し、その結果、適者は残存し、不適者は淘汰せられる現象」。『新潮国語辞典』(新潮社、1965年)の定義も『広辞苑』に近く、「生物体が生存してゆくために相互に競争し合い、その結果として適者が残存し、不適者は淘汰される現象」とある。どの定義にも「競争」という言葉が出てくるが、人間が「他者の意図や感情を慮る」のは、競争に勝つためだけではないという点が見落とされている。
 
 英語では、これと似た現象を表すのに「survival of the fittest」(適者生存)という言葉があり、これだと「競争」しなくても、生存に適する考え方や行動をとる者は「適者」となるから、ミラーニューロンの発見後も通用するだろう。が、「生存競争」という言葉は、現実世界(現象界)の生物界の生き様を精確に描くものとはもはや言えないだろう。人間社会では、強い者に対して自らを主張して挑戦していく者は、英雄視されることがある。しかし、そういう人物はしばしば生存を全うしないことは、坂本龍馬などの“維新の志士”の例を見てもわかる。また、動物界にあっても、恐竜の絶滅後に哺乳動物が地上を圧倒するに至った理由は、「生存競争による」と言うよりは、「天変地異による」と言った方がいいだろう。
 
 そこで、この“生来の善性”の話を少し延長してみよう。つまり、人間は幼い時から倫理感や、倫理基準のようなものをもっているかどうかという話だ。常識的な考えは、赤ちゃんには倫理感や倫理基準はないから、大人がそれを教え、成長後に正しい社会生活ができるようにしてあげるのが教育の大きな目的の1つ--というものではないだろうか。我々は普通、生れたばかりの赤ちゃんは基本的に“エゴイスト”だから、親や教師の役目は、彼らに「人を思いやる心」(エンパシー)や「罪の意識」や「羞恥心」などを教えて、自分本位の考えや行動を抑圧して、これらのより“高度な”社会原則を優先させることだ--そう考えるのではないだろうか。
 
 ところが、イエール大学の心理学教授、ポール・ブルーム博士(Paul Bloom)は、5月9日付の『ニューヨークタイムズ・マガジン』に載る予定のエッセーで、赤ちゃんには“生来の倫理感”があると書いている。それは、同博士の個人的意見ではなく、そういう倫理感の存在を示す証拠が、赤ちゃんの心の研究から次第に増えつつあるというのだ。同博士の言葉を借りれば、「よく工夫された実験のおかげで、1歳の赤ちゃんにも、倫理的判断や倫理感の萌芽があることがわかる」というのである。しかし、だからと言って、子供に倫理・道徳の教育が不要だというのではないらしい。子供が社会と接触することは大変重要だが、それは幼い子に善悪の区別ができないからではなく、幼い子がもつ生来の倫理感が、我々の大人社会が期待しているものと、重要な点で多少違うからだという。
 
 もっと詳しい話を知りたいが、記事にはそれがないのは残念だ。
 
 谷口 雅宣
 

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2010年5月 4日

幹部研鑽会と全国大会終わる

 生長の家の運動組織の恒例のイベントである全国幹部研鑽会と全国大会が終わった。5月1日が白鳩会の全国幹部研鑽会、2日が相愛会と栄える会合同の全国幹部研鑽会、3日は青年会の全国大会だった。私は、それぞれの日の午後に1時間の講話を担当した。その準備のため、本欄は休載させていただいた。
 
「全国大会」から「幹部研鑽会」に切り替えて2回目となった白鳩会の会合では、昨年と同じさいたま市の大宮ソニックシティホールをメイン会場とし、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山と福岡県太宰府市の生長の家福岡県教化部、さらに今年は札幌市の生長の家札幌教化部を加えた4会場を光回線で結んで開催された。参加者の資格は昨年同様に「支部長以上の組織役員」に限られたが、4会場合計で昨年より282人多い6,446人が参集してくださった。

 相愛会と栄える会の合同全国幹部研鑽会は、昨年、東京の明治神宮会館1会場で行われたが、今年は東京会場を有楽町駅前のよみうりホールに変え、加えて会場を白鳩会と同じ宇治別格本山、福岡県教化部、札幌教化部にも設け、これら4会場に1,851人が集まってくださった。この数は、昨年の参加者数(1,811人)とあまり変わらないようだが、昨年は壮年層であれば一般会員も参加できたものを、今回は組織の役員に対象を限定して行われた。
 
 3日に行われた第62回生長の家青年会全国大会は、よみうりホール1箇所で、また参加資格も「青年会員」に限定して行われたが、昨年の青年会員の参加者数(788人)より多い951人の参加があった。今回は、参加者の目標を教区が自主的に決めて推進したそうだが、前回より2割も参加者が増えたことは注目に値する。
  
 生長の家は現在、“自然とともに伸びる運動”の実現を目指しているから、行事への参加者が増えればよいとする単純な考え方をしていない。行事開催の過程で排出されるCO2の量を減らしつつ、教勢を伸ばしていくのが目標であり、これの成否は短期間ではわからない。今回の行事でも、その目標に向かって関係者が様々な工夫を凝らして取り組んでくださった。そのご努力に心から感謝申し上げます。
 
 私は、今回の講話の中で「ミラーニューロン」のことに触れた。これは、私たちの脳に存在する一群の細胞で、目の前にいる“相手”の感情をシミュレートするという特殊な役割をもっている。つまり、相手の感情を“鏡”(ミラー)のように映す機能をもっている。人間と高等の霊長類にしかないと考えられており、言語の発生とも関係が深い可能性がある。研究者のマルコ・イヤコボーニ博士の言葉を借りれば、この細胞群は「自分でサッカーボールを蹴ったときも、ボールが蹴られるのを見たときにも、ボールが蹴られる音を聞いたときにも、果ては“蹴る”という単語を発したり聞いたりしただけでも、すべて同じように発火する」のである。この細胞群があるために、私たちは他人の気持を推し量ったり、小説や映画の主人公に感情移入することができるとされている。
 
 私は、この特殊な神経細胞群の存在は、人間が「自他一体」の実感を得る能力があること示す有力な証拠だと考える。また、この細胞群が人間において最も発達しているという事実は、人間の本質が、他の動物のように「欲望を満たす」ことにあるのではなく、他者と「喜びを共有する」ことにある、と語っているような気がする。だから、この方面での心理学や神経科学の発達は、宗教に関わる者として興味がつきない。
 
 谷口 雅宣

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