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2010年4月15日

なぜ“森の中”なのか? (2)

 前回の本欄では、今の生長の家国際本部の建物が老朽化していて建て直しが必須であることを述べ、また、都心で業務を続けていては「環境重視」の考えを生かすことが難しいだろうと書いた。この後者の点について、もう少し説明しよう。

 現在、生長の家では“自然とともに伸びる”運動を推進しているが、読者もご存じのとおり、都心は自然から隔絶している。というよりは、そもそも「都市」というものは、自然からの影響のうち、人間の生活にとって不利なものをできるだけ排除して造った空間である。だから、そこに留まることは「自然と別に伸びる」ことを志向することになる。それでも東京は、名古屋や大阪に比べて「自然が多い」などと言われることがある。確かに、皇居を初め、明治神宮や新宿御苑など、“緑が豊か”といわれる場所は数多くある。が、それらは「自然」というよりは、本質的に「公園」である。公園は都市の一部を形成する施設で、その特徴は、都市と同じく「人間の生活にとって不利なものをできるだけ排除している」ことだ。もっと具体的に言えば、カやブユやハチなどの発生源となってはならず、その他の“害虫”や“害獣”がいれば駆除されるべき場所である。そういう空間を拡げたり、増やしていくことは、「自然とともに伸びる」ことには必ずしもならない。

 自然界には、青い山々、小川のせせらぎ、林を抜ける風、愛らしい鳥類や小動物、美しい昆虫、山菜や果物、季節の花々……など人間が好むものもあるが、それと同時に、毒虫や害虫による被害、雑草の繁茂、シカやイノシシの食害など、人間が好まないものも多くある。気温も、常に20℃前後に保たれたオフィス空間とは大いに違う。都心で仕事を続けることは、そういう自然界の“よい面”も“悪い面”も知らずに生きることであり、したがって「自然とともに伸びる」こととは違う。

 都会で“自然を愛する”生活をするとしても、例えば、私を含めたすべての役員・職員の生活は、従来とまったく変わらないだろう。深夜まで電灯が煌々と灯る都会で、コンビニや地下街やデパートを利用し、夏場は冷房の寒さに震え、冬場は暖房の暑さに汗を流す。エレベーターやエスカレーターを利用し、動く歩道を早足で歩く。ゴミを捨てれば誰かが掃除してくれるし、食べ放題料理、残飯の山、ラッシュの電車、道路の渋滞なども、これまでとまったく同じである。確かに、生長の家はISO14001を取得しているから、都心に位置していても省エネ、省資源の努力を今後も続けるに違いない。が、近くで開発行為があれば、我々の努力で排出を削減したCO2は、新たに出たCO2によってアッという間に補填される。そして東京では、そういうスクラップ・アンド・ビルド(壊して建てる)方式で、新しい施設がどんどん建設されている。

 前回、手紙を下さったMさんは、「陰に徹していい」と言っておられるが、その意味は判然としない。人々や社会の流れの“陰”で、コツコツとCO2削減の努力をしろという意味ならば、多くの生長の家信徒はすでにそれを実行してきたと思う。だから、そういうこれまで通りの生活でいいとお考えなのか。それとも、そういう都会の生活環境の中でも、さらに努力して--それこそ、修行僧のように--自動車を自転車に乗り替えて、エアコンも使わず、暖房も使わず、ネジリ鉢巻きでエスカレーターもエレベーターも利用せず、満員電車の中で聖経を読み、交通渋滞の車内で神想観をする……そういう目立たない活動をしていれば、そのうち世界は理想的になっていくとお考えか。

 私は、Mさんがおっしゃるように、都会生活の中でも、今あるものや状況に感謝し、触れ合う人々にも感謝する生き方に全面的に賛成である。それどころか、そういう生活を実践しようという「日時計主義」の運動を、ここ数年、教団全体で押し進めてきたつもりである。「それで十分だから、目立つことはするな」とMさんはおっしゃるかもしれない。しかし、私たちが“森の中”に行くのは目立つためではない。目立つか目立たないかわからないが、現代生活の中で、自然と調和した生き方を身をもって体験するためであり、また、そのための技術開発に取り組んでいる多くの企業を応援する意味もある。

 Mさんは「魂の向上」を強調され、「魂が向上すれば、おのずと各々の使命自覚し、開花していくものだ」とおっしゃる。私はこの目標にはまったく同感だ。しかし、魂は魂だけで存在しているのではない。魂は、この世界においては「肉体を通して」生活するのである。その肉体を維持するためには、衣・食・住についての具体的な選択を、私たちは毎日毎日下している。その1つ1つの場面で、私たちは「他からできるだけ奪わない」生き方をしたいと思う。が、都会生活はその選択肢をほとんど与えてくれない。また、欲望が渦巻き、それに応える手段が完備しているから、「奪わない生活」はむずかしい。そういう都会がいいのか、それとも不便ではあるが、自然との接点が多い“森の中”がいいのかと考えたとき、私たちは後者を選んだのである。抽象的な“魂の向上”ではなく、具体的な生き方による“魂の向上”を選んだ--こう考えていただければ幸甚である。

 谷口 雅宣

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コメント

合掌 ありがとうございます。
一信徒(青年)です。はじめてコメント致します。

新国際本部の建物は現在プランニング中のことと拝察致しますが
「ご神像」はどのようになる予定でしょうか。

現本部建物が相当老朽化している、ということは、「ご神像も同じ」
と推察致しますので「そのまま移設」というのは難しいと思いますが、
新本部にも新造・安置されると聞けば、古参の信徒さん方も安心されると思います。
(現本部会館が無くなる=ご神像が無くなる、ということを
懸念あるいは非常に残念に思っている方も多いように見受けられます)

建物意匠との関係もありますでしょうから、現在のように「建物正面に」と
なり得るのかどうかはわかりませんが、生長の家の歴史を示す象徴の一つとして、
また、年代を問わず信徒同士の融和を図るためにも、
ご検討の一つに加えて頂ければ幸いです。

投稿: T.A. | 2010年4月17日 07:05

合掌 ありがとうございます。
一信徒(老年)です。はじめてコメントさせていただきます。
平成22年度の運動方針の説明文に
   1 自然と共に伸びる運動
   2 愛の共同体
   3 有機的統一体  の
言葉が出てまいります。今回のブログで、自然と共に伸びるという
意味あいを、良く理解することが出来ました。そこでまた、
他の二つについても、んーと、やさしい具体的なお話を
期待しております。

投稿: AY | 2010年4月17日 16:06

「神像」に関することは、昨年の11月25日と26日の本欄に少し書きました。参考にしてください。

「愛の共同体」「有機的統一」については、機関誌か聖使命紙に、今年の代表者会議で話したことが掲載されているはずです。

投稿: 谷口 | 2010年4月17日 21:32

>年代を問わず信徒同士の融和を図る

T.A.さんのおっしゃることは神像を残すかどうかを考える上でポイントではない気が致します。正しい目的のためには信徒が離れることがあろうとも、正しい手段を取るのが生長の家の伝統ではないでしょうか。もちろん長年の信徒の方が信仰を続けてくださることも、十分な説明をすることも重要です。

どういう決断が下されるかはわかりません。残されても、残されなくても、神像を生長の家大神そのものと誤解される方もいることを踏まえ、正しく理解し、他の人にも理解してもらう努力が必要だろうと思います。

静岡教区 加藤裕之拝

投稿: 加藤裕之 | 2010年4月18日 01:57

先日先生のブログを拝見しました。事務所移転の真の意味がわかり嬉しく思っています。
Mさんの意見に対しての返答はありがたいことでした。
私たち末端の信徒に来るまでに色々な内容が抜け曲がった形に伝わってくる、
先生が長時間をかけて説いて下さる地球温暖化の意味またこの時代の生き方、関わり方などを信仰者として私たちがより深く理解していない点、確かに本を読み勉強してないたくさんの失点もあります。
簡単に言えば生長の家が温暖化イコール森のオフィスと繋がっていく道筋がよくわからないのが事実だったと思うのです。
ましてや老朽化していること耐震その他の不備は、本部に行かない人はほとんどわかりませんし
Mさんというかたも真剣に、生長に家をやられていると感じました、言葉足らずのところもあったのでしょう。
先生へメールをすること自体大変な思いがあるからです。
結果的にはすっきりと生長の家に邁進できます事感謝します

また今現在新しい人を誌友会や講習会へ誘う運動がなされています。
新しい方が誌友会でこられますと、生長の家は環境団体とのイメージがあり、
全宇宙的な思想、自然のかかわり方、奪わない生活は素晴らしいとぜひ生活の中からやっていきたいとの意見ですが、、
どうも人と人とのつながりが、自他一体のほうがわかりにくいみたいところがあります。
ほとんど環境問題が主題であり何らかの問題を抱えている人はそのように感じたとの事です。
きっとこれからは新しい誌友会もますます中身の充実が必要だと思うところであります。
また講習会自体は他の宗教団体に比べると良いと思うのですが、(他の団体ではトップの人が来て教えを直接は伝道をしてないと思うからであります。別の形でやられているのかもしれませんが)
(講習会も2年毎となりましたが楽しみにしている1人でもあります。)
ただ講習券も会場からして参加人数の不可能な数の券をだし、
ビラも講習券も終われば破棄となります。このあたりも検討する余地あり、
限界はあると思われます。
そのことにより少しは講習券の単価を下げることができるかもしれません。
色々と先生の深い思いとはかけ離れている意見だとは思いますがこれから先生
の生長の家を愛してやまないからであります。たくさん学び理解していきます
またこのようなブログがあり一番下ともいえる一信者から総裁というトップの
方へ意見が言えますことにはありがたく思っています。
これからの雅宣先生のご活躍を期待します

投稿: 佐藤繁幸 | 2010年5月 9日 10:47

総裁 谷口 雅宣先生
コメントをご投稿された皆さま:

合掌 ありがとうございます

 遅ればせながら、「森の中のオフィス構想」につきまして、ご詳解くださり、ありがとうございました。
その意義と必要性、スケールの偉大さを
自分なりに理解することが出来、大変嬉しく存じます。

「耐震性・老朽化、安全性」等を前面にされるのではなく、自然との共生を目指したモデル社会(オフィス)の構築を掲げられていることから、「日時計主義」の精神に基づかれた構想であると感じました。

このご計画が、み心のままにご進捗されることを
心よりお祈りさせていただきます。    再拝
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投稿: 川部 美文 | 2010年5月14日 09:17

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