「わかる」ということ (8)
自分が見た夢のメッセージを「わかる」とは、どういうことなのだろう? 前回の本欄で書いたことをもとにすれば、それは「夢を見た本人の理性(意識)が、無意識によって暗号化されたメッセージを解読すること」だった。何かすごく複雑な過程であるように聞こえるが、実際は、被分析者が分析者の前で自分の見た夢を語るのに対し、分析者がいくつか質問をして、それに被分析者が答えるという、単純な過程を繰り返すことになる。もっと具体的に言おう。ある被分析者が「A」という人物の夢を見たとする。すると、分析者は「Aさんについて、何か思いつくことがありますか?」と質問する。被分析者は、「それは昔の友人ですが、年をとっていない」などと答える。
ここから先が、フロイト派の夢分析とユング派のそれとは違ってくるという。河合氏は日本におけるユング派の第一人者だから、ここではユング派の方式を扱うことにする。ユング派では、「夢の内容拡充法」で夢分析を行うという。これは、フロイト派の「自由連想法」とは異なり、被分析者が夢の内容としっかり対面するための方法である。だから、上に書いた「Aさんの夢」の場合は、被分析者が見たその夢の内容を、もっと詳しく思い出させることが目的となる。すると、次の質問は、「Aさんについて、もっとほかに思いつくことはありませんか?」という形になる。つまり、あくまでもAを中心にして、Aについて多くの連想を得ることが目的になる。これに対して自由連想法では、「“昔の友人”ということで、何か思いつくことはありませんか?」とか「“年をとらない”ということで、何か思いつくことはありませんか?」というように、「A → B → C」の形で質問の対象が移っていくという。
このようにして、1つの夢の意味が明らかになるのだろうか? 河合氏は、必ずしもそうならないという。夢は多くの場合、多様な解釈ができる。したがって、夢分析の目的は、分析者が夢を理解することではなく、被分析者が無意識の内容を意識的に経験することであり、分析者はそれを補助するだけだという。そのことを河合氏自身の言葉で語ってもらおう--
「夢の解釈においても、それに現れたものは、単一な意味をもつとは限らず、多様な意味をもっている。このために、われわれは、夢をある一つの面から説明し、解釈し去ることを常に警戒しなければならない。一つの解釈を得て満足していても、のちほど、それをもう一度検討すると、異なった意味を見出すこともあるわけである。(中略)したがって治療者にとって大切なことは、夢を理解することではない。むしろ、多様な意味をもった夢に、患者が自分の意識をもって対処し、経験してゆくことを補助することにある。そして、無意識の内容が、患者の意識へと同化されてゆくのを助けるわけである」。(前掲書、pp.40-41)
河合氏はこの過程を「無意識と意識の相互的浸透」と呼んでいる。また、このような過程を通して、被分析者の意識から隠されている無意識の内容が明らかになっても、それを因果関係として捉えないように、と注意を喚起している。ここのところは抽象的な説明では分かりにくいので、具体例を示そう。
前回の本欄に登場した不登校に悩む中学生を「C君」と呼ぶ。C君は、学校に行かないときに、一人で裏山へ行って土器を探したり、縄文式土器をまねたものを、自分で焼いて作っていたという。また、母親との関係はぎこちのないものであったが、母親の愛を疑ってはいなかった。そして、後になって明らかになったのは、父親が精神病を病んでいることだった。C君はこの両親の一人っ子である。ということは、この家庭の事情を因果関係的に見ると、父親が精神病で働けないため、母親は自立して仕事をこなし、一人っ子のC君と夫の治療代を稼いでいる--こういう構図が描ける。また、C君が登校したくない理由の一つには、父親のことが友だちに知られるリスクがあった。だから、分析者としては両親に別居を勧めることで、C君の不登校の原因を除くという解決法が考えられる。また、父親の治癒は期待できないとC君に説明し、登校するように説得する方法が考えられるかもしれない。が、ユング派の夢分析は、そういう方向に進まないという。
それよりも、夢分析を通じて明らかになったC君の無意識の葛藤を、C君自身の意識できちんと把握させ、経験させるのである。すると、C君自身の心から、葛藤を超えて前進するエネルギーが生まれてくるというのである。河合氏は、無意識中の葛藤を構成している諸要素の一かたまりを「布置」(constellation)と呼んでいるが、被分析者の意識がこれを明確にとらえることができれば、そこから解決への動きが自ずから生まれてくるという。
「因果律によらず、現象を全体としての布置としてみるとき、われわれの頼みとするところは、このような事態の意識的な把握によって、人間はその強力な布置から抜けでることができるということである。あるいは、意識による適確な把握ができたとき、元型的布置は自らその力を弱めていくとさえいいたい」。(同書、p.59)
このような抽象的表現では、実際にC君に何が起きたかは読者には分からないだろう。そこで、ごく簡単に経緯を記そう--C君は自分が家で大切にされすぎていることを自覚し、また母親の愛が「肉の渦」に象徴されるように強力であることを経験し、同時に自分がそれに甘んじていることにも気づき、母親に対して「家を出て下宿したい」と申し出るのである。結局、下宿は実現しなかったものの、これを契機に母と息子は、父の病気のことも含めて腹を割って話し合うことができ、不登校の現象はなくなったという。
この経緯を聞いて読者に気づいてほしいのは、人間には自分の問題を解決する力があるということだ。これは、ユング派の精神分析の“核”になる考え方で、河合氏はこれを「自己実現」とか「高次の統合性」と呼んでいる。
「ユングは、つとに、人間の心の中に全体性、統合性へと志向する傾向の存在することを認め、それを心理療法の究極のよりどころと考えた。すなわち、われわれが一面的な生き方をするとき、必ずそれを補償し、高次の統合性へと向かわせる心のはたらきが生じるのである。(中略)このようなことは、意識と無意識の相互関係によく認められ、無意識は意識の一面性を相補う傾向があると考えられる。ユング派の分析において、夢分析が重視されるのも、無意識のこのようなはたらきに注目し、夢をその表現としてみるためである」。(同書、pp. 63-64)
このような精神分析の成果を知ってみると、人間には、自分の無意識の領域についても「わかる」能力があるがことが分かる。しかし、この場合も、意識(理性)が無意識中の葛藤を把握し、経験するという過程が必要だ。その意味で、理性は、私たちが「わかる」ということに、きわめて重要な役割を果たしていると言えるのである。
谷口 雅宣
【参考文献】
○河合隼雄著『ユングと心理療法--心理療法の本(上)』(講談社α文庫、1999年)
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