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2010年4月 5日

「わかる」ということ (10)

 前回の本欄までの考察で、私たちは「わかる」ということの複雑な構造を図示することに、ある程度成功したと思う。もちろん図示したのは、意図的に単純化した「わかる」の構造だけであり、「A君のお母さん」を充分にわかる状態を図示しようとすれば、前回描いた円錐の内部に、いくつもの小型の円錐を詰め込んだ図を描くことになるだろう。時間と手間をかければそれをすることも可能だろうが、今は“モデルの構築”の段階だから不要な作業である。今回は、前回までの理解を前提にして、別のこと--複数の人間が同一の対象について「わかる」ということ--を図示しようと思う。

 何のためかと言えば、私たちの人生では、同一のことについて考えていながら、互いの理解がずいぶん異なるという事態に気づくことがしばしばあるからだ。ある特定の人物の評価でもそうだし、出来事の評価も、芸術作品の評価も、特定の政党への評価、さらには特定の国への評価でも、ずいぶん違うと感じることがあり、それが争いの原因になることも珍しくない。私たちは、そういう争いの当事者になっているときには、相手の「わかる」を理解しようとするよりも、自分の「わかる」を相手に押しつけることで、自分の正当性を主張できると思いがちだ。しかし、これでは相手を「言い負かす」ことはできても、「説得し」「納得させ」協力を得ることはできない。また、「真理がわかる」という場合も同様で、同じ「神」という言葉を使って信仰している2人が、その内容に大変な違いがあることもある。信仰の内容とは、「神とは何か」という理解--神をわかること--から直接的に引き出されてくるものだから、この違いが理解されない限り、異なる宗教の共存や協力はなかなか難しいと思われる。
 
 このような「わかる」の違いは、完全に解消することは難しいかもしれない。しかし、やってみる価値は十分あると思う。その場合に必要なのは、自分の「わかる」の構造が明らかであることはもちろん、相手の「わかる」の構造を理解し、相互の共通点をしっかり確認することだろう。そうすれば、「相手を理解するが、すべてには同意しない」という理性的な態度が相互に生まれるだろう。ここから、本当の意味で、相互理解が深まっていくのだと思う。
 
3minds01  さて、前置きが長くなったが、複数の人間が同一の対象について「わかる」状態は、部分的に重なり合った複数の円錐形の図(図-4)として描けるのではないか。本シリーズの初回第2回目で、私たちは「ピンクのバラの花がわかる」という心の状態について詳しく検討した。その過程で、3人の架空の人物に登場してもらい、それぞれの立場からの「ピンクのバラの花のわかり方」を想像した。この3人とは、A.その特定のバラを実際に花屋へ買いに行った人、B.バラ栽培農家の人、C.バラの花の絵が得意な女性画家--だった。そして、私たちが得た結論は、次のようなものだった。
 
「A、B、Cの三者は、それぞれの仕方でこのバラの花を理解していて、その理解の程度はそれぞれに“深い”。しかし、その深さの程度を互いに比べることはできないか、できたとしてもあまり意味がない。なぜなら、三者の理解は三様であり、質的に違うからだ。(中略)三者の理解には、もちろん共通部分もある。が、それぞれに独特の部分もあり、それらは比較できない。結局のところ、三者は、それぞれ自分の生活や仕事に“引きつけて”バラの花を理解するのである。言い換えれば、自分の立場を“通して”バラを理解する」。

3minds04  図-5では、横位置に置かれた水色の平面が意識と無意識の境界である。この境界から上は、A、B、Cの3人が覚めた意識で「わかる」ピンクのバラの花を表している。この3つの黄色の円錐は、AとBは離れているが、BとCは一部が重なっている。ということは、バラ栽培農家の人と、女性画家の理解に共通部分があるということだ。図-5の下半分は、無意識での3人の理解を示しているが、円錐の底辺部を見ると、A、B、Cのそれぞれが相互に重なり合っていることが分かる。3つの円錐すべてが共通している部分は黒くなっている。これは、意識下の理解と無意識下の理解では共通部分の割合が違い、前者よりも後者の方が共通する割合が大きいことを示している。つまり、意識的には理解が異なる3人でも、無意識の中では部分的な共通理解が存在する場合があるということだ。このことは、紛争解決のためには重要なことと思われる。
 
 谷口 雅宣

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コメント

わかっているつもりでも自分の理解が実は不十分だった、同じ言葉を使いながらも実は相手と違う考え方をしていた、「わかった」と思いそこで考えるのを辞めてしまう、相手の立場を慮った理解の仕方ではなかった・・・。このシリーズを読みながら、日常生活、今までの信仰や活動の過程で、わかろうとはしていなかった自分のことを考えました。

信徒一人ひとりが自分は本当にわかっているのか、を意識的に考えてみなければならないと思います。基本的な教義についても、最近の運動方針についても、わかっているところ、わかったつもりでいるところ、ちゃんとはっきりさせてこれから臨みたいと思っております。

ところで最近、動画で先生の声を聴けないことを少しさびしく思っております。少し前のメッセージを振り返って見直したせいかもしれません。総裁になりお忙しくなったからなのか。講習会での質問に対する回答を載せるのは、午前中の講話に対する回答だけというスタンスに反するからなのか。
先生の立場からのことはわからないのですが、ぜひ動画でのご指導もいただけるとうれしいです。

静岡教区青年会 加藤裕之拝

投稿: 加藤裕之 | 2010年4月 7日 23:50

加藤さん、

 コメント、どうもありがとうございます。

 動画の件ですが、これは単に多忙になったから掲載していないのです。動画のストックはあるのですが、何せ編集作業というのが欠かせません。これに割く時間がないのです。その代り、機関誌上に質疑応答の記事が載っています。もちろん動画とは違いますが、動画をネット上で見れる人の数と、機関誌の記事を読める人の数を考えて、どうしても多い方を優先することになるのです。
悪しからず……。

投稿: 谷口 | 2010年4月 8日 14:33

谷口雅宣先生

 自分が何がわかって、何がわからないのか、
相手が何がわかって、何がわからないのか、
相互の共通点と相違点の理解がとても大切であると思いました。

 天地朋子

投稿: 天地朋子 | 2010年4月 8日 23:00

天地さん、

>>相互の共通点と相違点の理解がとても大切であると思いました。<<

 そうですね。むずかしいですけど……。

投稿: 谷口 | 2010年4月 9日 13:25

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