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2010年4月20日

洋画家・三岸節子氏のこと

 女性洋画家として唯一の文化功労者である三岸節子氏(1905-1999)の没後10年を記念した「三岸節子展:心の旅路~満開の桜のもとに」の案内をいただいた。主催する朝日新聞社文化事業部の東真理子さんからで、添えられた手紙には、興味あることが書かれていた--

「実は、洋画家、三岸節子さんの展覧会準備でアトリエから日記帳(約30冊、40年分)を発見し、私が中心になって図録制作会社のリーブルから3年分の日記全文を発行しました。日記にたびたび魂について、死について言及し、“みすずさんから白鳩が送られてきた”と書いてあります。“みすずさん”は生長の家の熱心な信者のようで、三岸さんが自らの芸術を求めて63歳から約20年間、フランスで孤独に耐えてがんばっていた精神的な支えになっていたようです」。

 三岸節子は、明治38(1905)年に愛知県一宮市で生まれ、女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業。天才画家と言われた三岸好太郎と19歳で結婚したが、29歳で夫に先立たれ、以後、3人の子を育てながら静物画を中心に絵を描き続けた。日本では売れっ子画家となったが、それに満足せず、「本物の風景画家」になりたいと決意して、63歳から家族を引き連れてフランスに渡ったという。パリではなく、地中海を臨む南仏の町、カーニュだったから日本人も少なく、言葉の壁を初め、口に合う食料品の確保や経済的工面に大変苦労したらしい。そんな様子を、丹念に日記に書きつづっていた。

 このたび、その日記の1969年から3年分が『三岸節子仏蘭西日記:カーニュ編』として単行本化されたというので、東氏の手紙にはそれも同封されていた。その本を読むと、東氏が言うように、生長の家の教えを異国での画業の支えに奮闘する三岸の心の動きが伝わってくるのである。例えば、1969年6月28日の日記には、こうある--

「私は孤独ではない。いつも私のすぐここに神様でいて下されるのであるから、心強く一者ではなく光明と共にあるのである。私は常に二者である。私をフランスへ来るようにして下されたのもこの神であれば、なんで非力な私の力と言えようか、すべて神の恩寵の賜である。
 私に絵を描かせて下されるのも神であれば必ず生きてゆく道が開かれてゆくのも神の恩寵の賜である。
 私はこれから寂しいとか悲しいとかつらいなぞという自己陶酔をやめよう。いかなる場合も感謝と謙虚と柔和な心をいっときも失わぬよう心がけねばならぬ。」(p.67)

 この箇所を読んだ私は、3月21日の本欄でも触れた聖歌『神と供に生くる歌』の2番の歌詞を思い出した--

 「われ一人来て われひとり
  生くと見ゆれど ふたりなり
  その今一人は 神にまします。
  神はいのちの 言葉にて
  肉の宮居を 造り成し
  わが魂を 棲まわせたまう。」
 
 三岸節子展は、4月22日から5月10日まで日本橋高島屋8階ホールで開催される。この後、6月8日から7月4日までは岡山県立美術館で、7月7日から8月1日までは名古屋市の松坂屋美術館で行われる。生長の家の「皆様においでいただきたい」として招待券を何枚もいただいたので、希望者は本部出版・広報部まで連絡されたい。

 谷口 雅宣

【参考文献】
○『三岸節子仏蘭西日記:旅立ち~水の流れの如く』(カーニュ編 1968-1971)(リーヴル刊、2010年)

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コメント

合掌有難うございます。三岸節子画伯の事 大変心うたれました。子供さんを連れ 遠い異国の地で 画家としての研鑽を積まれる日々に 生長の家の御教えが 支えとしてあった事 みすずさんという方の 尊い愛行 伝道。「神と偕に生くる歌」とともに「新天新地の神示」のなんじ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思え。の言葉を思い出しました。しかも今の時代ではなくずっとずっと昔に 殆ど同じ年代で!! 凄い!!shougekiをうけました。ぼやぼやしとられん。神様かみさまと御名を呼びながら 信仰を深め四無量心を行じていこうと思いました。満開の桜のもとにとあるのは きっと桜花もたくさん描かれているのではないかと想いを馳せています。九州では展覧会は叶いませんが 日記の本は読んでみようと思います。素晴らしいお知らせを有難うございました。桝谷拝

投稿: 桝谷栄子 | 2010年4月21日 02:22

 とても感動致しました。是非行ってみたいです。ところで私事で大変恐縮ですが、私は大学時代、美術部に属しておりまして、二年に一回、OB展があるのですが今年は私がまとめ役をさせて頂く事になりました。これを機会に私も芸術方面を再開したいと思っています。

投稿: 堀 浩二 | 2010年4月22日 11:40

合掌 ありがとうございます。
少し前にテレビで三岸節子画伯のことを観ました。スケールの大きい明るく素敵な方だと感想を持ちました。
出来ることなら高島屋に行ってこようと思います。誌友会などで皆さんと語りたいと思います。
素晴らしい出来事をこんなにも早くご紹介くださりありがとうございます。

投稿: 小野 公柄 | 2010年4月24日 00:24

はじめてコメントさせていただきます。

三岸画伯が生長の家の教えを支えとしておられたことを知り、感動しました。
私は愛知県在住ですが、20年前に三岸画伯の生まれ故郷尾西市(合併して今は一宮市)の方へ木曽川沿いにドライブに行ったとき、歴史博物館があったので見学しました。すると、市制35周年記念ということで、ちょうど三岸画伯の展覧会が催されていまして、そこではじめて三岸画伯を知りました。

私は絵に全くの素人ですが、使われていた赤と黄色の燃えるような色彩から強い印象を受けました。
激しさ力強さが絵にほとばしりでているようで、凄いなあという感じで見ておりました。

今回この記事を読ませていただいて衝撃を覚え、その時に購入していた展覧会の画集を見直しました。平成元年とありましたが、冒頭に画伯の挨拶文が掲載されていまして、その中に、

「人生の道中苦しいにつけ悲しいにつけ、尾張の魂だけが私を生かし続けた」とあり、

最後は、

「故郷忘じ難し。この故郷に感謝しているのである」

と結ばれていました。

また、茨城県近代美術館長による解説文の中には、メニエル氏病という難病にかかり、それが治らぬうちに七転八倒の腹痛に見舞われ、危うく腸閉塞で死ぬところだったこと。その手術後、一月入院しているうちに、メニエル氏病は忘れてしまったように治ってしまったということが書かれていました。

今回、画伯の日記の一部を読ませていただきまして、生長の家のみ教えがどんなにか画伯の支えになっていたかを知り、感慨深いものがありました。故郷への挨拶なので「尾張の魂だけが私を生かし続けた」とありますが、日記からは、「生長の家のみ教えが私を生かし続けた」の思いが、ひしひしと伝わってきました。7月の名古屋での展覧会が楽しみです。ありがとうございます。

投稿: 鈴木秀治 | 2010年4月24日 00:36

皆さん、コメントありがとうございます。

 三岸画伯の生涯については、私は今回初めて知りました。日記もまだ全部は読んでいません。今後も、順序を追って日記は刊行されるそうです。

投稿: 谷口 | 2010年4月24日 22:24

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